最終話.きみと、ハムカツサンドのある風景。
三学期に入って季節は冬を越え、春の気配がかすかに感じられるようになってきていた。
放課後に委員会の集まりがあった。真奈ちゃんが教室に帰ってきて、先に戻っていたわたしの後ろにどかっと座った。
「つーかれたー、かったるーいにもほどがある」
彼女は妙な節回しでぼやいて、ばたんと机に顔を伏せた。
「おつかれさま」
「和歌子の方は?」
「なんか特にやることも話もなくて、すぐ終わった……」
溜め息を吐いた真奈ちゃんが思い出したかのように言う。
「そういや他クラスの女子が浅間の話してたよ。まー浅間だけじゃなくモテる男子全般の話に及んでたけど……」
「え、なんて」
「彼女いるのかなって」
「……」
「確かいないはずだって盛り上がってたけど」
「実際いないもんね……」
「うちのクラスでは誰も思ってないよ」
「……」
わたしと彼はいまだに付き合っていない。
しかし、特別な予定がない時はいつも一緒に帰っている。基本手を繋いで。
最初のうちは浅間君が呼びにきて連れられていたけれど、そのうち習慣化して、最近では彼が遅くなった時に待つこともある。
休日はふたりで遊びにいくことが増えたし、携帯に電話がかかってくることもある。
誰かに聞かれても浅間君ははっきりと「付き合ってない」と言う。だから付き合ってはいない。それは確かだ。
そうするとそれらは仲の良い友達のそれということになる。同性で考えたら、なくはない。
だけど、それとは別に、浅間君は時々わたしにキスをする。
それに関しては浅間君はわたしのことが好きで、わたしも彼のことが好きなので、していることらしい。確かに、好き同士が合意でしているのだから問題はない。
何もおかしなことはないはずなのに、何かがおかしいような気もする。
「お疲れさま」と言ってテラ君が教室に戻ってきた。
「真奈ちゃん帰ろ」
「おーす」
真奈ちゃんが頷いて立ち上がる。
「アイス食べたい」
テラ君が「また?」と笑って「どっちの店にする?」と聞いている。
「じゃあね、和歌子。あ、浅間帰ってきたよ」
言われて入口の扉の方を見ると確かに浅間君が外の誰かに手を振って、教室に入ってきた。
「おまたせ」
「うん……」
ずっと小さなモヤモヤはありつつも、わたしは浅間君のペースにのせられて、いつもこうやって過ごしている。そして正直なところ、すごく楽しい。
揃って校舎を出て、しばらく歩いていると浅間君が 「今週末どうしよっか」と聞いてくる。もはや当たり前のように聞いてくる。
「うち来る?」
「家って、浅間君の?」
「うん。じいちゃんの店から近いよ。映画でも観よう」
「アクション映画?」
「でもいいし、他にもお薦めあるし……」
「うん。観たいかも」
「じいちゃんのとこでお昼食べてから行こうか……あ、ダメかな」
「たぶん大丈夫。聞いてみる」
お母さんはだいぶ厳しくなくなった。
まだ意識してそれをやっている風ではあるけれど、なんだかぴりぴりしていた雰囲気も少し丸くなって、最近では趣味で洋裁を始めたり、お父さんとふたりで遊びにいったりと、わたしの管理に費やしていた時間を自分のために使い始めた。
心配性なのは相変わらずで、どこか行くというと色々聞かれるし、家での食事は前と同じだったけれど、外での食事について必要以上に言われることはほぼなくなってきた。
お母さんは伯母さんが亡くなって、入院してからカウンセリングを受けていて、それが良い方向にいっているのもあるかもしれない。でも、一番はお父さんが変わったことだろうと思う。ふたりとも前よりずっと仲が良くて、嬉しい。
「もうすぐ春休みだけど、どっか行かない?」
唐突に浅間君が口を開いて、考え事から復帰する。
「え、どこかって?」
「どっかは、どっか。日帰りで旅行とか」
「あの……浅間君とわたしは……付き合っては、ない……んだよね」
「うん。付き合ってないよ」
浅間君はにこにこしながら言う。
「白瀬、俺のこと好き?」
「うん」
「俺も好き」
みんなが使う通学路からほんの少し外れた緑道の途中で、浅間君が立ち止まる。周りを見まわして、ほんの一瞬だけキスをした。
「浅間君、なんでキスするの?」
「好きだから」
やっぱり変。流れ流れてここまで来たけれど、何かつっかえてるみたいな違和感が小さくずっとある。
わたしが眉根を寄せて考え込んでいると、浅間君は笑った。
「浅間君、もうちょっと、考えてること教えて」
「え?」
「別に嫌じゃないし、楽しいけど……もうちょっと説明が欲しい……」
「いまさら?」
確かに、浅間君が珍行動を起こし始めてからもう数ヶ月経つ。聞くならもっと早くに聞くのが普通だろう。なんだか状況に引っ張られて、流されつつも楽しくて、ここまで来てしまった。
でも思った。おかしいと感じるのはわたしが流されていたからかもしれない。
浅間君は笑って、それからゆっくりと考えをまとめるように空を見た。
「白瀬は、付き合って俺が嫌になるのが怖いって、前言ったでしょ」
「うん」
「俺も、ずっとそれが怖かった」
「……うん」
「俺は以前……付き合ったら毎日連絡しなくちゃいけない、とか、休みの日はどこかに遊びにいかなくちゃ、とか、たくさん好きって言わないといけない、とか、軽い強迫観念めいた感覚があって……そういうの、やらなきゃって、毎日繰り返すのがしんどくて……気がつくと好きな気持ちがすぐどっかいっちゃって……だからそんなの、もうやめようって思った。なくたって、生きていける」
なんとなくだけど、わからなくもない。“付き合う”という行為の表面を義務のように捉えてしまうと、楽しくなくなるかもしれない。
「でも白瀬のことは、好きになっちゃった」
「うん」
「結構……ずっと好きだった……」
「ずっと?」
「うん、でも、前白瀬と付き合いたいって言ったのは、本心じゃなくて……独占欲だった」
「え……」
あのときやっぱり、浅間君は本当は付き合いたくはなかったんだ。
「でも、あの時白瀬がオッケーしなくてよかったなって、思うんだよ」
「なんで」
「俺さー、付き合うのは嫌、でも、白瀬のことは好きで……誰かにとられたくもなくて……もーわけわかんなくなってた時に、ぷつんと吹っ切れたんだよ」
「はぁ」
「もう、自分の好きなようにしようと思った。俺は白瀬が好きなんだから……白瀬には悪いけど、気を使ったりしないで、しばらく正直に生きようって」
「うん……」
「それで、好きなようにやってたら、彼女がいた時より自然に彼女みたいになってただけで……」
それで、今のこの珍妙な状況ができあがったのか。なんとなく少しスッキリした。聞けてよかった。
「浅間君、話してくれて、ありがとう」
「え、うん」
少し行ったところで浅間君がついでみたいに言った。
「いまさらだけど、付き合う?」
それについて、少し考える。
「……何か今と違うかな」
「うーん……周りに、彼女って紹介できる……くらいかな」
ここまでくると肩書きが変わるだけだ。
世間的に浅間君が彼女持ちになって、わたしが彼氏持ちになる。
でも、浅間君は今だって彼女とは紹介しなくても、割と堂々と周りに「好きな子」とか言っている。恥ずかしげもなく焼きもちをやいたりもするし、珍しくわたしが男子にちょっかいをかけられたりした時は牽制めいたこともしている。
「どっちでもいいかな……」
「俺も」
どこからか早めに咲いた花の甘い匂いがして、なんだかわたしも、ふつっと吹っ切れた。
「浅間君……」
「なに」
「キスしていい?」
「え? どうしたの……!?」
「なんでそんなびっくりしてるの……自分はするくせに……」
「なんで急に」
「好きだから」
浅間君の言葉を借りて言い返すと、びっくりした顔のまま「いいよ」 と承諾してくれた。
「じゃあ、する……よ」
「……うん」
そうして、わたしは彼と向かい合い、ゆっくりと深呼吸をした。
もう怖がったり、気を使ったりするのはやめるんだ。
浅間君をじっとまっすぐ見つめる。
わたしはほんの少し背伸びをして、勇気を出して正直に、浅間君に唇をつけた。
上に抜ける高い空の下、その一瞬だけ時間が止まった気がした。
風に揺れる樹の葉の音がかすかに聞こえた。
ほんの一瞬だったけれど、その瞬間、いろんなことが終わって、新しく始まった気がする。
恥ずかしくてそのまま下を向いた。
少しだけしか触れ合っていないはずの唇が熱い。
浅間君も、なぜだかわたしと反対に首を向けて、黙っていた。
「浅間君、電話とか、してもいい?」
「え、いま?」
「今なわけないでしょ! その……声が聞きたくなった時、とか」
「……」
「駄目?」
「いいよ。もちろん」
浅間君が好きなようにしているんだから、わたしだって、もう好きなようにしようと思った。先のことなんてお互いわからないけれど、わたしは今、彼のことが好きで、きっとそれが全てだ。
「浅間君、わたしのことずっと好きだったって……いつから?」
浅間君は笑って言う。
「白瀬が学校サボって、ハムカツサンド食べた日からかな」
「……わたしもだ」
わたしも、あの日、恋に落ちた。
わたしの目の前に、生まれて初めてのハムカツサンド、生まれて初めて恋した浅間君がいた、あの日。
それでなんだか、たくさん笑ったり、泣いたり、感動したりを繰り返して、今ここにいる。
わたしが浅間君と恋人同士になって、付き合う日は来るんだろうか。
それとも、もしかして、とっくにそうなっているんだろうか。




