私の首が落ちる前に、聖女さまの人生を処刑台から叩き落として差し上げます
夜明け前の広場に、断頭台が組まれていた。
ヴィオラは、その刃の下に、跪かされていた。縄で後ろ手に縛られ、髪を乱し、それでも背筋だけは、まっすぐに。
見物人の群れが、石を投げてくる。魔女だ、夫殺しだ、と。
その最前列に、聖女セレナが立っていた。純白のドレスで、判決を告げるために。いつもの慈悲深い微笑みを、薄く唇に貼りつけて。
「まあ、ヴィオラ様」
セレナが先に口を開いた。鈴を振るような声だった。ほんの少しだけ、音が細い。
「王太子妃になるはずだったお方が、縄つきで地べたに膝をついていらっしゃるのね。髪も泥も、唇の血も、本当によくお似合い」
セレナは声をひそめる。慈悲深い微笑みのまま、目だけが甘く濁っていた。
「その背筋だけはまだ高いのね。早く折ってしまえばいいのに。そうすれば、ようやくご自分の身の程に追いつきますわ」
ヴィオラは、ゆっくり顔を上げた。
セレナは胸元の聖印を握りしめていた。爪が白くなるほど強く。
「あなたの最後を、この目で見届けるために来たのよ。泣いてもよろしいのよ? 今日は、皆さまが見てくださるもの」
「まあ」
刃の下で、ヴィオラは唇の血を舌で拭った。
「せっかくの見世物ですのに、聖女さまから見物料をいただけないのが残念ですわ」
なぜ、こんなことになったのか。
半年前まで、断頭台に立たされるヴィオラは、この国の王太子妃になるはずだった。
*
あの日、王城の謁見の間で、すべては引っくり返った。
「ヴィオラ・アッシュフィールド! 貴様が、いたいけなセレナの祈祷杯に毒を盛った証拠は、挙がっているぞ!」
王太子ライナスが、玉座の前で、声を張り上げた。かたわらに、聖女セレナを、これ見よがしに抱き寄せて。
「殿下」
ヴィオラは、静かに言った。
「証拠、と仰いましたね。どうか、この場でお示しください。毒はどこから出ましたの。わたくしが、その方の背に触れた手は、右でして? 左でして?」
「っ……口の減らん女だ! そういうところが、そういうところがだ!」
ライナスの顔が、赤くなった。図星を、突かれた子どものように。
「お前はいつも、そうやって私を試す。正論で、追い詰める。私を、まるで出来の悪い生徒みたいに見下して……! セレナは違う! この子は、私を、ただのライナスとして見てくれるんだ! お前には、一生わからんだろうがな!」
ライナスはそこで、ようやく息を整えた。勝った男の顔を作り、わざとらしく憐れむように目を細める。
「心配するな。公爵家の名も地に落ちたお前に、行き先だけは用意してやった。バルド伯爵だ。あの男なら、泣かぬ女の躾け方をよく知っている」
玉座の間の空気が、ひやりと沈んだ。
「殿下が、お決めに」
「そうだ。最後くらい、婚約者らしく私の手を煩わせず嫁げ」
——ああ。
ヴィオラは、胸の奥が、すっと冷えていくのを感じた。
この人は、証拠なんて、どうでもいいのだ。ただ、断罪したいだけ。完璧で、冷たくて、正しい婚約者を。自分を見下していた(と思い込んでいる)女を。しかも、壊れたあとまで見届ける趣味はない。壊す場所だけ決めて、あとは他人の拳へ投げ渡す。
「殿下」
「なんだ!」
「わたくしは、あなたを見下したことなど、一度もございません。……ただ、一度も、見上げてもいなかった。それだけです」
「——引っ捕らえろ!!」
そのとき。
泣きじゃくっていたはずのセレナが、ライナスの腕の中で、ヴィオラにだけ見えるように、口の端を、吊り上げた。
勝った、と。その目が、笑っていた。
*
王城を追い出されたあと、家財を運び出される公爵邸の廊下で、セレナは、わざわざヴィオラを待っていた。
「ねえ、ヴィオラ様」
鈴を転がすような、可憐な声で。
「わたし、ずうっと、あなたが目障りだったの」
「……そう」
「生まれたときから、何もかも持っていて。お家柄も、婚約者も、その綺麗な顔も、頭のよさも。ぜんぶ、ぜんぶ、生まれただけで手に入れて。……それでいて、あなた、一度も笑わないのね。わたしたちみたいな者を、いつも、その冷たい目で」
「わたくしは——」
「その澄ました顔を!」
セレナの声が、初めて、素になった。可憐の仮面の下から、どろりとしたものが、覗いた。
「泣き顔に、変えてみたかったの。ずっと。あなたが、みっともなく、地べたで泣き喚くところを、どうしても、見たくて、たまらなかったの」
ヴィオラは、その顔を、じっと見返した。
——笑えば、鞭が飛んだ。泣けば、水を浴びせられた。完璧な王妃になるために、少女時代のすべてを、鉄の型に流しこまれた。この女が無邪気に笑っていられた歳に、わたくしは、笑うことすら、許されていなかった。
けれど、それを、言葉にはしなかった。
この女に、施しのように同情されるなど、死んでも御免だった。
「では、手を抜かないで」
ヴィオラが言うと、セレナの笑みが止まった。
「わたくしを泣かせたいのでしょう。安い意地悪で涙を買えると思われては困りますわ」
セレナは一瞬だけ唇を噛み、それから、また、あの可憐な聖女の顔に戻った。
「ふふ。ええ、そうするわ。……あなた、あの伯爵さまのところへ、嫁ぐんですって? 歴代の奥方が、みんな逃げ出したっていう。あはは。せいぜい、可愛がっていただいてね」
*
嫁ぐ前夜、公爵邸の使用人部屋に、一本だけ蝋燭が残っていた。
寝台に横たわっていたのは、幼いころからヴィオラに仕えていた老侍女のマルタだった。医師は夜明けまでもたぬと言った。けれどマルタは、誰もいなくなった屋敷で、ヴィオラだけを待っていた。
「お嬢さま」
骨と皮ばかりになった手が、枕の下を探る。差し出されたのは、掌ほどの木彫りの人形だった。古い木肌に、黒い糸が細く巻かれている。
「奥さまから預かっておりました。女がひとりで暗い夜を越えるための守りです」
「わたくしが、殴られて泣く女に見えまして?」
「あなたはずっと、王妃になるために泣くことも許されなかった。今度は、泣かせるための家へ送られる。……ならば、せめて泣かずに済むものを」
人形は軽かった。けれど握ると、手のひらの骨まで冷える。
「これは、人を幸せにはしません。救うだけです。救ったあと、何に使うかは、持った女が決めるのです」
「救うだけ、ですか」
ヴィオラは人形の顔を親指で撫でた。彫られた口は、笑っているのか怒っているのか判然としない。
「それは、ずいぶん残酷な道具ですわね。救われた女に、その後まで生きろと命じるのですから」
マルタはそこで咳きこみ、唇を濡らした。細い声で、最後の手順だけをヴィオラの耳へ落とす。
「……あとは、お嬢さま次第でございます」
*
初夜に、バルド伯爵の拳が飛んできた。
理由などなかった。ヴィオラが、泣かなかったから。
「なぜ泣かん!」
伯爵は、荒い息で、また拳を振り上げた。
「泣け! 詫びろ! お前は、俺のものだろうが! 聖女さまが、わざわざ俺にくださった、玩具だろうが!」
頬が鳴って、体が床へ叩きつけられる。
悲鳴が出た。
目の裏が白く弾け、口の中に鉄の味が広がった。息を吸おうとして、肋のあたりが引きつる。袖の内に縫いこんだ人形は、まだただの木片のように軽かった。
それでもヴィオラは、床に片手をついて顔を上げた。
「初夜の挨拶が拳とは。伯爵家では、ずいぶんな作法をお教えになるのね」
伯爵の目が血走った。
「その生意気な口を閉じろ」
「閉じてほしいなら、泣けではなく、黙れとお命じなさいませ。言葉も選べない殿方に、躾など」
次の拳で、言葉は切れた。
その夜、伯爵は殴るだけでは飽き足らず、ヴィオラの髪を掴んで寝台へ引きずった。
抵抗のふりをして、ヴィオラは男の背へ爪を立てた。深く。布の下で皮膚が裂け、ぬるいものが爪先に触れるまで。
伯爵が満足して眠りこんだあと、ヴィオラはゆっくり身を起こした。枕に落ちた髪を拾う。酒杯の縁に残った唾液を、布で拭う。爪の下に固まった血だけでは足りず、男の背に走った傷から、もう一度、赤を布へ吸わせた。
寝具に残された、彼の体の雫も。
ぜんぶ、人形の口へ、塗りこめた。
塗り終えたあと、ヴィオラは洗面鉢の前で膝をついた。
吐き気がこみ上げた。音を立てれば、伯爵が目を覚ます。だから喉を押さえ、歯の奥で息を殺す。爪の下の赤は、水を替えても落ちなかった。落ちないのが血なのか、恐怖なのか、自分でもわからなかった。
それでも、泣かなかった。
泣けば、今夜のすべてが、あの男の勝ちになる気がした。
人形が、ずしり、と重くなった。
*
それからは、毎晩だった。
殴られ、床を這い、芝居の涙で詫びる。頬へ拳が落ちるたび、袖の内側で木が低く軋んだ。翌朝、鏡の中の顔には痣ひとつ残らない。かわりに人形の木肌だけが、少しずつ黒ずんでいった。
伯爵は満足げに寝酒をあおって眠る。その寝酒を、毎晩、律儀に運んだのは、ヴィオラだった。
「……なぜだ」
あるとき、伯爵が、いぶかしげに呟いた。
「なぜ、お前は、折れん。床を這わせても、寝台へ引きずっても、その目だけは俺を見下している。女のくせに。妻のくせに。誰の許しを得て、まだ自分のままでいる」
「伯爵さまのお優しさが、まだ噂ほど重くないからではありませんこと?」
伯爵の顔が、ゆっくり歪んだ。
「では、優しさが足りんのだな」
その夜から、拳だけでは済まなくなった。椅子を蹴り倒し、髪を掴んで壁へ打ちつけ、火掻き棒をちらつかせる。泣き声が小さいと、もう一度。詫びる声が整いすぎていると、さらにもう一度。
ヴィオラは崩れ、這い、謝った。痛みは、あるところから先で遠くなった。袖の中で、木だけが低く軋む。
伯爵は、袖の内側で木が軋む音など聞いていなかった。聞こえていたのは、自分の怒鳴り声だけだった。
下女たちは、ヴィオラを遠巻きにした。ただひとり、厨房の下働きの、ニナという娘だけが、そっと薬草を届けてくれた。まだ十代の未熟であかぎれた手で。
「奥さま……せめて、腫れだけでも」
「あなたの頬は」
ヴィオラが問うと、ニナは反射のように髪で左頬を隠した。そこには指の形をした赤い跡が、くっきり残っていた。
その昼、伯爵は冷めたスープを理由に、ニナを食堂の床へ叩き倒していた。銀の匙が跳ね、誰も拾わなかった。ニナが謝っても、伯爵は笑って、細い肩を靴先で押した。
それだけではない。数日前から、伯爵は寝酒を運ぶ役をニナに替えろと言い出していた。まだ背も伸びきらない娘へ、女物の香油をつけろ、と。怯えて断ったニナの袖口は、その夜、乱暴に裂けていた。
袖の下の手首には、指の形をした痣があった。喉元にも、爪で引っかいたような細い赤い筋が残っていた。ニナは薬草の籠を胸に抱きしめ、そこから先を言わなかった。
「あれは、わたしが鈍かっただけです」
「違うわ」
ヴィオラは薬草を受け取り、ニナの頬へそっと当てた。
薬草を持つ指が、一度だけ震えた。
自分の痛みなら、まだ黙っていられる。けれどこの娘が同じ部屋へ呼ばれる夜を想像した瞬間、胸の奥がいやな音を立てて縮んだ。この娘の痛みは、まだ、この屋敷に残っている。
ヴィオラの腹の底で、静かなものが凍った。
この家は、もう燃やすしかない。
*
人形が満ちて、しんと冷たくなった夜。
寝酒の杯を空けた伯爵は、いつものように立ち上がった。
「今夜こそ、その顔を潰してやる」
「お待ちください」
ヴィオラは初めて、自分から袖の人形を取り出した。黒く湿った木肌を、絨毯の上へ置く。
「わたくし、今夜は詫び方を変えようと思いますの」
伯爵が眉を寄せる。
「何の真似だ」
「お返しに参りましたの。この半年、あなたがわたくしに預けたものを、そっくりそのまま」
振り上げた拳が、ヴィオラへ届く前に止まった。
絨毯の上で、人形がひとりでに身じろぎした。木の腹が割れ、細い黒糸がこぼれる。糸は一本ずつほどけながら床を這い、伯爵の足首へ絡みついた。
「なんだ、これは」
伯爵が笑おうとした瞬間、喉の奥で音が潰れた。
見えない手が、首を握ったようだった。太い指が自分の喉を掻き、爪が皮膚を裂く。声は出ない。唇だけが、ひゅう、ひゅう、と空気を噛む。
次に、右の拳が腫れあがった。今まで誰かを打ってきた骨が、内側から砕ける音がした。肘、肩、脇腹。床へ崩れた伯爵の体に、目に見えぬ打撃が一つずつ落ちていく。
叩いた記憶の、ひとかけら。
蹴った夜の、ひとすじ。
壁へ打ちつけた音の、ほんの端。
人形の腹からこぼれた黒糸は、夜の底をほどくように床を這った。冷えた床を這いながら、伯爵の体を夜の底へ縫いつけていく。
「や、めろ」
ようやく出た声は、獣の呻きにも似ていた。
「まあ」
ヴィオラは膝を折り、床に転がる伯爵を見下ろした。
「お声が小さいわ。あなた、泣き声が小さいとお気に召さなかったでしょう」
黒糸が伯爵の喉へ巻きつく。喉仏が潰れ、息がひゅう、と細く鳴った。
「泣いて」
伯爵の目が飛び出しそうに開く。
「泣け、と仰ったのはあなたよ」
「ひっ、ひ、い……」
涙と涎で、伯爵の顎が濡れた。右手が絨毯を掻く。助けを求める手だった。誰も取らない。
ヴィオラは、指先を噛んだ。血が一滴、割れた人形の腹へ落ちる。
黒糸が跳ねた。
「次は、詫びて」
伯爵の折れた腕が、不自然な角度で胸の上へ押し戻される。まるで祈るように。
「わ、悪かった。許、して」
「どなたに?」
「お、お前に」
「足りませんわ。——ニナに」
「に、ニナ……?」
「あの子の手首の指の跡。喉元の赤い筋。覚えていらっしゃらない? なら、体に思い出させて差し上げます」
黒糸が伯爵の手首を締めた。五本の指の形で紫が浮き、つづいて喉元へ、細い赤い筋が走る。
「言葉を選べるではありませんか。最初から、そうなさればよかったのに」
泣け、と言われた夜。詫びろ、と踏みつけられた夜。ニナの細い肩が靴先で押された昼。その欠片だけで、男の骨が音を立てていく。
夜が明けるころ、伯爵は、人の形を、とどめていなかった。
「……おやすみなさい、あなた」
ヴィオラは、寝酒の残った杯を、そっと洗った。
それから人形を拾い、両手で抱いた。
「まだ、終わりではないわ」
声は、自分でも驚くほど低かった。
夜明け前の窓に、ヴィオラの影だけが長く伸びていた。
伯爵は死に、屋敷にはひとり、「魔女」が残った。
物語は、あの夜明けへ還る。刃の下に跪くヴィオラと、それを見下ろす聖女の、あの朝へ。




