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ソラオチ  作者: 髭琢
旅立ち
12/66

チルカの過去

 湖の場所を聞いた三人は、食堂を出るなり足早に村の外へ向かった。


 ルードは顎に手を添え、うつむいたまま無言で歩く。その隣を歩くチルカが、ぽつりと問いかけた。


「災獣の件、王都に報告しないんですか?」


 その一言に、ルードはぴたりと足を止めた。視線をさりげなく周囲へ走らせると、村のあちこちで魔族たちが視線を交わし、ひそひそと囁き合っているのが目に入る。


「……村の中での連絡は避けましょう。外に出たらすぐに報告します」


 声をひそめてそう答えると、ルードは再び歩き出した。その背を追おうとしたアランの耳に、背後から鋭い声が飛ぶ。


「おい」


 振り向くと、食堂の壁際に腰を下ろしていた魔族のモクザイが、腕を組んだまま鋭い眼差しでこちらを睨んでいた。


「……あの時の、入り口にいたやつか」


 警戒するように目を細めるアランに、モクザイは切り捨てるように言い放つ。


「人間のくせに、魔族のために戦う気か?」


 その声には、抑えきれない怒りと、混じりけのある戸惑いが入り混じっていた。どうやら、先ほどザンダロと交わした会話を耳にしていたらしい。


 災獣は人間の仕業。そう信じて疑わないモクザイにとって、アランたちの行動は到底受け入れられるものではなかった。


 だが、アランは臆することなく言い返す。


「……困ってるんだろ? 関係あるか? 人間とか、魔族とかさ」


 その短い言葉には、曇りのない真っ直ぐさがあった。しかし、モクザイの表情はかえって険しく歪む。彼にとって、「関係ない」などという言葉は、あまりに軽く響いたのだ。


 魔族の歴史には、深い痛みと怒りが刻まれている。二十三年前まで、この土地は人間と魔族の争いで血に染まり、モクザイ自身もその戦いで両親を失った。だからこそ、その胸の奥から滲み出る思いは、重く沈んだ声となって漏れた。


「……関係、大ありなんだよ」


 声は低く、地を這うようだった。


「お前らが死にかけても、誰も湖には行かねぇぞ」


 吐き捨てるように言い残し、モクザイは背を向けた。その背中には、怒りでも憎しみでもない、拭いきれない悲しみと長年背負ってきた重さが滲んでいた。


「アランさん。早く、村を出ましょう」


 遠くからルードの声が飛んできた。アランははっと顔を上げ、二人のもとへ駆け寄る。そのまま三人は、ファルザ村をあとにした。


 ──湖へ向かう途中、ルードとチルカは足を止め、通信魔道具を取り出す。


 空中に淡く光る映像が浮かび、そこに映った男は中級魔導士のトルビ。短髪でがっしりとした体格をした彼は、王都に常駐し、地方の情報収集や必要に応じた王宮への報告を担当している。


「災獣だぁ? 魔獣の見間違いじゃねえのか?」

「……僕もそう思いますよ。でも、村の様子が……」


 声には、どこか迷いが滲んでいた。"災獣"だと断言するには証拠がない。だが、ファルザ村の異常な反応は、どうにも引っかかる。


「ま、災獣の話なんて信じちゃいねぇが……念のため、王宮には伝えておくさ」


 軽口を叩きながらも、トルビは最後に真面目な顔を見せて通信を切った。


「……やっぱり、信じてもらえませんでしたね」

「真面目に報告した自分が、ちょっと恥ずかしいです」


 それも無理はない。"災獣"など、神話の中だけの存在。普通の人々にとっては、信仰や空想の域を出ない話だ。


 だが、アランだけは違っていた。不安も疑いも知らず、彼はただ「もうすぐ会える」と、目を輝かせていた。


***


 その日の午後、三人は湖を目前に控えた場所で足を止めた。


「今日はここまでにして、明日にしましょう」


 そう言ったルードの言葉に、アランはきょとんとした顔を向ける。


「湖までもうちょっとなんだろ?」

「森の夜は早くて暗い。戦っている最中に日が沈んだら、こちらが圧倒的に不利になります」


 災獣の存在を信じていなかったはずのルードも、どこかで"何か"の気配を感じていた。それは単なる予感かもしれない。だが、その微かな兆しを見逃さないのが、彼の慎重さだった。


 日が傾き、焚き火がぱちぱちと音を立て、暖かな光が森の中をぼんやりと照らす。その光の向こうで、チルカは無言のまま炎を見つめていた。言葉はない。ただ、胸の内では静かな葛藤が渦を巻いていた。


 (私は、本当に戦えるんだろうか……)


 得意なのは、地を操る魔法。それだけ。"災獣"と呼ばれる存在に、まともに立ち向かえるのか。


「……まだ寝ないのか?」


 焚き火の向こうから、アランの声が届く。


「ええ……もう少し」


 焚き火の明かりが、チルカの横顔をやわらかく照らし、影を揺らす。彼女はふとアランの瞳をのぞき込んだ。


「……アラン君は、怖くないの?」


 チルカは、その瞳に映る自分の姿を見つめる。次の瞬間、意識は遠く、風の記憶へと引き戻されていった。


 ──あの日。十二歳のチルカは、小さな背で石段を駆け上がっていた。たどり着いたのは、王都を見渡せる高台。


 眼下に広がる街並みは、陽の光に照らされてきらきらと輝き、遠くの城壁には王紋石が埋め込まれ、そこから立ちのぼる魔力が空へとゆらめき、防壁結界を美しく彩っていた。


 風が吹き抜ける。


 チルカは台の端に立ち、両腕を大きく広げて目を閉じた。頬を撫でる風は、まるで誰かに優しく抱かれているようで、胸のざわめきが静かにしずまっていく。思わず、唇に笑みがこぼれた。


「落ちないでね」


 その声に振り返ると、母のマルラが立っていた。優しいまなざしで、少し離れた場所からチルカを見守っている。


 二人は、よくこの場所を訪れた。多くを語らず、ただ並んで風に吹かれ、時折視線を交わすだけ。ただその静けさの中に、確かな絆があった。


 帰り道にはいつも本屋に立ち寄り、チルカは魔法の本を一冊だけ選んでもらう。家に戻ると、ベッドに寝転び、本を宙に浮かせてページをめくった。


「へぇ……風の生成魔法は、イメージが難しくて使う人が少ない……なるほどね」


 魔導士を目指す者は、まず独学で魔法を学び、十五歳になると唯一の学び舎、セレヴィア魔導学院への入学を目指す。


 チルカは魔導士を目指していた。魔法をうまく使えるようになって、上級魔導士である父に褒めてもらいたかったのだ。


 そんなある日。いつもの広場で魔法の練習をしていた彼女の前で、一人の少年がつまずいて転んだ。


「いった〜……」


 情けない声をあげ、擦りむいた膝を押さえて座り込む。チルカはすぐに駆け寄り、膝に手をかざした。掌に集めた白い魔力は、ゆっくりと緑色に変わり、傷を癒していく。


「もう、大丈夫。……治ったでしょ?」


 微笑むと、少年はほっとしたように笑い、礼を言って駆けていった。


 しかし、本当に欲しかったのはこんな優しい魔法じゃない。父に認められるような、もっと強く、もっと堂々と放てる魔法。両手で放つ、力強い一撃だった。


 別の日。チルカは胸の前で両手を合わせ、右手に集めた魔力を左手へと流す。両手が白く輝き、空へ向けて詠唱を始めた。


「風のせいせ──っ!」


 だが次の瞬間、魔力が暴走した。


 突風が巻き起こり、噴水の水が逆巻き、石のベンチが宙を舞う。悲鳴と土煙が広がり、舞い上がった破片が子供たちを襲い、何人かが大けがを負った。


 それ以来、チルカにとって「魔法」は恐怖と後悔の象徴となった。それでも十五歳になった彼女は、セレヴィア魔導学院へ入学した。だが、そこで待っていたのは憧れでも尊敬でもなく、冷ややかな視線だった。


「杖がないと魔法使えないんだってさ」「操作魔法だけ? それで魔導士って呼べるの?」


 陰口は遠慮なく耳に刺さる。魔法がうまく使えなければ、戦えない。そう信じていた彼女の前に現れた少年は、あまりに異質だった──。


「魔法が使えないのよ。それに、相手は災獣。……勝てると思う?」


 鋭い視線で言い放った彼女に、アランは一瞬きょとんとし、すぐに笑って返した。


「でも俺は、魔法が効かないみたいなんだ! こっちの世界じゃ、無敵だろ?」


 まるで冗談のように言うその軽さが、チルカには信じられなかった。


「それにさ、魔法が使えなくても、自分にできることを全力でやるだけだし」


 その言葉が、不意に胸の奥で引っかかる。自分では制御できない魔力を持ち、それで人を傷つけたチルカ。もし、アランもまた制御できない力を抱えているのだとしたら。


 胸に生まれたのは、ごくわずかな共鳴だった。


 ただ、二人の違いは一つ。その力で「誰かを傷つけたか」それとも「誰かを救ったか」それだけだった。


***


 朝日が昇り、三人は静かに歩みを進めていた。緩やかな坂を登りきった瞬間、視界いっぱいに広がる光景に、思わず息を呑む。


 そこにあったのは、空をそのまま映し取ったかのような鏡面の湖だった。水面は風一つなく、雲の形さえ映し出すほど澄み渡っている。遥か対岸には木々が点のように並び、空と地の境界が曖昧になっていた。


「これが……湖!? でけぇえええーっ!!」


 アランの叫びが空に吸い込まれていく。隣でルードも、普段の冷静さを忘れて声を漏らした。


「僕も初めて来ましたけど……これは圧巻ですね」


 いつも表情を崩さないチルカでさえ、驚いた表情を浮かべて見入っている。その口元はわずかに開かれ、驚きを隠しきれていなかった。しばしの静寂の後、アランがあたりを見渡して首をかしげる。


「でも災獣はいないみたいだな。動物の気配もないし」


 肩をすくめたルードが、静かに言葉を返した。


「災獣なんているわけないですよ。ただ、村人を襲った魔獣は、どこかにいるはずです」


 アランは一瞬だけ残念そうな顔をしたが、すぐに何かを見つけたように目を輝かせた。


「じゃあさ、釣りでもしようぜ! 小屋に船もあるし」


 指差した先には、木造の小さな小屋と一艘の古びた船。さらに湖の奥には、同じような小屋が点在しているのが見えた。アランは小屋へ駆け込み、埃をかぶった釣竿を三本抱えて戻ってくると、満面の笑みで二人に差し出した。


「僕、釣りなんかしたことないですよ」

「私もよ」


 思いがけない返事に、アランは固まった。


「え!? 釣りしたことないのか!?」


 動揺するアランを横目に、ルードは困ったように呟いた。


「……要は、魚を捕まえればいいんですよね?」


 そう言って湖へ歩み寄り、右手を軽くかざした。すると、湖面が静かに盛り上がり、大きな水の塊がふわりと空へ浮かび上がる。水の塊が陸へと落ちると、中から魚が何匹も跳ね、バシャバシャと暴れた。


 続いてチルカも杖を構え、小ぶりな水球を作る。その中にも数匹の魚が入り込み、地面に転がった。


 呆然とその様子を見ていたアランが、ついに声を上げる。


「な、なにやってんだよ……お前ら……」


 きょとんとしたルードが振り返った。


「え? だって魚が欲しかったんでしょう?」


 次の瞬間、アランの叫びが湖畔にこだました。


「釣りってのはな、命と命のかけあいなんだ! あんな呆気なく捕まってみろ、魚の誇りが泣くぞ!」


 まるで聖典を朗読するかのような熱弁。それはかつて、シオネ村でゾーイから教わった"釣り哲学"。冗談に聞こえるが、アランにとっては真理そのものだった。


 ぽかんと口を開け、ルードは数歩あとずさる。するとチルカが、さらりと追い打ちをかけた。


「ルードさん。神話よりも大事ですか? その教えって」

「ぼ、僕じゃないですよ!? 教えたのは……!」


 慌てるルードをよそに、アランはお構いなしで二人に釣竿を押し付ける。


「船もあるし、湖の真ん中まで行こうぜ! 箒は小屋に置いてけよ。釣りに魔法なんて使っちゃダメだからな!」


 すっかり釣りモードに入ったアランが先導し、三人は船へと向かう。やる気ゼロのルードは竿をぶら下げ、深いため息をついた。


「僕は……漕ぎませんよ」

「俺が漕ぐからいいよ! ってチルカ! なんで杖持ってきてんだよ!?」

「杖がないと魔法が使えないのよ」

「魔法は使うなって言ったろ……」


 チルカは無言でアランを見つめたまま、まったく動じない。船はきしむ音を立てながら、静かな湖面を滑っていく。やがて湖の真ん中に差しかかり、アランが櫂を止めた。


「よし、この辺にしようかな!」


 にやりと笑って釣竿を振りかぶった、その時だった。


 三人の背後で、"何か"が静かに、しかし確かに蠢き始めていた。湖の奥底から、異様な気配がせり上がってくる。音もなく、泡すら立てず、ただただ冷たく重い圧力となって水面を押し上げていく。


 やがて、水面が不自然に盛り上がり始めた。まるで湖そのものが息を吐くように、水が脈打ち、震える。不意に船が大きく揺れたことで、三人が一斉に振り返る。


 そして、目にした──水をまとった巨大な影が、のたうつように立ち上がるのを。

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