前編
空気の漏れ出す音とともに、水がたれる。
一滴、二滴。ユリカはそれをマグカップで受け止める。
「おっそいね」
ユリカの言葉に、隣のメグルが笑う。
「でも、昨日よりは出てるじゃん」
「たしかに」
そこで、蛇口はとまった。
ユリカはマグカップを持ち上げる。
「……二センチ」
目を細めるユリカに、メグルは両手を上げた。
「二センチ分、文明の勝利です」
「ギリ勝った」
「……勝ってるかなあ?」
首を傾げながらメグルが笑った。ユリカも釣られて笑う。
笑うと、口の端から白い粉がこぼれた。
シンクは水の痕、そして粉……塩の欠片にまみれていた。
水が蛇口から、溢れるように出ていたのはいつ頃前だろう。
ユリカは既に覚えていない。
《ロトの妻》
この名前がいつしか定着していた。
ニュースでは最初局所的な皮膚硬化って言われていたな、とユリカは思い返す。
それから、未知の結晶化症状って言われてた。
で、最後は今のロトの妻だ。ネットで言われてたのか、ワイドショーで言われてたのか。
――元ネタ、ドラクエかも。
そう思い、ユリカは口元がにやけた。
口元を押さえるユリカに、メグルが眉を上げる。
「なに?」
「んーん。なんでも」
ユリカは首を振った。
***
《ロトの妻》
身体の内側から、徐々に塩に置き換わる病。
病は世界中、すべての人々に平等にふりかかった。
痛みはない。身体も最初は動く。
でも病はすこしずつすこしずつ人々を蝕んだ。
世界中の人々が、塩の塊になっていった。
はじめの頃は暴動も起きた。
犯罪も。
世界中の医療チームが集まって、頭を悩ませてる動画がYouTubeに流れてたな。
医療界のアベンジャーズだ、ってメグルは笑っていた。
でも結局、最後まで治療法は見つからなかった。
最後が何を意味するのか、わかんないけど。
***
ユリカはマグカップの水を鍋に移した。
カセットコンロに火をつける。
ガスは既に来ていない。
最後に来たのは、一か月前だったか、二か月前だったか。
――よく、わかんないな。
頭も塩になってるのかな、とユリカはぼんやり思った。
一昨日近くのコンビニでカセットガスボンベを買ってきていた。いや貰った。
一本で十分だったが、オーナーのおばあさんは特別サービスといって三本も二人に渡してくれた。
使えるなら、使える人が使って。
おばあさんが嬉しげに笑っているのは、覚えている。顔の半分が、塩に覆われていた。
さて、とユリカは腰に手を当てて宣言する。
「今日は、贅沢するよ」
「うえーい」
メグルがキャラでもないのに両腕を上げた。
「コーヒーです」
戸棚のインスタントコーヒーを取り出す。
底にたまった粉を、スプーンでかき集めた。
「ユリカスペシャルブレンドですよ」
「お代は?」
「ひゃくおくまんえん」
「たっか」
「じゃあぎゅーでもいいよ」
「やっす」
メグルが腰に手を回してくる。
弱い抱擁。ユリカは満足げに言った。
「よろしい」
テーブルに、マグカップを置く。
***
コーヒーは一人分にも満たない。
二人で半分ずつ飲むことにした。
暗い部屋で、メグルとユリカはソファに身を寄せ合って座った。電気もいつからか停まっている。
窓からさす太陽の光が、照明だった。
ユリカがマグカップを抱え、舌を出す。
「あちち」
「そんな熱くないでしょ」
「わざと」
はい、とユリカがメグルにマグカップを渡してきた。
メグルも、ユリカも、既に味はよくわからなかった。
――多分、舌の神経も塩になってるんだろうな。
メグルはぼんやりと思いながら、ユリカの手ごとマグカップを握った。
そのままマグを傾け、中のコーヒーを飲む。
温かさが手と、喉に伝わった。
ユリカが笑う。
「なにその飲み方」
「おいしい」
味はわからなかった。
でも体温は伝わった。
***
二人ともソファに身を寄せ合ったまま、うとうとしていた。
窓から聞こえたカラスの声で、目覚めた。
「カラス、いるんだね」
「そりゃいるでしょ」
「そっか」
もう、夕暮れだった。
部屋が赤く染まっている。
しばらく、身を寄せ合っていた。
ユリカが頭をメグルに押し付ける。
「ん」
「なに」
メグルが笑う。
「髪」
「どうするの」
「編んで。三つ編み」
「外に出ないのに、おしゃれ?」
「いいじゃん、ほら」
ユリカが横顔を見せる。
「ここね」
「りょ」
メグルはブランケットから手を出した。
ユリカの髪を撫でる。
ざらついた感触が伝わった。
メグルの指の先も塩に変わってきている。
ユリカの、髪も。
メグルは髪を挟む。
慎重に。無理やり触ると、ちぎれてしまうから。
日の沈む中で髪を編む。少しずつ。
時々、ユリカが身体を押し付けてきた。
「できないって」
「へへ」
笑うユリカを身体で押し返しながら、メグルは編んでいく。
「できたよ」
髪ゴムで留めたときには、日は暮れていた。
ユリカがソファから降り立った。上から吊り下げた懐中電灯を灯す。
スポットライトのような光のもとで、ポーズを取ってみせた。
「どう?」
「かわいい」
「どれくらい?」
「うーん」
「すぐ答えろよ」
「じゃあ、世界一……」
二人で、吹き出した。
***




