05
真夜中。静まり返った城内を練り歩き、合間に勇者が眠るベッドを覗き込む。
「……」
手足を伸ばしても余りある、どころか魔王が横になっても十分な余裕のあるベッドの上で、勇者は小さく丸まって眠っていた。窮屈なのだろう。眉根が寄り、口からは苦しげな呻き声がこぼれている。
こいつは勇者だ。
魔王を討伐するために、長く戦闘に身を捧げてきた。魔族領へ侵入してからは、常に魔族や魔物に命を狙われてきた。
その経験がそうさせるのだろう。広々としたベッドで眠りながら、勇者は時折こうして、体を縮めることがあった。
夜の闇から逃げるように。影の視線から隠れるように。
「……」
手のひらを合わせ組まれた両手と、折り畳まれた膝にそれぞれ手を添え、一思いに引き剥がす。体を伸ばされた勇者は、途端にドッと冷や汗をかいた。呼吸が荒くなる。
「気に入らんな」
両手は塞がってしまったので、代わりに言葉を落とす。
「貴様、我の膝元で何を怯えている。ここより他に、安全な場所はないと心得よ」
神の降臨も、勇者一行の襲来も、魔族領に住む者達にとって恐怖に結び付く事態ではなかった。
我らの王がいる限り。最強の名を恣にしてきた彼が、王として玉座を埋めている限り。恐れることなど何もない。
「我の所有物に手を出そうなどと考える愚か者は、我が直々に殺してやる」
魔王様万歳。
喝采が響く。鼓膜に貼りついて、剥がれない。
魔王様万歳。
我らの命は全て、魔王様のために。死すらも恐れぬ我らの忠義を、王に捧げる。
「チッ」
ガタガタと震え始めた勇者に舌打ちが漏れた。
魔王様万歳。
魔族へと変質しようが、魔王の眷属となろうが、魔王の作る飯を食おうが、こいつは勇者だ。魔王が紡ぐ王の言葉に安堵することはない。
「さっさと寝ろ。寝違えようが寝不足になろうが、明日の仕事は休ませんぞ」
ガタッ、と。ぎこちなく肩を一度、大きく揺らし、ゆるゆると勇者の体から力が抜けた。
震えが止まり、規則正しい寝息が聞こえるまで待って、体を開いていた手を放す。
「手間のかかるやつだ……」
大人しく寝ている勇者にはもう目を向けず、魔王は部屋を出た。
◇
夢を見た。
月のない夜。自分の影も、仲間の影も、夜の闇さえ同化してしまうような暗がりの中。横たえた体は疲労のせいで鉛のように重い。目を閉じればすぐにでも眠ってしまえるはずなのに、どうしても瞼を下ろすことができずにいる。
視線だけで見上げた夜空に散る、おびただしい数の星がどうしてか――どうしても恐ろしい。
『どうか――』
耳の奥で木霊するのは、いつか聞いた神の使いを名乗る少女の声だった。
『どうか、その尊き魂の導きに従い、人類の救済を――』
耳を塞ぐ。
ガタガタと鳴る奥歯を止められない。
やめてくれ。頼むから。
『どうか――』
無理だ。俺にはできない。
『勇者様――』
そんなふうに俺のことを呼ばないでくれ。
逃げるように、隠れるように、体をぎゅっと折り畳む。ギリギリと関節が悲鳴をあげても、止まらず体を小さく丸める。
『人類を救済せよ』
隣に置いた聖剣を見たくなくて、胸元へ寄せた足で遠くへ蹴り飛ばす。
『世界を滅ぼさんと悪逆の限りを尽くしている魔王を討ち滅ぼし――』
そんなことない。そんなことはなかった。
世界を滅ぼすような、悪逆の限りを尽くすような。魔王は違う。そんなやつじゃない。
幼い魔族を捕まえて、鞭打って嗤うような真似はしない。弱った魔族を縛りあげて、生きたまま四肢を切り落とすような真似はしない。泣いている魔族を囲って、大勢で石を投げつけるような真似はしない。そうして息絶えた魔族を、鎖に繋いだ魔族に無理やり食わせるような真似はしない。
『人類を救済せよ』
なんのために……?
死に瀕して女神を呼ぶのが人間なら、魔王を呼ぶのが魔族だ。
魔王様、魔王様万歳。
人間と魔族の違いは、仰ぎ見る対象の違いでしかない。痛みを感じ、仲間の死に涙を流す心があり、虐げられる同族の身代わりになろうと喉をからす。同じだ。
魔族が人間を殺すのと同じように、人間は魔族を殺していた。
魔族を醜いと蔑むのなら、同じだけ人間だって醜いと蔑まれるべきだ。
種族で隔てて悪と断じることに意味はない。魔族にも人間にも、いい奴はいるし悪い奴もいる。
『どうか――』
星が降る。
人類の救世主として揺らいだ勇者を責めるように。責務を果たせと、心臓に杭を打ち込むために。
星が瞬く。
貴様を見ているぞ、と怯える勇者の背に爪が立てられる。
『我らが女神様の祈りをお聞き入れくださいますよう』
目を塞ぎ、心臓をわしづかみ、耳元で囁く。
『魔王を討ち滅ぼし、人類を救済せよ』
不都合を隠し、使命を刻み込み、疑念の声を掻き消す。
「さっさと寝ろ」
ガタッ、と。不意にすべての音を掻き消す声がして、体が揺れる。
「寝違えようが寝不足になろうが、明日の仕事は休ませんぞ」
魔王、魔王の声だ。
恐怖が霧散する。体の震えが止まった。腹に刻まれた印がじりじりと焼ける。いつの間にか星は消えて、夜空にはただ、二つの満月が輝いていた。魔王の目だった。
勝手に瞼が下りてくる。押し寄せる睡魔に身を任せ、勇者は眠りについた。何に怯えていたのかも、もう覚えていない。