第84話|値段の合わない矢
戦争は、宣言では始まらない。
値段が合わなくなった瞬間に始まる。
最初に違和感を覚えたのは、レンジャーだった。
旧交易路の外れ。
夜明け前。
風は穏やかで、視界もいい。
撃てば当たる距離。
当たれば倒れる角度。
矢は、完璧に飛んだ。
――当たった。
肩。
致命ではないが、確実に戦線を外せる位置。
男は、倒れなかった。
踏みとどまったわけでもない。
避けたわけでもない。
当たったのに、倒れなかった。
レンジャーは舌打ちする。
矢をつがえ直す。
二本目。
今度は腿。
動けなくなるはずの角度。
――当たった。
それでも、男は退いたが、崩れなかった。
後ろにいた剣士が一歩出る。
前に出るが、追わない。
追わない動きは、値段の動きだ。
「……おかしいな」
レンジャーは呟いた。
風も距離も、読み違えていない。
見落としたのは――
何かが、当たる前に働いているという事実だった。
補給兵は、最初から数えていた。
矢の数。
撃たれた回数。
倒れなかった回数。
「……安いな」
誰に向けた言葉でもない。
矢は消耗品だ。
人は消耗品じゃない。
消耗品の方が先に尽きる戦いは、
値段が合っていない。
ヴォロは、前を見ていない。
見ているのは、横だ。
術士。
彼女は、動いていない。
詠唱もしていない。
ただ、
倒れそうな場所に、必ず「いる」。
それだけだ。
プロテクトは派手に張らない。
矢が当たった「あと」にも見えない。
だが、当たる前に薄く働いている。
深く刺さらない。
血が噴かない。
悲鳴が出ない。
倒れない。
つまり――
事件にならない。
高所のスペルマスターは、それを見ていた。
高所。
詠唱距離。
完璧な布陣。
「……殺せない?」
自分の言葉に、苛立ちが混じる。
術式は成立している。
干渉もされていない。
だが、
倒れない。
死なない。
死なない戦場は、管理できない。
管理できない戦場は、
ギルドの仕事じゃない。
「前に出るな」
スペルマスターは命じる。
「距離を取れ。
矢も魔法も、一段下げろ」
レンジャーが顔を歪める。
「当ててる。
確実に」
「分かってる」
分かっているから、苛立つ。
当たっているのに、
値段が釣り合わない。
消耗が、向こうよりこちらの方が大きい。
それはつまり――
この戦場は、向こうが設計している。
剣士が地面を蹴った。
踏み込むが、深追いしない。
深追いすると、倒れる。
倒れると、治療が必要になる。
治療が必要になると、
窓口が生まれる。
それを、全員が分かっている。
「来ないな」
剣士が言う。
「来ない」
グレイが答える。
敵は詰めてこない。
距離を詰めると、
何かが合わなくなることを感じ取っている。
ヴォロは、低く言った。
「……値段を見てる」
敵も同じだ。
勝てるかどうかじゃない。
殺せるかどうかでもない。
この戦いを、続けられるかどうか。
スペルマスターは、結論を出す。
「……引く」
部下が目を見開く。
「今は?」
「今はだ」
勝てないわけじゃない。
だが――
勝った瞬間、
この戦場は「事故」になる。
事故になった瞬間、
上が動く。
上が動いた瞬間、
値段が跳ね上がる。
スペルマスターは、歯を噛み締める。
「……あのヒーラーを殺さない限り、
この団は安くならない」
それは宣戦布告に等しい理解だった。
夜が完全に明ける前、
敵は引いた。
整然と。
痕跡を残さず。
剣士が息を吐く。
「……始まったな」
「始まった」
ヴォロは否定しない。
「今のは偵察だ」
「値段確認だ」
補給兵が続ける。
「向こうは分かったはずだ。
俺たちは――」
「安くない」
術士が小さく言った。
その声は誇りじゃない。
覚悟だ。
攻撃できない。
倒せない。
それでも――
戦争の値段を吊り上げることはできる。
ヴォロは、夜明けの街道を見た。
通りは止まっていない。
音は、まだ続いている。
だが次に来るのは、確認じゃない。
本気で、値段を壊しに来る敵だ。
「……次は」
ヴォロは言った。
「向こうも、血を出す覚悟で来る」
剣士が笑う。
「やっと、傭兵の仕事だな」
誰も否定しなかった。
値段が合わない戦争は、
必ず――
どちらかが、値段を下げに来る。
そしてそれは、
必ず血の形をしている。




