第87話|治す手と、止める手
夜は、治療院に向いていない。
夜は帳簿が閉じている。
だから判断だけが残る。
だが夜に来る怪我は、いつも昼より正直だ。
術士は、灯りを落としたまま、包帯を畳んでいた。
畳む動きは正確だ。
だが、速くない。
速くすると、判断が追いつかなくなる。
判断が遅れると、治療が刃になる。
外で、音がした。
転ぶ音ではない。
止まる音だ。
止まる音は、迷いの音だ。
迷った人間は、助けを求める。
「……来る」
術士は呟いた。
予言じゃない。
配置の結果だ。
補給兵が、壁際で立っている。
立っているだけ。
荷も箱も持っていない。
持たないことで、意味を消している。
「人数は」
術士が聞く。
「一人」
補給兵は即答した。
「だが、後ろに二人いる」
「運ぶ気はない」
「“見てる”だけだ」
見てる。
その言葉だけで、術士の喉が少し乾く。
見られている治療は、治療じゃない。
判断になる。
扉の外で、声がした。
「……すまない」
「足をやった」
声は若い。
弱っているが、死んでいない。
生きている怪我だ。
術士は、すぐに分かった。
これは“倒れた人”じゃない。
倒れないように作られた怪我だ。
補給兵が、低く言う。
「自分で歩いてきた」
「立ってる」
「血は、少し」
少し。
その少しが、一番厄介だ。
大怪我なら、迷わない。
無傷なら、追い返せる。
少しの怪我は、術士を“選ばせる”。
助けるか。
助けないか。
どちらでも、理由が作られる。
術士は、扉を開けなかった。
開けると、迎えた形になる。
代わりに言う。
「歩けるか」
外の男が、間を置いて答える。
「……歩ける」
「だが、仕事に戻れない」
「明日、倍働く」
「前みたいに、通す」
倍。
その言い方で、術士は確信した。
通してた側だ。
密約が生きていた頃の働き方を、まだしている。
術士の胸が、きしんだ。
治せる。
ヒールは使える。
プロテクトもある。
だが――
治した瞬間、窓口が生き返る。
術士は、治療が好きだ。
だが、治療で人を殺したくはない。
補給兵が、静かに一歩前に出た。
扉は開けない。
声だけを前に出す。
「今日は、夜だ」
「夜に働くと、損が出る」
「帳簿が閉じている時間に動くと、高くつく」
損。
その言葉は、治療の言葉じゃない。
だが、判断を鈍らせない言葉だ。
外が、少し沈黙する。
「……朝まで待てない」
「このままじゃ――」
「このままでも、死なない」
補給兵は言い切った。
「死ぬ怪我じゃない」
「死なない怪我で夜に来るのは、理由がある」
理由。
その言葉で、外の空気が固まった。
術士は、補給兵の背中を見ていた。
この男は、いつも刃を持たない。
だが、判断の位置をずらす。
術士は、ここで決めた。
治さない。
だが、放置もしない。
術士は、扉越しに言った。
「応急だけする」
「歩ける状態を保つだけだ」
「痛みは取らない」
「痛みは残す」
外の男が息を呑む。
「……それで、仕事は」
「できない」
術士は即答した。
「痛みがある」
「痛みがあるなら、無理はできない」
補給兵が、そこに被せる。
「無理をすると、次は倒れる」
「倒れたら、責任が生まれる」
「責任が生まれると、金が消える」
金。
その単語で、外の男は黙った。
治療院の扉が、少しだけ開いた。
人を入れるためじゃない。
手を出すためだ。
術士の手が、伸びる。
ヒールではない。
簡易処置だ。
血を止める。
骨を固定する。
腫れを抑える。
だが、痛みは残す。
意図して残す。
残すことで、仕事を止める。
それが、今夜の治療だった。
処置が終わると、術士はすぐに手を引いた。
長居はさせない。
「朝に来い」
「来るなら、一人で来い」
「連れて来たら、治さない」
外の男は、何も言わなかった。
言えなかった。
背後の“見ていた二人”も、動かなかった。
動くと、形になるからだ。
足音が遠ざかる。
術士は、そこで初めて息を吐いた。
細く。
長く。
「……怖かった」
補給兵が、短く答える。
「正しい」
「正しい?」
「怖くない判断は、だいたい安い」
術士は、少しだけ笑った。
「怪我は、まだ増える?」
「増える」
補給兵は断言した。
「今夜は、様子見だ」
「次は、本気で“必要”を作りに来る」
術士は、包帯を一枚、強く畳んだ。
「それでも、治す?」
「治す」
補給兵は言う。
「だが、“続けられない治し方”でな」
術士は頷いた。
刃を持たない自分が、
刃より重い判断をしている。
血ではなく、
止めた数で決まる夜。
それが、
この戦争の、最初の勝敗だった。




