孤高の白光、戦場に響く叫び
◇ ◇ ◇
王城の最深部、地下深く穿たれた石室の中で、ヒルメは膝の上に置いた両手を固く握り締めていた。
部屋の四方を囲むのは、老魔導師エルドがその生涯の技術を注ぎ込んで張り巡らせた、王国最高峰の防護多重結界。外からの魔力探知を遮断し、あらゆる物理的・魔術的衝撃を減衰させるための絶対の安全地帯だった。
だが、その冷たく分厚い石壁を伝って、腹の底を嫌なリズムで揺らす地響きが絶え間なく届いていた。
ドォォォン……ドォン……。
空気が微かに震える。それは遠く主街道で、何千、何万という人間がぶつかり合い、命を削り合っている音だった。
(みんなが……戦ってる……)
ヒルメはぎゅっと瞼を閉じた。
脳裏をよぎるのは、この国で出会った温かな人たちの顔だった。
市場で笑顔を向けてくれた果物屋の店主。
授業の合間に笑い合ってくれたミアとリナ。
憎まれ口を叩きながらも魔法の手ほどきをしてくれたアルベルト。
静かに、けれど誇り高く背中を押してくれたセレスティア。
そして――「ヒルメ様もミラークの民です」と、全軍の前で叫んでくれたアリシア王女。
前世で葬儀社に勤めていた頃から、ヒルメはずっと「命の終わり」を見つめ続けてきた。
誰かが亡くなり、残された家族が流す涙の重さを、その胸の痛みを、誰よりも理解しているつもりだった。
それなのに――今、自分の存在が原因で、無関係なはずの兵士たちが、民たちが血を流している。
『ヒルメのせいじゃないよ』
ミアはそう言ってくれた。悪いのは勝手に攻め込んできた帝国だと、リナも笑ってくれた。
けれど、だからといって、安全な地下室に閉じこもって耳を塞ぎ、誰かが自分の身代わりに死んでいくのを待つことなど、ヒルメにはどうしてもできなかった。
「……シロ」
「ワウ?」
足元で伏せていたシロが、琥珀色の澄んだ瞳をヒルメに向けた。
ヒルメは床から立ち上がり、手元にある白木の杖を握りしめた。
「怒られるよね、絶対に。……ミアにも、リナにも、アリシアさんにも。でもね、シロ……私、誰かが私のために傷つくのを見ているだけなんて、耐えられないよ」
シロがゆっくりと立ち上がり、ヒルメの足元に身体をすり寄せた。
そして、「ワンッ!」と短く、覚悟を共にするように吠えた。
「行こう、シロ」
ヒルメが杖の先を虚空へと向けると、淡い神聖な光が灯った。
エルドの張った結界は外からの侵入に対しては難攻不落だったが、ヒルメの持つ純粋な光の魔力は、結界の波長を乱すことなく、水に溶ける油のように静かな隙間を作り出した。
一人と一匹は、迷うことなく暗い階段を駆け上がり、硝煙立ち込める地上の戦場へと飛び出していった。
◇ ◇ ◇
主街道の戦場は、凄惨を極めていた。
大地は幾重もの魔法爆撃によって黒く抉られ、立ち込める土煙と硝煙が陽光を遮っている。
鳴り響く剣戟、兵士たちの怒号、負傷者の呻き。
その混乱の前線近くに、突如として眩い純白の光が舞い降りた。
「おい……あれを見ろ!」
「白銀の獣……それに、あの杖を持った小娘は……!」
「いたぞ! 目標『ヒルメ』だ!!」
前線に展開していた帝国軍の兵たちが、一斉にざわめいた。
皇帝から下された絶対命令――『ヒルメを生かして捕縛せよ』。
その標的が自ら姿を現したのだ。帝国軍の隊列が瞬時に組み変わり、無数の槍先と杖がヒルメへと向けられる。
「全隊、目標を拘束しろ! 抵抗するなら手足の一本や二本へし折っても構わん!!」
号令とともに、無数の火球と氷槍、そして黒曜石の鏃をつけた矢の雨が一斉に放たれた。
一国の前線を吹き飛ばすほどの飽和攻撃が、ヒルメ一体へと殺到する。
「聖なる光よ――我が祈りに応え、堅牢なる牢獄となれ!」
「《ガーディアン・プリズン》!!」
ドォォォォォォォォンッ!!!!
ヒルメの足元から立ち上がった半球状の光壁が、降り注ぐ魔術と矢の豪雨を真正面から受け止めた。
激しい閃光と衝撃波が荒れ狂い、光壁の表面を猛烈な勢いで叩く。
だが、今のヒルメはただ守られるだけの少女ではない。
学院での特訓を経て、彼女の魔力制御は飛躍的に進化していた。
光壁の角度を微細に傾け、正面からの威力を横へと受け流しながら、即座に次の手を打つ。
「シロ、左の魔導隊へ!」
「ワオォォン!!」
シロが弾丸のように結界の隙間から飛び出した。
紅蓮の炎を纏いながら地を蹴り、密集していた帝国魔導部隊の上空へと跳躍する。
そして、空中で大きく息を吸い込むと、白銀の冷気と紅蓮の劫火を同時に吐き散らした。
ドガァァァァン!!
轟音とともに帝国軍の砲撃陣形が大きく吹き飛び、氷漬けと火傷を負った兵士たちが倒れていく。
「怯むな、囲め! ただの獣と小娘だ!!」
しかし、帝国軍はあまりにも統率されていた。
一つの隊が崩れても、すぐさま後方から数百の重装歩兵が隙間を埋めるように雪崩れ込んでくる。
ヒルメは自らも走りながら、牽制の光弾を正確に放ち、迫る歩兵たちの足を止めにかかるが、四方八方から放たれる攻撃の数は減るどころか増していく一方だった。
「ガハハハッ! 見つけたぜぇ、このガキが噂の生贄かァッ!!」
突如、地響きとともに前線を割って現れたのは、身の丈三メートルに達する巨躯の獣人――猛将ガロクだった。
丸太のような腕で振り回される巨大戦斧が、空気を引き裂きながら上段から叩きつけられる。
さらにその死角を縫うように、白銀の甲冑を纏った帝国第一騎士団長ベルナールが、鋭利極まりない大剣の切っ先を繰り出してきた。
「小娘、貴様の足掻きもここまでだ」
ドゴォォォォォォォンッ!!
歴戦の強者二人による、完璧な呼吸の同時攻撃。
ヒルメは瞬時に二重の《ガーディアン・プリズン》を展開して受け止めたが、規格外の質量と鋭利な闘気が光壁を激しく軋ませる。
足元の石畳が砕け散り、ヒルメの小さな身体が地面へとめり込んだ。
「くっ……あぁぁぁっ……!」
「グルルルルッ!」
シロが即座に割り込み、ベルナールの大剣の刃へ横から噛みつこうとする。
だが、ベルナールは冷徹に剣の軌道を逸らすと、鎧を纏った左脚でシロの横腹を強烈に蹴り飛ばした。
「キャゥンッ!」
「シロ!!」
石畳を激しく転がりながらも、シロはすぐに身を起こし、口元から血を流しながら四肢を踏ん張ってヒルメの前に立ちはだかった。低い唸り声を上げ、全身の毛を逆立てて敵を威嚇する。
ヒルメの魔力は、度重なる結界の維持と飽和攻撃の防御によって、急速に限界へと近づいていた。
息が上がり、視界がチカチカと明滅する。
それでも、ヒルメは杖を握る手を緩めなかった。
「まだ……倒れるわけには……いかない……!」
「無駄な足掻きを」
ベルナールが冷ややかに大剣を構え直す。
ガロクが獰猛な笑みを浮かべ、再び巨大な斧を担ぎ上げる。
周囲を取り囲む無数の帝国兵たちが、一斉に槍を突き出し、距離を詰めていく。
ヒルメとシロは、完全に退路を断たれた戦場の中心で、孤立無援の死闘を繰り広げていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、主街道の最前線――。
「報告! 後方防衛線の手前にヒルメ殿が出現! 帝国軍の集中砲火を受け、獣人部隊および第一騎士団長に包囲されております!!」
「……っ!?」
最前線で敵の大隊を薙ぎ払っていたアリシアの動きが、完全に止まった。
王城地下に匿ったはずのヒルメが、戦場に出ている。
その事実を理解した瞬間、アリシアの全身から血の気が引くと同時に、底知れぬ怒りと焦燥が爆発した。
「ヒルメ様が……ッ!!」
アリシアは周囲の敵を一切無視し、ヒルメのいる後方へと弾丸のように踵を返そうとした。
だが――その行く手を遮るように、大地から何重もの紫黒の魔法陣が立ち昇った。
「行かせるわけにはいきませんな、王女殿下」
紫煙の奥から現れたのは、豪奢なローブを纏った老人――帝国宮廷筆頭魔導師ヴァルガス。
その周囲には、古代の儀式魔術によって編み上げられた複合結界が幾重にも重なり、空間そのものを歪ませていた。
「我が帝国軍を舐めてもらっては困りますぞ。貴女という最高戦力をこの場に釘付けにすることこそ、我が至上命題!」
「……そこを、どきなさい」
アリシアの声は低く、酷く冷たかった。
だが、彼女の足元を中心に、半径十メートル以上の石畳がメキメキと音を立てて陥没していく。
大気が悲鳴を上げ、天を覆っていた雲が渦を巻き始めた。
「どけと……言ったぞぉぉぉぉぉぉぉぉッッ!!!!」
ドガァァァァァァァァァァァァンッ!!!!
アリシアが杖を一閃させた瞬間、神聖魔力の超極大奔流が放たれた。
ヴァルガスの誇る「古代複合結界」は、その圧倒的な出力の前にガラス細工のように木っ端微塵に粉砕された。
「ぐ、があぁぁぁぁぁッ!?」
結界の破片とともに、ヴァルガスは血を吐きながら後方へと吹き飛ぶ。
「ヒルメ様……今すぐ行きます……!」
アリシアが地を蹴り、駆け出そうとした。
しかし――。
「ぬ、ぬぅぅぅ……! まだだ……まだ終わらんぞッ!!」
吹き飛ばされたはずのヴァルガスが、血まみれになりながらも地面に杖を突き立て、叫んだ。
次の瞬間、主街道の左右に伏せていた帝国軍の第二陣、第三陣――数千に及ぶ重装魔導部隊と槍兵隊が一斉にアリシアの周囲へと雪崩れ込んできた。
「王女を囲め! 一人たりとも通すな!!」
「肉壁となっても食い止めろ! 時間を稼げば我が軍の勝利だ!!」
次々と展開される無数の防御壁。
幾重にも重なる槍の穂先。
倒しても、吹き飛ばしても、蟻の群れのように次から次へと兵士たちが押し寄せ、アリシアの進路を塞いでいく。
「邪魔をするなァァァッ!!」
アリシアが杖を振るうたびに十数人の兵が吹き飛ぶが、帝国軍は文字通りの「数の暴力」で、命を顧みずに王女の足を止めにかかっていた。
ヴァルガスもまた、遠方から執拗に拘束魔術を撃ち込み続け、アリシアの視界を塞ぐ。
「くっ……離しなさい! そこをどきなさいッ!!」
遠く、主街道の中央で上がる土煙。
あそこで、ヒルメが戦っている。傷ついている。
それなのに、どれほど魔力を振るっても、押し寄せる大軍の壁に阻まれて一歩が進まない。
アリシアの瞳に、焦燥と絶望の涙が滲んでいた。
◇ ◇ ◇
主街道の中央――。
ヒルメの呼吸は、すでに限界を迎えていた。
全身の筋肉が鉛のように重く、視界の端が黒く染まり始めている。
「ハァ……ハァ……ッ」
足元では、シロが何度も前脚を踏ん張って立ち上がろうとしては、傷ついた四肢を小刻みに震わせていた。
二人は、押し寄せる大軍と二人の将を相手に、すでに何十分もの時間を耐え抜いていた。
それは本来、一人の少女と従魔にできる領域を遥かに超えた死闘だった。
だが、限界は確実に訪れる。
「よく粘ったな、小娘」
ベルナールが大剣の切っ先をヒルメの喉元へと突きつける。
「だが、兵力差という現実からは逃れられん。貴様の守護者たるアリシア王女も、我が軍の大包囲網を突破することは叶わんよ」
「……っ」
ヒルメが顔を上げる。
遠くで光り輝くアリシアの魔力が見える。けれど、その光は無数の黒い影に囲まれ、こちらへ近づくことができていなかった。
(アリシアさん……みんな……)
「ガハハッ! もう立つ力も残ってねえだろ! 大人しく眠りなァッ!!」
ガロクの巨大な戦斧が、横薙ぎに振り抜かれる。
ヒルメは最後の魔力を振り絞って薄い光壁を展開したが、斧の一撃によってそれは儚く砕け散った。
衝撃波がヒルメとシロを吹き飛ばし、硬い石畳の上を激しく転がる。
「……シロ……」
倒れ伏したヒルメは、震える手で隣に倒れるシロの身体を引き寄せた。
シロもまた、弱々しく「クゥン……」と鳴きながら、ヒルメの手をペロリと舐める。
もう、指一本動かす力も残っていなかった。
魔力は完全に枯渇し、頭の芯が酷く冷たくなっていく。
「連れて行け」
ベルナールが冷たく命じる。
帝国兵たちが縄を手に、倒れた二人へと歩み寄ってくる。
ヒルメの意識が、ゆっくりと暗闇の中へと沈みかけていた。
(ごめん……なさい……みんな……)
ヒルメとシロが、完全に意識を手放したその瞬間――。
天地を揺るがすような、鋭利な風切り音が戦場に木霊した。
◇ ◇ ◇




