第一話 異常なし 後半
四
ガブが開けた容器から、にんにくの匂いがした。
細長い葉と茎の炒め物だった。岡林が弁当の蓋を開けている間に、ガブは取り皿代わりの小さな蓋へ半分ほど移した。
「そんなにもらっていいのか」
「食べて。昨日も食べた」
「嫌いなのか?」
「好きだけど、毎日だと別のものも食べたい」
少し歯応えのある茎を噛むと、塩気と油が口に広がった。売店の弁当は、飯の量に比べておかずが少ない。岡林は礼を言って、もう一口もらった。
「買ったの?」
「実家で採れたやつ。今、こればかり育ってる」
向かいに座ったルイーザが、持ち上げかけたフォークを止めた。
「庭があるの?」
「倉庫の中。棚を並べて育ててる」
「見たい」
ガブは端末を出し、写真を探した。
天井の高い部屋に、照明を吊った棚が並んでいた。緑の葉の下には古い容器が置かれ、通路の奥に折り畳み椅子が見える。椅子の背には上着が掛かっていた。
「これ、全部ガブの家?」
岡林が訊く。
「手前の二列。奥は隣の家。母親が場所を替わってくれって、ずっと言ってる」
「どうして」
「向こうの方がよく育つから」
「照明?」
「うちが水の流れを調べたら、隣は照明を替えた。母親は両方替えたいって」
ガブが写真を拡大した。棚の隅に、小さなトマトが実っている。
「こっちはうまくいってるな」
「それ、隣の」
「撮り方が悪い」
「母親にも言われた」
ルイーザが笑った。
ルイーザ・コスタは、今年からこの職場に来た。休憩中はよく喋るが、作業中に急に静かになる。全部分かった顔をするので、リタは説明のあと、本人にも手順を言わせていた。
「私も部屋で何か育てようかな」
「先に照明を置く場所を作れよ。あの部屋、服で埋まってるんだろ」
ガブが言った。
「服は掛けてある。床には置いてない」
「じゃあ床で育てれば」
「服が影になる」
自分で言ってから、ルイーザは少し考え込んだ。
「ガブも世話するの?」
「帰ったら。仕事で配管を直してるって言ってから、水の流れが悪いところは全部俺の担当になった」
「植物のことは?」
「そっちは母親。葉っぱが元気ないって言われて照明を調べたら、取りすぎただけだったこともある」
写真の端に、籠が二つ重なっていた。片方は葉でいっぱいで、もう片方には小さな鋏が載っている。ガブは空いた椅子を指した。
「そこに座って、どれを夕飯にするか相談してる。相談の途中で、もう切ってるけど」
岡林も写真を見直した。棚の端には手書きの札があり、収穫した日か、植えた日らしい数字が並んでいる。自分の寮よりよほど生活する場所に見えた。
「余るなら売ればいいのに」
「近所に配ってる。代わりにパンとか、漬けたやつとか来る。だから帰ると、また持たされる」
「俺には持たせる人がいない」
「じゃあ次も持ってくる」
ガブは残りの炒め物を飯に載せた。
「うちの娘にも、そのくらい食べてほしい」
岡林が言うと、ルイーザが年を訊いた。五歳だと答え、朝届いた動画を見せる。
結衣が片足で跳ぶ。着地してもう一度跳ぶところで、ガブが画面へ顔を寄せた。
「地球だと、すぐ戻ってくるんだな」
「俺も今朝、そう思った」
「私は、跳びすぎて棚に頭をぶつけた」
ルイーザが言った。
「こっちへ来て、最初の週。上の物を取ろうとして」
「届いた?」
「届いた。取れなかった」
ガブが笑い、岡林は動画を閉じた。娘に送るため、もらった野菜の写真を一枚撮っておいた。
「そうだ、午前中の」
ルイーザが岡林を見た。
「ミゲルが言ってた、汗をかくって、管が冷たいときの話?」
「結露なら、そう」
「継ぎ目が濡れてても?」
「そこだけなら漏れも見る。どこから濡れたかで変わる」
「さっき、分かったって言っちゃった」
「午後に訊いてみれば」
「怒られるかな」
「分からないまま作業する方が怒られる」
ガブが口を挟んだ。
「あと、写真。拭く前に撮れって言われる」
ルイーザは端末に何か書き込んだ。
岡林は残った飯を寄せながら、ガブの家の椅子を思い出した。あそこに座って、採れたばかりの野菜を食うのは悪くなさそうだった。
五
午後の圧力記録を確認してから、二人は東側送水路へ入った。
入口で入域を登録し、区画の圧力表示を見る。正常。扉を抜けると、換気の音が一段大きくなった。
壁沿いに太い送水管が続き、その下を細い配管とケーブルが走っている。明るい照明の下でも、曲がり角の先は見えなかった。
岡林は先月補修した継ぎ目で足を止めた。
乾いている。下にも痕はない。ガブが表示値を読み、岡林が記録する。
その先も順番に見ていった。支持金具、接続部、バルブ。二人の靴音が離れ、また近づく。前へ急ぐと歩幅が大きくなるので、岡林は意識して足を置いた。
「今日、実家の部品は交換できるのか」
「届いてなければ、応急処置」
「前と同じところ?」
「写真では。開けたら別かもしれない」
「家でも仕事だな」
「母親は、帰ってこいって言うときには故障の話をしない」
岡林は笑った。真理子の鍋の写真を思い出した。
旧工区への分岐を通り過ぎかけたとき、短い金属音がした。
岡林は立ち止まった。
「今、聞こえた?」
「どれ」
戻って耳を澄ます。換気音の下に、低い唸りがあった。
本管から分かれた枝管が、区画を隔てる扉の向こうへ延びている。岡林は手袋のまま、その手前の管に触れた。
小さな震えが伝わった。少し強まり、すっと消えた。
「これ」
ガブが手を添えたときには、もう収まっていた。
二人で待った。換気の音だけが続いた。
「ポンプの切り替えかな」
ガブが言った。
「本管から伝わったのかもしれない」
岡林は端末で時刻を残し、管の表示板を撮った。携帯の振動計を管に当てたが、さっきの震えは戻ってこなかった。見える範囲に漏れもない。
扉の脇には、旧工区とだけ書いた札が残っていた。
「この先、使ってたっけ」
「最近は通ってない」
ガブは手元の地図を開いた。巡回対象の線は扉の手前までで、その先は省略されている。
岡林はリタへ連絡した。場所と時刻、音と振動が短く出たことを伝える。
『主系統の表示は?』
「正常です。目視の漏れはありません」
『分かった。扉の先には入らず、予定の巡回を終えて。こっちで記録を合わせる』
通話を切り、もう一度管に触れた。
何も変わらなかった。
岡林は端末をしまった。ガブが待っている。
「先、行こう」
二人は次の点検箇所へ向かった。
六
帰所すると、マリアが鞄を机の横へ出していた。
「間に合った。午前の作業票、部品番号が空いてる」
岡林は端末を開いた。
「写真に入ってるけど」
「読める。でも、それだけでは在庫を減らせない」
言われて確認すると、時刻と写真だけがきれいに揃っていた。
マリア・デラクルスは、班の発注や記録を扱っている。来る日と帰る時間が決まっていて、岡林たちが後回しにした書類も、その時間までには追いつかなければならなかった。
「これでいい?」
「数量も」
「一個」
「私に言わずに、そこへ」
隣でガブが笑い、マリアに自分の作業票も指された。
岡林は番号と数量を入れ、午後の巡回記録を開いた。旧工区の箇所を見せる。
「ここの図面、もう少し先まである?」
「リタから聞いてる。今の巡回図には載ってないね」
マリアは机の画面へ古い設備一覧を呼び出した。管の番号から辿ると、今より線の多い図面が出てきた。
枝管は扉の先へ続き、いくつかの区画へ分かれていた。
「給水停止」
岡林が注記を読んだ。
「そうなってる。これが現物と合ってるかは、私には分からない」
図面を送ると、マリアは履歴も添えた。
「戻ってきたら、変更したところを残してね。次の人も同じものを見るから」
「まだ何も分かってないよ」
「だから今の分も。音がした、しなくなった、でいい」
岡林は頷いた。
リタが机へ来た。
アーシャは記録した時刻の運転データを確認するという。追加の計測をするには、まず旧系統の接続を現場で確かめたい。
「明日の朝、こことここを見よう」
リタが図面を指した。
「今日は閉じていいですか」
「目視で見た範囲は書いて。旧分岐は要再確認。まとめて異常なしにはしないで」
岡林は巡回票へ入力した。漏れは認めず。断続的な音と振動あり。時刻、位置、追加確認。
送信すると、翌日の予定に一行増えた。
マリアは画面を閉じ、鞄を肩へ掛けた。
「お先に。明日は使った部品も忘れないで」
「まだ使うか分からないだろ」
ガブが言うと、マリアは笑って出ていった。
二人は工具を戻し、計器を充電台へ挿してから更衣室へ向かった。
途中で岡林が引き返した。充電台へ挿しただけで、計器の表示が点いていなかった気がした。
ガブは文句を言わずについてきた。岡林が計器を挿し直すと、表示が点いた。
「明日の俺に感謝してほしい」
「明日もお前だろ」
「だから、してほしい」
ガブのロッカーは、朝と同じように一度では閉まらなかった。
「それも要再確認にしとくか」
「異常なし。押せば閉まる」
「押す人が帰れない」
ガブは留め具を持ち上げ、今度こそ扉を閉めた。
駅への分かれ道で、ガブは別の通路へ曲がった。実家へ寄るという。
「菜園のやつ、また余ったら頼む」
「持ってくる。隣のトマトも交渉する」
「何と交換するんだ」
「先に聞いてくる」
ガブは手を上げて歩いていった。
岡林は改札を通った。端末には千夏から、日曜に話す時間の返事が来ていた。予定表へ入れ、仕事の欄も開く。
明朝、旧工区分岐の追加点検。
時間が延びたら昼飯をどうするか考え、売店の営業開始を確かめた。




