第1話「黒い門と神主」
「ハルさん、おはよー!」
朝靄がまだ薄く漂う小道を、亜麻色の髪の少女が全力で駆けてくる。
裸足のまま、朝露に濡れた草を元気に蹴散らし、息を弾ませて。
「おはようございます、リーナ。今日は早いですね」
「だっておじいちゃんが、またハルさんのとこに変な木が増えとるって怒ってたから、見に来たの!」
「変な木って…榊のことですかね」
落ち葉を掃く手を止めて振り返ると、リーナは両膝に手をついて荒い息を整えているところだった。十歳。ゴルド村長の孫娘であり、このルーテ村でいちばん元気な存在だ。数年前に両親を魔物に奪われているのだが、そんな陰惨な過去を微塵も感じさせない、ひまわりのような明るさを持っている。
毎朝こうして社殿まで走ってきてくれるのが、私にはちょっとだけ嬉しい。もちろん口には出さないけれど。
「おじいちゃんが言った通り、ほんとに増えてる。あっちに新しいのが三本くらい」
リーナが指差す先に目をやると、確かに竹林の端に若竹が数本、朝の淡い光を浴びて真っ直ぐに天を突いていた。瑞々しい緑色が、周囲の古い木々の中で妙に鮮やかだ。
昨日まではなかった。竹は成長が早い。嘘は言っていないのだが、一晩で三本生えるのはさすがに竹としてもどうかと思う。
一間造りの小さな社殿。この社殿に祀った五柱の大神から溢れる「神気」を吸って育っているからなのかな。植物は素直なので、神気が濃い神域ではこういう異常成長が頻発する。こればかりは私にも制御しようがない。
「ハルさんのまわりだけ、木がにょきにょきするの不思議だよね」
「不思議ですねえ」
不思議じゃない。理由は明白だ。だが「この社殿に祀った神様の力で植物が生えるんです」と馬鹿正直に説明しても、この世界の人には伝わらない。なにせ、八百万の神どころか、この国、ヴァルディア王国では唯一神『ソル・デウス』しか信じられていないのだ。複数の神がいるなんて話を真顔でしたら、変人を通り越して異端の危険人物扱いされかねない。
「手伝ってくれるなら箒を使ってください。こう、根元から外に向かって掃くんですよ」
「はーい!」
リーナは私のお手製の竹箒を受け取ると、気合を入れて掃き始めた。
掃き方はめちゃくちゃで、落ち葉を集めるどころかあちこちに散らしているのだが、まあいいさ。その気持ちが大事。私だって、前世で初めて境内の掃除を任された時は似たようなものだった。
私は藤原春暁(ふじわら の はるあきら)。
前世では春日社の禰宜(宮司を補佐する実務の長)を務めていた。治承四年、西暦で言えば一一八〇年の冬、平氏の軍勢による南都の焼き討ちで命を落としたが、春日の五柱の大神の計らいにより、この世界に転生させていただいた。今はヴァルディア王国の南東端、辺境の小さな村ルーテで、勝手に神主をやっている。
社殿の前には、私とブルーノで建てた漆黒の鳥居が朝日を浴びて静かに佇んでいる。ブルーノは職人さんだ。木工が得意らしいけど、鍛冶でもなんでもやる人だ。
鳥居は、檜で骨組みを作り、漆を幾重にも塗り重ねた、周囲の光を吸い込むようなこの世界にただ一つの門。リーナは箒を止めて、その鳥居を見上げた。
「ハルさん、この黒いやつ、今日もかっこいいね」
「ありがとうございます。ブルーノさんの漆塗りが上手いんですよ」
「ハルさんっていつもブルーノさんのこと褒めるよね。自分で作ったくせに」
「設計しただけで、仕上げはブルーノさんです。さすが、本職の職人さんは違いますね」
「ふーん。おじいちゃんは『あの黒い門は得体が知れん』って言ってるけど」
「…ゴルドさん、毎日それ言ってません?」
◆◇◆◇◆
「ハルさんよ、あの黒い門は得体が知れん」
言われた。
掃き掃除を終えて社殿の周りを見回っていると、ゴルドが腕を組んで待ち構えていた。六十前後、白髪交じりの短い髪に日に焼けた顔。深く刻まれた額の皺が不機嫌を常態としているような男だが、目の奥には確かな温かみがある。
ルーテ村の村長であり、リーナの祖父であり、そして私がこの世界で目を覚ました時、最初に手を差し伸べてくれた恩人でもある。長年、村長を務めてきたからだろうか、実年齢よりも歳上に見える。
「ゴルドさん、おはようございます」
「おう。また竹が増えとるぞ」
「竹は成長が…」
「早いんだろ。毎回同じことを言うな」
ゴルドは太い腕を組み直して、竹林の方に顎をしゃくった。
「そうじゃなくて、あの竹、村のモニカの家の裏まで伸びとるんだぞ。迷惑がっとる」
「…そこまで広がってるんですか。すみません、あとで切りに行きます」
「切ってもすぐ生えるだろうが。まったく、ハルさんが来てからこの辺りだけおかしなことになっとる」
ゴルドはゴツゴツした指を折りながら、ここ数ヶ月の「おかしなこと」を列挙し始めた。見たことのない木が次々に生える。井戸の水が前よりうまくなった。村に風邪を引く者や病気をするものがほとんどいなくなった。数え上げればきりがない。
「それ、悪いことではないですよね?」
「悪くはないが、気味が悪い」
ゴルドはこういう人だ。恩は感じているし、助けられていることも認めている。でも自分の常識で理解できないものは警戒する。辺境で何十年も村を守ってきた長としては、極めて真っ当な感覚だろう。私は嫌いじゃない。むしろ、こういう堅実な人がまとめている村だからこそ、安心して暮らしていられる。
「ところでハルさんよ、今日はブルーノのところに行くのか?」
「ええ。鳥居の柱にちょっとひび割れが出てるので、補修しようと思いまして」
「あんたら二人、あの門のことになると妙に熱心だな。いい大人が」
「大事な門ですから」
大事な門なんてものじゃない。あの鳥居は「結界の核」だ。あれがあるから、社殿を中心とした神域が維持されている。水が澄み、空気が清まり、穢れが薄まるのは、全てあの鳥居が定めた境界の恩恵なのだ。
もしあれが壊れたら、この一帯の穢れは一気に濃くなる。魔物が寄ってくる。村人の健康にも影響が出る。鳥居のひび割れは、それだけ穢れを受け止めていることの証。だからこそ、少しのひび割れ一つでも見逃すわけにはいかない。
だがそんな説明をしたところで、ゴルドに通じるとは思えないので黙っておく。
「むっ、ゴルド村長」
通りかかったマルタが足を止めた。
六十過ぎの老婆で、腰はやや曲がっているが、眼光の鋭さは若者のそれだ。この村の薬草師であり、村唯一の特産物である「辰砂」の採取も任されている村の知恵袋。そして、私がこの村に来た初日に、唯一「あんた、ただ者じゃないね」と見抜いた人でもある。
村は、マルタさんが採取する辰砂のおかげで残っていると言っても過言ではない。現在の主要な交易路から外れた辺境の村。辰砂がなければ、酔狂な行商人ですら、わざわざ足を伸ばさないだろう。
「マルタばあさん、なんだ」
「朝っぱらからハルさんをいじめるんじゃないよ」
「いじめとらん。注意だ」
「同じだよ。ハルさん、悪いねえ。例の風の札、もう一枚もらえるかい? あれがあると薬草の乾きが段違いなんだよ」
「いいですよ」
私は懐から竹の筆入れを取り出した。自分で竹を割いて作ったもので、手に馴染む太さと重さに仕上げてある。蓋を抜いて筆を引き出すと、穂先に墨が自然と滲んだ。この『無尽の筆』は五柱の大神から授かった神具の一つで、必要な時にだけ、必要な量の墨が湧き出る。
小さな紙片を取り出して『天雲吹放 科戸風』と走らせる。墨が紙の繊維に染み込むように沈み、淡い翠色の光が一瞬だけ灯って消えた。
風の符。天児屋根命の言霊の力を借りた術式だ。
「はい、どうぞ。壁に貼っておけば、穏やかな風が二日くらい続きます」
「ありがたいねえ。ハルさんのまじないは本当によく効く」
マルタは符を丁寧に受け取ると、割烹着のような服の懐にしまい込んだ。彼女はこの「まじない」がどういう理屈で動いているかを一切聞いてこない。効くから使う。それだけ。この割り切りの良さに、何度救われているか分からない。
ゴルドが渋い顔で一連のやり取りを見ていた。
「紙切れにインクを塗っただけで風が起きるってのは、どういう理屈だ」
「神様にお願いしてるんですよ」
「ソル・デウス様にか?」
「いえ、別の神様です」
ゴルドの眉間の皺が、ぐっと深くなった。この国では、ソル・デウス以外の神を信じていると公言するのはあまりよろしくない。教会がうるさいのだ。
マルタがすかさず「まあまあ、効くならなんでもいいじゃないか」と笑って話を逸らしてくれたが、ゴルドの目にはまだ釈然としない光が残っている。
マルタさんがいなかったら、この村でやっていけてない気がする。
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