第69話|消すという選択(挿絵)
その部屋には、窓があった。
だが、外は見えない。
曇りガラスだ。
光だけを通し、景色を殺す。
ここで交わされる話が、外に形を持たないための窓だった。
ヴォロは、椅子に座らなかった。
立ったまま、机の端に指を置く。
置くだけだ。
預けない。
向かいにいるのは二人。
一人は、見覚えのある側近。
もう一人は、初めて見る男だった。
年嵩。
装いは地味だが、身体の置き方が違う。
護衛ではない。
だが、護衛より重い役目を背負った人間だ。
「……正式に話す」
年嵩の男が言った。
声は低い。
余分な音がない。
「この場で聞いたことは、
ここから出ない」
ヴォロは頷かなかった。
肯定も、拒否もしない。
「その前に確認する」
ヴォロが言う。
「この話は、依頼か」
「依頼だ」
即答だった。
その即答に、逃げ道はない。
「契約か」
「契約ではない」
側近が補足する。
「書面には残さない。
だが、条件は正式だ」
ヴォロは、息を一つ吐いた。
「……話せ」
年嵩の男は、机の上に一枚の紙を置いた。
地図でも、契約書でもない。
ただの覚書だ。
「先代領主の時代、
北と交わされた“通過黙認”がある」
その一言で、空気が変わった。
ヴォロは、紙を見なかった。
見る必要がない。
この手の話は、紙に書かれた時点で終わる。
「黙認の対象は、禁制品」
「交易禁制」
「労働力」
「軍需関連」
年嵩の男は、淡々と並べる。
感情がないのではない。
感情を挟むと、話が歪むからだ。
「当時は必要だった」
「北境は崩れていた」
「魔獣の圧が強すぎた」
側近が続ける。
「南へ抜けさせないために、
北を敵に回せなかった」
ヴォロは、そこで口を開いた。
「それは“過去”だ」
「そうだ」
年嵩の男は、否定しない。
「だが、密約は生きている」
言葉が、重く落ちる。
「北は力を持った」
「もはや、南の領地を守る必要がない」
「代わりに、対価が変わった」
側近が、視線を落とした。
「土地だ」
ヴォロの指が、わずかに動いた。
「境界沿いの土地」
「監視拠点」
「補給地」
「実験区域」
「名目はいくらでもある」
「実態は――」
年嵩の男が、そこで一拍置いた。
「領主権の切り取りだ」
静寂。
外の音が、完全に消えたように感じられる。
「拒否すれば?」
ヴォロが問う。
「密約が出る」
「続ければ?」
「領地が削られる」
どちらも、破滅だ。
ヴォロは、少しだけ視線を上げた。
「……それを、消したい」
「正確には違う」
年嵩の男が言う。
「“最初から存在しなかった”ことにしたい」
側近が、言葉を継ぐ。
「公に破棄できない」
「裏で切れば、証拠が残る」
「だから――」
ヴォロは、続きを言わなかった。
言わなくても、分かる。
「お前たちに、
“成立させない形”で処理させたい」
年嵩の男が、静かに頷いた。
「北に刃を向けるな」
「告発を起こすな」
「英雄になるな」
「だが、
密約だけを、死なせろ」
ヴォロは、しばらく黙っていた。
重い。
これは、今までで一番重い。
「失敗すれば?」
「北が動く」
「領主は終わる」
「お前たちも、無事では済まない」
脅しではない。
事実の列挙だ。
ヴォロは、ゆっくりと言った。
「条件がある」
「聞こう」
「団として受ける」
「代表は固定しない」
「撤退判断は、こちらが行う」
「途中で“追加条件”を出した瞬間、
この話は破棄だ」
側近が、息を呑む。
「破棄とは」
「その時点で、
何も起きなかったことにする」
「それは……」
「怖いか」
ヴォロは、初めて相手を見た。
「怖い仕事だから、
値段が付く」
年嵩の男は、少しだけ笑った。
苦い笑いだ。
「……金額は」
「安くはならない」
「分かっている」
男は、机の上に小さな袋を置いた。
口は開けない。
「初動分だ」
「成功すれば、追加が出る」
「そして――」
側近が、言葉を続ける。
「終わった後、
誰もお前たちを守らない」
ヴォロは、頷いた。
「守られない方がいい」
その一言で、決まった。
年嵩の男は立ち上がる。
「では――正式に依頼する」
「北と先代領主の密約を」
ヴォロが、言葉を引き取った。
「消す」
曇りガラスの向こうで、
光がわずかに揺れた。
その揺れは、
これから起きる嵐の前触れだった。




