23話 闇の賢者、誕生
―――――――ゴポッ
暗いその空間に、鬱屈した音が響き渡る。気の遠くなるほど長い長い年月、見せ掛けの巨塊を支えていたその根幹が、役割を続けることに疲れていたかのような―――――――
奥行10、横幅40、高さ90センチメートルの正確な6面によって構成された直方体の黒水晶から、濡れた黒髪のような闇が細い筋となってユリカの右手へ吸い込まれていくと、ざわめきとも歓声ともつかぬ声がその場に沸き起こった。ユリカはその闇の加護を、演出のつもりで猛烈に膨れ上がらせてから取り込んでいたから見栄えは抜群で、歴史の一大場面へ遭遇したことになる閣僚やその妻たちは驚きの声を上げて祝福し、押しかけた報道陣が圧巻の出来事に溜息をつきながら撮像を連射する。
ユリカはまるで巨人になったかのような存在感を発しながら、一呼吸置いて横を向き、立会い席のシスカ王へ跪く。その姿は洗練された騎士のようで、いや騎士証も前からこっそりと渡されていたので実際騎士だったのだが、もうこの時点で誰が見てもユリカは大騎士に感じられる佇まいだった。ユリカに釣られて、その場に立ち会った全ての者がシスカ王へ跪いていた。特にそのような行動をしようと思ったわけではないのだが、いつの間にかそうしていたのだ。
その場の空気を完全に支配することができるのは、太陽王か賢者のみと民間伝承で伝えられている。これは加護の強さが関係しているという仮説があるのだが、この状況の中にいることでその民間伝承が正しいことを誰もが理解した。多くの人間を言葉も無く動かす、謎の魅力をユリカが発していたからだ。ただそこにユリカがいるだけで、命令されたわけでもないのに付き従っていきたくなってしまう。だからこそ周囲は自然と、そういう者を「賢者」と呼ぶのだ。
ユリカはうまくやりきって、黒水晶の間で高見の見物をしていたはずの、大臣たちの度肝を抜いた。彼らは、とくにユウチ宰相は手のひらを返したようにユリカに近づこうとして来たが、俺ともども王族に取り囲まれてねぎらいの言葉をかけられつづけていたために、そばには近寄れなかったようだ。
「ここに、二代目・闇の賢者がダイムーに現れたことを、神官主の名において証明する!」
神官主のイーノルスはその場で右手を突き上げ、高々と闇の賢者の出現を宣言した。彼もこの芝居には最高の準備をしてくれた。黒い大理石の床の上に、黒い絨毯を引いてくれていたのだ。絨毯の下に加護線を通していたから、まったく他の者達にはそこに線があることは気づかなかっただろう。この演出が最高の状態で成功したことに、イーノルスは誇らしげだった。いずれは俺も、彼に太陽王出現の宣言をしてもらうことになるのだろうが、彼ほど堂々と、そして厳粛に神官の任務を執り行う者は他にいないだろう。神官とはこういうものであるべきという、まさに手本のような忠義溢れる男だった。
「闇10の加護を得たユリカ=カノミに、特例として三級騎士の証を授ける」
シスカ王の言葉に再び場がざわめく。たった17歳で三級というのは前例が無い。さすがに以前の賢者でも10という強さまでは行かず、6や7だったから四級になっていたのだ。普通の騎士なら三級になるのはどんなに早くても22歳ごろになってからだった。だが誰もがユリカの適正試験の状況が異常だったことに気づいていた。通常の加護の筋ではなく、10メートルの遠さから膨大な量の加護流がユリカへ流れ込んだように見えたのだから、加護の強さはユリカの先祖、闇の賢者アーケイ=カノミより強いことが分かる。
<闇の加護、1067年ぶり出現――火王家救出のカノミさん、特例試験で発現>
翌朝の紙伝は、ユリカの黒い衣装を纏った美しい撮像とともに各伝聞社そろって一面にその報を印字していた。新暦1048年に闇の賢者が現れて以降、千年を越えたこの年に再び闇の力を持つ者が姿を見せたことが世界中へ知れ渡った。賢者の称号を得た者は星の賢者以来319年ぶりとなる。太陽王以外ではこの2000年の間に3人しか姿を現さなかった特殊加護を保有する人物、4人目の賢者が発見されたことになるのだが、3人目までと違うのは、世界中へ情報を伝える手段が今の地球には存在していることだ。300年前には伝わらなかった国や地域へも、この闇の賢者出現の報は漏れなく届き、たった1日で10億人がユリカを知ることになった。
ここ数年、世間の耳目を集める話題と言えば、ミクロネ諸島の大地震による各地の津波被害や、ヤルーシア西部の大規模火山噴火、アズダカが巨大な台風に見舞われ多数の死者が出たことなど、近年の地殻変動や異常気象に関するものばかりだった。
地球全体の平均気温が、次第に下がっている。そうなのだとはっきり分かったのは20年前に世界中を大寒波が襲ってからだった。地球規模の寒冷化現象、そして地殻変動、異常気象。これらが年々増えていく様子から、「大いなる災い」がどうやら近づいていることに世界中の人々が気づいていた。だがこれだけ大規模・多様に地球中でその兆候が現れるとなると、いったいどのような災害となるのかまったく分からなかったため、財力のある者は火星へと移住して行った。
そのような状況の中、吉報に飢えていた民衆に希望を与える話題が提供されたのだ。いきおい、一面だけでなく中身もそれ一色となる。もはやユリカは民衆の希望、その偶像となっていた。
「闇の賢者」という呼称はもともと千年前の初代アーケイ=カノミに与えられた特別なものなので、ユリカが女性であることも踏まえて「闇の乙女」とか他にも「闇の騎士」とか呼ぼうという論調がしばらくあったようだが、結局言い易さで「闇の賢者」に戻ってしまった。
いつの間にか「闇の賢者」と言えばユリカ=カノミを指し、アーケイ=カノミは「初代闇の賢者」という扱いとなってしまい、その名に込められた尊敬と偉業がそのままユリカに着せられているかのようだ。しかしさらなる偉業をユリカが成し遂げるであろうことは、誰もが想像し始めているからなのであって、それらも含めてシスカ王の思惑通りに事が進んでいた。
「これからは注目される存在として模範的な行動を期待され続けていきますが、ユリカ様は自分が支えますのでご安心ください」
ユリカの部屋で総合試験に向けた最終追い込みを続けることになり、あれから2人で黙々と参考書を読破し続けていた。
「はいっ! 期待していますよ執事どのっ!」
笑顔が美しい。ユリカは本当にいい笑顔で俺を見つめてくれる。俺はこんなふうに笑えているだろうか? いや多分表情が硬いだろう。だが何故だろうか。俺も赤ん坊の頃は、もっと心から笑えていたはずだったろうに、今ではどう頑張ったって心から笑えるような瞬間は、長引かせることが不可能なのだ。
アイラ山から帰ってきてから、ユリカは持ち前の明るさだけでなく、人間としての凄みが増していた。段差に躓かなくなったり、突然走り出したりということが無くなったのは、大局観という形の無いものを、会得することができたからなのだろう、名実共に「賢者」という感じだ。一番素晴らしいことだと思うのは、段差が無くても躓かなくなったことでもいきなり大声を出して顰蹙を買ったりということでもなく、転げて腰巻の中の下着を周囲に見せ付けるようなことが無くなったことだ。
ユリカはどれだけ有名になろうとも、それに浮かれることはなく自分を律する心を持ち続けている。勉学についても以前以上に積極的に取り組むようになっていた。ユリカは変わったのだ。生きていく上で最も大切な、自分を変えることに成功したのだ。
その人間的魅力は、美しい少女であることを度外視しても存分に伝わってくる。そして気づいたのは、自分はまだこれだけの魅力を発することはできないであろうことだ。周りからはやはりどう見てもユリカの方が上で、俺はユリカに付き従う無表情な執事なのだ。だから俺はまだ太陽王に即位するべきではない。まだ本当の力を得ていない気がするのだ。真の力を得ればユリカのように、周囲を従える力を発揮できるだろうからすぐに分かる。
妬むということではなく、俺はユリカの魅力に心酔していた。俺もユリカのような魅力溢れる人間に変わりたい。だが、どうすればいいのかは分からなかった。少しずつ、ユリカから学べば良いだろう。まだ時間はある。そして変われたなら、俺はさらに大きな力を手に入れられるだろう。自分を変えるためには、どんなに苦しいことでも成し遂げなければならないのだ…。
「カケル…」
「はい、何でしょう? ユリカ様」
「また何か深刻な顔してるよ? 私もカケルを支えるよ!?」
「そうでしたか…ユリカ様から、少しずつ学ばせていただきます」
「カケルは謙虚なんだね。卒業したら一緒に旅に出て、何かを見つけようね!」
「はい、ありがとうございます」
もうすっかり、執事のフリではなく、俺は心からこの淑女の配下となっていた。そして主人側も、配下を労わることのできる懐の深い主人となっていた。それも演技ではなく、心からのものだ。このままユリカに付き従うままでいるのは楽だが、そういう訳にも行かない。俺はここからさらに成長しなければならないのだ。
今年の受験者は1360万人という発表があった。既に王都周辺には1200万人ほどが集結を完了しており、五千を超える拠点が試験会場へ衣替えを始めていた。
1月末になるとほとんどの一般企業は活動を停止し、職場を試験会場として提供するだけでなく、企業人は競って試験官へ応募する。採点にはとにかく人手がかかるのだから、学生達のために一肌脱ぐ大人はいくらいても足りないほどだ。つまり王都中の人々、さらにはダイムー各地から人が集まり、協力しあってこの総合試験を支えているのだ。これがあるのでダイムーには地域ごとの隔離意識などなく、全員がダイムーの所属者であることに一体感と誇りを持っていた。そして目一杯動いて総合試験を支えた後は、祭典があるのでそれも目一杯楽しみ、翌日はゆっくり休む。だいたいの企業が祭典の翌々日から活動を開始していた。
間もなく、試験が始まる。俺たちのもとにも試験票が届けられ、確認してみると試験会場は家の近くにある役所だった。
別の大陸からやってくる学生には、12月末ごろに移動票が配布される。それぞれ決められた日程に、決められた移動手段で王都に来るようにしているのだ。そうでなければさすがに交通機関も麻痺してしまうだろう。
カノミ社は普段は物を運ぶことがその業務内容だが、王族特定企業に指定されており、所有する海船や飛空船、大型火力車の中から一定数、学生のための移動手段として提供するのだ。その報酬は普通に物を運ぶより多いので、カノミ社は12月から2月末ごろまで、その業務に集中するのだ。他の大陸で展開している社員や海船、飛空船も寄せ集めるため、それらダイムー以外の地域では景気が悪化するかと思いきや、それぞれの地域からダイムーへ出張する者が多く、出稼ぎ的に外貨を稼ぐ手段となっているため経済は試験完了後に爆発的な反応を見せるのだ。
試験の間に稼いでいたお金で生活必需品を買い求める家庭が多く、景気は爆発する。そしてダイムーの資本家達は各大陸でそういう現象が起きることを熟知しており、その投資に対する配当で多大な利益を得ていた。そして莫大な税金が発生し、王家が使ったお金は結局王家に帰っていくのだ。
これが、可能な限り多くの人が稼ぎを得られる、光の賢者が考案した優れた社会構造だった。この経済体系は移動消費型経済主義と呼ばれ、資本主義の進化系として光の賢者が発表したころには、まだ飛空船が発明されておらず空想的なものでしかなかったが、人の移動と情報の伝達が最大限まで高められた現在の地球で、やっと実現できたのだ。それでも光の賢者はダイムーを世界一の経済国にすることに成功し、それは1800年間変わっていない。ダイムー王国は世界中にいくつもある覇権国のひとつだった状態から、完全な世界盟主となっていたのだ。この経済主義が地球から紛争を消し去ったこともあり、戦争というものがどれほど外交手段として愚策かという意識を人々に植え付けていた。
「師範は今年も試験官ですか!?」
ユリカはいまだお父様と呼ばないようにしながら、今年のサノクラ師範の動向を確認していた。
「もう騎士になったんだからそろそろお父さ」
「だめです! 祭典が終わるまで!」
「ぐふぅっ…今年はトルツ地区の試験官だよ」
「うわあ、遠いですね。当日だけですか?」
「いや、物資輸送の指示があるから試験が終わった後も残らないとな」
どうやら王都の郊外、かなり遠いところで奉公のようだ。ダイムー大陸全域を治めるダイムー王国の国民ならば、試験に関われることは誇りなので報酬はもらわないのだ。
カノミ社の大規模な倉庫があるトルツ地区での奉公だった。例年はカノミ社の社屋で試験官をやっていたので、今年はちょっと遠出なのだ。しかもそのトルツ地区でカノミ物流社の副社長として物流の指揮も取らなければならないのだろうから、すぐには戻れないわけだ。
「師範の行かれる地区は、今年は何人ぐらい集まっているのですか?」
ユリカの後ろに控えるように立つ俺は、悲しそうに床を見つめている師範を元気付けるつもりで問いかけてみた。
「おお、トルツもだいぶ開発が進んできていたので、今年は56万人も学生が集まっているらしい。彼らの食事を運ぶだけでも会社の人間は手一杯だよ。私は騎士だから試験当日だけ試験官なのだけれどもね」
目を輝かせて師範が答えてくれた。一度騎士になると永続的に騎士の位はその人に付いて回る。昔は馬に乗っていたので本当に「騎士」だったが、今ではただの称号なのだ。
称号を得るためだけに騎士になろうとする者が多いが、結局黒水晶の間で立会いの王族にそれを見抜かれてしまい、騎士となることはない。加護の強さで騎士になるのではなく、目的が騎士に沿うならば騎士の称号が与えられるのだ。だから、加護が風2しかなかったサノクラ師範が、黒水晶の間の下階で神官に加護の力を申請した後、騎士になるという強い意志を表明して、やっと王族に認められて騎士となれたのだ。
そして総合試験では、騎士の称号を得ている者は優先的に試験官、つまり学生が不正を行っていないかどうかの監視を行う。不正が発覚すれば、その学生はそこで試験を中止とされ、点数はそこまで答えたものだけとなる。危険は大きいのだが、毎年必ず不正を行う者が出る。他者の答えを盗み見る者がほとんどだが、ときには服の袖へ答えの参考になるための、小さな文字がびっしり書かれたメモを埋め込んだりする者もいる。挑戦するという行動は良いことなのだが、そのような不正のための挑戦は褒められるものではない。
試験のためにやれることはやってきた。ユウチ宰相のことは気がかりだが、今は試験のことだけを考えよう。何もかも一緒にやろうとして失敗してしまった先人の例を見るに、確実に一つ一つ歩みを進めるほうが、結局は早いことになる。総合試験当日の朝、俺たちは一切の迷い無く晴れた顔だちで、試験会場へ向かった。