*7*
アマリーは羽ペンの羽で顎をくすぐりながらかれこれ一時間ほど悩み、ようやくまっさらな紙に一文字目を書き始めた。
「えーと……、親愛なる兄様。わたしの方は色々ありましたが、新しい婚約者と来年には結婚することになりました。……あ、勘違いしないでくださいね。兄様よりも断然素敵な人と結婚しますから、っと。雪しかない村で、悔しがっていてくださ――」
「……素敵な人、ですか」
「きゃあっ!」
いつの間にか背後に彼――ライナスが立っていて、アマリーは条件反射で、両手のひらで書きかけの手紙を覆い隠した。
私信を覗き込む人ではないとわかってはいる。
どのみち初めから一字一句口に出して言ってしまっているので、隠したところで手遅れだった。
アマリーは非難がましい目を彼へと向ける。
「……ノックはしましたよ」
彼は礼を欠いていないことを静かに告げた。
「返事はしていないわ」
「中にいるはずなのに、まったく返事がなかったので」
「もしかして……心配してくれたの?」
期待して訊いたのに、返ってきたのは愛想の欠片もない一言。
「また脱走しているかと」
「わ、わたしだって、毎回家を抜け出しているわけじゃないわよ!」
ただでさえ日頃の悪い行いばかりを彼の目にさらしているというのに、前回の顔合わせ直前に逃亡を図ったことも、おしゃべりなメイドたちが話してしまったのだ。おかげでアマリーに対する信用は、完全に失墜してしまっている。
とりあえず彼が会いに来てくれたのだから、今はのんびりと手紙を書いている場合ではない。そう思い手紙を裏返して片づけをし始めたアマリーは、唐突に背中から抱きしめられた。
まだ慣れないその触れ合いにどきどきしていると、後ろから伸びてきた彼の右手が、まだ宛名も書いていない封筒を手に取った。
彼はアマリーを抱きしめたのではなく、ただアマリー越しにその封筒を取りたかっただけらしい。
この瞬間のときめきを返して欲しい。
「……誰への手紙ですか?」
がっくりしていたアマリーは、その声に、おや?と思った。しかしあえて突っ込まずに、彼の方へと向き直り、平静を装いながら答える。
「前の婚約者によ」
ライナスは封筒を元の位置に戻したその指で、アマリーの顎を摘まんで顔を上げさせた。
そして、口づける。優しく、だけど情熱的に。
子供のキスではなく、憧れだった大人のキスだ。
やはりアマリーの思った通り、妬いてくれていたらしい。
表情とは裏腹に、意外と感情は豊かなのだ。
唇が離れてすぐ、乱れた吐息が触れてしまいそうな距離で尋ねられた。
「……まだ未練がありますか?」
「ないわ。……今はね」
こうしてアマリーだけを見てくれる人がいるのだから、今は嘘みたいに幸せだ。
手紙に書こうとした内容に、嘘偽りも、意地や見栄もない。本当に幸せなのだ。
それを伝えれば、元婚約者の罪悪感も少しは消せるだろう。
そう思って、アマリーは手紙の返信をすることにしたのだった。
いつかお互いに昔のことは水に流して、あの頃こんなことがあったねと笑って再会できればいいと思う。
その時は、お互いに愛する人と一緒に――。
「そういえば……」
アマリーが言いかけてやめると、ライナスは続きが気になったらしく、眼差しだけで追求してきた。
言わなければ引かなそうなので、アマリーは自分で口にするのはかなり恥ずかしい質問を仕方なくすることにした。
「あなたは、いつからわたしのことを……その、意識していたの?」
それにライナスは動揺もせず、いつもの表情のまま端的に答えた。
「あなたが、婚約者の亡くなった可哀想な令嬢として噂になったあたりです」
それは意識ではなく、認識ではないのか。
いつアマリーのことを知ったのかではなく、いつ好きになったのかを尋ねているというのに。
「そうじゃなくて。――もう!察してよ。……いつ好きになったかを聞いているの」
恥ずかしさで尻すぼみになるアマリーに、ライナスはきちんと伝わらなかったことを理解したらしい。
もう一度、今度ははがゆさをかすかににじませた口調で言った。
「……だから、その頃ですが」
「え、何で?」
それはあまりに予想外な時期だったので、喜びよりも不思議さが勝り、きょとんとしてしまった。
ライナスは、座ったまま首を傾げるアマリーから、視線を裏返された手紙へと落とした。
「これでも王子の側近なので、あなたの元婚約者が、実際は亡くなったのではないことは情報として知っていました。あなたが相手の背中を押して行かせたことも。なのでてっきり、自分と同じかと……」
しかし実際は、アマリーは彼とは違い、涙を呑んで身を引いた。
そのことを知った時、優しい彼のことだから、親近感を覚えたことをきっと後悔したのだろう。
自己嫌悪で染まる彼に、気にしないでと手のひらを重ねると、かすかに目を細めてこちらを向いた。
「……あなたがどのような人か想像する内に、実際に会ってみたくなりました。そしていつの間にか、自分がその男よりもあなたを幸せにできないかと考えたりしていて。……つまり俺は、顔も知らないあなたを好きになっていた」
その告白に頬を真っ赤にしたアマリーは、つい素直でない言葉が口をついて出た。
「ざ、残念だったでしょう?とんだお転婆娘で」
「それ、気にしてたのですか?」
「だって、事実だし……」
「残念ではありませんでしたよ」
「え?」
「想像とは確かに違いましたが、実際のあなたの方がずっといい。俺とこうして普通に会話してくれる人は、少ないですから」
「どうして?」
その疑問に、ライナスはかすかに苦笑したように見えた。
「同姓には何を考えているかわからないと言われて、異性には怖がられるので」
初対面の時、アマリーも彼を怖いと感じた。しかしそれは、怒られても仕方ないことをしたからであって、表情のせいではなかった。
アマリーには彼のささいな感情の変化がわかる。
きっと、好きな人だからだ。
「初めは怖がられると思ったので、伯父の夜会でも話しかけることなく遠くから見ているだけでした。――まさか外へあなたの様子を見に行って、雪の雫をぶつけられるとは思いませんでしたが」
アマリーは自分の失態に赤面して弁解しなければと身を乗り出した、
「あ、あれは……!」
「運命だと思いました」
「え、う、運命?」
さすがに照れがあるのか、驚きを露にするアマリーから、ライナスは目線を外した。
「前に、王子の付き添いでお会いしたケイティ嬢から、無理やり恋占いをされたことがあって……」
(もう!ケイティったら!)
誰彼構わず遠慮なく占いをする彼女に、彼も振り回されたのだろう。
「ケイティに何て言われたの?たぶん失礼なことは言っていないと思うけれど……」
「雪の雫」
「え?」
「それだけしか教えてもらえませんでした」
(続きが気になるのなら、お金を払えということね)
意地悪な友人は、人の心理をたくみについて商売しているらしい。
だけど誰に対しても一貫しておもしろがっているだけのように思う。
(あれ?でも、……ちょっと待って。彼とケイティが会っていたのなら、あの噂が嘘だって知っていたはずじゃ……)
ライナスの恋占いをしていたのなら、第三王子との間に何もないことくらいわかっていたはず。
そもそも第三王子が顧客の一人なのだから、知らない方がおかしい。
思えばケイティは、あくまで噂話をしていただけで、それが真実だとは言っていない。
彼女が扇の向こうで何度も笑っていた時点で、からかわれていることに気づくべきだったのだ。
(――ケ、ケイティ!!騙したわね!)
アマリーは心の底に向かって、友人への悪態をついた。
きっと普通にうまくいくとつまらないから黙っていたに違いない。
勘違いをして恋に悩むアマリーを見て、さぞ愉快だっただろう。
怒りに震えていると、ライナスがアマリーの左手を取った。
「本当は雪の雫を採ってきたかったのですが……」
薬指にはめられたのは青い宝石のついた指輪。
その石の色は、アマリーの瞳の色によく似ていた。
普通の令嬢ならば、永遠を意味する雪の雫を贈られることこそ愛の証だと思うだろう。
だけどアマリーは知っている。そんな宝石に頼らなければいけない絆に、どれほどの価値があるのだろうか、と。
「いいえ、こっちの方が素敵よ。だって、雪の雫を採りに行って、あなたまで帰って来なくなったら困るもの」
嬉しさのまま微笑むと、ふわりと抱きしめられた。
「本当はあなたからいただいた雪の雫を指輪にしようと思ったのですが、これは前の婚約者からの贈り物と聞いて、それを返すのは違うかと。それに、……個人的に嫌だったので」
淡々とした物言いなのに独占欲を隠さないライナスへと、アマリーは赤く色づいた顔を埋めて囁いた。
「それはあなたが持っていて。……あなたが、幸せになるように」
背中に回った腕に、少しだけ力がこもった。
「俺はあなたが隣にいてくれれば幸せです。だから黙って家を抜け出すようなことは控えるようにしてください」
「あなたやっぱりわたしのことをお転婆娘だと思っているじゃない!」
憤慨するアマリーの耳元で、くすっと笑ったような彼のかすかな声が聞こえた。
慌てて見上げたものの、すでにその顔は普段と変わらないものになっていた。
残念だ。笑った顔を、見てみたかったのに。
(……いいわ。いつか、腹筋が筋肉痛になるくらいの大笑いをさせてみせるから)
チャンスはいくらでもある。
だって二人で過ごす時間はまだ、これからたくさんあるのだから――。
これでアマリーのお話は完結です!最後までありがとうございました!