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ソラオチ  作者: 髭琢
旅立ち
13/66

三つ目の化け物

 絨毯が隙間なく敷かれた回廊に、控えめな靴音が響く。


 紫紺のローブが歩みに合わせて静かに揺れ、肩まで流れる茶色の髪がふわりと舞った。彼の名はリューヴェン。セレヴィス王国を導く"三賢導"の一人。


 重厚な両開きの扉に手をかけ、押し開く。瞬間、玉座の間特有の冷たく張り詰めた空気が彼を包み込む。ゆっくりと歩み寄り、玉座の目前で片膝をつくと、厳かな声で告げた。


「女王陛下、ご報告があります」


 その言葉に応じるように、玉座の上から鋭い視線が彼に注がれる。


「先ほど、ファルザ村から"災獣が現れた"との連絡が初級魔導士ルードより入りました。にわかには信じがたい話ですが……何かご存じでしょうか?」


 アストリアの眉がわずかに動く。頭の中で素早く思考が巡った。


(ルードとはエリュナが残していった魔導士だな。確か、あの少年とともに王都へ向かっているはずだが……)


「私は、そのような未来を見ていない。災獣を目撃したと言っていたか?」

「いえ。これからその確認に向かう、とのことです」


 未来予知によって国を導いてきたアストリアにとって、"見えない未来"は最大の異常だった。シオネ村の件に続き、またしても予知に映らない出来事が現実となろうとしている。そして今回も、その中心にいるのはあの少年。


「現在、三賢導のメルフェリカも王宮におります。ご命令とあらば、私が直接確認に向かいますが……いかがなさいますか?」


 短い沈黙の後、アストリアは静かに首を振った。


「いや、待機していろ。本当に災獣がいるなら、すぐに連絡が来るはずだ」

「はっ!」


 力強い返答とともに、リューヴェンは玉座の間をあとにした。重々しい扉が音を立てて閉まる。静寂が戻った広間で、アストリアは玉座に身を預け、そっと瞼を閉じた。


 予知魔法を阻む"何か"が存在しているのかもしれない。その可能性が、彼女の胸にじわりと不安を染み込ませていった。


***


 その頃、ファルザ村から小さな影が湖へと向かっていた。


 食堂で出会った無邪気な人間アラン。彼の中に、自分とどこか似た何かを感じ取ったロニは、気になって後を追ってきたのだ。やがて湖のほとりに辿り着いた少年の目に、想像をはるかに超える光景が飛び込んできた。


 湖の中央で、"それ"がゆっくりと水面から姿を現している。


 クジラを思わせる巨大な白い胴体。表面には青い模様が不気味に浮かび、波間でゆらめく。大きく開いた口の奥には、まるで愉悦を含んだ笑みが張り付いていた。そして何より異様だったのは──尾びれで立ち、水面に対して垂直に浮かび上がっているその姿だった。


 船は激しく揺れ、突然現れた異質な存在にルードもチルカも息を呑む。だが、ただ一人、アランだけが瞳を輝かせていた。


「これが災獣か!? やっぱりいるじゃんか!!」


 その声に呼応するように、災獣の額にある不気味な三つ目が、ゆっくりと開く。


 黒く太い血管が網のように張り巡らされた横長の瞳。その中心が脈打ち、ドクン、ドクンと低い音を響かせるたび、空気がひび割れるような圧力が押し寄せた。その魔力は、かつて遭遇したガウムをはるかに凌ぐ。ルードの背筋を冷たい刃がすうっと撫でていく。


 次の瞬間──災獣が天に向かって咆哮した。


 轟音が空を切り裂き、湖面を叩きつけ、全身の奥底まで震わせる。その叫びが終わらぬうちに、三つ目がぐるりとこちらを捉え、まばゆい光を放った。


 直後、湖のあちこちで巨大な水柱が噴き上がる。水面は嵐のように荒れ狂い、足場さえも危うくなっていく。


「離れないと全滅します! 一度、陸に──」


 叫びながらチルカへ視線を向けたが、彼女の表情は絶望に染まりきっていた。それを見た災獣は、口元を大きく歪め、愉快そうに嗤う。


 水柱が静まり、荒れ狂う湖面が一瞬だけ凪いだ。ルードはその隙を逃さず、右手を水面へかざし魔力を解き放つ。足元の水が形を変え、踏みしめられる足場となる。彼は船から距離を取るべく、水上を駆け出した。


(このままでは、三人まとめてやられる……!)


 だが、その動きは逆に災獣の興味をさらに煽った。三つ目がふたたび光を放ち、今度は船を狙う。


 湖水が重力を無視して宙へ舞い上がり、轟音を響かせながら巨大な渦を巻いた。自然の理を逸脱したその光景が、災獣という存在の異質さを雄弁に語っている。


 しかし、そんな異様さを前にしても、アランは余裕の笑みを崩さなかった。人差し指を横に振りながら、挑発するように口を開く。


「チッチッチ。俺に魔法は効かないぞ、災獣!」


 だが、その隣にいるチルカは違った。


 経験の浅さから身体が固まり、災獣が放つ濃密な魔力の圧に足がすくんでいる。その様子を一目で察したアランは、迷わず行動を決めた。


(このままじゃ、チルカがやられる……!)


 災獣の注意を自分に引きつけるべく、船べりを勢いよく蹴って宙へ跳び上がった。


「こっちに当ててみろ!」


 その瞬間、災獣の狙いは完全にアランへと移る。渦巻く水面から姿を現したのは、巨大な一つ目を持つ"水魚"。水から生まれた幻獣のようなその存在は、光を透かしながら空中を滑るように迫ってくる。


 船をも凌ぐ巨体が、ゆっくりと、しかし確実にアランとの距離を詰めていった。その光景に、ルードの脳裏へ過去の記憶が稲妻のようによみがえる。かつて、ガウムの土槍がアランの身体を貫いたこと。


「アランさん!! それは──」


 だが、もう遅い。


 水魚はアランの目の前で大きく跳ね上がると、上空から獲物を仕留めるように襲いかかった。激しい衝撃音が湖面を震わせ、炸裂する水飛沫が視界を覆う。


 アランの身体は無情にも水面へ叩きつけられ、荒れ狂う波が船ごと全てを飲み込んだ。


「……チルカさん!!」


 水滴が雨のように降りそそぐ中、ルードの視界を横切ってアランが湖面を弾む。まるで水切り石のように、一度、二度、三度と跳ね、その勢いのまま岸辺の大木に激突した。鈍い衝撃音の後、彼は力なく崩れ落ち、地面に沈み込む。


 その光景を見届けた災獣は、水面へ視線を向ける。三つ目が妖しく光を放ち、湖水が轟音とともに渦を巻き始めた。やがて水の柱は巨大な腕へと形を変え、人差し指だけを立てる。チッチッチと先ほどのアランの挑発を真似たしぐさ。


 そして次の瞬間、口を裂くように歪め、愉快そうに嗤った。それはまるで、新しいおもちゃを手に入れた悪魔の子供のような、純粋で邪悪な愉悦。


 ルードが反撃する間もなく、災獣は次の行動に移る。水の腕は再び形を変え、今度は五匹の巨大な"水魚"へと姿を変えて水面を舞った。その全てがルードを中心に取り囲み、逃げ道を塞ぐ。


「一体、何をする気なんだ……」


 警戒する彼の頭上で、水魚たちは一斉に急上昇した。空中で渦を巻き、やがて五つの竜巻と化して降下を始める。凄まじい風圧と水飛沫が押し寄せ、逃げ場は完全に消えた。


 ルードは一瞬の判断で、足元に展開していた魔法を解除する。そのまま湖中へ身を投げたが、逃れたはずの水が生き物のようにうねり、五つの竜巻がひとつへと合流する。巨大な渦が湖底へ潜り込み、逆流する力でルードの身体を吸い上げた。


 次の瞬間、視界が一気に空へと切り替わる。


「……っ、え……?」


 重力が消えたかのような浮遊感。何が起きたのか理解する間もなく、身体はアランの方角へと落下していく。


(まずい……このままじゃ地面に叩きつけられる!)


 落下の最中、ルードは咄嗟に左手で右手首を押さえ、魔力を集中させた。青白く揺れる光が手のひらに宿り、その真下に淡く輝く水の輪が展開される。


「水の生成魔法──リングバッファー」


 地面すれすれに出現した水の輪が膨らみ、中心部が柔らかく沈む。そこへ落ちたルードの身体は、水にふわりと包まれ、反発するように軽く跳ね上がった。


 直後、空中で竜巻がバシャン!と音を立てて弾けた。飛び散った水滴が細かな雨のように舞い、地面に倒れていたアランの頬に冷たく降りかかる。


「ぐっ……」


 冷たさに目を覚まし、アランは苦痛をこらえて視線を巡らせた。視界の端に、ルードの姿が映る。息を切らしながらも、どうにか着地を成功させたらしい。彼は大きな怪我もなく、泥を蹴ってアランのもとへ駆け寄ってくる。


「無事だったんですね! 死んだかと思いましたよ!」

「……あれは……魔法じゃないのか?」


 アランの頭には疑問が渦巻いていた。災獣が操る水魚は、これまで見た火球や風の刃とは違った。火や風なら打ち消せたのに、今回は身体ごと吹き飛ばされて叩きつけられたのだ。


「あれは湖の水を使った操作魔法です」

「操作魔法……?」


 魔法には大きく分けて二つ。既存の物質を操る"操作魔法"と、魔力から物質を生み出す"生成魔法"がある。しかし、魔法の存在を知ったばかりのアランには、その違いまでは理解できなかった。


 ただひとつ、あの災獣の攻撃は避けなければ確実に当たる──それだけは直感で理解していた。


 一方、船の転覆によって湖へ投げ出されたチルカは、杖に魔力を込めて水面下を必死に進んでいた。杖を両手で握りしめながら水中を移動し、どうにか湖畔に辿り着く。


「……ごほっ、ごほっ……」


 湖畔に這い上がり、膝をついて苦しそうに湖水を吐き出す。その姿を見つけたルードがすぐさま駆け寄り、腕を差し伸べた。


「チルカさん! 大丈夫ですか!?」


 支えられながら振り返るチルカの身体は、小刻みに震えていた。


 湖上では、全身から禍々しい魔力を放つ災獣が、三つ目をぎょろりと動かしながら不気味に口を歪め、嗤っている。その眼差しを受けるだけで、理性が削り取られていくような圧倒的な恐怖がチルカの思考を麻痺させていった。


「ヴォォォ!!」


 重低音の唸り声と同時に、三つ目が再び光を放つ。湖面が激しく盛り上がり、巨大な水流が立ち上がって渦を巻き始めた。


「……またあれが来ます! 一度退いて、王宮に連絡しましょう!!」


 しかし、それを災獣が見逃すはずもなかった。渦の中心から、再び一つ目の水魚が解き放たれる。それは空中を泳ぐように進み、禍々しい笑みを浮かべたまま、一直線にルードとチルカへと迫った。


 その瞬間、アランが立ち上がり駆け出す。走りながら首飾りを引きちぎるように外し、腕を大きく広げた。


 右手に銀の光が集まり始め、やがて輝きは刃の形を取っていく。赤い線が中央を走る双刃。精緻で美しく、そしてどこか冷たい気配を帯びた銀の剣が手の中に現れた。


 その剣を両手で握り、迫り来る水魚へ真っ向から踏み込む。そして、渾身の一閃が空を裂いた。銀光が弧を描き、水魚は真っ二つに断たれる。飛び散った水しぶきは陽光を受けて瞬き、霧のように消えていった。


 あまりの光景に、ルードもチルカも言葉を失い、ただアランの背中を見つめていた。


「なんですか……その剣は……」


 ガウムとの戦いで使われた無骨な武器"銀の棍"と似た雰囲気を漂わせる"銀の剣"を見て、首飾りが違う武器に変化したことに、ルードは驚きとわずかな畏怖を覚えた。


「次は、あいつを真っ二つにしてやる!」


 圧倒的な魔法を前に笑みを浮かべる少年を見たチルカは、その笑顔に──無邪気を通り越した狂気めいたものを感じていた。


 魔法を無効化されてもなお、災獣は怯むどころか楽しげに身体をくねらせる。三つ目がぎらりと光を放つと、湖面から無数の小さな水魚が一斉に姿を現した。


 波打つ水面の上で、その群れが一斉に牙を剥き、獲物を呑み込もうと迫ってくる。


「っ……この数はまずいですよ!」


 咄嗟にアランは、動けずにいるチルカを抱きかかえ、ルードと走り出した。背後では、水魚が地面に突撃するたびに土煙が爆ぜ、湖畔の地形が削られていく。


「なあ、さっき水の上に立ってただろ? 俺も立てるようにできるか?」

「……えっ!? できないこともないですけど……」


 走りながら振り返ったルードは、アランの目を見て息を呑んだ。そこには逃げる意思など微塵もなく、まるで今から遊び場に飛び込む子供のような輝きが宿っている。


「……あれと、本気で戦うつもり……?」


 腕の中で呟くチルカの声は、湖面を渡る風のようにか細かった。しかしアランは、不敵な笑みを崩さず災獣を見据えている。


 やがて水魚の猛攻が一度引き、周囲に短い静寂が訪れる。


 アランはそっとチルカを地面に下ろすと、背筋を伸ばし、まっすぐに災獣へと向き直った。その声が湖畔に響き渡る。


「反撃開始だ!!」


 無邪気な笑顔の奥に潜む狂気と、邪悪な愉悦に満ちた狂気──二つの"狂気"が激突する。

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