わたくしの首が落ちる前に、あなたの化けの皮を、満座の前で一枚残らず剥がして差し上げます
伯爵の変死は、その日のうちに知れ渡った。
誰よりも早く駆けつけたのは、セレナだった。喪服めいた白で、涙を拭きながら、役人たちの前で、声を張り上げて。
「まあ、伯爵さまが……。昨夜までお元気だった方が、なぜ」
白いハンカチで目元を押さえ、セレナは屋敷の者たちへ向き直った。
「奥方は、ご主人の最期におそばにいらしたのでしょう。ならば、何かご存じのはずです。この数日、変わったご様子はありませんでしたの?」
役人が下女たちを見た。
下女たちは怯えた顔で、ぽつぽつと答えた。夜ごと部屋にこもっていたこと。袖の中に、何か小さな木のものを隠していたこと。殴られたはずの朝にも、なぜか平然と立っていたこと。
どれも、事実だった。
事実だけなら、嘘よりもよほど切れ味がいい。
縛られる間際、セレナは、ヴィオラの耳元で、囁いた。
「言ったでしょう。あなたを、泣かせてみせるって」
その声は、震えるほど、嬉しそうだった。
「三日後、あなたは魔女として、首を刎ねられる。……わたくしの手で、宣告してさしあげる。ねえ、そのとき、どんな顔をするのかしら。ずっと、ずうっと、楽しみにしていたのよ」
「楽しみにしていらして」
縄をかけられながら、ヴィオラはセレナの耳元へ唇を寄せた。
「あなたが一番近くで見られるよう、席を空けておきますわ」
*
処刑の、前夜。
聖女セレナは、鏡の前で明日のヴェールを選んでいた。
処刑の場では、純白がよい。罪人の血を前にしても穢れぬ色。泣いてみせるなら、薄い絹のほうが頬を美しく隠す。
そこへ、王都警吏の封蝋を押した書類が届いた。告発人であるセレナの確認署名が要るという。
伯爵の、検分書だった。
喉の圧壊。全身に、数時間かけて加えられた強い外力の痕跡あり。
セレナは眉をひそめた。
そんなはずはない。ヴィオラは細い女だ。縄で縛れば声も出せぬような、落ちぶれた元令嬢だ。
読み進めるほど、紙の白さが目に刺さった。凶器は見つからず、押し入った者の痕跡もない。あの夜あの部屋にいたのは、伯爵の妻ただひとり。末尾には、担当医師の震えた筆跡で、こう記されていた。
いかなる手段でこれほどの加害が可能であったか、一切不明。
続いて、獄吏がもう一通を差し出した。罪人から、告発人へ渡すよう頼まれたという。
封はなかった。折られた紙に、ヴィオラの細い字が並んでいた。
——聖女さま。明日、わたくしを死へ送るお役目、感謝いたします。
セレナの指が止まる。
——伯爵さまのお体に何が起きたのか、よくお読みになって。
燭台の火が、小さく鳴った。
——明日、あなたの口から出る言葉を、わたくしは楽しみにしております。
紙の最後には、いつもの端正な筆致で、短く添えられていた。
——ご随意に。
その一行を読み終えた瞬間、紙の端が緑に光った。
火だった。けれど熱はない。燭台の火とも違う、墓石の苔を濡らしたような色の炎が、文字の上を音もなく舐めていく。
「な、何……」
セレナは慌てて紙を放した。手紙は床へ落ちる前に燃え尽きた。灰も残らない。焦げ跡さえない。
セレナは笑った。笑おうとした。けれど笑みだけが、頬に貼りついた。
その夜、聖女の部屋の灯りは、朝まで消えなかった。
*
——そして、断頭台。
役人が、巻物を開いた。
「聖女セレナさま。神前告発人として、罪人ヴィオラ・アッシュフィールドを魔女と認め、死罪に処すことを、ここに宣告ください」
広場の視線が、いっせいにセレナへ向いた。
昨夜、何度も練習した言葉だった。哀れみをにじませ、声を震わせ、最後に「どうか魂だけはお救いください」と祈る。そうすれば民は泣き、王太子はますます自分を聖女と信じる。
唇が、動かなかった。
刃の下で、ヴィオラが顔を上げる。
「わたくしの字は、読みやすかったでしょう」
セレナの胸の奥で、昨日読んだ検分書の文字が捻れた。喉の圧壊。骨折。数時間。
「……はったりよ」
「ええ。そう思うなら、そのお綺麗な口で宣告なさい」
ヴィオラの声は低かった。広場の騒ぎの下を通って、セレナの耳だけに届く。
「わたくしを、死罪に処すと」
セレナは一歩、前へ出た。逃げてはいけない。ここで怯えれば、負ける。あの女に、また見下される。
「罪人の戯言ですわ。呪いなど、あるはずが」
「では、何をためらっていらっしゃるの」
短い一言で、セレナの喉が塞がった。
「罪人に、最後の懺悔を」
ヴィオラが群衆へ向き直る。役人が止めようとしたが、司祭が首を振った。死へ向かう者の懺悔を奪えば、神の前で役人のほうが責められる。
「懺悔いたします。皆さまは、夫を殺したのはわたくしの呪いだとおっしゃる」
広場がざわめいた。石を握っていた男が、腕を止める。
「ならば聖女さま。わたくしを死罪に処すお言葉も、どうぞ神の前で、はっきりと」
「それ以上はならん!」
役人が声を荒げた。
「黙らせなさい!」
セレナの声が裏返った。
「この女は、皆を脅しているのよ! わたくしに罪を着せようとしているの!」
「聖女さま」
役人が困惑して、巻物を差し出す。
「宣告を」
セレナは巻物を見た。そこにあるのは、ただ一行。ヴィオラを死罪に処す、と声に出すだけ。
ただ、それだけ。
「……王太子殿下のご裁可を、もう一度」
「不要です。殿下の御名代として、聖女さまがここにお立ちです」
群衆のざわめきが変わった。聖女が、判決をためらっている。なぜ。罪人の脅しを、本当に恐れているのか。
「難しいお言葉ではありませんわ」
ヴィオラが言った。
「いつもの可憐なお声で、わたくしを死罪に処すと仰ればよろしいの」
「言えるわよ!」
セレナは巻物を奪うように掴んだ。だが文字を見た瞬間、指が言うことをきかない。昨夜、あの紙が緑に燃えたときの、熱のない冷たさが、まだ指先に残っていた。
巻物が、かさかさと鳴った。
「言えるのなら」
ヴィオラは、刃の下からセレナを見上げた。
「なぜ、その手がそんなに震えるのかしら」
「言ってやるわ」
セレナは息を吸った。浅い。胸だけが上下し、喉の奥で空気が引っかかる。
「言ってやるわよ。聞いていなさい。わたくしは、聖女セレナの名において、この女を、この女を」
そこで声が途切れた。
喉を押さえる。息が入らない。昨夜の文字が、また目の裏に浮かぶ。喉の圧壊。骨折。数時間。
「続きをどうぞ」
ヴィオラは静かに促した。
「皆さま、お待ちですわ」
「黙りなさい! あなたが悪いのよ!」
セレナは一歩、断頭台へ踏み出した。
「いつもそうやって、正しい顔をして! わたくしがどれだけ笑っても、どれだけ祈っても、殿下はあなたと比べた! だから、少し懲らしめてやろうと思っただけよ!」
「では、伯爵へ送ったのは」
「売ってなんかいないわ!」
セレナは叫んでいた。
その瞬間、白粉の下で頬がこけた。唇の紅が乾き、目元に細い皺が何本も走る。ほんの数呼吸のあいだに、可憐な聖女の顔から若さだけが剥ぎ取られていく。二十年ぶんの夜を、一度に眠らず越えた女の顔だった。
叫んでから、自分の声に気づいた。
広場が静まり返る。
「……あれは、殿下が決めたことよ。わたくしは、少しお願いしただけ。あの伯爵なら、あなたを正しく躾けてくださるだろうって」
「祈祷杯の毒は」
「毒じゃないわ!」
セレナは胸元を押さえた。聖印の鎖が、指の中で細く鳴る。
「あなたを陥れるための証拠よ。わたくしが苦しんでみせれば、あなたの部屋から見つかる手筈だった。それだけ。あなたを、罪に落としたかっただけなの」
最後まで言えなかった。
「では、証人たちは」
「銀貨なんて渡していないわ!」
早すぎる否定だった。
役人たちが顔を見合わせた。証言を金で買った話など、ヴィオラはまだ口にしていない。
「……あの者たちが、困っていると言ったから。わたくしは、恵みを与えただけよ」
セレナは両手で口を押さえた。遅い。もう遅かった。
膝が折れる。白いドレスの裾が、断頭台の泥を吸った。
「わたくしは、ただ……一度でいいから、この女に勝ちたかっただけ」
喉の奥から、しゃくりあげる音が漏れる。
「殿下も、貴族たちも、教師たちも、みんなこの女ばかり見ていた。笑いもしないくせに。何も欲しがらない顔で、ぜんぶ持っていたくせに」
セレナは顔を上げた。
その目に、もう聖女の光はなかった。
「あなたが死ねば、ようやく終わるはずだったのに。なのに、どうして——どうしてわたくしが、あの男と同じ目に遭わなきゃいけないのよ!」
しん、と。
広場が静まりかえった。
聖女の化けの皮が、満座の前で剥がれ落ちた。
*
告発人自身の、公衆の面前での、自白。
ヴィオラにかけられた罪は、根こそぎ崩れた。青ざめた役人たちが、膝をついたセレナへ近づきかける。セレナはなお、違う、違うの、と繰り返していた。誰も膝を折って祈らなかった。
縄を解かれ、ヴィオラは、断頭台を降りた。刃には背を向けない。一段ずつ、相手に礼を教えるみたいに。
——結局、伯爵の死は、手段不明のまま記録に残った。閉ざされた部屋で、どうすれば喉が潰れ、骨が砕けるのか。役人にも、医師にも、説明はつかなかった。
ヴィオラは、何も語らなかった。
そのかわり、袖口から落ちた人形を拾った。群衆の視線は、まだ泥に膝をついた元聖女に集まっている。
割れた腹の内側は、墨を流したように黒かった。そこからほどけた糸が、ヴィオラの手首へ絡みつく。冷たい。けれど痛くはない。黒は皮膚の下へ沈み、細い血管をなぞるように、腕から胸へ広がっていった。
半年ぶんの拳が、いっぺんに背を打った。頬が鳴り、肋が軋み、息が詰まる——受けるはずだった痛みが、順番に体を通り抜けていく。ヴィオラは一度だけ、短く息を吐いた。それきり、痛みはどこにも残らなかった。
マルタの声が、耳の奥で笑った。
——あとは、お嬢さま次第でございます。
ヴィオラの影が、足元で一度、息をした。
朝日とは逆のほうへ、黒いものが伸びる。石畳を這い、断頭台の脚を舐める。けれど、泥に膝をついたセレナの白い裾には触れなかった。
触れる必要など、なかった。
「来ないで」
背後で、壊れた祈りの声がした。
「いや。いやよ。わたくしではないわ。わたくしは聖女よ。神に選ばれたのよ。呪いなんて。呪いなんて、あるはずが」
誰も近づかなかった。役人も、司祭も、群衆も。
セレナは胸元をかきむしった。爪が聖印の鎖を引きちぎる。白い喉もとから、小さな玻璃の小瓶が転がり落ちた。
祈祷杯の毒。
セレナ自身が、勝つために隠していたもの。
セレナはそれを拾った。
——これを少し舌に含んで倒れてみせれば、また皆が駆け寄る。可哀想な聖女に。いつものように。
「違う。これは毒じゃないわ。聖水よ。わたくしを救う、聖水」
「聖女さま、それは!」
司祭の声は遅かった。
けれど、震える手は加減を忘れていた。栓が飛び、中身が一息に、喉の奥へなだれ込む。
はじめ、口元だけが笑った。勝ち誇るときの、あの甘い形に。
次の瞬間、白い顔が歪んだ。
喉がひゅっと鳴る。指が宙を掻き、聖印の切れた鎖が石畳を跳ねた。セレナは祈りの言葉を唱えようとした。けれど舌がもつれ、音はばらばらに崩れた。
「お、うじ、さま」
誰も答えなかった。
毒は命を取らなかった。ただ、聖女の澄んだ声と、祈りと、誇りを順番に奪っていく。
「たす、け、て。いや。いやああああっ」
白い裾が泥を吸う。セレナは聖印を掴もうとして空を掻き、処刑台の床板へ爪を立てた。爪が割れても、まだ掻いた。木目に白い粉と血がこびりつく。
「わたくしは、せい、じょ。せいじょ、なの。おうじ、さま。みて。わたくし、きれいに、わらえ」
最後の言葉は、笑いにも祈りにもならなかった。
セレナは床板に頬を擦りつけたまま、口を開けて泣いた。声はもう、鈴の音ではなかった。泥と涎で濡れた唇から、意味のほどけた音だけが漏れていく。
ヴィオラは振り返らなかった。
「聖女さまが!」
「違う、もう聖女ではない!」
「壊れているぞ……」
「誰か、布を。見ていられん」
そのあと、広場に残ったのは、朝の風と、女たちのすすり泣きだけだった。
人垣の隅で、ニナが泣いていた。ヴィオラは歩み寄り、その頭に手を置く。
「もう、あの家には戻さない。あなたのその手は、人を手当てするための手よ。殴られるための手じゃない」
ニナが震える手で、ヴィオラの指を握り返した。
殴られる女を、守る力。
女を殴る手へ、痛みを返す力。
それはもう、木彫りの人形の中にはない。
ヴィオラの影が、朝日に逆らうように長く伸びた。広場の石畳を渡り、群衆の足元を舐め、王宮へ続く大通りのほうへ、まっすぐ向かう。
ヴィオラは、その影の先を、静かに見やった。
「……さて」
次は、誰を救って、どの手を裁こうかしら。
「ひとまずは。あの、ろくでなしの王子に礼儀を教えて差し上げましょうか」
ニナの手を引いて、魔女は歩き出した。
朝の光を背に、長い影を先へ行かせながら。
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