愛の言葉は最も甘い猛毒となりて
西館の暗い廊下を、どうやって自分の部屋まで戻ってきたのか、明確な記憶はない。
ただ、大理石の床を踏みしめる自分の足音が、やけに空虚に響いていたことだけは覚えている。
あてがわれた豪奢な自室の扉を開けると、そこにはすでにメイド長のマリアが静かに控えていた。彼女は私の赤く腫れ上がった目元と、幽鬼のように青ざめた顔色を一瞥したが、何も聞こうとはしなかった。ただ、一礼して淡々と口を開く。
「……お召し替えと、お化粧直しをいたしましょう。間もなく、旦那様がお戻りになられます」
マリアの声には、やはり微かな哀れみが混じっていた。
今ならわかる。彼女たちは皆、知っていたのだ。スラムから拾い上げられた薄汚い娘が、自分を「亡き女主人の身代わり」とも知らずに、公爵からの寵愛に浮かれ、頬を染めていた滑稽な姿を。
彼女たちの目に映っていたのは、幸運なシンデレラなどではない。主人の狂気に巻き込まれ、いいように作り変えられていく哀れな生け贄の姿だったのだ。
「……ええ。お願いするわ、マリア」
私は絞り出すようにそう答え、鏡台の前に座った。
鏡の中に映る自分は、酷く惨めで、滑稽だった。
マリアは冷たい水を含ませたタオルで私の目元を冷やし、手早く化粧を施していく。血の気を失った頬には薔薇色の紅を、震える唇には艶やかな真紅の口紅を。
そして、乱れた銀糸の髪を再び右側で編み込み、あの忌まわしい『青いリボン』でキツく縛り上げる。
——それは、セラフィナ・フォン・ローゼンベルクの姿。
気高く、美しく、ユリウスに愛された、たった一人の女性。
仕上げに、重たく甘美なミュゲの香水を首筋に吹きかけられる。その香りが鼻腔を突いた瞬間、吐き気にも似た強い絶望が込み上げてきたが、私はドレスのスカートを両手で強く握りしめ、必死にそれに耐えた。
(泣いてはいけない。惨めな顔をしてはいけない)
私は、あの西館の肖像画に描かれていた彼女の姿を思い浮かべる。
自信に満ちた、太陽のような微笑み。
私は鏡に向かい、口角を無理やり引き上げた。引き攣った不自然な笑み。マリアがそれを見て、ほんの一瞬だけ目を伏せたのが鏡越しに見えた。
「……リリアーナ様」
「なに?」
「旦那様の馬車が、正門を通過いたしました。エントランスホールへお向かいください」
「……ええ。わかったわ」
私は立ち上がり、大きく深呼吸をした。
肺の奥までミュゲの香りが満ちる。私はもう、リリアーナではない。ユリウスが愛した幻影を映し出すための、空っぽの鏡なのだ。
────
エントランスホールの大階段を下りると、ちょうど重厚な玄関の扉が開くところだった。
夜の冷たい空気とともに、数人の従者を従えたユリウスが入ってくる。彼の美しいプラチナブロンドの髪は少し乱れ、その横顔には長時間の議会による疲労が色濃く滲んでいた。
しかし、ホールに立つ私を見つけた瞬間、彼の双眸は驚くほど鮮やかに輝いた。
「ああ……私の愛しい人」
ユリウスは外套を従者に乱暴に投げ渡すと、長い脚で足早に私に近づき、その腕の中に私を強く閉じ込めた。
「ただいま、リリアーナ。君の顔を見たら、議会での腹立たしい出来事などすべて吹き飛んでしまったよ」
彼から漂う、外の冷たい風の匂い。
私の鼻先をくすぐる、彼の整髪料の微かな香り。
背中に回された腕の力強さと、私を求めるような熱い体温。
昨日までなら、この瞬間に私は天にも昇るような幸福を感じていた。
私を必要としてくれている。この広大な世界で、彼だけが私を求めてくれているのだと、そう信じて疑わなかった。
しかし今は、彼の腕の中に抱かれながら、私は氷の海に沈んでいくような底知れぬ恐怖と悲しみを感じていた。
彼は私の銀髪に顔を埋め、深く、深く息を吸い込む。
彼が吸い込んでいるのは、私の匂いではない。私に付けさせた、セラフィナと同じミュゲの香りだ。
「寂しい思いをさせてすまなかったね。今夜は、君とゆっくり過ごそう。夕食の準備はできているかい?」
「……はい。ユリウス様」
私が微笑みながらそう答えると、彼は満足そうに目を細め、私の額に優しく口付けた。
その感触は酷く甘く、そして、ひどく冷たかった。
ダイニングルームには、長いマホガニーのテーブルが置かれているが、ユリウスはいつも私を自分のすぐ隣に座らせた。
前菜のカルパッチョ、濃厚なビスク、メインの仔牛のロースト。どれもスラムにいた頃には想像もつかないほどの豪奢な食事だが、今日の私には、それが色鮮やかな泥の塊にしか見えなかった。
味がしない。まるで砂を噛んでいるようだった。
「……どうかしたかい? あまり食が進んでいないようだが」
ワイングラスを傾けていたユリウスが、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
私はハッとして、慌てて笑顔を作る。
「いいえ、そんなことありません。ただ、少し……あなたがいない間、お屋敷が広すぎて寂しかったから」
私がそう言うと、ユリウスは少し驚いたように目を見開き、やがて酷く嬉しそうに微笑んだ。
「そうか。君がそんな風に甘えてくれるのは珍しいね」
彼は私の頬に手を伸ばし、親指でそっと撫でる。
「……昔は、よくそうやって私を引き留めたものだが」
「えっ?」
「ああ、いや。なんでもない。ただ、君が私を求めてくれることが嬉しいんだ」
私の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
『昔は』
彼は今、はっきりとそう言った。出会って数ヶ月しか経っていない私との間に、そんな過去は存在しない。彼が思い描いていたのは、紛れもなくセラフィナの姿だった。
セラフィナは、彼を引き留める時、そんな風に甘えたのだろうか。
彼の目には今、誰が映っているのだろう。私の顔をした、私ではない女性。
「そういえば、王城の庭園で白薔薇が見事に咲いていたよ」
ユリウスは、昔を懐かしむような穏やかな声で話を続けた。
「君は薔薇が好きだっただろう? 特に、朝露に濡れた白い薔薇を。……あの温室で、私が君に初めて花冠を作ってあげた日のことを覚えているかい?」
——息が、止まるかと思った。
私は、薔薇など好きではない。スラムで生きてきた私にとって、花は食べることもできない無価値なものでしかなかった。前世でも、さほど花には興味がなかった。温室で花冠を作ってもらった記憶など、当然あるはずがない。
それは、彼とセラフィナの思い出だ。
どう答えるのが正解なのか。
『そんな記憶はありません』と否定すれば、彼はどうなる?
彼が作り上げた完璧な『セラフィナの幻影』を壊してしまったら、私は用済みとしてこの屋敷から放り出されるのだろうか。あの、泥と血の匂いが充満するスラムの路地裏へ。
それとも。
ユリウスという男の愛を失うことのほうが、私にとって恐ろしいことなのか。
(……私は)
テーブルの下で、ギュッと両手を握りしめる。
爪が手のひらに食い込み、痛みが走る。その痛みだけが、私が今ここに存在しているという唯一の証明だった。
私は、ゆっくりと顔を上げ、彼の青い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
そして、この世で最も美しい、残酷な嘘を口にする。
「……ええ。覚えていますわ。あの日の白薔薇、とても綺麗でした。あなたが作ってくれた花冠、私の宝物です」
その瞬間、ユリウスの顔に、言葉では言い表せないほどの安堵と、狂おしいほどの愛しさが広がった。
「ああ……リリアーナ。私の愛しい人。君が覚えていてくれて嬉しいよ」
彼は私の手を取り、その甲に何度も熱い口付けを落とした。
彼の手は震えていた。まるで、失われた過去を懸命に繋ぎ止めようとするかのように。
私は彼に嘘をついた。
彼の狂気に寄り添い、彼が望む『人形』になることを選んだ。
心の中では大粒の涙を流しながら、顔には完璧な微笑みを貼り付けて。
愛する人に嘘をつき続けること。それが、この豪奢な鳥籠で生きていくための代償なのだとしたら、私は喜んでその毒を飲み干そう。
たとえ彼が見ているのが私でなくても。彼のこの温もりに触れていられるのなら、私は身代わりで構わないのかもしれない。
────
夕食後、入浴を済ませた私は、寝室の広大なベッドで彼を待っていた。
シルクのネグリジェは薄く、肌寒さを感じるはずなのに、私の体は奇妙なほど熱を持っていた。それは、これから彼に抱かれることへの期待などではない。張り詰めた緊張感と、底知れぬ絶望がもたらす熱だった。
ガチャリ、と扉が開き、薄暗い部屋の中にユリウスが入ってくる。
彼はガウンを羽織り、少し濡れたプラチナブロンドの髪を片手で掻き上げながら、私の元へと歩み寄ってきた。
月明かりに照らされた彼の姿は、この世の者とは思えないほど美しく、神々しいまでに整っていた。
「……リリアーナ」
彼がベッドに腰を下ろすと、マットレスが微かに沈み込む。
彼は大きな手で私の頬を包み込み、ゆっくりと顔を近づけてきた。
鼻先が触れ合うほどの距離。彼の深いサファイアブルーの瞳に、怯えたような私の顔が映っている。
「愛しているよ。誰よりも、何よりも」
甘い囁きとともに、彼の唇が私の唇に重なる。
深く、息を奪うような熱い口付け。
彼の舌が私の唇を割り、口内を貪るように這い回る。抗うことなど許されない、圧倒的な熱量。
私は彼の首に腕を回し、その熱に身を委ねた。
彼の体温、彼の吐息、彼から香る私のものと同じ匂い。すべてが私を狂わせる。
彼の手がネグリジェの肩紐を滑り落とし、私の素肌をなぞる。
冷たい指先が鎖骨を撫で、胸元へと滑り落ちていくたび、私の体はビクンと小さく跳ねた。
彼は私を大切に扱う。まるで壊れ物を扱うように、慈しむように。
けれど、その優しさが今はただ残酷だった。
「……あ、ユリウス……」
こぼれ落ちそうになる喘ぎ声を必死に噛み殺す。
彼は私の上に覆い被さり、首筋に熱い痕を刻みつけていく。
愛されている。抱き締められている。
けれど、私の心はずっと、暗く冷たい深海を漂っているようだった。
やがて、行為が終わり、静寂が部屋を包み込む。
ユリウスは満足げなため息をつき、私を背後から抱きすくめるようにして目を閉じた。
彼の規則正しい寝息が聞こえてくる。
私は彼の腕の中で微動だにせず、ただ暗い天井を見つめていた。
身代わりとして自覚した初日。
私はなんとか、完璧に『セラフィナ』を演じきった。
彼に疑われることなく、彼を満足させることができた。
これでいい。これが私の生きる道なのだ。
そう自分に言い聞かせ、無理やり目を閉じようとした、その時だった。
「……セラフィナ……」
背後から、微かな、けれどはっきりと輪郭を持った寝言が聞こえた。
心臓が、鋭い氷の刃で串刺しにされたような衝撃が走った。
息が詰まる。喉の奥から、ヒュッと情けない音が漏れそうになるのを、両手で口を塞いで必死に堪えた。
「……あぁ、行かないでくれ……私の、セラフィナ……」
ユリウスの腕が、さらに強く私の体を締め付ける。
それは、私を抱きしめているのではない。彼の中から永遠に失われてしまった、最愛の女性を繋ぎ止めようとする、絶望的なもがきだった。
痛い。
息ができないほど、抱き締められている体が痛い。
でも、それ以上に、私の心が音を立てて砕け散っていくのがわかった。
起きている間は、彼は私を『リリアーナ』と呼ぶ。
無意識のうちに私をセラフィナと重ねていようとも、口から出る名前は私のものだった。
けれど夢の中では。
彼の魂が本当に求めている場所では、私は完全に存在を消されている。
彼が夢見ているのは、私と同じ顔をした彼女だけ。
どれだけ私が彼の腕の中で身をよじらせ、愛に応えようとも、彼が抱き締めているのは私の肉体を借りた幻でしかないのだ。
ポツリと。
頬を熱いものが伝い落ちた。
それは声にならない嗚咽となり、私の体を小刻みに震わせる。
(私を見て……)
声に出せない叫びが、胸の奥で渦巻く。
(お願い、ユリウス。私を見て。私に触れて。私はここにいるわ)
けれど、その願いが叶うことは永遠にないと、私は知っている。
私がこの温もりを享受し続けるためには、私は『私』であってはならないから。
「……愛しています、ユリウス」
私は暗闇の中で誰にも届かない愛を囁いた。
彼に向けた言葉でありながら、彼の中の『私』には決して届かない言葉。
月明かりが差し込む寝室で、私は彼の腕の中に囚われたまま、一晩中声を出さずに泣き続けた。
美しい青いリボンで首を絞められた鳥籠の鳥は、主人の愛という名の猛毒に少しずつ心を溶かされながら、明けない夜の闇を見つめ続けていた。




