3-2 本当にどうしようもないときは、他人に縋るしかない。それは悪いことではない。
横文字の響きに騙されて現実と乖離したイメージを持つ日本人は多い。
たとえば、『ギルド』という言葉だ。
そのたった三文字から連想されるのは、冒険、探検、魔法、モンスターなどではなかろうか。そんないかにもRPGの専門用語だといわんばかりの言葉だが、じつは中世のヨーロッパに実在した言葉である。
しかしならが、そんなファンタジックな言葉が実在した中世ヨーロッパをうらやむことなかれ。それはただ魅了の魔法にかかっているだけだ。
ギルドという言葉を和訳したときにその魔法は一瞬で解けるだろう。
ギルド――和名すなはち、労働組合である。(より正確には同業・同職組合という)
ほら、一気に夢も希望もない現実的な労働の光景が目に浮かぶだろう。現実なんてそんなもんさ。
中世においてギルドとは細分化された職業ごとの集まりのようなものだった。一番大きな区分けでは商人ギルドと職人ギルドに大別される。他にも平和ギルドや宗教ギルドもあるが、最も有名なのがこの両者だ。
では千を超える職種が存在するネクラにはじつに多くのギルドが存在すると予想されるところだが、ネクラにギルドは一種類しかない。
ネクラに存在する唯一のギルドの名は、
――『人間ギルド』である。
人間ギルドと聞いてピンと来る人はまずいないだろう。そもそも人間とは何かという哲学的な命題にも関わってくるし、想定以上に厄介な問いだ。
しかし、ネクラではその困難極まる難題に、清々しいほど単純な回答を見出している。
それが何かといえば、『人間ギルドに登録されている者だけが人間』である。
まるで新手の鶏卵論争のような見事な投げっぷりである。
生物学的な人間の定義やら、思想・哲学・宗教的な人間性の追及など知ったことかと言わんばかりだ。
ひとまずそれらは脇に置いといて、重要なのはこの世界では人間ギルドに登録しているものだけが、人間としての権利を与えられるというシステムになっていることだ。
この世界における人間の特権はかなり大きい。
一つ、死亡した際に二分の一の確率で教会にリポップされる。
一つ、貨幣を使った売買ができるようになる。
一つ、アイテムボックスが使用可能になる。
一つ、職業がもたらす恩恵を受けられる。また職業スキルを覚えるようになる。
一つ、情報支援や職業訓練など各種サポートを受けられる。
一つ、土地や建物や財宝などの所有が認められる。
一つ、奴隷にされない。
一つ、不当な暴力・殺傷、拉致監禁などの犯罪に巻き込まれた際、報復と損害賠償を求めることができる。
などなど、一例を挙げただけでもこれだ。
どれも健康で文化的な最低限度の生活を送るのに必須な権利だろう。
逆に言えば、ギルド登録できなかった俺はこれらの最低限の権利を得られないということだ。
物々交換はできるが貨幣での売買ができない。しかもアイテムボックスが使えないので物の運搬も難しい。
種族スキルは覚えられても職業スキルは覚えられない。土地も家も持てず安住できる場所を持てない上、奴隷にされようが拉致監禁されようが助けてもらえない。
そう、この世界ではたとえ人の姿形をしていても、人間登録されていなければ人と見なされない。殺されようが奴隷にされようが、全て合法ということになる。
なんと恐ろしい世界か。想像しただけでぞっとする。
こんなクソゲーがあってたまるかよ!
そしてそんな恐ろしい世界で人間になれなかった俺には、この先、どのような未来が待っているのだろうか……。
◆
あれからなんとか警備兵を振り切った俺は、とぼとぼと街中をさまよっていた。
おなかが空いたので路地裏のゴミ箱をあさりましたよ。異世界で始めての食事は、他人の食い残した残飯でしたよ。完全に乞食ですよ。ホームレス猫ですよ。願わくば、あの骨付き肉を齧ったのが美人で巨乳なお姉さんでありますように…………。
意気消沈しながら行くあてもなく歩いていると、噴水のある広場にやってきた。
植木の影に隠れて何気なく景色を眺めていると、ふと掲示板が目に入る。掲示板にはニュースやお店の特売情報などの公共の利益になる情報が張られている。
残念ながら今の俺は文字スキルを保持していないので読めない。しかしそんな中ふと目に留まった張り紙を黙読する。
======================
もしも地球から来た人がいたら連絡ください。
毎晩、噴水広場の前で待っています。
山田太郎
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読めた。…………えっ!? 読めるッ!?
思わず飛び上がってしまった。植木に身体をぶつけてしまい、道行く人が音に反応してこちらを向く。
ヤバイと息を潜めてじっとする。やがて《潜伏》のスキルが効果を発揮したのか、だれもこちらを見なくなった。
よし、落ち着け、俺。
見間違いかと何度も確認するが、やはり日本語だった。
ということは、俺の他にもネクラに飛ばされた地球人がいるということだ!
俄然、生きる気力が沸いてきた。
俺は一人じゃなかったんだ! 会いたい。同郷の人に是が非でも会いたい!
噴水広場ってことはここでいいのか?
そうとわかればこのままずっと潜伏していよう。
俺は期待に胸を膨らませて夜を待った。
夜になった。
等間隔に並ぶ街灯の淡い光が道端を照らし、夜でもそれなりの明るさは確保されている。
昼間は人通りの多かった広場も夜にはすっかり静けさをに包まれる。
そんな静寂をやぶるようにコツコツと人の足音が近づいてくる。三つ、いや四つか。猫の聴覚が人には判別できない足音の数を聞き分ける。
一斉に掲示板前に集まった四人のうち一人が話を切り出した。
「な、なあ……、あんたが、山田太郎か?」
声の質からして成人男性と思われる男が不安そうに尋ねると、
「お前、日本人か?」
帰ってきた言葉は、男の欲する回答を十全に満たしていたようだ。
「ああ、そうだよ! その通りだよ! じゃあ、やっぱりお前も!」
「俺も日本人だ!」
うぉおおおお! と二人の男は興奮したように抱き合った。そしてそのまま感極まったように泣きじゃくる。二十歳前後のいい年した男が人目を気に留めず号泣する姿に、不覚にも俺はうるっときた。
その後、脇に控えていた残りの二人も日本からの転生者だと明かす。
みんな俺と同じく数日前にここに来たらしい。
「山田太郎なんて、普通すぎて逆に目立つな」
「ああ、あれ、偽名だから。本名を晒す勇気がなかったんだ。本当はアキラっていうんだ」
「そりゃそうか! ははは」
俺は吸い寄せられるように四人のもとへ進み出た。
郷愁の念が同胞との抱擁を求めている。できれば美女か美少女がよかったが、たとえ野郎の胸板でも今の俺は飛び込める。――が、
「おい、何か近づいてくるぞ。猫? 黒猫?」
「気をつけろ、モンスターかもしれないぞ」
「俺は小さいウサギみたいなヤツに殺されたんだ。油断するなよ」
俺の姿を見るなり警戒する四人。雲行きが怪しい。
「ニャニャにゃ、ニャんにゃにゃ(俺も日本人だ。怪しくないよ)」
必死にボディーランゲージで――、って、この流れ、前にもあったような……。
「人間を見ても逃げない。怪しい。こいつ、敵か?」
「ひょっとして誰かの使い魔で、俺たちの情報を探っているのかもしれないぞ?」
「ありえる」
ああ、言葉が通じないって、こんなにも辛いんだな。
「先手必勝だ。この世界は、ヤるかヤられるかだ!」
「そういえば俺、二日も食べてなかったんだ。猫って食える?」
「どこかの国では犬猫を食べてるらしい。だから大丈夫なはず」
俺は背筋に冷たいものが流れるのを感じて、背後に向かって全力疾走した。
「「「待てぇええええ、肉ぅうううう!」」」
「うにゃぁあああああああああ!」
まさか同郷人に襲われるとは夢にも思っていなかった。
俺は切なさと悔しさを胸に、路地裏に逃げ込んだ。
この、クソゲーがぁあああああああああああああああ!
◆
失意のうちに逃げ切った俺は路地裏で一晩を明かそうと寝床を探す。
この調子だとしばらくはこの暗くて汚くて臭い路地裏が俺の住処になりそうだ。視界の低い猫になったせいで、地面の汚れや空気の淀みをより強く感じる。せめて雨くらいは防げるようにと、壊れたタルや穴の開いた木箱などを探す。
うち捨てられた大きめの木箱を見つけて中に入ろうとすると、先客がいた。
「……猫ちゃん。あなたも一人なの?」
小柄な小学生くらいの女の子だった。煤けた頬、ボサボサの茶色い髪。もとは作りの良さそうな顔立ちをしているが、死んだ魚のように虚ろな瞳が全てを台無しにしていた。
でもこの子は今確かに猫と言った。猫、と。
この世界の住人は俺を猫と呼ばない。俺を猫と呼ぶのは……。
「おいで、猫ちゃん」
俺は何も考えず、少女の手招きに吸い寄せられた。
少女が身にまとう泥だらけのボロきれに顔を埋めて身を震わせる。小さな手で無造作に背中を撫でられたときに、ついにこらえることができなくなり、涙が溢れた。
たとえ猫の姿であっても、大の大人がこんな年端もいかぬ少女の前で恥も外聞も無く泣くなんてありえない。
でも涙が止まらない。えずくように泣き続けた。
何度も殺されたり、言葉が通じなくて誤解されたり、外見のせいで襲われたり、同郷の徒からも仲間はずれにされて、どうして自分がこんな目に、いや自分だけじゃなく、こんな幼い少女までもが空虚な瞳になるほど痛めつけられて…………、様々な感情が一斉に沸きあがって、どうにも制御できない。世界は理不尽すぎる。
自分が思っていた以上に精神的にヤバイ状態だったのかもしれない。
俺の泣き声に触発されてか、少女もまたすすり泣き始めた。二人のかすれる声が路地裏に溶ける。
ごめん。俺、名前も知らない少女を泣かせることしかできない。慰めの言葉ひとつかけられない。無力な自分が情けない。本当にごめん。
でも、ただ人の温もりが優しい。
少女の小さなからだが、こんなにも大きく頼りがいがあるように感じる。細い手足を寒さで震わせている少女なのに。こんなか弱い女の子に、俺は精神的に縋ろうとしているのか? だとしたら俺はどこまで弱い人間なんだよ…………。
それでも、ただ傍にいてくれるだけで安心する。言葉なんていらない。ただ温もりがあるだけで、俺は壊れなくて済むんだ。
今だけは、このままでいさせてくれよ。
この夜、俺はネクラに来て初めて人の温もりを感じながら安眠できた。
ようやく長い下り坂が終わった。あとは登るだけだ。
人生にはそういう時期があるものです。