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ぼく その5


 光に溢れた塔のなかには、いろいろな人間がたむろして、いろいろな人間が歩いていた。スーツをきた男やくずれかけの化粧の女、母親に泣きじゃくる子供、客をよびとめる屋台の店員、呼び止められた客、笑いあう男女、分かりあう友達同士、規則ただしく歩く足の森、ゆらゆらと揺れる雑踏の影、それらをぼくは通り過ぎてゆく。走り去っていく。ぼくの知らないそれらを、どれも涙を振りきりたくて過ぎ去っていく。知らない人と肩がぶつかり、知らない人の隙間をくぐりぬけ、ぼくはどこへ向かっているのかもわからず建物の中を駆けた。下へ降りるらしき木板の階段をみつけると、そこに向かった。つよく踏みしめた足で階段をおりていく。そこに這っていた軋み音がぼくにとび掛ってくる。涙が次々とたれていく。こぼれた涙をそこに落として置いていく。置き去りにされた涙をわすれてぼくは走っていく。視界にうつりこむ人々の顔はどれもゆとりをたずさえ、むせび泣きながら駆け抜けていくぼくに不思議そうに目をやる。定まらない視界のせいでいろいろな人と衝突する。「ちょっと!」と女に怒鳴られる声がしたけれど、ぼくはなにも言わず立ち去る。唇を噛みしめ、外へと繋がる出口をさがした。

 外の夜がわずかに覗けたそちらを睨むと、出口があった。おおきい回転ドアがあり、そこから人々が入ってきて、人々が出ていっていた。ぼくもその方向へと足を運ぶ。外に脱けだせたからといって、そこからどうなるかなんて分からない。でも走った。それでも走ることにした。解決なんてできないこの焦燥感が、ぼくを心臓の軸から潰していくような感覚に陥りさせてしまうから。だから走った。だから駆けた。だから地を蹴った。汗と涙を風で捨てた。それでも止まずに涙はこぼれた。無性になにかを叫びたくなった。けれど叫ぶ言葉は見つからなかった。ただ抑えられずにあがる息が洩れていっただけだった。ぼくは回転ドアをくぐり、出口をぬけた。

 ふたたびぼくの頭上は夜になった。塔からでた途端に、地面は石畳にかわった。石畳の地は、一段ずつの面積がひろい階段になっているようだった。ぼくはいちどだけ立ち止まり、コートの袖で涙をふいた。階段ののぼっていく方角へと目をやるとこの地面をはさんで煉瓦やコンクリートでできた建物が平行してたなびいていた。それは逆の方向へむいても同じだった。建物がつらなり、おおきな石畳の階段のゆるい坂道をはさんでいた。涙がとまったのを確認して、ぼくは階段をおりる方へと歩みをはじめた。涙が滞り、いささかだけれどぼくは落ち着きを取りもどせた気がした。額にはにじんだ汗が前髪をとらえて張りつけさせており、コートのなかは蒸れていて暑い。瞼の敷居をまたいだ涙がかわいて頬がうごかしづらい。けれど歩みをはじめた。そうしないと孤独が痛みをつれてきて、ぼくをゆっくりと食べていく気がしたのだ。恐怖心から、歩く。孤独から逃れるように、歩く。涙をはらいたくて、歩く。誰かを求めている、だから歩く。助けてほしかった。ぼくはいま、誰かに救ってほしいのだ。逃げてきた場所でも逃げている自分に、涙と寂しさがあふれるけれど逃げることしかできないぼくを誰かに助けてほしかった。

 ふと、ぼくは自分のきた道を振りかえった。そこにはぼくが歩いた形跡も、痕跡も、証拠もなかった。よく躾けられた賢い石畳が、いつまでも整然とならんでいた。その石のひとつがぼくだったとして、ぼくは彼のように黙っていられるだろうか。自分に与えられた役割を、放棄することはしないだろうか。――無理なのだろうな。ぼくはやはり逃げだすだろう。ぼくをとりまく環境が嫌になって、きっと逃げだす。逃げることしか、ぼくはできないのだから。たかい頭上の線路橋に、列車がはしる。空気をふるわすその音がぼくの視界を手招きしてきて、ぼくは音のほうへと目をやる。列車は駆けてゆく。建物らがかさばった影と夜の隙間に、騒音をたてて消えていった。ぼくは視線をそのまま下へと落としていく。夜空と線路から、石畳の地と建物の整列とまばらにいる人々へと描写されるものが変わった。そこには先ほどはいなかった少年が、ぼくの向かいで立っていた。その中心で表情もなくたっている少年を、ぼくは目をほそめて見据えた。

そいつもじっとぼくを見つめていた。ぼくとそいつの視線を、夜の糸がつないだ。真夜中の街灯がてらした影のように重みのあるクセ毛の黒髪、二重なのにもつれた瞼の瞳、憂いのある唇、なにか欠落した肌の色、黒いチェスターコート、グレーのシャツ、黒いチノパンツ、履きなれたグレーのニューバランスのスニーカー。ぼくは、彼を知っていた。知らないはずなんて無かった。それはかぶりを振るうこともできないほどに、知らない奴だと嘘をつけないほどに、ぼくと彼とは深い関りがあった。

 それは、ぼくだったのだ。



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