約束の鍵
──王城とは、ディーにとってどこまでも冷ややかな氷の箱でしかなかった。
自分が生まれた場所とはいえ、その頃の記憶はすでに頭の中からすっかり抜け落ちてしまっている。薄暗い地下室で育った九年、そしてアルのいるあのささやかな家で過ごした一年を経て戻ってきた巨大な城は、どこもかしこも馴染みのない、はじめて足を踏み入れた迷路となんら変わりなかった。
アルとイーガルのおじさん、アイダおばさんやジェイたちがいる賑やかな下町から引き剥がされて、ぽんと放り込まれたその場所で、ディーはひたすら途方に暮れるばかりだった。そこは目が眩むほどに何もかもが豪華で煌びやかで、天井も床も柱も一点の曇りなく清潔でもあるけれど、怖いほどに静かで、すべてがあまりにも余所余所しいところだったからだ。
ここが王女の私室ですと入れられた部屋だって、やたらと広くて机もベッドもディー一人で使うにはもったいないくらい大きいけれど、何もかもがディーに対してそっぽを向いているような気がしてならなかった。
アルの家で、いつも自分が座っていた小さな布張りのソファが懐かしくてたまらない。ずいぶん古ぼけて、いくつも染みがあって、ところどころ破れてもいたソファ。それでもいつだって優しくディーの身体を包んでくれたし、鼻を寄せればあの家の優しい匂いがして、気持ちを落ち着かせてくれたのに。
あそこに座り、腕まくりをして細かな作業をするアルの背中を眺めるのがいつも楽しみだった。そのままうとうと眠ってしまったら、アルが毛布を掛けてくれた。隣に座って本を読んでくれるアルの声を聞き、その横顔を見ると、いつも胸がぽかぽかした。
あの家にあるもの──丸いテーブルも、細い棚も、小さな椅子も、スプーン一本、皿の一枚に至るまで、そのすべてがアルの記憶、アルとの思い出に直結している。だからこそ、ディーにとってはどれも大切で、かけがえのないものばかりだったのだ。
……でも、もう、あそこには戻れない。
両手で衣服をぎゅっと強く握りしめたら、そばにいた女の人が「そんなことをしたらドレスに皺がついてしまいますよ、王女さま」と厳しい声で叱りつけるように言った。
綺麗なクリーム色のドレス。柔らかい布地でできていて、手触りがとても滑らかだ。下町の女の子が見たら、きっと目をきらきらさせて羨ましがるだろう。まだあまり世間のことには詳しくないディーだが、そのドレスが彼女たちにも、彼女の親たちにも手の届かないような高級品だということくらいは判る。
だけどディーはこんなもの、別に欲しくはなかったのだ。アイダおばさんからもらったお下がりの洋服を着て、外を走り回っているほうがうんとよかった。ジェイに引きずられるようにあちこち探検して、服どころか手足も顔も真っ黒にして帰ったディーを見て、アルが大笑いする顔をいつまでも見ていたかった。
王女になんてならなくてもいいから、アルとずっと一緒にいたかった。
下を向いたディーの目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
場所だけではなく、王城での生活全般にも、ディーはなかなか慣れなかった。
ここに来てからすぐに王と王妃、王太子との食事の場が設けられたが、今までマナーなどというものを身につけてこなかったディーにとって、それは苦痛以外の何物でもなかった。
ずらりと並べられた食器類に目を白黒させるディーを見て、王太子が聞えよがしな大きなため息を吐き出す。王が傍にいた給仕に何か耳打ちして、やって来た女性がひとつひとつ使い方や順番を説明してくれたが、そういっぺんに覚えられるものでもない。まごまごしながらなんとかスープを掬っただけで、カチンと大きな音を立ててしまい、会話もない広い食堂に響いて身の縮む思いをした。
席に着いた時から青白い顔色をしていた王妃は、そんなディーの様子を見て、耐えられなくなったように椅子から立ち上がった。
「──申し訳ございません。気分がすぐれませんので、どうか中座する無礼をお許しになって」
か細い涙声で王に向かってそう言うと、その場から足早に立ち去っていく。彼女はずっと目を伏せたままで、ただの一度として、ディーを正面から見ることはなかった。
王は気まずそうな顔、王太子は目に見えて苛々したような表情で黙って手だけを動かしている。しんとした空気の中、声を発する人間は、ディーにあれこれ食事の指導をする女性だけだ。グラスの水を飲もうとしても注意され、パンをひとつ取ろうとしても注意をされるので、その女性が声を出す前に息を吸い込むだけで、ディーは身体がびくっと反応するようになってしまった。
「いいえ、そうではありませんよ、王女さま」
何度も何度も、女性がそう口にする。ディーは普通にしているつもりなのに、何が「そうではない」のか判らない。判らないということがあちらにも伝わって、女性の眉はどんどん真ん中に寄っていく一方だ。でも……とそちらを向いて反論しようとすれば、「お食事中に余所見をするのはお行儀の悪いことですよ」とぴしゃりとした口調で窘められた。
食事の時はお喋りをするもんさ、たくさん食べて、たくさん話すんだぞ、とアルは言っていたのに。ここでは言葉を出すどころか、少し間違った動きをするだけでも、怒られてしまうのだ。
俯きながら小さくちぎったパンを口の中に押し込んだが、何も味がしない。目の前にある食事からはいい匂いが漂ってくるけれど、食欲もまったく湧かない。喉が塞がって口に入れたパンでさえそのまま外に吐き戻しそうになったが、そんなことをすればまた皆にイヤな顔をされると思ったらお腹のあたりが苦しくなって、懸命に飲み下した。
結局それ以来、「最低限のマナーを身につけないうちは、一緒に食事などできない」と王太子は二度とディーと同じテーブルを囲もうとしなかった。王妃は食事の時間になると、なぜか毎回のように気分が悪くなって伏せってしまう。王は公務で忙しく、ディーと顔を合わせることもほとんどない。
大きな大きなテーブルで、給仕役と指導役に見られながら、いつもディーは一人ぽつんと食事をとる。
……あの地下室でもこんな感じだったっけ、とぼんやり思った。
変なの。アルと暮らしていた時はほとんど頭を掠めもしなかったのに、お城に来てから、やけにあの頃のことばかり思い出す。
ここはあそこと違って明るいし、広いし、「家族」だっているはずなのに。
複雑な生い立ちの王女は、一日の大半を私室で過ごし、顔を合わせるのも数人の教師や数人の侍女のみと限られる相手に絞られた。
人前に出てしまえば、好奇の目に晒されることが判りきっていたからだろう。そういったものからディーを守るというよりは、王室の権威を保持するためという事情のほうが大きかったのかもしれない。
とはいえ、いつまでもそれらから隠しきれるものでもないので、なんとか体面を保てる程度までディーに教育を施すことが急務となった。
だからディーが今のところこの城でやることといえば、勉強だけである。むしろ周囲の人々は、それ以外のことは何もディーにさせてくれなかった。
一日中、入れ替わり立ち代わり教師がやって来ては、ディーに様々なことを教え込んでいく。彼らは態度だけは丁寧であったものの、いつだってその顔には驚き、呆れ、蔑みの色が浮かんでいた。本を示し、これは知っているかあれは知っているかと訊ねては、そのたび首を横に振るディーを見て、嘆かわしそうに天を仰ぐ。
「信じられない、これで十三とは」
「この方を一人前のレディーに仕立て上げよとは、陛下もご無理を仰る」
教師たちが集まりひそひそ声でそう話すのを、ディーは何度も聞いた。言いたいことがあれば直接ディーに向かって言えばいいと思うのに、彼らは決してそういうことをしないのだ。
ディーの世話をする侍女たちも同様で、彼女らは表面上は愛想がよくても、ディーから離れた場所に行くと、途端にくすくす笑いをはじめるのが常だった。その笑いは、決して明るく開放的なものではない。ディーが柱の陰からこっそりそちらを窺っていることも知らず、「あれが王女ですって」とディーの無知と失敗の数々をあげつらい、笑い話のタネにしていた。
「未だにご自分のことを『ディアナじゃなくディーだ』って言い張るのよ」
「王妃さまもお気の毒に。十年ぶりに戻ってきた娘があんなおかしな子供だなんて、そりゃあ寝込んでしまわれるわよ」
「あれじゃ、そこらの町にいる子供を適当に連れてきたほうがよほどマシだったんじゃない?」
ディーはしょんぼりと両肩を落とし、彼女らに見つからないようにとぼとぼと自分の部屋に戻る。
自分がもの知らずであることは知っている。アルだって、イーガルのおじさんだって、ジェイにだって、びっくりされた。地下室で過ごした九年間は、ディーにとってはただの空白でしかなく、何も与えられることはなかったからだ。
だからみんな、笑うのか。イヤそうな顔をして自分を見るのか。兄という人は顔を合わせるたび怒ったように眉を上げるし、父王も母王妃もまともにこちらを見もしない。王妃はなぜ、いつもあんなに泣いてばかりいるのだろう? 涙を落とすのを必死に我慢しているディーのことには気づかずに。
王妃が王に向かって、「わたくしにとって、あの子の記憶は無邪気に笑っていた三歳の頃で止まっているのです。あの子が無為に過ごした十年という月日を、どのようにして埋めればいいのですか。今まであの子が無残に奪われたものを考えると、可哀想で、気の毒で、とても顔を見ることなどできません。あれが自分の娘だと、わたくしは思いたくないのです」と泣きながら訴えるのを聞いた。
彼女は目の前のある現実を直視して受け入れることのできない、ひどく弱い女性であったのだ。
王妃がそうして泣くのも、うち萎れ、悲嘆に暮れるのも、すべてディーが「おかしな子供」であるからなのだろうか。
だけどアルは、驚いても、呆れても、困惑しても、決して笑ったりはしなかった。
注意されることはあったし、怒られることもあったけど、ディーに対する言葉は必ずディーにのみ向けられていた。
失敗しても、知らないことがあっても、それを責めたりはしなかった。
失敗したなら次に頑張って成功させればいい、知らないことがあればこれから覚えればいいと、いつもそう言って励ましてくれていた。そして成功した時、新しく何かを覚えた時は、必ずにっこりしてくれた。
──よくやったな、ディー、と。
なのにここでは、誰一人そんなことは言わない。
この場所では、人には表と裏があり、「知らない」ということがそもそも罪なのだ。
連日の勉強と、積み重なる精神的な疲労に押し潰されかかったディーは、どうしても我慢できなくなって、アルに手紙を書くことにした。
もちろん、「迎えに来て」などとは書けない。ディーはもう、アルのところには戻らないと王の許で誓約させられたのだ。それを破れば、アルは捕まって処罰されてしまうだろう。自分の前で、強引に跪かされて頭を垂れたアルの姿は、今もディーの脳裏に強烈にこびりついている。彼がまたあのように傷つけられることを想像するのは、恐怖以外の何物でもなかった。
だから、手紙。まだ文字の綴りだって拙いディーだから、思っていることがどれだけ書けるか判らないけれど、お城でどう過ごしているか、少しくらいは伝えられるはずだ。
思いついたら、急にドキドキしてきた。なんて書こう、と早くもそのことで頭がいっぱいになる。ぎゅうぎゅうに詰められた勉強のスケジュールの合間に、「手紙を書くから便せんが欲しい」と侍女に申し出たら、彼女は一瞬変な顔をしたものの、すぐに「承知しました」と微笑して肯ってくれたので、さらに胸が上擦った。
昼の間は自由時間などほとんどないので、ディーが実際にアルへの手紙をしたためるのは、夜ベッドに入る前となった。真っ白い便せんを前にして、ペンを片手にうずうずする。最初はどう書けばいい? 手紙の書き方は、まだ習っていなかった。でも、アルの帰りが遅くて先に寝る時は、ちゃんと置き手紙を書いていたんだもの。アルなら、少しくらいお作法が間違っていたって、きっと怒ったりしない。
『アルへ。
おげんきですか。
わたしは、あまりげんきがありません──』
一生懸命書き上げたその手紙に封をして、ディーは翌朝早速侍女に手渡した。迷子になった時のためにと覚え込まされていたアルの家の住所は封筒にしっかり書いたから、これできちんと届くはずだ。
「承知しました」
便せんを用意してくれた侍女は、昨日と同じようにそう言ってディーが差し出した手紙を受け取った。
よかった、とほっとする。本当は自分で配達人に直接手渡して頼みたいけれど、どこにそういう人が来るのか判らない。第一、ディーはまだ城の外に出て行くのは禁じられていた。
手紙を渡してから、ふわふわと足が浮くような気持ちでディーは空想した。アルはあの手紙を読んでどう思うかな? 書いた文字は、ちゃんと読めるかな? 間違いがないか、何度も何度も確認したけど、大丈夫かな? アルは、イーガルのおじさんやアイダおばさん、ジェイや他のみんなにもあの手紙を見せてくれるだろうか。
ううん、読むのはアルだけでもいいの。ペンを動かしているうちにつらくなってきて、ちょっぴり本当のことを書きすぎたかもしれないから。イーガルのおじさんがあれを読んだら心配してしまう。
迎えに来て、とは書かなかったけど、帰りたい、とは書いてしまった。アルはあれを読んで、どう思うだろう。ああ、どうしよう、やっぱりそんなこと、書かなければよかったかな。寂しいだなんて──
アルから、返事は来るだろうか。
そう思うと居ても立ってもいられなくて、部屋の中をぐるぐると歩き回った。この姿を見られたらまたあとで笑われるだろうけど、それでもいいんだ。だって、とてもじっとしてなんていられない。
アルがもし、返事をくれたら。
そこにはなんて書いてあるのだろう。イーガルのおじさんや下町のことを教えてくれるかな。それとも、お仕事のこと? 食べ物のこと? アル、傷はもう治ったかな。
もし……もしも、帰って来い、って言ってくれたら。
そうしたら、ディーはどうしよう。どうすればいいのだろう。帰りたい、帰りたいの。アルのところに、本当はずっと。王さまに心からお願いしたら、聞いてくれるかな。だって、ディーはここでは何もすることがない。ディーがここにいても、誰も喜ばない。ディーがいなくなれば、きっと「おかあさま」は元気になって、「おにいさま」は笑うようになる。
ここでは誰も、ディーを必要とはしていないのだから。
ディーは立ち止まり、大きな窓に目を向けた。強く組み合わせた両手を胸元まで持っていき、ガラスの向こうの青空へと視線を据える。
まるで、祈るように。
──アルのところに、帰りたい。
それから毎日、ディーはアルへの手紙を書き続けた。
「アルへ」からはじまる短い手紙。そこに切実な願いを乗せ、ディーはせっせとペンを動かし、思いを綴った。
そして、アルから返事が来るのを待った。
毎日、今日は来るか明日は来るかとドキドキしながら待ち続けたが、アルからの手紙がディーの許に届くことは一度もなかった。ディーの字が下手すぎて、配達人が住所を読めないのだろうか。それともアルはもうディーのことなんて忘れてしまったのだろうか。それとも、それとも──
ひと月、ふた月と経つうちに、願いは落胆に、落胆は失望へと変わっていく。これだけ毎日手紙を出しているのに返事が来ないということは、アルにその気がないということなのだろう。彼はもう、ディーを自分とは別の世界の住人として位置づけてしまったのだ。
その結論に悄然として、それでも、ディーは手紙を書くのをやめられなかった。それだけが、ディーにとっての拠り所だ。もう返事が来なくてもいい。せめて、ディーという子供のことだけ、忘れないでいてくれたら。
そうやって書き続けたアル宛ての手紙が、封を開けられることもなく侍女の手によって捨てられていたという事実が判明したのは、一年くらいが過ぎた頃のことだ。
くしゃくしゃになったその封筒を見て、目の前が真っ暗になった。手も足も震えた。今までの自分の言葉は、すべてこうして誰の目に触れることもなく、捨てられていたのか。いつか、いつかアルからの返事が来るかもしれないと抱き続けていた一抹の希望は、儚く砕け散った。
ディーの気持ちは、心は、もう誰にも届かない。
***
目を開けると、上からアルがこちらを覗き込んでいた。
「おはよう、ディー」
優しく微笑むその顔は、間違いなくアルのもの。あの頃から数年分の月日が上乗せされてはいるけれど、黒い髪も、細められた目も、周りを覆う明るい空気も、以前と何も変わっていない。
ディーは全身の強張りを解き、身体の奥底から細い息を絞り出した。ゆるゆると覚醒していくにつれ、これが現実なのだという意識も明確になっていって、そのことに泣きたくなるほど安堵する。
「いやな夢でも見たか?」
どうやらディーは本当に涙ぐんでいたらしい。伸びてきたアルの長い指がやんわりと目元の涙を拭ってくれる。細かい作業を得意とする器用なアルの指先は、こんな時でも動きが繊細だ。
「……アル……」
横になったままその人の名前を口にして、両手を持ち上げる。屈められた彼の上半身にぎゅっと抱きつき、その感触を確かめた。
よかった、アルはちゃんとここにいる。
「怖い夢を見たの」
「──ん、そっか」
アルの背中に両腕を廻したままぽつりと言うと、アルは柔らかい声で応えて、軽くディーの額に唇を落とした。どんな夢か、なんてことは彼は決して訊ねてこない。それはもう聞くまでもなく、よく知っているからだ。
ディーがなにより怖がるものが何か。
「大丈夫、夢は終わりだ、ディー。もう何も怖いことなんてありゃしない」
ぽんぽんと慰めるようにアルがディーの頭を撫でる。ディーは頷いて、甘えるようにアルの肩に自分の顔を押しつけた。アルの匂い、アルの温もり。とろけそうなほどに、幸せだ。
ディーはちゃんと帰ってきた、ここに。
「目が覚めたなら、飯にしよう。用意してあるから、起きて顔を洗っておいで」
「うん……」
ぼんやりと返事をしてから、はっとした。
ついつい夢の続きですっかり子供に戻ってしまっていたが、現在のディーはすでに十七歳なのである。
「え、食事?」
アルを押しのけるように身を離して、目を見開く。二人の間にできた距離をアルはなんとなく名残惜しそうに見て、「うん」と返事をした。なぜ、そんななんでもない顔つきで肯定しているのだ。
「朝食は絶対に私が作るからアルは何もしないでって、いつも言ってるじゃない!」
「だって、よく寝てるようだったから」
「起こしてくれればよかったのに!」
「だって、寝顔が可愛かったから」
「アル!」
まったく反論になっていないことを平然と言って、笑いながら「ほら、早く」とアルが寝室を出て行く。ディーは「もう!」と膨れて、急いでベッドから飛び起きた。
着替えと洗面を済ませて、慌ててダイニングに行くと、テーブルの上には朝食の準備がすっかり整っていた。アルは料理も上手なので、目玉焼きですらこんもりとした美しい形で黄身は綺麗な黄金色をしている。ベーコンはほどよくこんがりして、サラダは艶々とした緑色、淹れられたお茶からは湯気が立ち昇っている。文句のつけようもないほど完璧な朝食に、ディーは悔しくなった。
もちろん、自分はこんな風に上手にはできない。だからこそ毎日の積み重ねが大事だというのに、何かとディーを甘やかしがちなアルは、すぐにこうして新妻に楽をさせようとするのだ。
「もう絶対に寝坊しない!」
ほっこり温かいパンを手に取って決意表明をしたが、アルは楽しそうに「はいはい」と言うばかりである。こうして夫婦という形に関係を変えても、彼は未だに時々ディーを子供扱いする。
「じゃあ、今夜のお夕飯は私が作る。いいでしょう?」
「今夜は魚にしようと思うんだけど。ほら昨日、隣のビークスさんに貰ったろ、釣りに行ってきたからって。あんな大きな魚を切ったり捌いたりするのは、ディーにはまだ難しいんじゃないかな」
「魚……」
ディーも思い出した。そういえばそうだっけ。地下室と下町と城の中で暮らした経験しかないディーは、川で釣り上げたばかりの、まだビチビチと跳ねている大きな魚を見るのははじめてで、「これ本当に食べられるの?」とアルにこわごわ確認してしまったくらいなのだ。
「だ……大丈夫、だもの……」
「腹を切ると血が出るし、内臓も取り出さなきゃいけないぞ」
「う……」
「口に手を近づけると、あの鋭い歯で噛みついてきて、下手をしたら指を食われる」
「そうなの?!」
悲鳴を上げたら、アルに噴き出された。どうやら冗談のようだ。
しかしそれが本当ではないにしろ、ディーはすっかり怖気づいてしまった。こんなにも何も知らない自分がその魚を上手に調理することは奇跡に近く、どちらかというと人が食べられない奇怪な物体に変えてしまう可能性のほうが高い。それでは、親切な隣人に対してあまりにも申し訳ないではないか。
城から逃げ出し、王都を離れ、国はずれのこんな小さな村にまで辿り着いたディーとアルのことを、詮索もせずに受け入れてくれた住人たちには、返しきれないほどの恩がある。
「やっぱりやめる……」
しゅんとしてうな垂れると、アルが少し苦笑した。
「ディー、そんなにあれこれ何でもやろうとしなくていいんだ。掃除も洗濯も、おまえは頑張ってやってくれてるじゃないか」
「……でも」
三年間の城生活で、ディーが身につけたものといえば、およそこのような村での日常には必要のない知識や礼儀作法ばかりだ。掃除も洗濯もやっているとは言っても、それはアルに比べればまだまだ手際が悪く、子供の頃にしていたお手伝いとさほど変わりはない。
だからディーはいつも焦っている。
早くもっと一人でいろいろなことをできるようにならないと。
アルの役に立てるような自分にならないと。
「うーん……」
目を伏せたディーを見て、アルは迷うように唸ってぽりぽりと頭を掻いた。
「これはもっといい雰囲気になった時に渡したかったんだけどな……」
ぶつぶつ言いながら立ち上がり、窓際の棚に歩み寄る。そこで何かごそごそしていたと思ったら、戻ってきた彼はその手に小さな包みを持っていた。
「あのさ、ディー」
ことりとディーの前にその包みを置いて、すぐ傍の椅子に再び腰かけ、アルが改まった声を出した。
「この国では、結婚した男女はお揃いのものを身につけるって風習があるんだよ」
「そうなの?」
「うん。ま、別に国の決まりごとってわけじゃないから、上のほうは知らないのかな。一般の民衆の──なんていうか、いわば、心のお守りみたいなもんだ。愛情や信頼を、そうやって少しでも形にすることで、安心を得たいってことなんだろうな」
「愛情や信頼……」
「どっちも目には見えないからさ。たまに、ぐらついたり、揺らいだりすることがあるかもしれない。だろ?」
包みをガサガサと開けながらアルに問われて、ディーは俯きながら曖昧に頷いた。
そうなのかもしれない。ディーがアルに向けるそれは、これからもずっと、ぐらついたりも揺らいだりもしないだろう。けれどアルがディーに向けてくれるそれはどうなのか、ディーには判らない。
だからこんなにも、不安になるのかもしれない。
「そういう時に、ちゃんと実体があって、自分の手にも目にも触れられる何かが存在すると、気持ちが落ち着くっていうのはあるんだろう。それがあったって未来の保証にはならないけどさ、だけどあるとないとでは、やっばり、何かが少しは違うかもしれないから」
そう言いながらアルが包みの中から取り出したのは、小さな錠前と鍵だった。
子供のオモチャのような、本当に小さな小さな、けれど美しい装飾の施された銀色の錠前と、同じく銀色の鍵。指の先ほどしかないような細い鍵は、よくよく見ればずいぶんと凝った形をしていた。
どちらも先端に丸い輪がついて、細いチェーンが通されている。要するに、宝石などの代わりに錠前と鍵がトップ部分についた、二本のネックレスなのだ。
「知り合いの錠前師に頼んで、作ってもらったんだ。普通は指輪とか、耳飾りとかにするものらしいけど、俺たちはこういうのがいいかなと思って」
アルが鍵のついたほうのネックレスを手に取り、ディーの首にかけた。そして自分は錠前のついたほうのネックレスを。
「──あの地下室の鍵を開けた瞬間から、すべてがはじまったからな」
ディーは言葉に詰まった。
視線を下げ、自分の首から垂れるそのネックレスを見つめる。
銀色の鍵が、窓から射し込む朝日に照らされ、きらきらとした輝きを放っていた。城にいた時、高価な装飾品を身にまとう機会が何度かあったが、このネックレスはそれらのどれよりも、眩しく美しかった。
これがディーとアルの、愛情と信頼の形。
「俺の胸元にあるこの錠前は、おまえのその鍵でしか開かないようになってる。世界で唯一の鍵だ。いくら俺のような優秀な鍵師でも、この錠前はその鍵を使わないと開けられない」
「……アル」
「俺の心は、おまえにしか開けられないってことさ」
そう言って、アルは目元を緩めてディーの頬をするりと指先で撫でた。
「結婚式もしていないし、正式に書類を出すこともできないけど、俺の奥さんはおまえだけだよ、ディー。……ゆっくりでいいんだ。焦らなくてもいい。ひとつひとつ、順番にやっていこう。失敗したら次に成功させればいい。知らないことは覚えていけばいい。自分ができることをして、相手を支える努力をしよう、お互いにだ。俺たちまだこれからも、長い時間を共に過ごしていくんだから」
ぽろっと涙が一粒零れたら、それを契機にしてどんどん溢れて止まらなくなった。
泣きながら、何度も頷く。
「うん……うん、アル」
崩れた涙声で、うん、と言い続けるディーの身体を、アルが強く抱きしめた。
明るく、温かく、優しい場所。
ここはたったひとつ、ディーにとってだけの、愛おしい楽土だ。
***
ようやくディーが泣き止んだところで、「そういえばさ」とアルが声を上げた。ちょっと照れているのか、耳がほんのりと赤い。
「そろそろ落ち着いたことだし、イーガルをこっちに呼び寄せようと思うんだ」
「ほんと?」
ディーはぱっと顔を綻ばせた。大好きなイーガルのおじさんは、盗人の元締めを引退して、後片付けを終えたら、アルとディーの許へやって来ることになっている。これから三人で仲良く暮らしていけたらどんなに楽しいだろうと、ディーはずっとその日を心待ちにしていたのだ。
気がかりだった城からの追手はかからなかった。ディアナ王女の葬儀がひっそりと執り行われたということを知ったのは、つい先日だ。だからこそアルも決断できたのだろう。
王にどんな思惑があったのかは判らないが、ディアナ王女という人間はもうこの世にはない。ディーはもう、城とも王家とも無関係の、ただの娘になった。
──王も王妃も王太子も、ディーにとっては、つらく苦しい記憶と共に胸の底に沈めるだけの、過去の存在だ。
「嬉しい。早く一緒に住めたらいいね」
「いや、なに言ってんだ、ディー。この村には呼ぶけど、イーガルとは住むところは別だぞ」
「え……」
驚いたようにアルに言われて、ディーのほうも驚いてしまう。てっきりアルも、この家に父親代わりの彼を迎え入れようというつもりなのだとばかり思っていた。
「すぐ近くに空き家になってるところがあるだろ? もうそこを押さえる算段もしてある」
「どうして? この家なら以前よりも広いし、イーガルのおじさんとの三人でも、別に」
「いろいろ不都合があるから」
「不都合?」
首を傾げたディーに、アルはキッとなって眉を上げた。
「あのな、俺たちはまだ新婚なんだからな?! あのうるさいジジイがいつも一緒にいたら、朝も夜もいちゃついて過ごせないだろ! おまえを取り戻してからだって、せめて十七になるまではと、手を出さずにぐっと耐えて待ってたんだぞ! 目の前で眠っているおまえを見て、これは拷問かと思ったこともあったんだ! ここまで来るのに、俺がどれだけ苦悶と葛藤と忍耐の日々を過ごしたか判るか?! まだ当分の間は二人っきりで過ごす時間を満喫すると俺は心に誓ったんだ!」
「アル……」
怒涛のように叫ぶアルを見て、ディーは深いため息をついた。
ディーの夫は、器用で、大人で、しっかりもしているが、時々ちょっと面倒だ。
そんなわけで、ディーはイーガルのおじさんに向けて、近況報告を兼ねた移住の誘いの長い手紙を書いた。
『イーガルのおじさんへ。
お元気ですか。
私もアルも、元気いっぱいです。
この地は穏やかで、暖かくて、毎日がとても幸せです──』