忖度のショップ
メガネを外したまま、佐藤(59歳)は陳列棚のスマートフォンのスペック表を睨みつけていた。
正確には、「睨みつけるふり」をして、ぼやけた視界のなかで必死に文字のシルエットを解読しようとしていた。ここで胸ポケットの老眼鏡を出してしまえば終わりだ。「あぁ、あのジジイもついに年貢の納め時か」と、店内に漂う若い店員たちの視線に晒されることになる。
「お客様、何かお探しですか?」
背後から声をかけてきたのは、20代半ばと思われる清潔感のある男性店員だった。胸のネームプレートには『鈴木』とある。
「あー、うん。そろそろ、スマホにしようかと思ってね。まあ、仕事でもプライドがあるし、シュッとした……あの、薄くて黒いやつをね」
佐藤は知った風な顔で、一番スタイリッシュな最新の海外製モデルを指さした。もちろん、その横にある小さな説明書きは一文字も読めていない。
鈴木店員は一瞬だけ佐藤の目元——必死にピントを合わせようとして眉間に深いシワが寄っている顔——に視線を走らせると、プロの微笑みを崩さずに頷いた。
「なるほど、スタイリッシュなモデルですね! お客様はお仕事もバリバリされていますし、お似合いになると思います」
よし、通じた。佐藤が心の中で小さくガッツポーズをした瞬間、鈴木店員はなめらかな手つきで隣の棚へと佐藤を誘導した。
「ただ……実は今、お客様のように『お忙しくて余計なストレスをかけたくないスマートなビジネスパーソン』に爆発的に売れている、日本の職人技術が詰まった限定モデルがありまして」
そう言って鈴木が示したのは、角が少し丸っこい、いかにも頑丈そうな国産のスマートフォンだった。
「こちら、画面の発色が非常に目に優しく、どんな光の加減でも『瞬時に情報を識別できる』特殊液晶を採用しておりまして。あえてボタン類も大きく押しやすい設計なんです。あえて、です」
(……それ、要するにシニア向けってことじゃないのか?)
佐藤の頭に疑念が浮かぶ。しかし鈴木店員は、絶妙な「忖度」の笑顔を浮かべたまま追撃の手を緩めない。
「文字サイズも『超高視認性モード』というのが標準装備でして。無駄なスクロールを極限まで減らし、一目で要点が届くという……まあ、仕事の効率化ですね」
「……なるほど。効率化か」
「はい。多忙な方ほど、これを選ばれます」
バレバレだった。完全に老眼対策であることを隠せていない。だが、この若者は佐藤のちっぽけなプライドを一枚の傷もつけずに包み込んでくれている。その「おもてなし」の心地よさに負け、佐藤は深く頷いた。
「……うん。まあ、君がそこまで言うなら、それにするよ」
「ありがとうございます! お目が高いです」
ここまでは、まだ平和だった。
本当の地獄は、パイプ椅子に座ってからの「手続き」で待っていた。
「では、回線のご契約ですが……今回は物理SIMではなく、eSIMにされますか? それともMNPでキャリア自体のお乗り換えもご検討されます?」
鈴木店員がタブレットを操作しながら、呪文を唱え始めた。
「イー……シム?」
「あ、はい。カードを差し込まないプロファイルデータのダウンロードタイプですね。あ、ちなみにご自宅の固定回線は光コラボでしょうか? ドコモ光か、ソフトバンク光か、あるいはauひかりか……それによってスマート値引きの適用が変わってまいりまして」
佐藤の脳内で、何かがぷつりと音を立てて途切れた。
(パケット……? えすいむ……? ひかり……?)
ガラケー時代は「通話とメールのプラン」を選ぶだけだったはずだ。目の前の若者は、まるで異世界の言語を流暢に話している。佐藤は引きつった笑顔を貼り付けたまま、固まった。
そんな佐藤のフリーズを察した鈴木店員は、嫌な顔ひとつせず、すっとトーンを落とした。
「……あ、失礼いたしました。お客様、普段お仕事以外で、外で動画をご覧になったり、重いデータのやり取りはされますか?」
「いや……電話と、メールができれば、それで十分なんだが」
「承知いたしました! では、最も月額が抑えられる『シンプルプラン』にいたしましょう。パケットも使った分だけ段階的に上がる仕組みですので、無駄がありません。おうちのネット回線も、今回はそのままで一番安くなるようこちらで組んでおきますね」
「あ、ああ……頼むよ」
言われるがままにサインを書いていく。
こうして佐藤は、言葉の波に揉まれながら、人生初のスマートフォンを手に入れたのだった。
家に帰り、箱から出したその機械は、驚くほど軽かった。
電源を入れると、画面いっぱいに「こんにちは」という、巨大すぎる4文字が浮かび上がった。
ここから、佐藤とスマホの格闘が始まる——。




