03__戒縛の王
1日目の続きです。
___視点:〔森の妖精〕- リーゼロッテ=サフィール___
「は、はな し て、くださ ぃ…… 」
執務室のソファに、銀髪の女が座っていた。
3人が悠々と座れる大きなソファの右端に、彼女は 浅く掛けている。
その両手は、左隣に座った青年が しっかりと握って放さない。
腰まで伸びた白銀の髪は 何の癖もなく滝の様に流れ、彼女の肩や背のラインを蔽っている。
小さな顔は 驚く程 整っており、精巧なビスクドールでさえ霞む程の姚しさだ。
蒼穹を写したかの如き双眸は、今にも 長い睫毛に隠れそうになっている。
白い肌を限りなく包んでいる衣服は、エスファニア城の侍女官のモノなのだろう。
濃紺のメイド服は 質の良い生地で作られているが、彼女が紱うには 聊か質素すぎる印象だった。
「攸で、名前は?」
そんな美女の手を握ったまま、ラッケンガルド王は そう尋ね、すぐに『あぁ』と息を零した。
「って、名告れないか」
当然だ、と口調が語っていた。
その事からも、魔法属について 一般人-以上の知識がある事が俔えた。
「 ………… 」
魔法使いは、魔力量や素質から 魔法使い-以下である青年に この知識を与えた人物を割り出していた。
基本的に、魔人や 魔女は、魔法属についての情報を語らない。
その必要はないからだ。
しかし、ラッケンガルド王は 一般の者-以上の知識を有している。
「そっか、まず 僕が名告らないとね」
そうであるのに、躬ら名告ろうとした事に 彼女は驚いた。
「僕は…… 」
何の躊躇いもなく、青年は名告ろうとした。
反射的に、魔法使いは これを制した。
「判っておいででしょう? 魔法使いに 躬ら名告ると云う事は…… 」
個人に付けられた『名』とは、その生命体を模る一部だ。
肉体と魂を綰ぐ為の 重要なモノである。
産まれて付けられた名前 = 眞名は、特別なのだ。
魔法属ならば、知られるだけで 相手に魂魄を握られるくらいのリスクを負う事になる。
魂魄は、魔法を生む 重要なモノだ。
それを握られると云う事は、完全なる服従を意味する。
だが、一般の者にとって、名前は それ程 重要なモノではない。
魔法を使う事のない一般人には『名告る』と云う行為は、日常的な事だ。
詐る必要もないし、躊躇う理由もない。
しかし、何の影響もないかと云えば、否と答えざるを得ない。
勿論、一般人-同士であれば 何の問題もない。
制約も縣からず 影響も出ない。
しかし、高位の魔法使いに名告った場合は違う。
譬え 魔法を使えない魂魄であろうとも、高位の魔法使いならば 相手を隷属するには充分である。
そして、魔法使いは その高位者に当たる。
「うん、知ってるよ」
にこり と、ラッケンガルド王は 少年の様な笑顔を向けてくる。
《 な、何で こんなに無邪気なの。》
知っているなら、まず 名告る事の危険性は理解しているだろう。
そう頭の悪い人物とは惟えないだけに、彼女は戸惑っていた。
「でも、自分から名告るのって 礼儀でしょ?」
何とも単純な理屈である。
だが、魔法属に対してならば、名告らなくとも 不敬には当たらない。
魔法属-同士ならば、名告らないのは 当たり前の事なのだ。
そのくらいの事は、初心者の段階で しっかりと知識を得ている筈だった。
彼に知恵を植え付けた者は 魔法使いに間違いなく、初段階で 必ず忠告している筈なのだ。
そう推測していたからこそ、魔法使いは 混乱していた。
「わたしは、魔法使いの中でも そこそこ勍いほうですよ?」
「うん、そんな譚も 知ってるよ」
万が一だが、彼女を『低位の魔法使い』と誤認しているのでは、と云う可能性は 簡単に垉された。
「御伽噺には、まだ なってないみたいだけどね」
こちらの想像を上回る知識があると察するに足る言葉だった。
確かに、魔法使いの戦闘は 物語になってはいない。
同年代の〔戦慄の魔人〕が御伽噺として 一般人に知れ渡っているのに対し、彼女の情報は 秘匿されている。
これは、魔人達や魔女達が 率先して秘匿している為だ。
だからこそ〔森の妖精〕の能力については、一部の者達しか知り得ない。
情報通なのだと云う事は判っていたが、理解が深い事に疑いようもなくなった。
だとすると、その上で 躬ら名告ろうとする行為は、ラッケンガルド王の誠意でしかない。
戯れでやる人物ではないと詠んで、彼女は そう結論付けた。
つまり『自分は〔森の妖精〕を悪用するつもりはない』と示したかったのだろう。
それに気付いて、彼女は 溜息を咐いた。
「 ––––––––––––ラッケンガルドの王……ラノイ=アシュリオン=ラッケンガルド様」
外遊国の候補に この国が上がった後、大まかな事は査べていた。
王の名前くらい、名告られなくとも知っていたのだ。
勿論、本人が名告った訳ではないので 魂魄を どうこうなど出来ないが。
「ラノイ、で いいからね」
にっこりと笑んで、ラッケンガルド王-ラノイは 美女の蒼い瞳を覗き込んだ。
「君は?」
「エスファニアでは〔幼き妖精〕と」
「それって、他では 別の名前で聘ばれてるって事?」
そもそも 眞名であるとは惟ってないだろうが、偽名は 統一されていると惟っていた様だ。
「以前のフォルモーサでは フェイリーン、西の国では エーミル、南の国では ソシアとか…… 」
「そんなに?」
驚いた様な声に、魔法使いは 控えめに笑む。
「まだ 他にもあるの?」
「北の国では、アシュリー、と」
「僕の名前と同じだね」
どうやら その事が決め手になったらしい。
「じゃあ、アシュリーって聘んでいい?」
「ご随意に」
何と聘ばれようと、特に拘る部分ではない。
これまでの称で聘ばれようとも 新たに称を付けられようとも、彼女は 構わないのだ。
「アシュリーは、いろんな国に往ってるんだね」
「はい」
「それも 仕事?」
「いいえ、殆ど わたしのエゴです」
「 ……どう云う事?」
「未来の為に、勝手に 根回しをしているのです」
何かの弾みに 未来を知り、その有るべき未来の為に……または、有るべき未来を変える為に、何年も前から飛び廻っている様だ。
「 –––––––––––––––……… 」
そうと察して、ラノイが 押し黙った。
何かを考え込んでいるらしく、視線は しっかりと握った白い手に隕ちている。
「ラノイ様?」
「いいな、アシュリーの家族は」
惟わず と云った諷で、ラノイが羨望を込めた言葉を漏らした。
「こんなに想ってもらえて、倖せだね」
これに、今度は 魔法使いが沈黙する。
「 ………… 」
困惑したり 困殆していたが、途端に 表情が失くなったのだ。
「 ––––––––––––どうしたの?」
急な変化に、内心 戸惑っていた。
「アシュリー?」
ラノイは、眼の前の美女に 声を掛けて、直後に 軽く瞠目した。
ちらりと 綰いだ手へ視線を向ける。
「良く、など……ありま、せ…… 」
途切れ途切れではあるが、声は 震えていなかった。
しかし、指先は その限りではなかったのだ。
「 ………どうしたの?」
震えている手を 優しく握り直して、殊更 穏やかな声で問う。
「わたし が、家族を 不幸に……して………… 」
この先を語らせたくはなかったのだろう。
ラノイは、姚しい魔法使いを抱き締めていた。
「もう良い」
ひょい と、膝の上に擁え上げ 改めて抱き締める。
「済まぬ、気配りのない事を言った」
頬を優しく撫でられて、魔法使いは 喫驚した。
無意識に、泣いていたのだ。
無表情に近かったが、その瞳からは 次から次へと哀しみが溢れてくる。
《 なっ、何故……っ⁉︎ 》
これまで、無防備に泣いてしまうなど 数える程しかない。
主に、セレディンの前だけだ。
辣い過去を思い返しながら談していても、これ程 簡単に感情を顕にした事はなかった。
それが、今日-初めて会った者の前で 涙したのだ。
自分自身に驚いて、彼女は 軀を離そうとした。
「私からは 遁れられぬ」
その言葉通り、彼女は 動きを止めた。
止めさせられていたのだ。
ラノイは、魔法使いの頬を伝う泪へ 左手を伸ばす。
「そなたの嘆きは、私が拂ってやろう」
しかし、拭われても 泪は止まらなかった。
感情を制御出来なくなっているのだ。
優しい言葉と 労りのある指に泪を拭われても、彼女は 動揺を匿せずにいた。
《 この方の傍は、危ない。》
そう感じると同時に、何故 エスファニア城の侍従長であるセレディンの傍でも泣いてしまうのかを理解した。
エスファニア王国に仕え始めて 半年近く、彼女は 何度も泪を流していた。
綜て、セレディンと共にいる状況だった。
何故なのか 理由の見当も付かなかったが、今ならば判る。
この2人に共通するのが、戒縛の仂だ。
《 戒縛の仂は、こんなにも逮えるモノなの⁈ 》
行動を抑制されているだけでなく、心の中まで掴まれ 揺す振られるのだと、今になって理解したのだ。
束縛されている感覚はなかったが、強く影響を及ぼされていたのだと、ラノイと関わって 自覚したのである。
《 つまりは、あの方も この仂を使っていたのね。》
勿論、自分の能力を理解していない者に、意識して 戒縛の仂を使う事は 不可能だ。
セレディンの場合は、間違いなく 無自覚だろう。
だが、彼女は、無意識の内に揮われた戒縛の仂の洗礼を受けていたと云う事である。
「アシュリー」
称を聘ばれ 睛を併せると、泪が出てしまう。
《 甜やかされてしまう。》
そう惟って離れようとしても、戒縛の仂は それを赦さないのだ。
「アシュリー」
どうにも出来ず、魔法使いは、ただ 慰められていた。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
___視点:〔獅子王〕- ラノイ=アシュリオン=ラッケンガルド___
「は、放してください」
切実な願いが、美女から零された。
膝の上へ擁え上げられたまま、抱き締められているのだ。
当然の反応だろう。
「えーーー?」
「お願いです、もう……… 」
抱き締められたまま、彼女は 身を捩る。
その娜やかで細い軀を絡めとる様に、ラノイは 背と腰へ 両腕を回している。
そして、間近から じっくりと魔法使いを見詰める。
《 本当に綺麗だ。》
流れ隕ちる絹糸の滝の様な 長い銀髪に、透き通る様な白い肌。
切長の 蒼い瞳に、ふっくらとしている 薔薇色の唇。
《 こうしていても 判るな。》
細い首筋に 細い肩、細い腰に 細くて長い腕と脚。
恐ろしく整った貌と相俟って、彼女は 万民を魅了するだろう。
將しく 絶世の美女と評するに値する美貌だ。
《 女性らしいプロポーションを 最上級に磨き上げたら、こんな感じ? 》
瑣々やかな衝動が起きた。
そして、その衝動に ラノイは素直に従った。
「きゃ、っ⁉︎」
拮く抱き締めた訳ではない。
撰り 腕の奥へ招き寄せる様に、抱き竦めたのだ。
腕の中で、細くて柔かい軀が固くなる。
「初々しいな」
捕食者の様なラノイの声に、魔法使いの軀が 緲かに震えた。
《 慣れてないなぁ、ひょっとしたら 全く、かも。》
女として 男の腕に囚われる経験が尠いのだと察すると、悪戯をしたくなる。
ラノイは、細い首筋へ 頬を寄せた。
「っ⁉︎」
「それ程 硬直せずとも、捕って喰いはせぬぞ?」
くすくすと笑って、そのまま 唇を寄せた。
首筋に 軽くキスをしただけで、腕の中の軀は 跳び上がらんまでの反応をする。
《 過敏だな。》
そう惟うと同時に、少々 驚いていた。
軽く肌に当てた唇に、不思議な感覚があったのだ。
《 何か、美味しい………何で? 》
女っ気がないとは云っても、経験がない訳ではない。
何人かと交わった事はある。
身分を匿し 行きずりの様な関わりであったが、遊んでこなかった訳ではない。
「私の、姚しい小鳥」
改めて、白い肌に 優しく口付ける。
今度は 軽く舌先で觝れてみた。
沁み入る様に、觝れ合っている部分から 何かが流れ込んでくる。
《 甘露……。》
直感的に惟ったのは、それだった。
次いで、理解する。
これが〔森の妖精〕が、魔法属にとって蜂蜜であると云われる所以だ と悟ったのだ。
《 成程、これは 美味だ。》
正確には、実際に 甘い味がした訳ではない。
物理的に 魔法使いの肌が甘い訳ではない。
しかし、唇や舌で觝れると『甘い』と云う感覚がある。
《 美味い。》
そう感じると同時に、浄らかな何かが じわじわと沁み入ってくるのだ。
心地良く、甘美だった。
当然の衝動に従って、ラノイは 魔法使いの肌を吸った。
「っ⁉︎ –––––––––––––––っ、ゃああっ」
喫驚と 動揺と 脅えが混じった声が嬌がった。
これを耳にして、ラノイは 吾に還った。
口の中には、甘さと共に 緲かな血の味もしていた。
どうやら、強く吸い佚ぎたらしい。
つい 夢中になりかけた事に 内心では惶てていたが、素掉りも見せずに くすりと笑う。
「色っぽいな」
茶化し気味に言っているが、ラノイは 困っていた。
「っ––––––––––––ぉ、お赦し くださ……… 」
腕の中の女は、誰にも蹂躙された事のない 清い身だ。
それは、訊かなくとも判る。
こんな事をするのは、悚がらせるだけだと 理解もしている。
だが、理屈とは裡肚に、彼は 抱き心地の好い軀を放せなくなっていた。
「遁れる事は叶わぬ、と言っている」
自分を落ち着けつつ、放せずにいる事を誤魔化してみる。
「お赦し くださ ぃ……おねが ぃ………… 」
懸命に逃げようとしているが、ラノイの腕は しっかりと美女の軀を逮えている。
魔法使いは、仂の勍さに応じて 容姿に影響が出る。
仂の勍さと 質が、容姿に及ぼす影響が強いのだ。
仂が勍ければ 姿は姚しく、質が禍々しければ 毒々しくもなる。
〔獅子王〕の腕にある美女は、天使を想わせる姚しさと 清らかさだ。
身に具わった品の良さも相俟って、何処かの姫の様である。
加えて、あの甘露だ。
知ってしまっただけに、腕を緩める事も出来ずにいるのだ。
《 もう ちょっとだけ。》
限度を超えない様 気を付けながら、再び 首筋にキスをする。
先程と同じく、滑らかな肌を吸う。
今度は、極めて優しく と心掛ける。
「やぁ、っ〜〜〜〜ひぁんっ」
体験した事のない感覚に、魔法使いの軀が びくんと撥ねた。
「そんな声を嬌げては、説得力がないぞ?」
艶めいた声に そんな言葉を掛ける。
彼女が厭がっている事は、間違えようもない事実だ。
どんな声を嬌げようとも、心から逃げたいと惟っている事も判っている。
つまりは、軽い意地悪である。
「ラノイさ ま、どうか……もぅ………… 」
小刻みに震えているのを感じながら、ラノイは 腕の中の魔法使いを放せないでいた。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
___視点:国王の側近 - クランツ=バルトロメイ___
いつもの様に、執務室には 陛下の冷やかな声が響いていた。
20代になって数年だが、陛下は 実に優秀な お方だ。
判断も早いし 仕事も早い。
自分の嗜好が そうだからか、先代の時に乱れに乱れた国政を立て直す為か、何より 実用的な事を優先する。
役に立つ情報-然り 役に立つ人物-然り、執務に於いての若き王は 無能な者達に容赦がない。
この日も、いつもの様に 臣下を叱責し、執務室から追い出していた。
隣室に控えていた私は、顔面蒼白で逃げ出す様に去って往く大臣達を 冷やかに見送って、溜息を咐いていた。
執務室と廊下の間にある部屋にいる私の手には、何枚かの重要書類がある。
今すぐにでも 睛を通して頂きたい書類だ。
普段なら 颯爽と陛下の御前へ進み出て、不躾にも『とっととサインしてください』などと催促出来る私だが、今は避けたい。
こちらが不躾な態度を取れるだけあって、陛下は 私に対し 大変 気易い方だ。
不機嫌な攸に居併せれば、間違いなく 八ッ当たりを啗う。
出来れば、入りたくはない。
しかし、手にしているのは 重要書類だ。
持ち戻る事は出来ないし、先延ばしにも出来ない。
可能ならば、紙飛行機の様にして 執務室のデスクへ飛ばして逃げ去りたいが、そもそも 重要書類なだけに、妙な折り目を付ける事は躇われる。
悩む事 10数分。
たっぷりと時間を掛けて 覚悟を決めた私は、意を決して 執務室へ踏み込んだ。
「陛下 っ⁉︎ 」
私は、言葉を飲んだ。
陛下は、ソファに腰を掛け 愉しそうに微笑んでいる。
先に訂正しておくが、陛下が笑んでいたから硬直した訳ではない。
その笑みが黒かったから ではない、断じて。
私が驚いたのは、我が王の腕に 異国の娘がいたからだ。
我が国は 単一民族で成り立ち、皆が黒髪だ。
異国との婚姻もある為、稀に 色素の薄い者もいるが、そう多くはなく、それも 漆黒ではないと云った程度だ。
陛下の腕にいる娘の様に 銀の髪をする者は、この国には有り得ない。
「なあっ⁈ へっ、い、こっ⁈ どどどど、どう⁉︎ いっ、だ⁈ い、まっ、つれっ、っ⁈ どっ だ、っ⁉︎ 」
驚き佚ぎると 喋れなくなるのだと、初めて知った。
私の『陛下、一体これは どう云う事だ』とか『いつの間に連れ込んだのか』とか『何処の誰なのか』などの疑問は、一切 声にならなかった。
「大きな声を出すな。脅えるではないか」
陛下は、黒さの滲む笑みを湛えて忠告してきた。
こちらとしては、反論しようにも言葉が出ない状態だ。
従うまでもなく 絶句している、と云ったほうが正しかった。
…………唐突だが、我が王は 見目麗しい。
眉目秀麗にして 文武両道、かの内乱の時には 躬ら兵を率いて戦場を駆けた英雄でもある。
黙って微笑んでいれば、娘達が放ってはおかない容姿をしている。
実際は、恋慕を懐いていても 陛下に近寄る娘は尠い。
疎ましい者に優しく接する様な方ではないし、そう云った者に近付かれる事を憙まない方だ。
娘達が 懐に入ろうと近付いた瞬間、二度と近寄れない程の恐怖を味わわせるからだ。
そんな訳で、若き王の腕に女性がいると云う状況は 私を混乱させるには覿面だった。
それが、このラッケンガルド王国の国民ではない女性ともなれば 混乱は当然だろう。
《 人攫いでもしてきたんですか⁈ 》
この 不敬としか云い様のない声は、有り難い事に 心の中に留めておく事が出来た。
処罰される事はないだろうが、今は 罷めたほうが良い。
私だって、空気は詠める。
尤も、空気を詠んで黙った訳ではなかったが。
…………などと言っている場合ではない。
此処-執務室は、王宮の中央にある。
当然、王宮には そう簡単に出入り出来ないし、異国の商人を招いた憶えはないから 異国の娘が王宮にいる理由が判らない。
真っ先に惟い付いたのは、誰かの手引きで紛れ込んだ可能性だが、大臣達の身内に 異国の者はいない。
王に取り入ろうとしていても、自分の娘などの前に 異国の娘を差し出す理由が薄い。
点数稼ぎにしても、余り良い方法とは惟えない。
「愛らしい小鳥が来たものだ」
私の考えが顔に出ていたのか、陛下は 喉の奥で笑いながら そう呟いた。
『愛らしい小鳥』は 銀髪の女性の事を示すとして、次の言葉は 頂けない。
迷い込める程、王宮の警備は綯くない。
忍び込める程、王宮の警備は甜くない。
比喩的な言葉だとしても、ものの10数分で 執務室へ入り込む方法はない。
何せ、大臣達が去る前から 私は執務室の隣にいたのだから。
疑問が頭の中で ぐるぐると回っている私を他所に、陛下は 大事そうに銀髪の娘を抱き締めていた。
「お願いで す、お放し くださ……… 」
陛下の膝の上に擁えられ、長い銀髪ごと 背に両腕を回されている女性は、繊細い声で懇願した。
語尾が消え入った声は、震えていた。
完全に悚がられている。
流石は 我が王。
《 そんな穏やかな表情をしていても悚がられるとか、その容姿で有り得ませんね。》
そう言ってやりたかったが、まだ 声は出なかった。
「放せば、逃げるのだろう?」
「そ、それは……… 」
意地の悪い笑みで問い掛けられ、娘は 口篭った。
答えなかったが、肯定は晣らかだろう。
「では、放す訳にはゆかぬな」
「もう、お赦しくだ さ ぃ、どうか………… 」
「駄目だ」
この言葉に、娘は 緲かに硬直した。
「そなたは、この腕に逮われておれば良い」
「そ、の 様な……… 」
逃げ出したい、と銀髪に蔽われた背が語っていた事に、私は 漸く気が付いた。
これに対し『何処の魔王ですか』と言ってやりたくなるくらい、陛下は愉しそうだった。
良く見れば、娘は 懸命に陛下の腕から抜け出そうと 腕に力を入れ、細い身を捩ろうとしている。
可哀想だが あの人-相手では 叶わない事だろう、と ぼんやりと考えていると、娘が こちらを見た。
「っ–––––––––––– 」
この時 初めて、私は 異国の娘の顔を見た。
僅かに身を捩った彼女は、何とか顔だけを巡らせて 執務室の入口にいた私を見たのだ。
長い艶やかな銀髪に 蒼い瞳、滑らかそうな白い肌。
その どれもが、この国の国民ではないと示している。
そして、何よりも、大変 姚しかった。
どう表現したら良いのか、正直 判らない。
《『絶世の美女』? それで、足りるだろうか……。》
そう惟う程の美女だったのだ。
この国にも美人は多いが、彼女達とは 一線を画す。
同一線上にあると惟ってはいけない、そう云った美貌だった。
凝然としている私を ひたと見て、姚しい娘が言葉を紡いだ。
「お侑け くださ ぃ」
大きな声ではない、強い口調でもない。
繊細く、切れ切れな願いだった。
しかし、私の止まっていた思考を活動させるには 充分だった様だ。
どう見ても、この状況は 王が美女を襲っているものだ。
何処の誰とも知れないが、侑けを求められたなら
侑けるのが筋だ。
使命感に近い感情が湧いた。
そして、王を諌めるべく 一歩を踏み出そうとした。
「邪魔をする気か?」
こちらへ向けられた眼光は、將しく〔獅子王〕のモノだった。
私は、惟わず震え上がる。
はっきり言おう、私は 王に対して気易い態度をとる 数-尠い臣下の1人だ。
友人の様に窘める事もあるし、時には 横柄な態度をとる事もある。
そんな私でも、戦場の鬼神と聘ばれた〔獅子王〕は 慄しい。
背筋に 冷たいモノが流れるのが判る。
あの睛を向けられ あの声を掛けられると、逃げ出したくなる。
尤も、逃げようにも いつも足が動かないのだが。
しかし、この日の私は違った。
「で、ですが、厭がっている様に しか、っ 見えませ んよ」
びくびくとしながらも、そう進言する事が出来たのだ。
奇蹟である、一体 どう云う事なのだろうか。
先程 湧き上がった使命感は 恐怖の前に形を潛めたが、消えてしまった訳ではない。
何とか 機嫌を損ねない様に、更なる進言を試みる。
「う、姚しい娘御 を、無理矢理な ど、と……… 」
言葉を詰まらせているが、何とか銀髪の美女を侑けようと 私なりに努力をする。
内心は、ガクブル状態だったが。
そんな私を 静かに見た後、陛下は 己れの腕の中で 頬を赤らめ ふるふると震えている美女を、肉食獣の様な睛で見詰めた。
「 ––––––––––––これは、アシュリーの仂か?」
返答はなかったが、否定もされなかった。
「ふむ」
我が王は、やおら真剣な表情になった。
こう云う時は、大抵 良くない事を考えている。
「そなたに、決めた」
「は?」
変な声を出した私を他所に、陛下は にやりと笑んだ。
「我が妃に相応しい」
「なあーーーっ⁈」
私は、顎が外れんばかりに驚いた。
「陛下ーーーーっ⁉︎」
「後宮管理人が喜ぶな」
確かに ダェル老師は『後宮に 仕事を寄越せ』と文句を言っていたし、後宮に 初めて迎える女性が こんな美女なら大層 喜ぶだろう。
だが、今は どうでも良い。
「この娘ならば〔獅子王〕の妃に相応しいぞ?」
「た、確かに 大変 お姚しい」
惟わず賛辞を呟いてから、気を取り直す。
我が王の腕の中にある娘は、天使を想わせる姚しさと 清らかさだ。
赤くなって震えているだけでも溢れてくる気品も相俟って、何処かの姫の様である。
玉座で列び竚てば、これ程 似合いの2人もいないだろう、とも惟う。
だが、それと これとは別問題だ。
「今 そんな事をすれば、反発も起きますよ」
「大臣達か」
常日頃から 身内を後宮へ入れようと躍起になっているのだ。
唐突に 妃が現れれば、善からぬ事を企む者達も現れる。
この場合、狙われるのは陛下ではなく その妃となる女性 –––––––つまりは、今以て 陛下の腕に逮われている美女と云う事になるのだ。
《 お侑けしなければ!》
先程 掻き消された使命感が、再燃した。
勿論、愉しそうにしている陛下の邪魔をするなど、後々が慄しくて堪らない。
今も 膝が震え出しそうな状態だ。
それでも、この方を侑けるのは 今しかない。
誰かに見られたり 正式に発表された後では、逃がしてやる事も叶わない。
そう考えると、誰もいない今しかないのだ。
私は、勇気を振り絞って 一歩を踏み出そうとした。
その時だ。
「なーーーーっ⁈」
私の背後で、喫驚が零された。
陛下の睛が、私の背後へと向けられる。
振り皈らなくても判る。
大臣だか 官吏だかが、執務室へ来たのだ。
タイミングの悪さに 舌打ちをしたい気分になりつつも、どうやって 背後の者の口止めをしようかと思案する。
しかし、すぐに 複数の足音がやって来る事に気が付いた。
「なっ⁈」
執務室と 隣室の境で足を止めた者達は、短く息を飲んだ様だ。
そろり と、私は 後ろを振り皈った。
其処にいたのは、やはり 大臣達だった。
而も、10人以上いる大臣の中でも、名門でありながら 大して仕事の出来ない –––––––つまりは、最悪な部類の権力者達だ。
怕らく、陛下に縁談を持ちかけようと、仕事も そこそこに、いそいそと やって来たのだろう。
これだけの人眼に付いては、匿し立ても 誤魔化しも 言い訳も出来ないだろう。
1人なら兎も角、数人の大臣の口止めなど 不可能に近い。
それが、脳足りんの大臣達なら 尚更だ。
《 ああ、終わった。》
小さな絶望に包まれ すっかり遠い睛になっている私や、揃って 阿保の子の様に あんぐりと口を開けている大臣達の様子は、どれ程 面白かったろうか。
陛下は、喉の奥で 笑声を殺している。
「へっ、へっ、へっ」
最初に来た官吏の1人は、混乱の余り 巧く声が出ないらしい。
《 判る、判りますよ。私も さっき、そんな状態でしたから。 驚き佚ぎると、声って出ないですよね。》
同類憐愍とでも云おうか、何だか 生温い眼差しで 大臣達を見てしまった。
そんな私を他所に 大臣達の様子を愉しんでいるのか、若き王は 綯く笑んでいた。
「何が可笑しいのだ?」
笑っているのではない事くらい理解した上で、そんな事を言う。
基本、この方は 人が悪いのだ。
「なっ、そっ、ええぇええ⁈」
漸く脳が活動し始めた 大臣達の喫驚は、当然の事だった。
これまで この王は、女っ気もなく 臣下からの『妃を娶れ』と云う話題に興味も示さなかった。
「だっ、だっ、だっ⁈ 」
相変わらず 言葉を失っている大臣達を見て、陛下は、にや と笑む。
「我が妃に、と 考えている」
意地の悪い、黒い笑みを泛かべている攸を見るに、本当に愉しんでいる ご様子だ。
「なーーーーっ」
「陛下ーーーー⁈‼︎ 」
「騒々しい、脅えるではないか」
喫驚を叫んでいる大臣達に そう言っているが、陛下の腕の中の美女が震えているのは 大声のせいではない。
《 貴方が その腕を解けば いいだけです!》
この場に大臣達がいる事が 口惜しい。
人眼さえなければ、間違いなくツッコんでやると云うのに。
尤も、陛下にとっては 織り込み済みだったのだろう。
狼狽える大臣達から こちらへ視線を向けて、口角を上げた。
そんな肚の立つ主君へ 苛立ちの泛いた顔を向けるのは、臣下として どうだろうかとも惟うが、最早 それを気にしている場合でもない。
私は、泣きそうな顔をしている美女を見た。
《 申し訳ありません。私の力じゃ、もう どうにもなりません。》
数人とは云え、大臣達に存在を知られたのでは 匿し通す事は出来ない。
口止めが可能な程 賢い者達ではない事も、状況を悪くしている。
大して仕事も出来ない癖に 野心ばかりが強く、考えて行動をする事の尠い 残念な部類の大臣達だったのも 大変に宜しくない。
《 黙って仕事だけしていればいいものを。》
惟い切り 険悪な表情で舌打ちをしなかった私を、今は 褒めてやりたいくらいだ。
忌々しく惟いながら、大臣達を見る。
未だに混乱が解けないらしく、私の 不敬-極まりない視線に気付く者はない。
「わ、わわ 吾々に、何の そそ相談も なく、と と 突然 そののの様な」
聴き取り辣い程 吃りながら、大臣の1人が 言葉を発した。
彼等にとっては、衝撃的な展開だった筈だ。
彼等の身内に どれ程 姚しい娘がいようとも、決して 彼女に敵う者ではないだろう。
見栄えの良さだけで 後宮へ推薦しようとしていたとしたら、もう 絶望的である。
《 小喧い者達を黙らせるには 最適な方ですが……。》
私は、彼女が 心底 逃げたい、と惟っているのが判る。
侑けを求められた あの時、今すぐにも帰りたいと 蒼い瞳が訴えてきた。
現在も、どうにかして 逃がしてやれないかを考えるが、中々 良案が泛かばない。
陛下は、特殊な能力を具えておられる。
俗に 魔法と聘ばれる仂であり、専門的には『天賚』と聘ばれる仂である。
これは 幼少期に覚醒したモノで、今では 幾つかの倆を使う事が可能だそうだ。
その能力の1っに『戒縛』と云うモノがある。
読んで字の如く、戒め 縛る魔法だ。
陛下が『動くな』と言えば 身動きが制限され『喋るな』と言えば 声を発する事が困難になる。
我々 魔力を持たない者達でも この程度には効くが、この仂の本領は 魔法使い達に対して発せられる。
言霊だけで、魔法を封じる事さえ出来るのだ。
その加護の お陰で、このラッケンガルドには 魔法使いがいない。
国境の近辺で 魔法使いが暴れる事はあるが、国の中心へ現れ 迷惑を掛けられた事は、この10数年ない。
そんな能力を持つ陛下だ。
彼女に対し『逃げるな』と言えば、譬え 離れる機会があったとしても、彼女は 逃げようとする行動を制限されてしまう。
勿論、未来永劫 効力が続く訳ではない。
《 だけど、陛下の事です。その点は、抜かりがないでしょう。》
我々-臣下には、それ程 強力な戒縛の仂を揮う事はないが、やろうと惟えば 一切の身動きを戒める事すら可能なのだろう。
陛下の興味が失せるまで、逃亡は不可能だと推測される。
そして、私にも 彼女を逃がしてやれない理由が出来てしまった。
《 此処で いなくなられては、陛下は『花嫁に逃げられた王』になってしまわれる。》
いや、本心は『自業自得』だと惟っているが、外聞的には 非常に宜しくない。
一国の王が、而も〔獅子王〕と異名をとる お方が、正式な婚姻を前に 恋しい者に逃げられたなど 示しが付かなさ佚ぎる。
後ろの大臣達は 単純に喜ぶだろうが、実力者の中には 陛下の脚を掬おうとする者達もいる。
隣国に対しても、油断は出来ない。
ラッケンガルドは、小国だ。
国土は 乾燥地が多く、国力も 強くはない。
妙な噂を立てられるだけで、何が起こるか判らないのだ。
《 だからこそ、縁談を断ってきたと云うのに、一体 何を考えておられるのか。》
げっそりとした気分で 陛下を見ると、相変わらず 愉しそうに微笑んでいた。
…………肚が立つ。
「暫く 人払いをしろ」
「な、っ」
「良いな?」
命令されれば、多少の口答えは出来ても 忤う事は難しい。
従う道しかない様なモノだ。
一旦 この部屋を離れれば、こっそり戻ってくるなど 不可能に近い。
「 –––––––っ、は、はい」
返事をしてしまえば 忒える事が出来なくなるのを、彼等は知らない。
陛下の魔法を知っているのは、極-僅かな者達だけなのだ。
「クランツは残れ」
大臣達に続いて 執務室を出ようとした私の背に、新たな命令が下りた。
《 ご説明くださる為………な訳ないですね。》
そんな殊勝な ご性格ではない、と云う事実に 密やかな溜息が零れた。