07:食料
稽古が終わった後も、メルは一人で鉄パイプを振っていた。
精神的なものは、一人では鍛えにくい。だが、筋力なら鍛えられる。グリムの言葉は正しい。恐怖で動けなくなるなら、どれだけ力があっても意味がない。それでも、何もしないよりはましだった。
何度も鉄パイプを振り下ろす。腕が重くなる。汗が流れる。呼吸が荒くなる。それでも止めずに続けていると、不意に腹が鳴った。
「……腹、減ったな」
食料の問題は、何一つ解決していない。
グリムは稽古をつけてくれるだけで、メルの面倒を見ているわけではない。あの時、「奴隷になる」と言えば、衣食住くらいは与えてくれたかもしれない。だが、それでは意味がなかった。自由になるために強くなりたいのに、誰かの所有物になってしまえば本末転倒だ。
それに――。
グリムは、メルを対等に扱ってくれていた。哀れみから来る優しさもない。利用価値を測るような目もない。ただ、そこにいる相手として接してくる。それが妙に心地よかった。
だからこそ、食べ物を乞うような真似はしたくなかった。
「あそこに行くか」
道は覚えている。メルは鉄パイプを布で背中へ括り付けると、赤いクロークのフードを深く被り直した。そして市場の通りへ向かう。
朝方の市場は、夜とはまるで違っていた。
馬車の数が多い。通りのあちこちで荷物が運ばれ、人の怒鳴り声や車輪の軋みが絶え間なく響いている。メルは通りの端を歩きながら、きょろきょろと周囲を見回した。
しばらく歩いていると、見覚えのある男を見つける。昨日、果実を投げて寄越した店主だった。大きな木箱を抱え、店へ運んでいる。
「おい」
近づきながら声をかける。店主が振り向いた。
「ん? どうした嬢ちゃん」
まだ獣人だと気づいていないらしい。赤いクロークは目立つと思っていたが、思った以上に効果があるようだった。
「それ、運んでやってもいいぜ。食い物分けてくれるならな」
メルは男の抱えている木箱を指差す。店主は少し目を細めた。
「……ちっ。なんだよ、昨日の獣人か」
声と背丈で分かったのだろう。店主は木箱を下ろし、苛立ちを隠さずに言う。額には汗が滲んでいた。
「また食い物に困ってんのか。……まあいい」
男は指で奥を示す。
「これと、あそこに積んであるやつを運べ。店の場所は覚えてんだろ?」
視線の先には、昨日より多い木箱と布袋が積まれていた。
「昼までに運び終わったら、昨日より多めに分けてやる。焦って落とすんじゃねえぞ」
店主はひらひらと手を振り、そのまま店へ戻っていく。
「……よし」
メルは小さく呟いた。最初から、力仕事の代わりに食べ物をもらうつもりだった。だが、予想以上に話がうまく進んでいる。メルは気合を入れ直し、荷物へ手をかけた。
「終わったぞ!」
太陽が真上へ来る前に、荷運びは終わった。
「そうか」
店主が店の奥から木箱を持ってくる。中には、果実や野菜が詰め込まれていた。
「傷んだり売れ残ったりして商品にならねえやつだ。好きなだけ持ってけ」
「本当か!?」
メルの表情が一気に明るくなる。見たところ、そこまで悪い状態ではない。そのまま、メルは木箱ごと抱え上げた。
「待て待て待て!箱ごと持ってくな!」
店主が慌てて止めようとする。だが、メルは伸びてきた手をひょいと避けた。尻尾をぶんぶん振りながら、そのまま走り出す。
「明日また来る!その時返す!」
「お、おい!」
メルは振り返らない。好きなだけ持っていけと言ったのは向こうだ。昨日の仕返しも少し混ざっていた。店主は呆然とその背を見送る。だが、店へ客が入り始めたのを見ると、大きくため息をついた。
「……まあ、在庫処分だと思えばいいか。都合のいい奴隷だと思えば……」
どこか言い訳じみた独り言を漏らしながら、店主は仕事へ戻っていった。
仕事終わりに、グリムは廃材置き場へ来ていた。そこにはすでにメルがいる。鉄パイプを振っていたメルは、グリムに気づくと駆け寄ってきた。その手には木箱が抱えられている。
「よ、よう、グリム。その……これ、稽古つけてくれたお返しだ」
差し出された木箱の中には、果実や野菜が詰まっていた。
「……盗んだのか?」
「盗んでねえよ!」
グルル、とメルが唸る。
「仕事手伝って、その見返りにもらったんだ!でも、あたし一人じゃ食い切れなくて……」
「そうか」
グリムは木箱を受け取る。少し傷んでいるが、煮込めば問題ない程度だった。
「朝の続きをするぞ」
「おう!」
メルは元気よく返事をする。自分の力で食料を得られた。その事実が、少しだけ不安を薄れさせていた。
稽古の内容は朝と同じだった。グリムが殺気を向け、その状態で攻撃を避ける。
何度も繰り返す。最初は動けなかった。だが、回数を重ねるうちに、単純な攻撃なら避けたり、防いだりできるようになっていく。
「ここまでにしておこう」
一時間ほど続けたところで、グリムが言った。メルはその場へ仰向けに倒れ込む。
「つ、疲れた……」
運動量自体はそこまで多くない。それなのに、汗は噴き出し、呼吸も荒い。殺気そのものには少し慣れ始めていた。だが、精神への負荷が、そのまま肉体疲労になって現れている。
グリムは木箱を持ち上げ、そのまま帰ろうとした。だが、数歩進んだところで足を止める。
「……この量は俺一人じゃ食べきれない。家まで来い。運動した後は食わないと駄目だ」
メルが勢いよく体を起こした。
「いいのか? 家に上がっても?」
グリムは答えない。そのまま歩き始める。メルは慌てて追いかけた。
「……言っとくけど、あたしは奴隷じゃないからな。家事の手伝いとかはしねえぞ」
「しなくていい。暴れたりしなければ、それでいい」
「そんなことしねえよ……」
ぶつぶつ言いながらも、メルはグリムの後をついていく。
その日。
メルは人間の街へ来て初めて、温かい食事を口にした。
そして、雨風をしのげる場所で眠ることができた。




