第70話|受けるという判断
夜の倉は、静かだった。
灯りが消えたまま、もう何日も経っている。
扉は閉じられている。
壊れていない。
封じられてもいない。
ただ――誰も近づかない。
街道から流れてきた荷車が、一度だけ速度を落とした。
止まるかと思われたその瞬間、御者は視線を逸らし、そのまま通り過ぎていく。
馬の蹄は止まらない。
荷の縄も鳴らない。
話し声も起きない。
通れる。
だが、止まらない。
それだけで、この場所は役目を失っていた。
補給兵が、遠くの影からそれを見ている。
息は浅い。
寒さではない。
確認だ。
「……本当に、消えたな」
隣で、ヴォロが倉を見ていた。
壊した痕はない。
血の匂いもない。
それなのに、誰も寄りつかない。
「壊してない」
ヴォロが言う。
「使われなくなっただけだ」
倉の陰で、小さく影が動いた。
誰かが見ている。
試す気配ではない。
確かめる気配だ。
まだ終わっていない。
風が吹き、乾いた音が鳴る。
空っぽの倉が、わずかに軋む。
その音を背に、ヴォロは言った。
「……戻るぞ」
戻れる場所へ戻る。
それは、逃げではない。
次を決めるための動きだ。
*
治療院の夜は、静かだった。
静かだが、落ち着かない。
灯りは落としてある。
完全には消さない。
戻って来られる場所だと分かる程度に、残す。
ヴォロは、卓の端に紙を置いた。
茶色い紙。
書いていない。
だが、重い。
誰も先に口を開かなかった。
剣士が、最初に息を吐いた。
「……で、要するに何だ」
短い問いだ。
だが、その短さは軽さじゃない。
整理しきれない重さを、これ以上増やしたくない声だ。
「北と、先代領主の密約を消す」
ヴォロは、淡々と言った。
術士が、指先を止めた。
包帯を畳んでいた手が、そのまま固まる。
「……“消す”って」
「暴くんじゃない」
「切るんでもない」
補給兵が、地図を見たまま言う。
「存在しなかったことにする、だな」
ヴォロは頷いた。
グレイは、壁にもたれて腕を組んでいる。
顔は見えない。
だが、視線は一点に集中していた。
「殺しは?」
グレイが問う。
「基本、不可」
ヴォロは即答した。
「殺した時点で、北が“事件”にできる」
剣士が、低く笑った。
「面倒だな」
「面倒だから、高い」
補給兵が、地図を指でなぞる。
境界線。
北と領主領の、曖昧な線だ。
「失敗したら?」
術士が聞いた。
「北が動く」
「領主が終わる」
「俺たちも、守られない」
誰も驚かなかった。
驚く段階は、もう過ぎている。
沈黙。
焚き火の灰が、わずかに沈む音だけがする。
剣士が、ぽつりと言った。
「……これ、受ける意味あるか?」
正面からの疑問だ。
逃げも、飾りもない。
「金は出る」
ヴォロが答える。
「金だけなら、受けないだろ」
剣士の言葉に、誰も反論しない。
補給兵が言った。
「意味は、“次”だな」
「次?」
術士が視線を上げる。
「これを消せる団だって、
どこかに残る」
グレイが、低く続ける。
「名は出ないが、値段は残る」
術士が、ゆっくりと息を吐いた。
「……つまり」
「受けると、戻れなくなる」
ヴォロは、否定しなかった。
「戻れなくなる」
「安い仕事には」
剣士が、目を伏せた。
しばらく黙り、やがて言う。
「俺は、剣を振る仕事なら受ける」
「だがこれは、振ったあとに
“何もなかった顔”をする仕事だ」
「できるか?」
ヴォロは聞いた。
剣士は、少し考えた。
考えてから、言った。
「……嫌いだ」
「だが、
やらなきゃ、
もっと嫌なことになる」
術士が言う。
「負傷者が出る仕事じゃない」
「でも、
失敗したら
誰かがまとめて死ぬ」
ヴォロが頷く。
「だから、
治療は“予防”になる」
補給兵が、地図を畳んだ。
「通路は多い」
「逃げ道も、潰し道もある」
「ただし――」
「一つでも誤ると、
全部が表に出る」
「その通りだ」
最後まで黙っていたグレイが、口を開いた。
「……俺は、
この仕事が嫌いだ」
全員が、グレイを見る。
「北と戦えるなら、楽だ」
「敵が分かる」
「斬れば終わる」
「だがこれは、
斬らないために
刃を抜く仕事だ」
グレイは、ゆっくりと言った。
「だが――」
そこで言葉を切る。
「ヴォロが受けるなら、
俺は前に立つ」
剣士が、短く言う。
「理由は?」
「ヴォロが、
“受ける理由”を
自分で背負ってるからだ」
グレイは、壁から離れた。
「この仕事、
誰かに押し付けられたら、
必ず歪む」
「だが今は、
押し付けられてない」
視線が、ヴォロに向く。
「お前が、
受けるかどうかを
決めている」
ヴォロは、紙を見た。
書いていない紙。
「……俺は」
静かに言う。
「この仕事を、
“正しい”とは思ってない」
術士が、目を伏せる。
「だが」
ヴォロは続けた。
「これを放置すると、
もっと酷い形で
誰かが処理する」
「北か」
補給兵が言う。
「北か、
告発か、
戦争だ」
ヴォロは、全員を見る。
「消せるなら、
消す」
「殺さず」
「英雄にもならず」
「誰の名前も残さず」
沈黙。
そして、剣士が言った。
「……受けよう」
「ただし」
「一つだけ条件がある」
「何だ」
「途中で、
“無理だ”と思ったら、
全員で引く」
ヴォロは、頷いた。
「最初から、そのつもりだ」
術士が、小さく笑った。
「最悪ね」
「最悪だ」
補給兵も言う。
グレイが、剣の柄に手を置いた。
「じゃあ、やるか」
ヴォロは、茶色い紙を折った。
一度だけ。
まだ、書かない。
「……団として、受ける」
それが、受託だった。
外では、風が鳴っている。
街道の音は、消えていない。
消えるのは、
もっと古いものだ。
名もなく
文書もなく
だが確かに、
そこにあった密約。
それを、
この四人で
消しに行く。
誰にも見えないように。




