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漆黒の綴改 ―彩られた世界の余白で、俺は今日も昼寝をする― 平穏を愛する最強のエラー、なぜか各属性のトップ女子に囲まれて安眠できません  作者: yura


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第八章「静寂ノ記憶域と、深夜の削除作業」

統合評価試験から三日後。


俺の等級再審査は、正式に「保留」になった。


「保留ってなんですか」と教官に聞いたら「前例がないので上層部で判断中です」と言われた。


「前例がないなら対象外でいいのでは」


「それも含めて検討中です」


「……分かりました」


保留は保留だ。スクラップ・ヤードを追い出されるわけではない。


今日もいつも通り、午前の授業をやり過ごして、昼の購買で炉麦包を確保した。


席に戻るとソルが「クロハが来る前にルシアさんが来てたよ」と言った。


「何か用だったか」


「『アイリスちゃんの様子がおかしい』って」


俺は炉麦包の袋を開けかけた手を止めた。


「どう、おかしいんですか」


「詳しくは分からないけど……昨日の夜から部屋に籠もってるみたいで、今朝の授業も来なかった、って」


アイリス・ラピスが授業を休んだ。


彼女は一等の中でも特に律儀に授業に出る。欠席の記録がない、と本人が言っていた。


「……部屋はどこですか」


「北棟の一等専用寮の三階らしい」


「分かった」


俺は炉麦包を袋ごとポケットに押し込んで立った。



北棟の一等専用寮は、スクラップ・ヤードの五等には本来立入禁止だ。


廊下の入り口に「同調管理・静寂室」と読める小さな札がかかっていた。


「クロハさん、来てくれたんですか」


廊下でルシアが待っていた。いつものギャルっぽい雰囲気が少し抑えられていて、目が少し赤かった。


「昨日から様子がおかしくて。ドアを叩いても返事はするんだけど、出てこなくて」


「ノイズですか」


「多分。でも昨日まで普通だったのに急に」


「試験で大量に能力を使いましたか」


「……試験、アイリスちゃんもそれぞれ個人で出てたから。しかも一等の試験は難易度が違って、青の侵食系の能力はフル稼働だったって」


「ログ、ありますか」


「……昨日、事務局から個人試験の記録映像を閲覧許可が下りた。今、端末に入ってる」


ルシアが画面を俺の方に向けた。


映像は北棟の演習室。一等専用の広い空間。中央に七体の「模擬標的」——魔力で形作られた人型の靶が並んでいる。


アイリスが細剣を構えていた。いつもより足が速い。


「侵蝕、展開——」


第一体。細剣が標的の胸に触れた瞬間、青白い波紋が走る。標的の内部ログが読み取られ、消える。二体目、三体目。同じ動作の反復。教官の声が映像の外から聞こえる。


「ラピス、速度は十分。次、同時侵蝕。四体以上、一度に」


アイリスが息を整えた。


四体。五体。六体。


細剣が弧を描くたび、青の魔力が標的の内部を走査し、記憶の断片——模擬データ——を吸い上げる。アイリスの足元に魔法陣が広がり、水面のような紋様が六重に重なる。


「……六体同時、合格ラインです」


教官の声。


「最終確認。ラピス、一句。今の判断は神意か、自分か」


映像の中のアイリスが一呼吸置いた。


「……自分、です」


「了解。第七体へ」


第七体。最後の標的は、他の六体より濃い青だった。設計上、侵食耐性が高い。


アイリスが踏み込んだ。


「拡散、侵蝕——スペース・アシミレート」


空間同化。七体の標的を同時に包む青の湿り。模擬標的それぞれの内部ログが読み取られ、出力が一斉に減退した。標的は消えた。消えたはずだった。


しかし映像の中のアイリスが、一瞬、剣を離せなかった。吸い込まれる側ではなく、吸い込む側のはずなのに、青い光が彼女の腕から逆流した。


「ラピス? 離せ——」


教官の声が遅れた。


アイリスが後退した。細剣を引き抜く。手首が震えている。七体分の模擬記憶ログが、一度に器官へ流れ込んだ。


「頭が……」


映像の中のアイリスが膝をついた。


「……うるさい。誰の声、これ——」


「試験、中断。ラピス、回復室へ——」


映像が切れた。


ルシアが端末を閉じた。


「……これが、昨日の個人試験です。アイリスちゃん、回復室で三時間寝て、表面上は平気になった。でもログ上、ノイズの閾値は昨日の夜、再び上がってました」


「なるほど」


侵食系の能力は、使うほどコードと同調が深まる。青のベースは水の操作だが、その上位概念として「侵食」――他の存在の内部に水のように浸透し、記憶や感情に触れ、相手の中に溶け込むように同化していく――がある。これを多用するとシステムからのフィードバックが強まる。


じいちゃんが言っていた。「青の奴らは使えば使うほど、頭の中に他人の記憶が流れ込んでくるようになる。どこまでが自分でどこからが他人か、だんだん分からなくなっていく」と。


「入る」


「えっ、ちょっと、ここ一等寮だよ?」


「緊急です」


ドアをノックした。


「アイリスさん」


返事がない。


「クロハだ。入ってもいいか」


しばらく間があって。


「……入らないでください」


声がした。いつもの静かな声だが、何かが違った。かすかに、ほつれている。


「少しだけ。一分で終わる」


「……一分、ですか」


「ああ」


また間があった。


「……開いています」


ドアを開けた。


部屋の中は薄暗かった。カーテンが閉められていて、昼間なのにほとんど光が入っていない。


アイリスはベッドの端に座っていた。膝を抱えて、壁に背中を預けている。左腕の細い腕輪——隔離腕輪、学園配布の同調補助具——が淡く明滅していた。普段は目立たないが、閾値を超えるとこうなる。黒髪が乱れていて、いつもの整った姿勢がない。


青い瞳が、こちらを見た。


その瞳の色が、少し、おかしかった。


通常の青より、ずっと深い。ほとんど黒に近い、濃い青。ノイズが深まっている時にコードが目に顕れる現象だ。


「……来てしまったんですか」


「来た」


「迷惑だ」


「分かっています」


俺は部屋に入ってドアを閉めた。ルシアが外で「ちょ、クロハさん!?」と言う声がかすかに聞こえた。


アイリスが壁に背を預けたまま、俺を見ていた。


「頭の中が、うるさいです」


「いつからだ」


「昨日の夜から。急に、大きくなりました。試験で使いすぎたせいだと思います」


「どんな声だ」


「声ではありません。記憶です」


「記憶?」


「他人の記憶が、流れ込んでくる。私の能力は侵食なので、使った相手の記憶のログが、蓄積します。普段は小さいんですが、昨日から閾値を超えたみたいで」


アイリスの青い目が、少しだけ揺らいだ。


「他人の記憶が、あまりにもたくさんあって……どれが自分のものか、少し分からなくなってきました」


俺は少し考えた。


エリスたちのは、じいちゃんが言っていた「命令の声」——アルバの言葉を借りればノイズ——が溜まったものだ。


アイリスのは違う。能力で取り込んだ記憶のログが、器官のなかに堆積している。うるささの正体が似ていても、消し方は別だ。


「俺が触ると、多少楽になるかもしれません。試してもいいですか」


「……あなたの断界は、私の頭の中の声を消しますか」


「消すというより、薄めます。根本的な解決は、アイリスさん自身が器官の整理をするしかない。でも今の状態を少し楽にすることはできます」


アイリスが黙った。


「……嫌ではないです」


「では少し頭に触れる」


アイリスの隣に座った。


ベッドの端。アイリスが少し身を固くした。


「こわくないのか」


「……こわいとは違います。あなたに触れると、静かになることは、知っています。ただ」


「ただ?」


「私の中にある記憶のログは……あなたに見えますか」


「見えません。感触があるだけです。内容は分かりません」


「……そうですか」


少し、アイリスの肩から力が抜けた。


俺は指先を彼女の側頭部にそっと当てた。


断界を薄く流す。


蓄積した記憶ログは、膨大だった。


エリスのときの比ではない。器官の中が、無数の他人の記憶で溢れかえっていた。それぞれが薄く、しかしたしかに声を持っていて、アイリス自身の思考に混じり込もうとしている。


俺の「断界」が触れると、それらが少しずつ静まった。


命令ではないので消去できない。あくまで「音量を下げる」感じだ。


しかし、それだけでも充分だった。


「……あ」


アイリスが小さく息を吐いた。


「静かに、なりました」


「少しの間だけだ。また溜まる」


「分かっています。でも」


アイリスが目を閉じた。


長い睫毛が、かすかに震えていた。


「少しの間でも、静かだと……自分が自分に戻ってくる感じがします」


俺は指を離そうとした。


「……もう少し」


アイリスが言った。


小さな声だった。いつもの静かな声より、ずっと小さかった。


「もう少しだけ、いてください」


俺は指を離さなかった。


外から、ルシアの「ちょっと何してんの二人とも!?」という声が聞こえた気がしたが、俺は聞こえないふりをした。



一時間後。


アイリスは久しぶりに眠れたらしく、少し顔色が戻っていた。


「ありがとう」


「いや」


「……迷惑をかけました」


「言いましたが、来たのは俺の判断です」


アイリスが俺を見た。


その目の色が、少しだけ、いつもの青に戻っていた。


「クロハさんは、なぜ私のことを心配したんですか」


「ルシアが来たので」


「それだけか」


「……あなたが欠席すると、クラスが静かすぎて不自然だから、というのもあります」


「私は基本的に静かですが」


「静かさの種類が違う。アイリスがいる時の静かさと、いない時の静かさは違う」


アイリスが少し目を細めた。


「……それは、今まで誰にも言われたことがありません」


「そうか」


「私の存在に、意味があるということですか」


「ある」


俺は即答した。


アイリスが少し間を置いて、前を向いた。


「……私の能力は、侵食です。あなたの能力は拒絶です」


「そうだな」


「相反しています」


「そうだな」


「でも、あなたのそばにいると、私のノイズが静かになります」


「そうみたいです」


「……矛盾していますね」


「矛盾している」


アイリスが少し、目を細めた。


「あなたは、不思議な人です」


「よく言われる」


「良い意味と悪い意味と、どちらで言われますか」


「五分五分だ」


「私は良い意味で言っています」


「ありがとう」


アイリスがゆっくり立ち上がった。


「授業に出ます」


「今日は午後しか残っていない」


「午後だけでも」


「……律儀だな」


「欠席記録を増やしたくないので」


俺も立ち上がった。


ドアを開けると、廊下でルシアが腕を組んで立っていた。


「一時間て!!! 何してたの二人とも!」


「ノイズデータの整理です」


「それだけ!? それだけに一時間!?」


「少し眠りました」とアイリスが言った。


「睡眠補助てこと!? クロハさんが!?」


「静かにしてくれたので」


ルシアが俺を見た。


「……まあ、アイリスちゃんが元気になったならいいんだけど」


「元気というわけではありませんが、自分が自分の状態に戻りました」


「それが大事だよ!」


ルシアがアイリスに駆け寄って、腕を掴んだ。


「心配したんだからね、本当に。次は早めに言ってよ」


「……善処します」


「善処じゃなくて必ず言って!」


「……はい」


アイリスが珍しく、少し困ったような顔をした。


それを見て、ルシアが笑った。


俺は廊下を先に歩き始めた。


「クロハさん」


ルシアが後ろから言った。


「なんだ」


「来てくれてありがとね。ボク、一人だと判断できなくて」


「ルシアが呼んだから来ただけだ」


「それでいいんだよ」ルシアが笑った。「ちゃんと来てくれたんだから」


俺は何も言えなかった。


後ろで、アイリスが小声で「ありがとう」ともう一度言った。


廊下の窓から、午後の光が差し込んでいた。



その夜。


寮に戻った後、俺は中庭のベンチに座っていた。


昼寝の時間は完全に失われた。ため息をついた。


「クロハさん」


アルバだった。今日は珍しく、菓子の袋を持っていた。


「これを持ってきました。あの日の炉麦包の代わりです」


「菓子ですか」


「学園の購買で買いました。初めて購買に行きました」


「……特等が購買に」


「生まれて初めて自分で菓子を買いました」


アルバが少し、表情のない顔のままベンチに座った。


「感想は?」


「列に並ぶ必要があると知りませんでした。十分かかりました」


「普通に体験しましたね」


「はい。並んでいる間、隣の学生が私を見て硬直しました。申し訳なかったです」


「……それは仕方ないです」


アルバが菓子の袋を渡してきた。クッキーらしきものが入っていた。


「今日、アイリスさんのところに行ったと聞きました」


「ルシアから?」


「ルシアさんが学園のログに記録していました。北棟一等寮への五等学生の立入りは本来記録事項です」


「……そうでしたか」


「記録は私が見ているので、問題にはなりません」


「それは助かる」


俺はクッキーを一枚取って食べた。普通に美味しかった。


「アイリスさんは、良くなりましたか」


「少し」


「青のノイズは、蓄積が問題になります。私のデータベースには、アズリドの一族がコードのノイズで廃人化した記録が複数あります」


「……そうですか」


「防ぐには、定期的に蓄積を排出するか、器官の許容量を超えないように制御するかです。前者はあなたにしかできない。後者はアイリスさん自身の訓練が必要です。アズリドの静寂修行に、学園の隔離腕輪と記録室の薄化——普段はそれで足りているはずです。今回は個人試験が限界を超えました」


「俺が定期的に来ればいいだけですか」


「そうなるけど」


「面倒ですね」


「そうなるけど」


「……まあ、一等が廃人になるのは困るので」


「そうだな」アルバが少し間を置いた。「あなたはいつも、そういう理由をつけます」


「何が?」


「本当の理由を言わない」


「本当の理由?」


アルバが俺を見た。


「心配していたのではないですか。アイリスさんのことを」


俺はクッキーをもう一枚取った。


「……まあ、少し」


「それが本当の理由じゃないか」


「合理的な理由もあるよ」


「両方あっていいと思う」アルバが言った。「感情と理性は矛盾しない」


俺は少し黙った。


アルバが前を向いた。


夜の中庭に風が吹いた。白銀の髪が揺れた。


「私は今日、感情のログが昨日より多く残っています」


「それは良かった」


「購買に並んでいた時、隣の学生が私に気づいて固まっているのを見て……少し、おかしいと思いました」


「おかしい?」


「笑いそうになりました。こらえましたが」


「こらえなくてよかった」


「慣れていない」


「慣れれば良い」


アルバが少し、目を細めた。


「……クロハさんのそばにいると、感情の扱い方が分からなくなります」


「悪い意味ですか」


「良い意味です」


「それは良かった」


二人でクッキーを食べた。


夜風が静かで、遠くで誰かが笑う声がして、それから静かになった。


「一つ、聞いてもいいですか」とアルバが言った。


「どうぞ」


「クロハさんの一族のことです。消えた黒の一族について、私がログを調べれば調べるほど、空白が広がります」


「そうか」


「でも今日、一か所だけ、空白の隣に一行だけ文字列が残っていました」


「なんと書いてありましたか」


アルバが少し間を置いた。


「『彼らは消すために生まれたのではない。守るために存在した』」


俺は、その言葉を聞いて、少しだけ黙った。


クッキーを持ったまま、夜空を見た。


「……じいちゃんが言っていたことと、少し違いますね」


「どう違いますか」


「じいちゃんは、俺たちは消されたと言っていた。だから隠れろと。でも」


「でも?」


「消されたんじゃなくて、都合が悪くなったから消したんですね」


「……その可能性が高いと私も思います」


「守るために存在した。何を守っていたのか、は書いてありましたか」


「なかった」アルバが少し間を置いた。「ただ、別の行に一言だけ。『均衡を保て』と」


「均衡」


「それ以上の文脈はありませんでした」


「……分かった」


俺はクッキーを食べた。均衡という言葉が、頭の隅に引っかかったまま残った。


風が吹いた。


俺は残りのクッキーを全部口に入れた。


「……調べますか」とアルバが聞いた。


俺は少し考えた。


面倒くさい。


でも、このまま知らないでいると、たぶん後で後悔する。


「……手伝ってもらえるか」


アルバが、少し間を置いた。


「はい」とアルバは言った。


「それを待っていました」


夜の中庭に、二人分の沈黙が落ちた。


それは、いつもより少しだけ、温かい沈黙だった。

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