第1話 平穏な日々の終わりは......
「おはようございます、大家さん」
「おはよう、新君。今日も早いねぇ」
大家さんに朝の挨拶をして、俺の一日は始まる。
いつも通りの穏やかな朝だ。
――この時までは、本当に。
俺、一条新は、春からこのアパートで一人暮らしをしている。
自分で言うのも何だが、俺は多分普通じゃない。
父親は大企業の3代目で、俺はその後継ぎ。いわゆる御曹司ってやつだ。
俺はそんな生活にうんざりしていた。
俺は親の反対を押し切り、隣県の大鷹学園へ進学した。そして下宿生活を始めた。
小さい頃から要領だけは良かった。一人暮らしを始めてから1ヶ月が経った今では、全ての家事をほぼ完璧にこなせるようになっていた。
「新君、おはよう」
「おはよう」
教室に入ると、隣の席の男子が声を掛けてくれた。
ここ、大鷹学園1年3組には、俺の家柄を知っている人は一人もいない。初めての『普通』な学生生活に毎日充実感を感じていた。
「今日もいつも通り早いね」
いや、君の方が早く来てるけど......
「うん、特にすることもないんだけどね」
彼、栗山正樹は、いわゆるクラスの中心人物だ。
誰にでも距離が近くて、気づけば周りに人が集まっているようなタイプだ。彼の周りはいつも賑やかで、自然とみんなが笑顔になった。
「そうなんだよ。でも、この朝の学校の雰囲気好きだなー。何か一日が始まるっていうか、そういうワクワク感あるよね」
「確かに」
彼と違って俺は、人と会話するのが苦手だ。
言いたいことはいっぱいあっても、なかなかうまく言葉にできない。それでも彼はうまく俺との会話を繋げようとしてくれる。
「ねー、いざ授業始まったら、早く終われって思うんだけどね。あっ、おはよう咲良さん」
正樹君と話していると、一人の女子生徒が登校してきた。
「あぁっ、おはようございます。栗山君に、一条君も」
彼女の名は、森本咲良。
俺が名前を覚えるのに一番時間がかかったクラスメイトだ。
正直、かなり地味な印象の女子だ。度の強そうな黒縁の眼鏡をかけていて、暇な時には教室の隅で本を読んでいる。
特に誰かと仲が良いという訳でもなく、マジで空気のような存在だった。
――なのに、どこか少しだけ、気になる存在でもあった。
彼女は今日も、そそくさと自分の席に座り、分厚い本を取り出した。何を読んでいるかも分からない。
始業時間が近づくにつれ、段々と人も増えてきた。
朝のホームルームは8時半からだ。それまでに登校すれば遅刻にならない。だから、ギリギリに駆け込んでくる人も多く……
「よっしゃー、ギリギリセーフ」
「おっ、純平、龍一。今日も二人揃ってギリギリだな」
「正樹、お前が早いだけだろ。別に遅刻してないしいいだろ。まぁ、時々間に合わねぇけどな」
高橋純平と辛島龍一。このクラスでは割と尖っている方だ。言葉遣いは荒いし、先生には当たり前のように反抗している。それに、もっとひどい噂も……
正直、あんまり関わりたくない。
8時半のチャイムと共に、担任の井上先生が教室に入ってきた。
「よーし、出席とるぞー。おっ、辛島と高橋も、今日は間に合ったんだな」
「うるせえよ。さっさと出席とってくれ」
「あぁ、わかったよ。阿部、一条、伊藤……」
二人の扱いにも慣れてきた井上先生。4月までは、結構ちゃんと注意もしてたんだけどなぁ。
「よし、全員いるな。特に連絡もないし、今日も1日頑張れよ。以上!」
四時間目終了と同時に、多くの生徒が学食へと走る。それに対して俺は、自作の弁当を持って、外に向かっていた。
「さぁ、今日はどこで食べようかな……」
お昼の時間だけは、誰にも邪魔されず一人で過ごしたかった。元々根暗な性格なだけに、騒がしい場所はまだ苦手だ。
「あそこにするか」
いつも通り、体育館の目の前にある中庭のベンチに腰をかける。ここは普段滅多に人も通らず、最近はずっとここが俺一人だけの昼食会場になっていた。
よし、食べるか――
「おい、いいだろ!」
俺が弁当箱を開けると同時に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。どうやら体育館横の方に人がいるらしい。
「何だ……」
俺は自分の好奇心を抑えきれなかった。というか、俺のチルタイムを妨害されるのが許せなかった。
俺は忍者の如くステップで体育館と校舎の間を覗いた。
あいつらか……
俺の目に飛び込んできたのは、ウチのクラスの問題児二人――辛島と高橋だった。
二人が誰かに詰め寄っている。こちらから顔ははっきりと見えない。でも、きっとつまらない喧嘩だろう。
「やめて!」
——つまらない喧嘩、のはずだった。
俺の耳に届いたのは、女子の声だった。それも、こちらも聞いたことがある。
パキッ。
あっ、やばい。
「おい、誰かいんのかよ」
俺は足元の木の枝を踏んでしまったようだ。絶対気づかれた。
逃げるか……?
正直、面倒なことに巻き込まれるのはごめんだ。
俺が走り出そうとした時、相手の女子生徒の顔が見えた。
あれ? 咲良さん?
俺の目に飛び込んできたのは、涙を浮かべている森本咲良の姿だった。高橋が咲良さんの手首を掴んで壁に押し付けている。そして、辛島はその様子をスマホで撮影しているようだ。
おいおい、マジかよ。こんなん逃げられないやん。
「何だ、一条か。このことは誰にも言うなよ。言いふらしたら……分かってるよな?」
二人はゆっくりと近づき、分かりやすく圧をかけてきた。
もちろん、この場から立ち去るのが一番だろう。でも、何を考えたのか。俺は咲良さんの手を引いていた。
「おい、ヒーローごっこはやめとけよ? それともなんだ? お前たち付き合ってんのか?」
辛島がニヤリと不敵な笑みを浮かべながら見下ろしてくる。
「……一条君。ごめん」
――は?
咲良さんは呟くと同時に、一歩前に出る。
そして、俺の腕をぎゅっと掴んだ。
「そうだよ! 新君は私の彼氏だよ!」




