あと少し
ルイ視点のお話です。
むさ苦しく、簡素でつまらない薄暗い廊下。その廊下の先に一つに纏められた赤毛のロングヘアが見える。まさか、今ここにいるとは思いもしなかったその姿を見つけて自然と口元が緩んだ。
「お。アニエスじゃねぇか!久しぶりだな」
「ルイか。久しぶり。調子はどうだ?」
ルイが手を上げて言うと、アニエスは慣れたように手を上げてまるで気心の知れた仲間同士とでも言った様子でがっしりと手を合わせた。その手はルイのそれと比べると、小さく柔らかい。長身の彼女は女性として扱われることを嫌がっているようなのでそういう扱いはあえて避けているが、ルイにとっては女性でしかないのだ。
「俺は絶好調だよ。いつ戻ったんだ!タリカの冬はどうだった」
「ついさっき戻ったんだよ。冬はそうだな、しばらく雪はこりごりっていう気分だよ」
肩をすくめて笑う彼女は、ガルヴァンでは豪雪地帯として知られるタリカに派遣されているはずだった。季節はもう春に変わったので、任務を終えてバラッカに帰ってきたのかもしれないと気付いた。彼女が本部を離れた一冬はたった数ヶ月のことなのに、驚くほど長く感じた。
それまでアニエスは本部の支援部隊に勤務していたので、何かあればすぐに顔を見ることができた。それこそルイの書類処理担当がアニエスになっていたので、書類処理を通すには彼女に必ず会えたのだ。それなのに、彼女はこの冬は本部から僻地のタリカに派遣されてしまい、それまで少なくとも週に一度は顔を合わせていたのが顔も見れなくなってしまった。
同期の仲間だと思われているのは知っていたし、他の男よりかは気安いはずだと信じていた。それなのに、タリカに派遣されることになったこともようやく前日に教えてくれただけだったことはルイにショックを与えるのには十分だった。
「はは。そうか。バラッカの春を楽しめよ!そうだ。せっかくだし飲みに行こうぜ」
「ああ。非番の時は声を掛けるよ」
「お前そう言って誘いやしないじゃないか。今日は休みなんだろ?」
「そうだが」
気を取り直して、努めて明るい声を出したのにアニエスの声は冷たい。声を掛けると言ってアニエスから声をかけられたことがないのは、この長い付き合いの中でよく知っている。
「それなら今日行こう。思い立ったら何とやらとかよく言ってるじゃないか。それじゃあ七時にいつもの店で」
気乗りがしないと言いたげな顔のアニエスが断る前にそう言い切って、さっさとその場を後にした。真面目な性格の彼女がこうすれば必ず来ることをルイはよく知っているのだ。
ルイがアニエスを好きになったのはいつだっただろう。気が付けばと言えばいいのか、いつの間にか彼女の真っ直ぐな赤毛がルイの目が追うようになっていた。
軍には女性も多くはないが、それなりにいる。同期の中で一割にも満たない人数ではあるが、それでも過酷な任務の内容を考えれば多いとも言えるのかもしれない。配属が決まれば一概にそうでもないが、軍学校にいる間は男の中で同じ訓練を受けなければならない。行軍訓練では汗だくになっても一週間風呂に入れないこともあれば、携帯食のみでまともなものを食べられないこともある。規律が厳しく上官は絶対であるから、ありえないようなささいなことで罰を与えられることもある。そんな中にいると、根性がない人間は男であってもさっさと姿を消してしまうのだ。だから女であるというだけで目立つことには目立つが、ある程度一緒にいると性別を乗り越えた仲間意識も芽生える。
「――しかしアニエスを見たか?この間ゲイルを思いっきり伸したの」
その声が聞こえてきたのは、自主訓練を終えて自室に戻ろうと軍学校の廊下を歩いている時だった。アニエスという名が聞こえて、思わず足を止めた。
「ああ。見た見た。アイツ体もデカいし、ありゃ女じゃねぇな」
「はは。違いねぇ!」
そんな笑い声が聞こえて、ルイの中に苛立ちが広がった。ゲイルは気が良く、丈夫なことが取りえの男だ。アニエスに伸された後もすぐに目を覚ますと何でもないように笑っていたように記憶している。
むしろ遠慮してしまうことの方が、良くない。女であるということは、戦いの場では不利になってしまうことも多い。体の大きさの違い、力の差、持久力の違い、彼女が生き延びるためには不利な条件が多いのだ。それに思い切り攻撃に出ることを今学ばずしていつ学ぶというのだろう。ここはそういうことを学ぶ場所のはずなのに。廊下なんかで馬鹿みたいに笑うあの男たちはここに何をしに来ているつもりなのだろうと眉を顰めた。
「お前らそんな馬鹿なこと言ってねぇで訓練でもしたらどうだ?そんなことを言ってるからお前らは負けるんだろうが。アニエスの強さは練習の結果だ。お前らがそうやって喋ってる間もあいつは訓練してるぞ」
「――る、ルイ!」
気が付いたら口を出してしまっていた。下らない話をしていた男達は突然現れたルイに驚いたように慌てて口を閉ざした。
「アニエスの体の使い方は学ぶところがある。力では俺らの勝ちだろうが、技はアイツの方が上手いぞ」
ルイはそうとだけ言うと、さっさとその場を離れた。あんな連中と一緒にいるのも腹立たしかったのだ。足早に廊下を進み、角で曲がると赤い髪が見えた。
「アニエス。聞いてたのか」
「……ああ。彼らは?」
ルイの声にはっと顔を上げると、アニエスは固まっていた体を緩めた。
「向こうへ行った」
「そうか。……その、ありがとう」
アニエスは少し考えるように俯いて、すぐに顔を上げると照れたように頬を少しだけ赤く染めて笑った。
「いや。俺は本当のことしか言ってねぇよ。じゃあな」
ルイは笑みを返して言うと、すぐにその場を離れた。なぜならば、顔が自分でも驚くくらいに緩んでしまっていたからだ。
思い返してみれば、その時にアニエスへの恋心を自覚したように思う。
「――ルイって、お姉ちゃんのこと好きなんでしょ」
そう声をかけてきたのは、アニエスの妹のセリアだ。
その日は訓練の途中に怪我をしたアニエスを家まで連れて帰って、ベッドに彼女を寝かせた。痛み止めがよく効いているらしく彼女が寝息を立て始めたので、お礼にとセリアに出されたお茶を口に含んだ途端に出たのがこの言葉である。
出されたお茶を思わず噴出しそうになって、寸前のところで押さえてセリアをじっと睨んだ。
「お前、ガキのくせに何言い出してんだ」
「そうやって子ども相手だからって誤魔化そうとするのがダメな大人な証拠だよね」
適当に誤魔化そうとしたことをあっさり見透かされて、決まりが悪い。苦虫を潰したような顔でセリアを見ると、セリアは勝ち誇ったように意地悪な笑みを浮かべた。
「……何が言いたい?」
「別に。反対はしてないよ。お姉ちゃんが決めることだし。ただ、お姉ちゃんはあたしが結婚するまで結婚する気ないらしいよ?ご愁傷様」
その笑みはまさに「にやり」という言葉が相応しいものだった。
当時のセリアはまだ十二になったばかり。法律としては結婚は十五で出来るが、それこそ生まれた時から婚約者がいるような人間の話だ。街の娘であれば、二十くらいに結婚するのが普通だとされるくらいだろう。
つまり、この時でまだ八年もあるのだ。その絶望を知ってるからなのか、セリアは楽しげに笑っている。アニエスにはお転婆娘と言われるこの妹も、その実は姉にかまってもらいたいシスコンなのだ。
だから、ルイはアニエスからこの言葉を聞いた時の喜びは格別だった。
「だから」
「いいんだよ。今回は任務報告と妹の結婚式のために戻ってきただけなんだ。ん?ルイのカップもう入ってないぞ。――悪いが、麦酒をもう二つ」
話しかけたルイを遮ってアニエスはそう言い切ると、ほとんど空になったカップをテーブルに置く。そして近くにいた店員に手上げて合図すると声をかけた。
「妹ってセリアか?おいおい。あのお転婆娘が結婚か!そりゃあ、目出度い!」
それは心からの喜びの笑みだった。
何せ、今までずっと我慢。いや、自制をしてきていた。アニエスのことはずっと好きだった。誰かに取られてしまう前に早く手に入れてしまいたかった。
逆に言えば誰かに取られることがないので幸いでもあるのだが、セリアがいる内は自分も含めて誰もアニエスのことは手に入れることができない。
つい想いを告げてしまいたくなることも幾度となくあった。それでも、寸前のところで口に蓋をしてきたのだ。一度溢れ出してしまえば、その想いは止まることを知らない。どちらにしろまだ結婚する気がないと知っているので、そうそうに告げてしまうことは得策だとは言えなかった。
しかしこの長い間の自制期間のおかげで、アニエスを家族として迎える下準備は十分に進んだ。実家でも喜んでアニエスを迎えてくれるだろう。
「だろ?セリアのお転婆には困らされもしたが、今思えばかわいいもんだよ。寂しいが、これからはセリアのことは旦那に任せられる」
そう言って寂しげに笑うアニエスを見ながら、ルイの心は歓喜に沸いていた。ようやく想いを告げることができるのだ。
ルイは肉食獣さながらにアニエスに狙いを定め、着々と作戦を練っていく。あと少しで願いが叶うのだから。
とりあえず、これで完結となります。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。