第一話 異常なし 前半
一
二一〇四年、月面南極。午前六時四十分。
寮の廊下が、夜間用の橙色から白い照明に切り替わった。
岡林は乾燥機に腕を突っ込んでいた。靴下が片方、奥に残っている。引っぱり出したところで、後ろに洗濯籠を抱えた男が立っているのに気づいた。
「すみません」
場所を譲ると、男は端末を見たまま片手を上げた。
部屋に戻り、作業着に着替える。窓のない六畳ほどの部屋に、換気の音が絶えず流れていた。最初の一週間は気になって眠れなかった。今は止まったら目を覚ますと思う。
パンを焼く間に、給与口座を開いた。千夏への送金と寮費が引かれ、貯蓄口座にも決めた額が移っている。残りを見て、昨日の食堂で大盛りにしなくてもよかったな、と思った。
契約満了まで、あと一年を切っていた。
月へ来る便も、契約を終えて地球へ帰る便も会社持ちだ。貯めているのは、帰ったあとの生活費だった。
地球の求人を二つ開き、給与と勤務地だけ見て閉じる。
続いて、千夏から届いていた動画を開いた。
結衣が、居間の床で片足跳びをしていた。二回、三回。四回目で両足をつき、撮影している千夏を見上げる。
『お父さんに、もう一回』
『今のも送るよ』
『できた方だけ』
娘が画面の外へ手を伸ばし、映像が斜めになった。
もう一度再生した。岡林には、結衣の身体が床へ戻るのが妙に早く見えた。二年余り前まで、自分もあの重力の中にいた。
五歳になった娘の膝には、知らない絆創膏が貼ってあった。
『上手になったな。日曜、また見せて』
録音して送ると、千夏からの文章も読み直した。
『直人、今度の休みは何時なら話せる?』
昨夜届いた問いに、ようやく返事を打つ。朝は自分が急ぎ、帰る頃には向こうが忙しい。時間を合わせて繋いでも、結衣の機嫌までは予約できなかった。
『日曜は休みの予定。時間を合わせよう』
送信してから、パンがまだ機械の中にあるのを思い出した。
地下鉄では、いつもの車両の端に座れた。
車窓を、照明と非常口の表示が流れていく。区画を隔てる耐圧扉の手前で列車が減速した。表示灯は緑。向かいの男は、膝の弁当を押さえたまま眠っていた。
端末に叔母からの連絡が入った。
『日曜、夕飯どう? おじさんもいるから』
真理子は続けて鍋の写真を送ってきた。昨夜作ったものらしい。日曜にこれを食べられるわけではなかった。
『行く。何か買ってく?』
『何もいらん。ちゃんと食べてる?』
『食べてる』
口の端のパン屑を拭いながら返した。
叔母に求人を教わり、メリディアン・ルナー・ウォーターに応募した。赴任して最初の休日にも、叔母の家で飯を食った。ウェンハオは皿が空くたびに料理を勧め、寮で眠れているかと訊いた。
月にも知っている家がある。それだけで、来る前の心細さはずいぶん違った。
南極第一抽水所前、という案内が流れた。
降りる人の多くが同じ会社の作業着を着ていた。岡林は改札の先で右へ曲がる。
通路の地表モニターには、黒い空と灰色の尾根が映っていた。低い日が斜面の片側を白く照らし、その下のクレーターは暗い。底に動く採掘車の灯だけが見えた。
原料受け入れ、予定どおり。加熱抽出、運転中。
氷を含む土から水を取り出す工程の表示が、画面の隅に並んでいる。
ここから地表へ上がるには、宇宙服も作業許可も要る。地下の通路には空調の音があり、売店では店員が弁当を並べていた。
岡林は一つ取り、月面製造の缶コーヒーを添えた。来たばかりの頃は、月で作ったのかと写真を撮った。今は賞味期限を見て買う。
二
「日曜、休めそう?」
更衣室でガブが訊いた。
「まだ水曜だぞ」
「金曜に訊くと、機械が先に予定を入れる」
ガブはロッカーを閉めた。留め具が引っかからず、腰で押し直す。
「それ、申請したら」
「まだ閉まる」
「閉まってないだろ」
「押してる間は閉まってる」
ガブリエル・サントス。皆はガブと呼ぶ。月育ちで、岡林より会社に入ったのは後だった。巡回で組むことが多く、工具は頼み終える前に出てくる。自分の持ち物の修理は、なかなか順番が来ない。
リタは打ち合わせ机に作業予定を広げていた。
「四号貯水槽の出口弁。九時二十分に止められる。岡林とガブで外して整備場へ。取り付けと再開確認も二人」
岡林は担当欄に印を入れた。
「午後は東側送水路の定期巡回。出る前に圧力記録を確認して」
「何か出ました?」
「まだ分からない。アーシャ」
机の向こうから端末が回ってきた。
「送水ポンプの稼働時間。先週から、計画より少し長い」
アーシャが二本の線を指す。実績が、ところどころ計画を上回っていた。
「供給先の追加要求は?」
「反映済み。ポンプの効率か、運転条件か、計器か。ほかの原因もある」
「漏れも?」
「候補には入る。いつもと違うものがあれば、場所と時刻を残してきて」
東側の地図を開くと、先月補修した継ぎ目が目に入った。
「そこは昨日も確認した」
リタに言われ、岡林は顔を上げた。
「また漏れたと思った?」
「気にはなります」
「それは分かる。ほかも同じように見て」
岡林は地図を縮小した。自分が触った箇所だけ見て帰ってくるわけにはいかない。
「私は計器も疑ってる」
アーシャが言った。
「機嫌を悪くされても困らないから」
「人間相手でも、だいたい同じだろ」
ガブが言うと、アーシャは端末を引き戻した。
「人間は測定条件を揃えにくい」
リタの端末が鳴った。運転課から、追加補給の連絡だった。
「あっちの再生設備、まだ直ってないのか」
ガブが画面の端を見て言う。
「部品待ち。備蓄が減るから補給を増やす」
街で使った水は、街の中で回収して使い直す。一抽が補うのは、主に循環から失われた分だ。だが回収設備の調子が悪くなると、その不足がこちらの勤務表へ回ってくる。
リタは修理の終了予定を返信した。
「午前の作業を先に終わらせよう。急ぐところと、省いちゃいけないところを間違えないように」
三
出口弁の合わせ目の下には、小さな受けが置かれていた。
縁に水滴が残っている。次の滴が膨らみ、細く伸びて落ちるまで、岡林は少し待った。
運転課から、別の貯水槽で供給を継続できると連絡が来た。この弁を含む区間を止め、隔離と圧抜きを確認する。
外した弁を岡林が持ち、ガブが下から支えた。
「そっち、もう少し」
「手?」
「台車」
「手を増やせって言われたのかと思った」
「増やせるなら頼む」
持ち上げるには軽くても、動かし始めたものを止めるには手間がかかる。二人で合わせて台車へ下ろした。
整備場への途中、ガブが床の段差を指さす。岡林は手前から速度を落とした。
初めてここを通った日、軽さに任せて台車を押しすぎた。止めようとすると自分の靴が滑り、ガブにも取っ手を掴んでもらった。工具は段差で散らばった。
あのときから、手前の柱を目印にしている。
ミゲルは作業台にポンプの部品を並べていた。外した順に紙札がついている。なんでも覚えていそうな人なのに、分解前には写真も撮る。
「戻すときの自分を信用してないんだ」
以前訊いたら、そう答えた。岡林も、それから写真を多めに撮る。
「交換か?」
運んできた弁を見て、ミゲルが訊いた。
「開けて、シールを見ます」
「よし」
新品をつけます、と言ったら、まず開けろと返されたはずだった。
向こうの台では、ジャマルが交換用配管を準備していた。
「その台車、昨日よりきれいだな」
「昨日、俺が拭いた」
ガブが答える。
「じゃあ明日は俺のも頼む」
「申請書を出して」
「昼飯で払う」
「検討する」
岡林は靴先を台の下の足留めへ入れた。固定具を締めるとき、足を掛け忘れると自分の身体が先に動く。地球の六分の一の重さで踏ん張るには、こういう物が要った。
ガブが工具を並べる。ジャマルも接合面の確認に戻り、整備場の声が一つ減った。
弁本体を開くと、合わせ目のシールに傷があった。岡林が写真を撮り、ガブが交換品の番号を読む。照合を終える頃には、二人の会話も止んでいた。
傷の周りを確かめ、清掃し、新しいシールを入れる。
ミゲルが覗きに来た。
「古い方、捨てる前に見せてくれ」
「記録が終わったら持っていきます」
それだけ聞いて、自分の台へ戻っていった。
元の位置へ運び、取り付ける。締結部を確認し、ガブと互いの確認箇所を読み合わせた。
準備完了を伝えると、運転課がゆっくり圧を戻した。
配管に触れた手袋へ、小さな震えが伝わる。合わせ目を見る。ガブは反対側へ回った。
水滴は出なかった。
「こっちはいい」
「こっちも」
指示を受けて開閉を試し、流量の復帰を確認する。岡林は作業票に時刻を入れ、写真を添えた。
受け皿を拭き、もう一度待った。乾いたままだった。
午前の仕事が、一つ終わった。
整備場へ戻って古いシールを渡すと、ミゲルは傷の位置を確かめ始めた。
昼休みまで十五分。岡林は台車を片づけた。
ガブは端末を見ていた。画面には見慣れない水回収装置が写っている。接続部を大きく撮った写真だった。
「次の仕事?」
「実家。昨日直したところが、また駄目らしい」
「部品は?」
「頼んでる。まだ来ない」
ガブは返事を打った。打ち終えてからも、しばらく画面を見ていた。
「帰りに寄るのか」
「たぶん。とりあえず、飯行こう。今日、持ってきたのがある」
端末をしまうと、ガブはいつもの調子で言った。
岡林は手を洗いに行った。指の付け根の汚れを擦りながら、千夏に日曜の返事をしたか思い返す。送信済みを確かめ、端末を閉じた。
午後の巡回票は、まだ空欄だった。




