鳥籠の鳥は、誰の夢を見るのか
ふわりと、鼻先を甘い香りがくすぐった。
それは春の訪れを告げるミュゲの香りに似ていて、けれどどこか、もっと重たくて甘美な、人を酔わせるような香りだった。
「……ん」
微かに身じろぎをすると、背中を包み込んでいた柔らかすぎるほどの羽毛布団が、かさりと衣擦れの音を立てる。最高級のシルクで設えられたシーツは、私の肌に吸い付くように滑らかで、かつて私が知っていた粗末な麻布の感触とは、まるで違う世界のもののようだった。
ゆっくりと重い瞼を持ち上げる。
視界に飛び込んできたのは、天蓋から吊るされた繊細なレースと、朝日を浴びてキラキラと輝くシャンデリアのクリスタル。そして——。
「おはよう、私の愛しい人」
甘く、鼓膜を震わせるような低い声。
ベッドの傍らには、この国の誰もが振り返るであろう美しい青年が座っていた。
流れるようなプラチナブロンドの髪は朝の光を透かして輝き、切れ長の双眸は深い深い湖のようなサファイアブルー。彼——ユリウス・フォン・クロイツェル公爵は、その形の良い唇に優しげな微笑みを浮かべ、私を見つめている。
「ユリウス、様……」
「何度言ったらわかるんだい? 二人きりの時は、ただユリウスと呼んでほしいと」
彼が長い指を伸ばし、私の頬にかかった髪をそっと掬い上げる。私の髪は、彼のプラチナブロンドとは違う、月光を溶かしたような銀色をしていた。彼はその銀糸を愛おしそうに指に絡め、そっと口付けを落とす。
「よく眠れたかい? リリアーナ」
「はい……。あなたの夢を、見ていました」
私がはにかむように微笑むと、ユリウスの青い瞳がふわりと細められた。彼は私の手を引き寄せ、今度はその手の甲に、手首に、そして指先にと、縋るような、祈るような口付けを何度も繰り返す。
「ああ、なんて愛おしい。君が私のそばにいてくれるだけで、私の世界は光に満ち溢れるんだ。君を愛しているよ、リリアーナ。私の命に代えても、君を守り抜くと誓おう」
その言葉は、まるで熱を帯びた呪文のように私の心を甘く溶かしていく。
胸の奥がきゅっと締め付けられ、同時に、満たされた幸福感が全身を駆け巡る。私は彼に愛されている。この国で最も気高く、美しく、冷酷だと言われる氷の公爵に、これほどまでに溺愛されている。
——けれど、時折、ふと思うのだ。
これは本当に、現実なのだろうかと。
私は、前世の記憶を持っている。
コンクリートのビルが立ち並び、夜になってもネオンが煌々と輝く『日本』という国で生きていた記憶。三十代半ばで、雨の日の交通事故であっけなく命を落とした私は、気づけばこの見知らぬ世界で、孤児の少女『リリアーナ』として生を受けていた。
前世の知識チートなどという都合の良いものは一切なかった。ただただその日を生き延びるために、泥水に塗れ、残飯を漁り、冬の寒さに凍えながらスラム街を這いつくばって生きてきた。
やがて成長した私は、運良く下町の仕立て屋で針子として雇われることになった。朝から晩まで指から血を流しながら布を縫い合わせ、それでも得られる銀貨はわずかばかり。温かいスープと固い黒パンが買えれば御の字という、底辺の暮らし。
貴族なんて、雲の上の存在だった。馬車が通れば平伏し、彼らの機嫌を損ねれば即座に首が飛ぶ。そんな理想とは程遠い理不尽な世界で、私はただ息を潜めて生きてきた。
運命が変わったのは、ほんの数ヶ月前のことだ。
仕立て上がったドレスを、貴族街のお屋敷へ配達に向かっていた雨の日。
ぬかるんだ道で足を滑らせ、私は派手に転んでしまった。泥だらけになったドレスを見て、弁償金で首を括るしかないと絶望し、雨の中で泣き崩れていた時のことだった。
『……信じられない』
ふと、頭上から震えるような声が降ってきた。
顔を上げると、そこには漆黒の馬車から飛び出してきた一人の貴族の青年が立っていた。泥跳ねなど気にも留めず、彼は濡れた石畳に膝をつき、私の顔を穴の開くほど見つめていた。
それが、ユリウスだった。
『あ、あの、申し訳ございま……』
『見つけた……ああ、神よ。感謝します。やっと、やっと見つけた……!』
怯える私を、彼は力強く、けれど壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。高価な外套が私の泥で汚れるのも構わず、彼は私の肩に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いたのだ。
訳が分からなかった。ただ、彼のその腕が酷く震えていて、あまりにも悲痛な響きを持っていたから、私は彼を突き飛ばすことができなかった。
それからの一連の出来事は、まるで嵐のようだった。
私は強引に公爵家の馬車に乗せられ、この広大で豪奢な屋敷へと連れてこられた。
戸惑う私をよそに、大勢のメイドたちが手際よく私を風呂に入れ、磨き上げ、高級な香油を塗り込み、見たこともないような美しい絹のドレスを着せた。
そしてユリウスは、私にすべてを与えてくれた。
煌めく宝石、豪奢な部屋、季節を問わず咲き誇る温室の花々、そして、彼自身の底なしの愛情を……。
「リリアーナ?」
「あっ、すみません。少し、ぼうっとしてしまって」
回想から引き戻され、私はユリウスに微笑み返した。
彼は少しだけ心配そうな顔をして、私の額に自分の額をすり寄せる。
「熱はないようだね。昨夜、少し無理をさせてしまったかな?」
「そ、そんなことは……」
途端に顔に熱が集まるのを感じて、私は視線を逸らした。ユリウスはクスクスと喉の奥で笑い、私を抱き上げてベッドから降ろす。
「今日は天気がいい。午後から庭園でお茶にしよう。君のために、君が好きな東の国の茶葉を取り寄せたんだ」
「私のために? ありがとうございます、ユリウス様」
「だから、様は付けなくていいと言っているだろう? ……さあ、着替えを手伝わせよう」
ユリウスが部屋を出ていくと、入れ替わるようにメイド長のマリアと数人のメイドが入ってきた。彼女たちは一切の無駄口を叩かず、機械的な動作で私の着替えを手伝う。
「本日は、こちらのドレスをご用意しております」
マリアが広げて見せたのは、深い海のような、あるいは群青の空のような、美しいブルーのドレスだった。上質なベルベットに、銀糸で緻密な百合の刺繍が施されている。
「……また、青色なのね」
ぽつりとこぼした私の言葉に、マリアの動きがほんの一瞬だけピクリと止まった。
「はい。旦那様からのご指定でございます」
「……そう。とても綺麗ね」
私は小さく息を吐き、両腕を広げた。
ユリウスが私に贈ってくれるドレスは、どれも一級品で美しい。けれど、その色は常に「青」か「白」の二択だった。
一度だけ、「春らしい若草色や、淡い黄色も着てみたい」とこぼしたことがある。その時の、ユリウスの顔が忘れられない。
彼は能面のように表情を消し、冷え切った声でこう言ったのだ。
『君には、青か白しか似合わない。他の色は必要ない』と。
あれほど優しく私を溺愛してくれる彼が、その時ばかりは別人のように見えて、私はそれ以来、自分の好みを口にするのをやめた。
髪型にも指定があった。私の長い銀髪は、必ず右側でゆるく編み込み、青いリボンと一緒にまとめなければならない。前髪の分け目すら、ミリ単位でマリアが調整する。香水も、ユリウスが調合させた重たく甘いミュゲの香りだけ。
まるで、精巧なアンティーク・ドールを作り上げているかのようだった。
(ううん、考えすぎよ。彼は私を愛してくれている。こんな孤児上がりの私を、誰よりも大切にしてくれているじゃない)
胸の奥にざわざわと広がる黒い染みのような違和感を、私は必死に心の奥底へと押し込めた。
彼に愛されている時間は幸せだ。
孤児として泥水をすすってきた私にとって、この温かく清潔な場所は天国そのものだったし、何より、私自身がユリウスという不器用で美しい青年を、深く愛してしまっていたから。
着替えを終え、鏡の前に立つ。
そこに映っているのは、スラム街で薄汚れていた『私』ではない。
青いドレスに身を包み、銀髪を美しく結い上げ、儚げで憂いを帯びた表情を作る、完璧な貴族の令嬢のような娘だ。
ふと、マリアたちメイドの視線が鏡越しの私に突き刺さっているのを感じた。
それは、身分不相応な娘への嫉妬や軽蔑ではない。もっと冷たく、そしてどこか『哀れみ』を含んだような色。屋敷の者たちは皆、私に恭しく接するが、誰も私の目を見て微笑んでなどくれない。彼らが見ているのは、私であって私ではないような、そんな薄気味悪さが常にあった……。
「……旦那様がお待ちです」
マリアの淡々とした声に促され、私は部屋を出た。
午後のお茶会は、陽光が降り注ぐ美しいガラス張りの温室で行われた。
ユリウスは終始機嫌が良く、自ら私のカップに紅茶を注ぎ、甘い焼き菓子を私の口元へと運んだ。
「美味しいかい?」
「はい。とても……」
「そうか、それは良かった。君の喜ぶ顔を見ていると、私の心まで救われるようだよ。……ああ、本当に。君は美しい」
彼は愛おしげに目を細め、テーブル越しに私の頬に手を伸ばした。
彼の大きな手が、私の銀色の髪を撫で、頬を包み込み、そして親指でそっと目尻をなぞる。
彼の冷たい手が触れるたび、私の心臓は跳ね、彼への愛おしさで胸がいっぱいになる。
「ずっと、側にいてくれ。二度と私の目の前から消えないと、約束しておくれ」
「はい、ユリウス。私はどこへも行きません。ずっと、あなたの側に」
私が答えると、彼は酷く安堵したように息を吐き、私の額に唇を押し当てた。
平和で甘やかな時間。
このまま、時が止まってしまえばいいのにと、心からそう思った。
しかし、その願いは、ほんの些細な出来事で唐突に終わりを告げることになる。
お茶会の最中、急ぎの使者が王宮からやってきたのだ。ユリウスの側近であるクロードが血相を変えて現れ、何事かユリウスに耳打ちをした。ユリウスの美しい顔が険しく歪む。
「……すまない、リリアーナ。緊急の議会が開かれるそうだ。今すぐ王城へ向かわなければならない」
「いってらっしゃいませ。どうかお気をつけて」
「ああ。夜には戻る。いい子で待っているんだよ」
彼は名残惜しそうに私に何度も口付けをしてから、足早に温室を後にした。
残された私は、一人静かに紅茶の残りを飲み干した。
主人が不在となれば、屋敷の者たちも忙しなく動き始める。私に付けられていたマリアも、何かの用事で一時的に席を外した。
完全な一人の時間。
ふと、私は以前から気になっていたことを思い出した。
この屋敷の西館。
そこは『絶対に近づいてはならない』と、ユリウスからも、メイドたちからも厳重に言い渡されている禁足地帯だった。
普段なら、ユリウスの言いつけを破るようなことはしない。彼に嫌われたくなかったから。でも、その時の私は、何か見えない糸に引かれるように、ふらふらと西館へと向かってしまっていた。
もしかしたら、メイドたちのあの『哀れみ』の視線の理由が、そこにあるのではないか。
そんな直感のようなものがあった。
屋敷の者に見つからないよう、息を潜めて長い回廊を進む。
西館はまるで時が止まったように静まり返っていた。埃ひとつ落ちていないところを見ると、定期的に掃除はされているようだが、人の気配が全くと言っていいほどない。
廊下の突き当たり。そこには、重厚な黒檀の両開き扉があった。
鍵は……かかっていなかった。
冷たいドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開ける。
ギィィ、というかすかな軋み音とともに、部屋の中の空気が流れ出してきた。途端に、噎せ返るような重たく甘いミュゲの香りが鼻を突く。
私がいつも身に纏わされているのと同じ、あの香りだ。
「ここは……?」
一歩、足を踏み入れる。
そこは、広大なアトリエ?のようだった。
分厚い遮光カーテンが引かれ、薄暗い部屋の中央には、大きなイーゼルがいくつも立てられている。そして、壁という壁を埋め尽くすように飾られていたのは——。
「え……」
呼吸が、止まった。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。
部屋中に飾られていたのは、数え切れないほどの『肖像画』だった。
油彩、水彩、デッサン。手法は様々だが、描かれているのはすべて同じ『一人の女性』
月光を溶かしたような、美しい銀色の髪。
深いアメジストのような、紫色の瞳。
右側でゆるく編み込まれ、青いリボンでまとめられた髪型。
深く美しい、ブルーのドレス。
——それは、私だった。
いや、どこか違う。
描かれている女性は、私と瓜二つの容姿をしているが、明らかに私ではなかった。
私のような、怯えた小鳥のような卑屈さは微塵もない。自信に満ち溢れ、気高く、太陽のように明るく微笑んでいる。スラムで育った私には絶対に醸し出せない、生まれながらの高貴な血筋を思わせる圧倒的なオーラ。
何より、最も新しく描かれたであろう中央の巨大な肖像画には、金色のプレートがはめ込まれていた。
震える足で、それに近づく。
プレートに刻まれた文字を、目でなぞった。
『我が永遠の愛、唯一の光、セラフィナへ』
「セラ……フィナ……?」
聞いたことのない名前だった。
けれど、その名前を口にした瞬間、点と点が一本の残酷な線で繋がった。
私が着せられている、青と白のドレス。
右側に編み込まれた銀髪。
重たいミュゲの香り。
ユリウスが時折見せる、私の向こう側を見透かすような虚ろな瞳。
彼が寝言で微かに呟いていた、聞き取れなかったあの愛称。
メイドたちの、哀れみを含んだ冷たい視線。
ああ。
ああ、そういうことだったの……。
「……見てしまったのですね」
背後から、氷のように冷たい声がした。
ビクンと肩を震わせて振り返ると、そこにはいつの間にか、ユリウスの側近であるクロードが立っていた。彼は王城へ同行したのではなかったのか。
クロードは、感情の読めない冷徹な眼差しで私を見下ろした。
「いつかは気づくことだとは思っていましたが……随分と早い幕引きでしたね」
「クロード様……これは……この方は、一体……」
「セラフィナ・フォン・ローゼンベルク公爵令嬢。二年前に流行り病で亡くなられた、我が主、ユリウス様の婚約者にして、彼の命よりも大切な、最愛の女性です」
最愛の女性。
その言葉が、鋭い刃となって私の胸を深々と抉った。
「ユリウス様は、セラフィナ様を失ったことで心を壊しかけました。後追いすら辞さないほどに。……そんな時、下町であなたを見つけられたのです。信じられないほどの偶然。髪の色、瞳の色、背格好に至るまで、あなた方はまるで双子のように瓜二つだ」
クロードは淡々と、まるで事務報告でもするかのように事実を並べ立てる。
「あなたがこの屋敷に連れてこられた由は……もうお分かりですね。リリアーナ。あなたは、セラフィナ様の『身代わり』なのです」
「身代わり……」
「ええ。顔の形が同じだけの、便利な器です。旦那様が愛しているのは、あなたという人間ではない。あなたに重ね合わせた、亡きセラフィナ様の幻影に過ぎない」
ガラガラと、私が築き上げてきた幸せな世界が崩れ落ちていく音がした。
『君を愛しているよ、リリアーナ』
『君が私のそばにいてくれるだけで、私の世界は光に満ち溢れるんだ』
甘く囁かれたあの言葉たちは、すべて、私に向けられたものではなかったのだ。
彼は私を見ていなかった。
私の皮を被った、かつての恋人を見ていただけ。
泥水の中から私を救い出し、与えてくれたあの圧倒的な光も、温もりも、甘い愛の言葉も、何一つ、私『リリアーナ』のものではなかった。
「……っ、あ……」
喉の奥から、ヒュッと引き攣った音が漏れた。
気づけば、私は床に崩れ落ちていた。豪華な青いベルベットのドレスが床に広がる。それはまるで、私を縛り付ける冷たい鎖のようだった。
視界が歪む。ポロポロと、とめどなく涙が溢れ出た。
「身分をわきまえなさい、リリアーナ。スラムの孤児であるあなたが、公爵からの寵愛を本物だと勘違いするなど、身の程知らずにも程がある。あなたはただ、言われた通りの服を着て、言われた通りに微笑み、旦那様を慰める『美しい人形』であればいいのです。心など必要ない」
クロードの言葉は正しい。正しすぎて、ぐうの音も出ない。
私のような薄汚れた孤児が、あんなにも気高く美しい人に、無条件で愛されるはずがなかったのだ。そんな都合の良いおとぎ話など、現実には存在しない。前世でだって、私は誰からも必要とされずに死んでいったではないか。
床に手をつき、ポタポタと落ちる自分の涙を見つめた。
悲しい。苦しい。胸が張り裂けそうだ。
いっそ、泥水の中でのたうち回っていたあの頃の方が、何百倍もマシだった。
希望を与えられ、愛を知り、そのすべてが嘘だったと突き落とされるこの絶望に比べれば。
(私は、彼を愛してしまったのに……)
初めて知った温もりだった。初めて私を『大切だ』と言ってくれた人だった。
彼が仮面の下で誰を見ていようと、私に向けられたあの優しい笑顔に、私は確かに心を救われていたのに。
壁一面に飾られた、美しいセラフィナの肖像画が、床に這いつくばる惨めな私を静かに見下ろしている。
ここにあるのは、狂おしいまでの純愛だ。
ただし、それは『彼』と『彼女』の間の愛であり、私が入る隙間など、最初から一ミリたりとも存在しなかった。
私は、鳥籠の鳥だ。
美しい青いリボンで首を絞められながら、彼が思い描く『愛しい幻』を演じ続けるだけの、虚ろな、ただの人形。
「……戻りなさい、リリアーナ。誰が見てしまうか分りません。これは貴女の為でもある。彼が望む、愛しい『セラフィナ』の顔をして、出迎える準備をしなさい。それが生き残る道だ」
クロードの冷酷な宣告が、暗い部屋に響き渡った。
私はゆっくりと立ち上がる。ドレスの裾が重い。足が鉛のように重い。
涙を拭い、顔を上げる。
これから私は、どうやって彼に微笑みかければいいのだろう。
あの優しくて甘い毒のような口付けを、どうやって受け入れればいいのだろう。
心はとっくに死んでしまったというのに、外側だけは豪華に飾り立てられた、見事な身代わり人形。
それが、この世界で私に与えられた、唯一の存在意義だった。




