30/二人の剣士
――――随分と、長い夢を見ている。
太陽が空へと昇った頃。
ローリエは静かに起き上がり、うろんな目で宙を眺める。
ダンジョンの入口から少し離れた木陰。
幌も張らず、寝床も拵えず、寝転がるだけの野宿より稼働する。
やけに左胸が痛む。
傷が疼く。全身が割れるように悴んでいる。
ジク、ジクジクジクと体を蝕むこの傷は確かに止めているはずなのに、徐々に命の残量を刻んでいく。
元が酷すぎたのだろう。
むしろあんな状態から、よくここまで持ち直したのだと感嘆する。
どんなに長く見積もっても一週間。
それがこの身の限界だとローリエは悟っている。
「パンケーキ、食べたいな……」
シスターの作ってくれた、思い出の菓子。
最期にはアレを食べたいと思った。
パンケーキと言っても粗末なものだ。砂糖もあまり使われておらず、卵の量も少ない。王都で食べた、あの甘くてふわふわで蕩けそうなほどの嗜好品とは違う。
けれど、どちらがおいしいかと言われれば、それはシスターのパンケーキだ。
故郷に帰ったら、お願いして作ってもらおう。
昔と違って、お金ならあった。だから材料をいっぱい買ってきて、アネモネの分も作ってもらおう。
他の教会の子たちも呼べばいい。皆で楽しく食卓を囲んで、たまには良い思いをさせてやりたい。
……だが、アネモネは嫌がりそうだな、とローリエは薄っすら笑う。
あの子はいつもそうだ。教会の子たちとあまり仲が良くない。
その分というか、ローリエにはべったりである。全く、あの子はいつ兄離れをしてくれるのかと心配になると同時に、そんな彼女をどうしようもなく愛おしく感じる。
そこまで考えて、絶句する。
俺は今、幸せになろうとしていたか――――?
未来に自分の姿を映していたのか――――?
首を振り、益体のない妄想を終わりにする。
短い余命を知ってしまったことで、どうも感傷深くなってしまっている。
アネモネの顔を見てしまってからは特にそうだ。絶望が足りていない。
生い先短いこの身で未来を夢見るなどと、おこがましいにも程があるだろう。
渇いが足りていない。
懐にある三冊の手帳を取り出して、パラリパラリと捲る。
文字を見るたび。その懐かしい筆跡と、書かれてある美しく儚い日々を目で追って――――絶望する。
昏い気持ちで心を満たす。
鬱屈とした気分が支配する。
……俺はもう何も望まない。
自分はもう終わっている。あの時既に死んだ身だ。
脱け殻が欲望を口にすることなど、あってはならないことなのだから。
「……そろそろか」
関節をほぐしつつ、立ち上がる。
自分の役目を果たさねば。
気を引き締め、軽く身支度を済ませて、目的地へと歩もうとし、
そこにアネモネが、道を阻むように立っていた。
「止まって」
金の長髪。
お姫様のように可愛い美貌。
甲冑ではなくドレスを着ていたら、野山に遊びにきたどこぞのお嬢様と見間違えてしまいそうだ。
可愛くて、強くて、元気で。
そんな自慢の妹が、仁王立ちにして立ち塞がっている。
「……あれだけ話したのに、まだ俺を止められると考えているのか」
「……それでも、止めるのよ」
昨夜に彼女とは論を交わした。
俺がソルトムリクを発ってから一年、何をしていたのか。
一ヶ月ほど前、一体何が起きたのか。
そしてそこで俺がどのような結論に至ったのか。
……俺の寿命がもうないことも、彼女には伝えてある。
そして戻ってきたら、残り少ない余命の幾らかを、アネモネに使うとも約束した。
けれど、彼女は立ち塞がる。
まるで俺の邪魔をすると言わんばかりに。
俺のしていることが間違っていると、真正面から指摘してくる。
そのことが、俺にはよく、分からない。
「何度も言っただろう。モンスターと人との共生など不可能だ。何よりダンジョンメイカー――――臨界者と呼ばれる生き物にだけは、絶対に関わってはならない」
「……臨界者って、何なの?」
「世界に破滅と混沌をもたらすバケモノのことだ。あれに関わるとロクな目に合わない。ましてや共存しようなどともっての外だよ。必ず不幸になる」
「何よそれ……誰が言ったの!? 誰が決めたの!? そんなの信じるわけ!?」
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶんだ……そして俺は愚者だった。体験と犠牲をもって、奴らの醜悪さを知っている」
物分かりの悪い、けれど純粋であろう妹へと。
どうか気付いてほしいと、言い聞かせるように語る。
「いいか。あんなもの、経験してはいけないんだ……お前は優秀だ。愚者になるな。失った後に気付いてももう遅いんだ」
「な、んで、そうやってあんたたちは――――ッ! 私の道は私が決めるわ! 例えお兄様の言葉でも、そんな妄言信じられないッ!」
「……そうか」
可哀想な妹を見て、泣きそうになる。
良い子だ。強い子だ。
思いやりのある優しい子に育ってくれた。
お前を誰よりも傍で見てきた。
だから、分かるよ。
今の俺が邪悪に見えるんだろう。
それでも構わない。
辛い思いをするのは俺だけでいい。
俺が出来る限り、お前が幸せになれるようにしておいてやるから。
だから、どうか、今だけは、俺の言うことを聞いてくれ。
「力ずくでも――――止めるわ、お兄様」
「……」
アネモネが腰の銀直剣を抜く。
美しい刃筋、少し褪せた意匠。
自分が一年前に贈ったその剣を見て、彼女も成長したのだと嬉しくなる。
互いに、剣を構えた。
アネモネは幅広の銀の直剣を。
ローリエは幅広の銀の大剣を。
示し合わせるでもなく。
同じ流派、同じ構え、そして同じ動作で剣戟は始まり。
――――勝負は数秒でついた。
「ぐ……ぁッ……」
彼女は天才だ。
幼いながらにその片鱗を見せ、女ながらに力強いモノを持つ。
もうあと五年もすれば自分を追い抜いていくだろう。国中、いや、世界中に名を馳せてもおかしくはない。
だが、今この時においては、舞台にすら上がれない。
「腱を切った……ごめんな。帰ってきたらすぐ治すから。だから全て終わるまで、そこで大人しくしていてくれ」
地面に叩きつけられ、苦しみに喘ぐ妹へと、頭を下げる。
最愛の妹を斬ることに抵抗がなかったわけではない。
ただ、仕方がなかった。
妹をここで止めるのは、兄の役目なのだから。
「い、た―――――――――い―――――っ…………」
腱の断裂は凄まじい激痛を起こす。
骨折や切り傷はある程度慣れることのできる痛みだが、腱は別だ。普通に生活していれば切れることのないその部位の痛みは、切れた直後、体を裂くような痛みとなって身を襲う。
辛いのだろう。
脂汗をかきながら横たわる彼女の横を、ローリエは通る。
その脚を、震える腕でアネモネは掴んだ。
「……行か、ないで」
……手足の腱を切ってある。
物理的に動かすことは不可能だ。
事実、ローリエの脚の裾を掴む指には一切の力が入っていない。ただ腱以外の骨と肉とで、そのような形を無理やりとっているだけ。
吹けば飛ぶようなか弱い力で。
けれども彼女は、必死に止める。
「……草十郎、を、殺さないで」
目に涙をためて、懇願する。
その姿は戦士ではなく、なりふり構わずに泣きじゃくる子供のようで。
あぁそうか、君は。
「お願い……なんだってするから……っ! お兄様の言う通り、魔術師になるからぁ……っ! ちゃんと、ちゃんとするから、だから……っ!」
「ごめんな」
「行かないで……っ」
追い縋る腕をそっと外して、ローリエは歩き出した。
妹には、嫌われてしまうだろう。
帰ってきたら口も聞いてくれないどころか、殺されてしまうかもしれない。
けれど、それでもいい。
妹の恋路を邪魔するつもりなどないが、アレは別だ。
家族が殺人鬼と結婚すると言っているに等しい蛮行を、見過ごすわけには行かないだろう。
■
ずっと、空っぽだ。
俺は俺を、あの瞬間に置いてきた。
バライ、ゴーレダマシア、タニア。
師と友と、そして最愛の恋人。
三人を同時に失い、同時に己の左半身を失った時に、今もまだ囚われている。
我が身と同じほど大切な者を失ったからか。
身体が半分持っていかれたからか。
何が原因かは分からない。
けれど、あの日からずっと、亡者のようにして生き永らえている気がする。
それでも。
この命続く限り、あのような悲劇を起こさないために。
愛おしい妹が、これからも生きていく世界のために。
あの臨界者を、殺してやらなければならない。
世界を少しでも、後に続く者たちが幸せに生きられるように、綺麗にしなければならない。
それだけが、俺に出来る唯一の償い。
死に損なった命の使い道だ。
■
光の下より闇の中へと、歩を進める。
ダンジョンの入口は、やけに長かった。
嘆息する。メイカーは自由にダンジョンの造詣を変えられると聞いたことがある。時間稼ぎか何かは知らないが、あの男も結局抵抗を選んだということに違いない。
長い暗闇を突き進む。
狭い通路。土と岩の洞穴。明かり一つない道の先へとやがて抜け出て――――そこに入った。
広い。
奥行きが掴めないほどの空間を知覚し、警戒する。
暗く乾いた大広間。
そして何のためなのか、薄い霧で充満している。
地面は剥き出しの土であり、僅かな光だけが霧の中、手の届くほどの範囲を照らしている。
隠れているのだろうか。
そう思って足を踏み出そうとすると、人影を見つけた。
「…………」
奴は、地面に座っていた。
先の見えない大広間の中、片足を立ててこちらを見ている。
「話をしないか」
落ち着いた第一声が聞こえる。
警戒しながら、答えを返す。
「断る。それよりお前、なぜ死んでいない? 平和を望むのならば自害しろと、昨日言ったはずだが」
「悪いな。まだ死ねないんだ」
「ハッ――――」
思わず失笑が漏れてしまう。
笑止千万。
結局のところ、こいつもアレと何ら変わらない。
命惜しさに自己を正当化し、ただ周りを不幸にするだけの災害だ。
潔く死ねば弔ってやったものを。図々しく生き永らえるその姿は、俺の怒りの琴線に触れる。
「僕たちはただ平和に生きたいだけだ。見逃してほしい」
少年は尚も口を開く。
よくまぁ思ってもない嘘をペラペラと。愚かしい。
怒りが脳髄を支配して、体にドロリとした熱が籠っていく。
「時間稼ぎも、ここまでくると滑稽だな」
「僕にはお前が何を考えているのか理解できない。けれど、仲間を奪った相手に復讐したいというなら力を貸す。それでどうだろう」
「……お前の仲間と同じように、出来る限り長く辛く苦しむように殺してやる。殺す、殺す殺す殺す殺す殺す」
「あぁ――――」
得心が言ったとばかりに、少年が嗤う。
「なんだ。お前、亡霊か」
その通りだ。
俺は復讐のために生きている。
仲間を失った悲しみも怒りも、全てどこかに置いてきた。
残ったのは責務だけだ。
臨界者は許さない。許されない。
俺のような人間が一人でも減るように、残りの命を捧げると決めた。
だから――――殺してやる。
右手に剣を持ち、左手にて魔術を行使する。
想像するのは月桂樹の槍。
敵を穿ち、磔にし、死ぬまで変わることのない毒へと堕とす必死の魔術。
仄暗い世界を照らす、輝く浄化の毒槍がこの手に吹き荒れる。
この少年には毒の効きが悪いが、問題はない。
あの程度の力量しかない子供だ。
槍そのものの殺傷力だけでお釣りがくる。
「死ね――――ッ!!!!!」
振りかぶり、一投。
その狙いは寸分違わず愚かな頭蓋へと吸い込まれる。
狙いは絶対、
威力は必殺、
この敵には避ける術すらないだろう――――。
故に、ソレを止めるのは少年ではなく。
背後より現れた、より強大な存在に他ならない。
〈生を謡え〉
「――――ッ!?」
空を飛翔する槍の先。
少年の背後。霧の向こうより、更に膨大な魔力の塊が放出される――――!
二つの暴力はやがてぶつかり、せめぎ合い、そして、容易く飲み込まれ。
有り余る余剰の破壊光線が、俺の顔の横を通り過ぎる。
そして、ソレが現れる。
「……銀、狼」
濃い霧の中、悠然とこちらへと歩んでくる獣。
毛は銀、瞳は金。
伝承として語り継がれるほどの強大な、狼の王が現れる。
その姿は尊大にして崇高。
何色にも染まらず、誰にも媚びず。
絶対の個として称される、最高最強の魔物。
俺を見下ろすほどの高さより、その狼の視線が射抜く。
……その姿を見てようやっと。
己の魔術を打ち破ったのが、狼の息吹であることを知る。
「――――いくぞ」
少年が立ち上がる。
いつの間にか、手には赤く燃える直剣を携えて。
「アォオ――――――――――――――――ン」
狼が呼応する。
その口には、身の丈を遥かに凌駕する大剣を咥え。
小さき剣士と、大きな剣士。
寄せ合う二つの影は、一糸乱れぬ姿にて其処に在る。
――――あぁこれを。
――――人生最期の難敵だと知れ。




