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しかし、学校に行けば再試験が待ち受けているということを私はすっかり忘れていた。
「きたことは褒めてやろう、アヤ・リンドゥ」
戸口で壁に寄りかかった教授は白衣で眼鏡の美女だ。テンと張るほどの美人ということで有名な彼女は、癖のない薄茶の髪を長く伸ばして、一くくりにして、結び目のところで軽く輪にしている。そうしても地面に触れてしまうほど彼女の髪は長い。着ているのはブイネックのカーデとマイクロミニのスカートで、その上からいつも白衣を着ている。ちなみに、普段から付けている赤縁の眼鏡はファッションだと公言している。
「あ、ありがとうございます」
「これで術式がうまくいけば合格だ」
「それが一番問題なんです、教授~っ」
すっかり術を行う体勢を整えた私はすでに泣く寸前だった。
「普通はこの術式はそんなに難しいものじゃないんだがなぁ」
再試験となっているこの召還魔法。単に羽ウサギを一羽呼び出すだけのもののはずだ。失敗するほうが難しいとされるものだが、前回の試験では大嫌いな蛇を呼び出してしまった。夕べはトカゲ。次は何が飛び出すのか。
「私はね、アヤ・リンドゥ。アナタが次にどんな爬虫類を呼び出すのか、少し楽しみにしてるんだよ」
「冗談辞めてください~っ」
「フフフ、私もアナタが呼び出したトカゲに会ってみたかったなぁ」
「思い出させないでください~っ」
私をいじめて楽しんでいるようにしかみえない。
「さぁ、始めたまえ」
促され、術式を思い浮かべる。両腕を伸ばし、それを唱えようとした時だった。
ふわりと暖かさに包み込まれる。
「だめだよ、アヤ」
それはテンの穏やかな声音で。綺麗な手でそっと口を塞がれる。
「おい、ニンゲン」
テンではありえない不遜な男の声が教授へと向けられる。私も口を塞がれたまま、その方向を見た。
「この娘にこのような試験は必要ないぞ」
そこにいたのは黒の裏地、赤の表地をつかった服を着た少年で、私の位置からは背中しか見えない。
「お願いだから、これ以上敵を増やさないで、アヤ」
小さな囁きに口を塞いでいるテンを見やる。その顔はどこか淋しげで、哀しげだった。
「なにしろ、この娘は我をこの時期に召還できるほどの実力の持ち主なのだからな」
あの少年は何を言っているのだろう。
「ほぅ、おまえがアヤ・リンドゥの呼び出したトカゲか」
「誰がトカゲだっ。よく見ておけよ、ニンゲン。それから、」
振り返った少年がにやりと笑う。どこかで見たような面影だ。
「アヤ」
ただ、名前を呼ばれただけなのに。まるで心臓に直接触れるような、甘い、声。
「我は八大竜王が一人」
少年の姿が炎に包まれる。その炎はこちらまで来たが、熱さはない。歌うような声に包まれ、少年の姿が消える。
「セキ」
炎の中に現れたその姿は大きな大きな羽の付いたトカゲで。だけど、胸が締め付けられるほどに、泣きたくなって。
「……テン」
「ちゃんとみてごらん。トカゲと一緒にしちゃ彼が可哀想だ」
目をつぶる私にそっと囁く。その泣きそうな声に促され、私は、やっと目を開いた。
大きな身体は鱗に覆われ、背中の二枚の羽は広く、大きい。だけど、どれだけ大きくても、その目は信じられないほどに澄んでいて。
「……ごめん、なさい……」
私は自然と謝罪を口にしていた。彼は、竜王は小さく一声啼くと、弱まる炎に合わさるようにゆっくりと縮み、あの夜のトカゲになった。ふと、テンが竜王に向かって片手を差し伸べていることに気が付いた。それは握手のためではなく、その力を捧げるようで。
倒れているトカゲに近寄り、そっと抱え上げる。もう、不思議と嫌悪はない。
「この極寒の時期に赤の王を起こして召還、か。確かに非凡な才能だな」
教授の言葉に驚き、顔を上げる。
「ここ百年程、竜王を召還できるほどの者はいないと習ったはずだ」
テンを振り返ると、深く頷く。
「竜王たちが応じる人間の条件は、
鉄の意思の持ち主であること。母のように暖かな心の持ち主であること。それから、
子供のように澄んだ心の持ち主であること」
続けられる言葉に首を傾げる。
「中でも赤の王は気難しく、特に真夏でなければ決して呼び出すことは出来ない、と言われている」
「真夏……?」
外を見ると、庭は一面雪景色で、空からはまた白いものがひらひらと降り出していた。
「でも教授、ここは冬の国。夏の国より暑くなることはありませんよ」
「ああ、だから、この国で赤の王を呼び出すことはできないと言われてきた」
肩にテンの手がかかる。
「最初は夏の国」
教授が部屋を出て行くのを見送り、ゆっくりと扉が閉まる音を聞く。
「呼び出せるはずのない地でアヤは私を呼び出した」
そうだ、火事で家族をなくした小さい私は母親の形見となったペンダントの模様を地面に描いて、リュウジンサマに最初の願いをした。なんでも叶えてくれると、母親から聞いていたから。
「竜神様、竜神様。私に家族をください」
その後に出会ったテンと一緒に育ち、一緒にこの冬の国の学校へ入った。
なんで、忘れていたのだろう。テンは竜神様の贈り物だったのに。
「一緒にいるうちに君の魂の光に気が付いた。だから、私は私の力が一番強くなるこの地にアヤを連れてきたんだ。私が、守るために」
「どうして、言ってくれなかったの?」
どうしてだろうね、と淋しそうにテンは笑った。
「楽しかったから、かな。このままずっといられればいいと思っていたんだ。今朝、君が赤の王を呼び出したと知るまでは」
テンの指が竜王の頭をはじくと、彼は煩そうに呻いた。
「アヤが爬虫類が死ぬほど嫌いだって知っていたのに、今更気が付いて。急に怖くなった。アヤは私の本当の姿を見たら、私を嫌うかもしれないと思ったんだ」
なんで、と思う。
「嫌えるわけないよ、だってテンは大切な私の家族だもん」
たったひとりの、家族だった。ずっと。そんなことさえ、どうして忘れていたのだろう。
「本当に?」
「うん」
シュウシュウと白い気にテンの姿が包まれる。一度目を閉じ、開けたとき。そこには腕の中の竜王と同じ姿、だけど、雪のように真っ白で、羽の生えたトカゲがいた。テンと同じ碧眼が不安そうに私を見上げる。
「怖くないよ」
しゃがんで、それも抱き上げる。さすがに重くて立ち上がれなかったけど。
「怖くないよ、だってテンだもん」
姿がどれだけ違っても、それは自分の親友で、家族。怖いわけがない。
それでも不安そうなテンをおろし、竜王も地におく。二人は双子のようによく似ている。だけど、その目を見ればわかる。
「テンが好きだよ」
微笑んで言うと、テンは小さく啼いた。




