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間宮美代子

「みっ、水っ――」

 ガサガサッと枝をかき分ける音と息も絶え絶えな声を聞いて階段の方を見やると、半袖の白いブラウスに紺のスカート姿の女が登ってきていた。誰だ、こいつ……小野木はギョッとして薪割りの手を止める。

「そこに井戸水がある」

「もうだめっ!」

 女は衣服に土が付くのも構わず、その場にへたりこんだ。

 しょうがねえな――ペットボトルを半分に切ったものをコップ代わりに井戸水を注ぐと御模擬は女に手渡した。女はそれを奪い取るようにして一気に喉に流し込む。すると気管にでも詰めたのか、今度はゴホゴホとむせはじめた。

「せなかっ――背中さすって、死ぬぅ」

 知るかっ、勝手に死ね。そう思ったが、見知らぬ女に庭先で死なれても寝ざめが悪い。作業手袋を脱ぐと、小野木は女の背中を叩いてやった。

「痛いっ! もっと優しくっ」

 死なせておけばよかったな……文句の多い女に小野木はそう思った。

「ふうーっ、死ぬかと思った。何なのよ一体、あの階段は」

「あんた、人の土地に黙って入ってきて、いきなり人んちの階段に文句いうのか? 挨拶が先だろうが」

 女はショートカットの髪が汗で張りついた丸い顔を上げ、キョトンとした表情で見返してきた。赤いセルフレームの眼鏡をかけ化粧っけのない女の顔は年齢が判断しづらいが、大きく見開らかれた瞳が印象的であった。

「あ……失礼しました。わたしは中ノ原西中の教師をしております。間宮と申します」

 立ち上がってスカートの汚れを払う。

「ふうん、で、その間宮先生がうちに何の用だ?」

「何の用だですって? うちの生徒をここで働かせているそうじゃないですか。我が校はアルバイトを禁止しているんです。義務教育中の少年にそんなことをさせてるのはあなたなんでしょう」

「生徒? 鈴木や本田のことか。アルバイトなんかさせてねえぞ、金はビタ一文払っちゃいない。飯は時々食わせてるけどな」

 畏まってみたり、やいやい非難したりと忙しい女だな。小野木は騒がしい女が苦手だった。

「えっ、どうゆう事? 他の生徒がいうには――」

 ロードワーク中の雄一郎がログハウスの前を横切るのをみとめて言葉を切ると、間宮教諭は大きな声で呼びかける。

「あっ!鈴木くーん」

「あれ? 美代ちゃんじゃん。何してんだよ、こんなとこで」

 その声に気づいた雄一郎が二人に走り寄る。全身にびっしょりと汗をかいており息も荒い。起伏に富んだ山道でのロードワークは心肺機能の強化に効果的だとカジが決めたコースを毎日真面目に走り続けていた。

「お前らの先生なのか? この威勢のいいねえちゃんは」

 ミヨちゃん? ミヨコってえのか。マミヤミヨコ――早口言葉みたいな名前だなと小野木は思った。

「うん、担任。でも、ねえちゃんじゃないかな」

 三十一歳とか言ってたし。後半は心の中だけで続ける。

「そうですとも、ねえちゃんとか言わないで下さい、下品です」

 間宮美代子は、雄一郎の意図を誤解したようだ。

「下品で悪かったな。でも、俺より明らかに年下のあんたを先生とは呼べねえぞ」

 美代子は考え込む表情になる。

「じゃあ、美代ちゃんでいいです」

 小野木はこけた。

「なんで、初対面のあんたをそんな親しげに呼べるんだよ」

「そう言われてみればそうですね」

 しれっとした顔で言う。「もういいよ、間宮さんでどうだ」小野木の提案に美代子は頷いた。

「それで、どうしたんだよ」

 雄一郎の問い掛けに、美代子はここに来た本来の目的を思い出した。

「そうそう、それよ。山田君が言ったの、鈴木君達が怪しげな農園でバイクに乗ったりタバコを吸ったりしてるって。一緒に行きたいって言ったら俺達は仕事の代価にバイクもボクシングも習ってるんだ。仕事もしないお前らなんか連れてゆけないって言われたって。あなた達は中学生よ、アルバイトは認められません」

「あいつか……しつこい野郎だな。タバコなんか吸う訳ないじゃん、ボクシングを習ってんだぜ。アルバイトもしてねえよ、タダ働きなんだもん。それにあいつがそんな丁寧にものを頼む奴かどうか、美代ちゃんだって知ってるだろう」

 確かに山田という生徒は祖父が市長であったことを笠に着て、他の生徒を見下げたような所はある。しかし今は雄一郎の発言の内容が気になった。キッとした目つきで小野木に向き直る。

「タダ働きですって? なおさら悪いじゃないですか。わたしはこの子達の担任として、いいえ、青少年の健全な育成に携わる大人として、あなたのしていることは見過ごせません」

「何いってやがる。あんたも学校もこいつらを見過ごしっぱなしじゃねえか。梨泥棒に来たんだぞ、こいつらは。だからとっ捕まえて学校に突き出すか労力で購うかを選択させたんじゃねえか」

 咥えたマールボロの煙を吐き出しながら小野木が答えた。あ、怪しげな農園という言葉に文句をいうのを忘れた。遅れてそれを口にしようとしたが、既に美代子は雄一郎に顔を向けて話し始めている。

「本当なの?」

 バツが悪そうに頭を掻きながら雄一郎が答える。

「うん、梨が欲しかった訳じゃないけど忍び込んだのは本当だな。そんでボランティアで働いて色々教わってる、アルバイトじゃないだろ? ギブ・アンド・テイクだよ。なあ、ジュンさ」

「だな、家業が農園の本田と川崎は役に立つぞ。収穫も雪おろしも土作りも、こいつ等が居なかったらと思うとぞっとする。お前はカジさんのお気に入りだしな」

「あいさー」淳一と雄一郎がハイタッチを交わした。

「でも、無免許でオートバイは……」

 尚も続けようとする美代子の非難を小野木の言葉が遮った。

「私有地だぞ、ここは。外には一歩たりとも出させねえよ。それに誠はもう乗る方は諦めて自動車の修理に一生懸命だ。職業訓練だな、言うなれば」

 どうも山田少年の言い分とは話が違うようだ。学校では見せることのない生き生きとした表情の雄一郎を眺めるに至り、美代子は困惑していた。

「雄一郎が万引きを疑われた時の話も聞いたぞ、誰ひとりこいつの話を信じようとしなかったそうじゃねえか。そんなんで青少年の健全な育成どうのこうのってよく言えたもんだな」

「それは……」

 満を持して淳一が反撃に出る。口籠る美代子を雄一郎が代弁した。

「あ、ジュンさ、それは違う。美代ちゃんは信じてくれたもん。本人が否定しているのに、確かめもしないで決めつけるのはおかしいって、生徒指導の横山に噛みついてくれたんだ」

 噛みついたか――このうるさい女なら想像に難くない。弁明の目的とは違うところに小野木は納得した。

「ふうん、そいつは失礼しちゃいました。で、こいつの話を聞いたあんた――間宮さんの判断はどうなんだ。まだ俺が少年をさらって、こき使う人でなしだと思ってるのか?」

「いいえ、そうは言ってません。でも本田君や川崎君の話も訊いてみないと。他の二人はどこに居るんですか」

 謂れ無き非難にヘソを曲げていた小野木は梨棚を指差した。

「あそこに居るはずだ。でも入口の鍵を持ったのが出張中でな。フェンスを乗り越えないといけねえぞ。女のあんたにゃ無理だろう、脚立はあるけどスカートだしな」

 小野木の思惑に気づいた雄一郎が、真面目くさった顔で美代子を挑発する。

「美代ちゃん、また今度にしなよ」

 再び、きっとした顔になった美代子が二人を睨んだ。

「冗談でしょ。あんな階段、ニ度とごめんだわ。あそこね、こう見えても高校時代は走り高跳びの選手だったのよ。見てらっしゃい、あんなフェンス、脚立なしで飛んで見せるわ」

 引っかかったぞ。興味津津の小野木と雄一郎だったが、それを顔に出さないようにしてフェンスに向かって歩き出す美代子を目の端で追う。

 ハッ! キャー 数メートルの助走で掛け声と共にフェンスを飛び越えた美代子の姿は当然の如く悲鳴と共に落とし穴の中へ消えていった。一緒になって落ちたブルーシートをもがきながら剥ぎ取り、ヒステリックに声を上げる。

「なんなのっ! 一体」

「あははは、怒る前に身なりを整えろ。あんたパンツが丸見えになってるぞ。青少年の健全な育成によろしくない」

 見下ろす小野木の言葉に、もう一度キャーといって美代子はたくし上がったスカートを引き下げた。

「ガキの戯言に乗せられて、俺を非難をした罰だ。これでおあいこだな。ほれ、登ってこい」

 小野木は縄梯子を垂らす。美代子は中腰になって手を伸ばしかけたが、またしゃがみこんで俯いた。

「どうした、先生ともあろうものが落とし穴程度で泣きべそか? さっきの勇ましさはどこへ行ったんだよ」

「違うんです。足をくじいたみたいなんです、すみませんが手を貸してもらえませんか」

 とことん世話の焼ける女だな。半分ほど梯子を下りて伸ばした小野木の手を美代子は思い切り引っ張った。二人は折り重なるように穴の底に倒れ込んだ。

「ちきしょう、何しやがる」

「仕返しです」

「ああ、なるほど。だったら、しょうがねえな」

 小野木は毒づいたかと思えば簡単に納得もする。汗臭っ、でも、睫毛長っ、美代子はそんな印象を抱いていた。

「俺の自己紹介がまだだったな、小野木淳一。この農園の主だ」

 倒れ込んだままの体勢で真面目くさった顔で挨拶を始める小野木に美代子は吹き出した。そして小野木も笑顔になる。

「青少年の前でなにやってんだあ? お二人さん」

 三人の少年が穴の上から覗きこんで囃したてきた。


 トラクターに美代子を乗せ麓まで送る誠に美代子が訊ねる。すっかり泥まみれになった洋服は小野木に借りたスエットの上下に着替えていた。

「あの小野木さんって人、幾つなの? 独身?」

「四十二歳ってゆってたかな。うちの親父よりいっこ上のはずなんだけど、そうは見えねえだろう。あ、美代ちゃん、惚れたのか? だめだぜ、ジュンさは星になった婚約者を今でも思い続けてるんだから。そのスエットも婚約者のだと思うよ」

 星に? 亡くなった恋人を想い続けてるのかしら、むさ苦しいヒゲ面に似合わずロマンチックなのね。そんな思いとは別の言葉で美代子は否定をあらわした。

「そんなんじゃないわよ。こんな所に男一人で暮らしてるなんて偏屈だなあって思っただけよ」

「いや、もう一人オヤジが居る。今はどっかに出掛けてるけどな」

「へえ、そうなの。こんな道があったのね、気づかなかったわ」

「トリックアートが描いてあるんだよ、門扉に。気づかないのはボンクラだってさ」

「誰がボンクラですって」

 美代子はいきり立って、運転席の誠の襟首を掴む。

「おっ、俺が言ったんじゃねえよ、ジュンさがそう言ってるんだ」

 ふんと鼻を鳴らすと、美代子は誠を掴んだ手を緩める。

 ロマンチックなんかじゃないっ、ヒゲ男め。レディのショーツを見て笑ってるようなヤツは、ただの無神経だ。もう一度ふんっと鼻を鳴らす美代子の横顔を誠は不思議そうに眺めていた。


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