第八章「静寂ノ記憶域と、深夜の削除作業」
統合評価試験から三日後。
俺の等級再審査は、正式に「保留」になった。
「保留ってなんですか」と教官に聞いたら「前例がないので上層部で判断中です」と言われた。
「前例がないなら対象外でいいのでは」
「それも含めて検討中です」
「……分かりました」
保留は保留だ。スクラップ・ヤードを追い出されるわけではない。
今日もいつも通り、午前の授業をやり過ごして、昼の購買で炉麦包を確保した。
席に戻るとソルが「クロハが来る前にルシアさんが来てたよ」と言った。
「何か用だったか」
「『アイリスちゃんの様子がおかしい』って」
俺は炉麦包の袋を開けかけた手を止めた。
「どう、おかしいんですか」
「詳しくは分からないけど……昨日の夜から部屋に籠もってるみたいで、今朝の授業も来なかった、って」
アイリス・ラピスが授業を休んだ。
彼女は一等の中でも特に律儀に授業に出る。欠席の記録がない、と本人が言っていた。
「……部屋はどこですか」
「北棟の一等専用寮の三階らしい」
「分かった」
俺は炉麦包を袋ごとポケットに押し込んで立った。
◆
北棟の一等専用寮は、スクラップ・ヤードの五等には本来立入禁止だ。
廊下の入り口に「同調管理・静寂室」と読める小さな札がかかっていた。
「クロハさん、来てくれたんですか」
廊下でルシアが待っていた。いつものギャルっぽい雰囲気が少し抑えられていて、目が少し赤かった。
「昨日から様子がおかしくて。ドアを叩いても返事はするんだけど、出てこなくて」
「ノイズですか」
「多分。でも昨日まで普通だったのに急に」
「試験で大量に能力を使いましたか」
「……試験、アイリスちゃんもそれぞれ個人で出てたから。しかも一等の試験は難易度が違って、青の侵食系の能力はフル稼働だったって」
「ログ、ありますか」
「……昨日、事務局から個人試験の記録映像を閲覧許可が下りた。今、端末に入ってる」
ルシアが画面を俺の方に向けた。
映像は北棟の演習室。一等専用の広い空間。中央に七体の「模擬標的」——魔力で形作られた人型の靶が並んでいる。
アイリスが細剣を構えていた。いつもより足が速い。
「侵蝕、展開——」
第一体。細剣が標的の胸に触れた瞬間、青白い波紋が走る。標的の内部ログが読み取られ、消える。二体目、三体目。同じ動作の反復。教官の声が映像の外から聞こえる。
「ラピス、速度は十分。次、同時侵蝕。四体以上、一度に」
アイリスが息を整えた。
四体。五体。六体。
細剣が弧を描くたび、青の魔力が標的の内部を走査し、記憶の断片——模擬データ——を吸い上げる。アイリスの足元に魔法陣が広がり、水面のような紋様が六重に重なる。
「……六体同時、合格ラインです」
教官の声。
「最終確認。ラピス、一句。今の判断は神意か、自分か」
映像の中のアイリスが一呼吸置いた。
「……自分、です」
「了解。第七体へ」
第七体。最後の標的は、他の六体より濃い青だった。設計上、侵食耐性が高い。
アイリスが踏み込んだ。
「拡散、侵蝕——スペース・アシミレート」
空間同化。七体の標的を同時に包む青の湿り。模擬標的それぞれの内部ログが読み取られ、出力が一斉に減退した。標的は消えた。消えたはずだった。
しかし映像の中のアイリスが、一瞬、剣を離せなかった。吸い込まれる側ではなく、吸い込む側のはずなのに、青い光が彼女の腕から逆流した。
「ラピス? 離せ——」
教官の声が遅れた。
アイリスが後退した。細剣を引き抜く。手首が震えている。七体分の模擬記憶ログが、一度に器官へ流れ込んだ。
「頭が……」
映像の中のアイリスが膝をついた。
「……うるさい。誰の声、これ——」
「試験、中断。ラピス、回復室へ——」
映像が切れた。
ルシアが端末を閉じた。
「……これが、昨日の個人試験です。アイリスちゃん、回復室で三時間寝て、表面上は平気になった。でもログ上、ノイズの閾値は昨日の夜、再び上がってました」
「なるほど」
侵食系の能力は、使うほどコードと同調が深まる。青のベースは水の操作だが、その上位概念として「侵食」――他の存在の内部に水のように浸透し、記憶や感情に触れ、相手の中に溶け込むように同化していく――がある。これを多用するとシステムからのフィードバックが強まる。
じいちゃんが言っていた。「青の奴らは使えば使うほど、頭の中に他人の記憶が流れ込んでくるようになる。どこまでが自分でどこからが他人か、だんだん分からなくなっていく」と。
「入る」
「えっ、ちょっと、ここ一等寮だよ?」
「緊急です」
ドアをノックした。
「アイリスさん」
返事がない。
「クロハだ。入ってもいいか」
しばらく間があって。
「……入らないでください」
声がした。いつもの静かな声だが、何かが違った。かすかに、ほつれている。
「少しだけ。一分で終わる」
「……一分、ですか」
「ああ」
また間があった。
「……開いています」
ドアを開けた。
部屋の中は薄暗かった。カーテンが閉められていて、昼間なのにほとんど光が入っていない。
アイリスはベッドの端に座っていた。膝を抱えて、壁に背中を預けている。左腕の細い腕輪——隔離腕輪、学園配布の同調補助具——が淡く明滅していた。普段は目立たないが、閾値を超えるとこうなる。黒髪が乱れていて、いつもの整った姿勢がない。
青い瞳が、こちらを見た。
その瞳の色が、少し、おかしかった。
通常の青より、ずっと深い。ほとんど黒に近い、濃い青。ノイズが深まっている時にコードが目に顕れる現象だ。
「……来てしまったんですか」
「来た」
「迷惑だ」
「分かっています」
俺は部屋に入ってドアを閉めた。ルシアが外で「ちょ、クロハさん!?」と言う声がかすかに聞こえた。
アイリスが壁に背を預けたまま、俺を見ていた。
「頭の中が、うるさいです」
「いつからだ」
「昨日の夜から。急に、大きくなりました。試験で使いすぎたせいだと思います」
「どんな声だ」
「声ではありません。記憶です」
「記憶?」
「他人の記憶が、流れ込んでくる。私の能力は侵食なので、使った相手の記憶のログが、蓄積します。普段は小さいんですが、昨日から閾値を超えたみたいで」
アイリスの青い目が、少しだけ揺らいだ。
「他人の記憶が、あまりにもたくさんあって……どれが自分のものか、少し分からなくなってきました」
俺は少し考えた。
エリスたちのは、じいちゃんが言っていた「命令の声」——アルバの言葉を借りればノイズ——が溜まったものだ。
アイリスのは違う。能力で取り込んだ記憶のログが、器官のなかに堆積している。うるささの正体が似ていても、消し方は別だ。
「俺が触ると、多少楽になるかもしれません。試してもいいですか」
「……あなたの断界は、私の頭の中の声を消しますか」
「消すというより、薄めます。根本的な解決は、アイリスさん自身が器官の整理をするしかない。でも今の状態を少し楽にすることはできます」
アイリスが黙った。
「……嫌ではないです」
「では少し頭に触れる」
アイリスの隣に座った。
ベッドの端。アイリスが少し身を固くした。
「こわくないのか」
「……こわいとは違います。あなたに触れると、静かになることは、知っています。ただ」
「ただ?」
「私の中にある記憶のログは……あなたに見えますか」
「見えません。感触があるだけです。内容は分かりません」
「……そうですか」
少し、アイリスの肩から力が抜けた。
俺は指先を彼女の側頭部にそっと当てた。
断界を薄く流す。
蓄積した記憶ログは、膨大だった。
エリスのときの比ではない。器官の中が、無数の他人の記憶で溢れかえっていた。それぞれが薄く、しかしたしかに声を持っていて、アイリス自身の思考に混じり込もうとしている。
俺の「断界」が触れると、それらが少しずつ静まった。
命令ではないので消去できない。あくまで「音量を下げる」感じだ。
しかし、それだけでも充分だった。
「……あ」
アイリスが小さく息を吐いた。
「静かに、なりました」
「少しの間だけだ。また溜まる」
「分かっています。でも」
アイリスが目を閉じた。
長い睫毛が、かすかに震えていた。
「少しの間でも、静かだと……自分が自分に戻ってくる感じがします」
俺は指を離そうとした。
「……もう少し」
アイリスが言った。
小さな声だった。いつもの静かな声より、ずっと小さかった。
「もう少しだけ、いてください」
俺は指を離さなかった。
外から、ルシアの「ちょっと何してんの二人とも!?」という声が聞こえた気がしたが、俺は聞こえないふりをした。
◆
一時間後。
アイリスは久しぶりに眠れたらしく、少し顔色が戻っていた。
「ありがとう」
「いや」
「……迷惑をかけました」
「言いましたが、来たのは俺の判断です」
アイリスが俺を見た。
その目の色が、少しだけ、いつもの青に戻っていた。
「クロハさんは、なぜ私のことを心配したんですか」
「ルシアが来たので」
「それだけか」
「……あなたが欠席すると、クラスが静かすぎて不自然だから、というのもあります」
「私は基本的に静かですが」
「静かさの種類が違う。アイリスがいる時の静かさと、いない時の静かさは違う」
アイリスが少し目を細めた。
「……それは、今まで誰にも言われたことがありません」
「そうか」
「私の存在に、意味があるということですか」
「ある」
俺は即答した。
アイリスが少し間を置いて、前を向いた。
「……私の能力は、侵食です。あなたの能力は拒絶です」
「そうだな」
「相反しています」
「そうだな」
「でも、あなたのそばにいると、私のノイズが静かになります」
「そうみたいです」
「……矛盾していますね」
「矛盾している」
アイリスが少し、目を細めた。
「あなたは、不思議な人です」
「よく言われる」
「良い意味と悪い意味と、どちらで言われますか」
「五分五分だ」
「私は良い意味で言っています」
「ありがとう」
アイリスがゆっくり立ち上がった。
「授業に出ます」
「今日は午後しか残っていない」
「午後だけでも」
「……律儀だな」
「欠席記録を増やしたくないので」
俺も立ち上がった。
ドアを開けると、廊下でルシアが腕を組んで立っていた。
「一時間て!!! 何してたの二人とも!」
「ノイズデータの整理です」
「それだけ!? それだけに一時間!?」
「少し眠りました」とアイリスが言った。
「睡眠補助てこと!? クロハさんが!?」
「静かにしてくれたので」
ルシアが俺を見た。
「……まあ、アイリスちゃんが元気になったならいいんだけど」
「元気というわけではありませんが、自分が自分の状態に戻りました」
「それが大事だよ!」
ルシアがアイリスに駆け寄って、腕を掴んだ。
「心配したんだからね、本当に。次は早めに言ってよ」
「……善処します」
「善処じゃなくて必ず言って!」
「……はい」
アイリスが珍しく、少し困ったような顔をした。
それを見て、ルシアが笑った。
俺は廊下を先に歩き始めた。
「クロハさん」
ルシアが後ろから言った。
「なんだ」
「来てくれてありがとね。ボク、一人だと判断できなくて」
「ルシアが呼んだから来ただけだ」
「それでいいんだよ」ルシアが笑った。「ちゃんと来てくれたんだから」
俺は何も言えなかった。
後ろで、アイリスが小声で「ありがとう」ともう一度言った。
廊下の窓から、午後の光が差し込んでいた。
◆
その夜。
寮に戻った後、俺は中庭のベンチに座っていた。
昼寝の時間は完全に失われた。ため息をついた。
「クロハさん」
アルバだった。今日は珍しく、菓子の袋を持っていた。
「これを持ってきました。あの日の炉麦包の代わりです」
「菓子ですか」
「学園の購買で買いました。初めて購買に行きました」
「……特等が購買に」
「生まれて初めて自分で菓子を買いました」
アルバが少し、表情のない顔のままベンチに座った。
「感想は?」
「列に並ぶ必要があると知りませんでした。十分かかりました」
「普通に体験しましたね」
「はい。並んでいる間、隣の学生が私を見て硬直しました。申し訳なかったです」
「……それは仕方ないです」
アルバが菓子の袋を渡してきた。クッキーらしきものが入っていた。
「今日、アイリスさんのところに行ったと聞きました」
「ルシアから?」
「ルシアさんが学園のログに記録していました。北棟一等寮への五等学生の立入りは本来記録事項です」
「……そうでしたか」
「記録は私が見ているので、問題にはなりません」
「それは助かる」
俺はクッキーを一枚取って食べた。普通に美味しかった。
「アイリスさんは、良くなりましたか」
「少し」
「青のノイズは、蓄積が問題になります。私のデータベースには、アズリドの一族がコードのノイズで廃人化した記録が複数あります」
「……そうですか」
「防ぐには、定期的に蓄積を排出するか、器官の許容量を超えないように制御するかです。前者はあなたにしかできない。後者はアイリスさん自身の訓練が必要です。アズリドの静寂修行に、学園の隔離腕輪と記録室の薄化——普段はそれで足りているはずです。今回は個人試験が限界を超えました」
「俺が定期的に来ればいいだけですか」
「そうなるけど」
「面倒ですね」
「そうなるけど」
「……まあ、一等が廃人になるのは困るので」
「そうだな」アルバが少し間を置いた。「あなたはいつも、そういう理由をつけます」
「何が?」
「本当の理由を言わない」
「本当の理由?」
アルバが俺を見た。
「心配していたのではないですか。アイリスさんのことを」
俺はクッキーをもう一枚取った。
「……まあ、少し」
「それが本当の理由じゃないか」
「合理的な理由もあるよ」
「両方あっていいと思う」アルバが言った。「感情と理性は矛盾しない」
俺は少し黙った。
アルバが前を向いた。
夜の中庭に風が吹いた。白銀の髪が揺れた。
「私は今日、感情のログが昨日より多く残っています」
「それは良かった」
「購買に並んでいた時、隣の学生が私に気づいて固まっているのを見て……少し、おかしいと思いました」
「おかしい?」
「笑いそうになりました。こらえましたが」
「こらえなくてよかった」
「慣れていない」
「慣れれば良い」
アルバが少し、目を細めた。
「……クロハさんのそばにいると、感情の扱い方が分からなくなります」
「悪い意味ですか」
「良い意味です」
「それは良かった」
二人でクッキーを食べた。
夜風が静かで、遠くで誰かが笑う声がして、それから静かになった。
「一つ、聞いてもいいですか」とアルバが言った。
「どうぞ」
「クロハさんの一族のことです。消えた黒の一族について、私がログを調べれば調べるほど、空白が広がります」
「そうか」
「でも今日、一か所だけ、空白の隣に一行だけ文字列が残っていました」
「なんと書いてありましたか」
アルバが少し間を置いた。
「『彼らは消すために生まれたのではない。守るために存在した』」
俺は、その言葉を聞いて、少しだけ黙った。
クッキーを持ったまま、夜空を見た。
「……じいちゃんが言っていたことと、少し違いますね」
「どう違いますか」
「じいちゃんは、俺たちは消されたと言っていた。だから隠れろと。でも」
「でも?」
「消されたんじゃなくて、都合が悪くなったから消したんですね」
「……その可能性が高いと私も思います」
「守るために存在した。何を守っていたのか、は書いてありましたか」
「なかった」アルバが少し間を置いた。「ただ、別の行に一言だけ。『均衡を保て』と」
「均衡」
「それ以上の文脈はありませんでした」
「……分かった」
俺はクッキーを食べた。均衡という言葉が、頭の隅に引っかかったまま残った。
風が吹いた。
俺は残りのクッキーを全部口に入れた。
「……調べますか」とアルバが聞いた。
俺は少し考えた。
面倒くさい。
でも、このまま知らないでいると、たぶん後で後悔する。
「……手伝ってもらえるか」
アルバが、少し間を置いた。
「はい」とアルバは言った。
「それを待っていました」
夜の中庭に、二人分の沈黙が落ちた。
それは、いつもより少しだけ、温かい沈黙だった。




