ぼく その4
あの塔を中心に波及していく建物たちは、どれも高々にかまえている。それらをくぐりぬけていく橋や階段を駆使して、この街の人々は息づいていた。ぼくは階段をわたり終え、塔のなかへと足を踏みいれる。塔のなかは光があふれていた。いろいろな出入り口があり、そのひとつずつに「1」や「2」と番号が表示されていた。出入り口にでると改札らしき機械があり、そこをくぐるとまた階段に繋がっていた。その階段すべてがあつまっている中心には、塔よりひと回りちいさくなった別の空間があった――その空間はまるで壁のないビルのようだった――そこからおびただしい数の明りが満面なく吐きだされていた。まるで見たことのない景色だった。粉砕された記憶の瓦礫ひとつひとつを拾ってみてみても、きっとこんな光景は紛れていないだろう。ぼくの前には改札が三台ほどならんでぼくがそこを通るのをじっと待っていた。でもぼくは足を踏みだすことがなかなか出来なかった。足が、震えていた。
こわいのだ。まるで知らないこの景色が、光景が、視界にうつるもの全てが、どれもぼくに馴染みがなくて極端なほどの疎外感を投げつけてきて、おののいてしまったのだ。幼い頃に、デパートで母さんとはぐれて迷子になったときの感情を思い出す。まるでそれだった。どこに眼をやろうとぼくの知らない人があるき、ぼくの知らない光が群れて、ぼくの知らない夜が黙っていた。
「なんなんだよ、ここ」
ぼくは嘆息めいた言葉を、足元に落とす。こぼれた言葉に染められたぼくの足元の影は、歩んできた歩幅のおぼつかない記憶も紛れている。雑踏と光が密集するそこへなびく階段はほそく、そこへ行こうとしているのはぼくしかいない。無口な夜はぼくを孤独にさせた。まばゆく喧騒する塔の光が、ぼくの体内に忍びこんでくる。ぼくは「新しい季節」を探していた。ぼくは深い霧のなかにいるのだ。ぼくは迷う。ぼくは迷う。ぼくは、迷う。ぼくは自分の視界にすら騙されているのだと思った。いまぼくは最悪な夢のなかに閉じこめられているのだ。知らない夜がつくりあげた孤独な心に、ぼくは膝を折ってしゃがみこんでいるのだ。
「ねえ君」
誰かがぼくの肩を叩いた。ぼくは閉じかけていた瞼をかっと見開き、つま先から強くはずんだ。心臓がせりあがって動悸がそれまでの律動をとびはね、胸を臓器がたたきつけてきた。ぼくはその誰かから離れ、改札に腰を強打してそのまま転倒した。さわがしい呼吸が踵をかえしていくのを確かめて、ぼくはその誰かに目をやった。
「大丈夫かい?」とびっくりした口調でぼくを心配している声の男は、改札口にたっていた駅員だった。駅員の男はぼくに手をのばして「立てるかい?」と訊ねた。ぼくは曖昧にうなずき、彼の手をかりずに立ちあがった。
「様子がおかしかったから声をかけたんだけど、大丈夫かい?」と駅員の男はぼくの顔をのぞいて言った。「もしかして切符でも落としたのかな、と思って」そう自分の推測をはなしながら、彼は不思議そうにぼくの顔をみていた。眉をひそめ、ぼくの顔を見つめていた。
「はい、大丈夫です」とぼくはコクコクとうなずく。それから、彼の推測が正解していることに気がついた。「……あ」、切符。声が洩れた。
「やっぱりね」
「すみません、いまお金だします」ぼくはコートから財布をだして代金を払った。彼は日本語をはなし、日本の円をお金としていた。どうやらぼくは海外にきたわけではないらしい。それでも、ここが日本のどこで何なのかさっぱり見当もつかなかった。
「君、一人なのかい?」と駅員は改札をくぐったあとにぼくに訊いた。
ぼくは振り返り、駅員の顔をみた。そしてすこし瞼をひらいて、「うん」と鈍い声でいった。ぼくは、一人だ。誰もいない、誰も知らない、ぼくは独りだ。たえきれなくなって、彼から顔をそむけて階段へと走りだした。「あ、ちょっと!」と駅員がぼくを呼び止める声がしたが無視して、ぼくは走った。手すりを握って、光がたまる方へとつづく階段を駆けおりていった。目の先にある灯りの群集が、川の隅でよどんだものにみえた。光を濡らすそれは、ぼくの涙だった。ぼくは恐怖から、泣いていた




