第1話 私だけが片想いだと思っていた
自分だけが片想いだと思っている女の子と、学校一の美形男子。
朝の「おはよう」だけで胸がいっぱいになる――そんな小さな片想いから始まる、甘くて少し切ない学園恋愛です。
全5話完結済みです。
好きな人に「おはよう」と言われただけで、一日が終わってしまうことがある。
森下美月は、教室の入口で足を止めた。
まだ朝のホームルームまで十分ある。窓際の席には、いつものように瀬川奏太がいた。
朝の光を横顔に受けて、頬杖をつきながら友達と話している。
ただそこにいるだけなのに、教室の空気が少し明るく見えた。
瀬川奏太。
同じ高校二年のクラスメイトで、学校中の女子が憧れる美形男子。
背が高くて、顔立ちが整っていて、声まで柔らかい。誰にでも優しくて、笑うと少し目尻が下がる。
奏太が廊下を歩けば、隣のクラスの女子まで振り返る。
体育の授業でシュートを決めただけで、窓際から小さな歓声が上がる。
バレンタインには、机の横に紙袋がいくつも置かれていた。
本人は困ったように笑っていたけれど、その笑顔でまた誰かが好きになる。
そんな人を、私は好きになってしまった。
しかも、ずっと。
美月は、特別目立つ子ではない。
成績も運動も普通。
顔立ちも、クラスで噂になるほど可愛いわけではない。
友達はいるけれど、輪の中心に立つタイプではなく、教室の端で笑っている方が落ち着く。
誰かに強く見つめられるより、誰にも気づかれずに一日が終わる方が安心する。
だからこそ、瀬川奏太みたいな人を好きになった自分が、少しだけ恥ずかしかった。
今日こそ、自然に挨拶する。
ただの「おはよう」だ。
それくらい、普通にできるはず。
そう思って一歩踏み出した瞬間、奏太がこちらを向いた。
「あ、森下。おはよう」
心臓が、ばかみたいに跳ねた。
「お、おはよう……瀬川くん」
声が少し裏返った。
それなのに奏太は、何も気にしていないみたいに笑った。
「今日、早いね」
「う、うん。ちょっと……早く起きちゃって」
本当は、早く起きたのではない。
昨日の夜、奏太に送るLINEを何度も書いて、何度も消して、眠れなかっただけだ。
『明日、一緒に帰らない?』
たったそれだけの文章を打つのに、三十分かかった。
でも送れなかった。
既読になって、返事が来なかったらどうしよう。
変に思われたらどうしよう。
嫌われたらどうしよう。
そんなことばかり考えて、結局スマホの画面を伏せてしまった。
奏太は美月の髪を見て、少しだけ目を細めた。
「今日もその結び方なんだ」
「えっ」
美月は反射的に髪に触れた。
肩の少し下まで伸びた髪を、右側だけ細く編み込んでいる。
一か月前、席替えのあとに奏太が何気なく言ったのだ。
『森下、その髪型似合ってる』
たった一言。
それだけだった。
でも美月にとっては、宝物みたいな一言だった。
それ以来、雨の日も、寝癖がひどい日も、少し面倒な朝も、ずっと同じ髪型にしていた。
「変……かな」
「いや」
奏太はすぐに言った。
「似合ってると思う」
胸の奥で、小さな花火が上がった。
どうしよう。
うれしい。
うれしすぎて、顔が熱い。
「ありがとう……」
美月はそれだけ言って、自分の席へ逃げるように向かった。
これ以上話していたら、心臓の音が聞こえてしまいそうだった。
席に着いてからも、しばらく指先が震えていた。
今日も似合ってるって言われた。
奏太くんが見てくれていた。
それだけで、今日一日がんばれる気がした。
美月は気づいていなかった。
自分が席に着いたあとも、奏太がほんの少しだけこちらを見ていたことに。
誰にでも優しい奏太は、美月の前では少しだけ言葉が短くなる。
美月はそれを、私と話してもつまらないんだ、と受け取っていた。
でも本当は、その短い沈黙の中で、奏太の視線だけがいつも美月の髪先を追っていた。
けれど、その気持ちは昼休みにはあっさりしぼんでしまった。
「瀬川くん、これ見て!」
隣のクラスの女子が、教室の入口から奏太を呼んだ。
一ノ瀬莉子。
明るくて可愛くて、いつも周りに人がいる子だった。栗色の髪がふわっと揺れて、笑うと教室の中まで空気が軽くなる。
美月とは違う。
同じ制服を着ているのに、莉子は制服まで可愛く見える。
奏太は友達との会話を切り上げて、廊下へ出ていった。
莉子がスマホの画面を見せる。
奏太がそれを覗き込む。
二人の距離が、近い。
莉子が何かを言って笑った。
奏太も笑った。
それだけ。
ただそれだけなのに、美月の胸はぎゅっと痛くなった。
いいな。
あんなふうに自然に話せて。
奏太くんを笑わせられて。
私は「おはよう」だけで緊張して、会話が二往復も続かないのに。
「美月、聞いてる?」
前の席の友達、奈緒が振り返った。
「えっ、なに?」
「やっぱ聞いてなかった。次の英語、小テストあるって話」
「あ……忘れてた」
「もう。瀬川くん見すぎ」
「見てない!」
否定した声が大きくなって、近くの女子がちらっとこちらを見た。
美月は慌てて口を押さえる。
奈緒はにやにやしながら、小声で言った。
「美月、まだ告白してないの?」
「できるわけないよ」
「なんで。瀬川くん、普通に優しいじゃん」
「優しいからだよ」
美月は机の上に視線を落とした。
「誰にでも優しいから、私だけが勘違いしてる気がする」
奈緒は少しだけ黙った。
それから、わざと明るく言った。
「でもさ、何もしないままだと取られるよ?」
胸に刺さった。
取られる。
その言葉を聞いた瞬間、廊下で笑っている莉子の姿が、また視界の端に入った。
莉子は奏太の隣で、楽しそうに話している。
まるで、そこが最初から自分の場所だったみたいに。
美月はそっとスマホを開いた。
待ち受けは、恋が叶うと噂の淡いピンクの空の画像。
効果なんてあるわけないと思いながら、三週間も変えられずにいる。
占いでは、奏太との相性は悪くなかった。
身長差だって、恋人向きだと書かれていた。
髪型も褒められた。
朝も挨拶できた。
それなのに、何も進んでいない。
好きになってから、ずっと同じ場所にいる。
放課後になっても、美月はそのままだった。
靴箱で靴を履き替えながら、スマホの画面を開く。
奏太とのトーク画面。
最後のやり取りは、二週間前。
『明日の数学って課題どこまで?』
奏太から来た、ただの確認メッセージ。
それだけなのに、美月は何度も読み返していた。
今日こそ。
今日こそ、送る。
『瀬川くん、今日一緒に帰れたりする?』
打ってみる。
心臓が痛い。
送信ボタンの上で指が止まる。
無理。
でも、今日送らなかったら、また明日になる。
明日こそ、明日こそって言って、いつまで逃げるの。
美月は深呼吸した。
送ろう。
今、送る。
そのとき、昇降口の外から女子の笑い声が聞こえた。
何となく顔を上げた美月は、息を止めた。
奏太がいた。
隣に、莉子がいた。
二人は並んで校門の方へ歩いていた。
莉子が何かを言って、奏太が少し困ったように笑う。
その笑い方を、美月は見たことがなかった。
優しくて、近くて、柔らかい。
胸の奥が、すっと冷えた。
スマホの画面を見る。
『瀬川くん、今日一緒に帰れたりする?』
ばかみたいだ。
もう、一緒に帰る相手がいるのに。
美月は文章を消した。
一文字ずつ消えていく。
最後に何もなくなった画面を見て、なぜか泣きそうになった。
駅までの道を、少し離れて歩いた。
追いかけるつもりはなかった。
でも帰る方向が同じだから、視界に入ってしまう。
奏太と莉子は、駅の改札を抜けて同じホームへ向かった。
美月は一本遅らせようと思った。
けれど、そんな自分が惨めで、反対側の柱の陰に立った。
電車が来るまでの数分。
奏太は莉子と話していた。
莉子はよく笑う。
奏太も、笑う。
美月は自分の髪に触れた。
朝、似合ってるって言ってくれたのに。
でも、きっとそれだけ。
誰にでも優しい瀬川くんが、たまたま言ってくれただけ。
電車が来た。
人の流れが動く。
美月は二人とは別の車両に乗った。
ドアが閉まる直前、ふと奏太がこちらを向いた気がした。
でも、すぐにホームの景色は流れていった。
家に帰ってからも、美月はスマホを見られなかった。
勉強机に向かっても、ノートの文字が全然頭に入ってこない。
何度もため息をついて、結局ベッドに倒れ込んだ。
もう、やめようかな。
片想いなんて。
好きでいるだけで、こんなに疲れるなら。
そのとき、スマホが震えた。
美月はゆっくり画面を見た。
表示された名前に、息が止まる。
瀬川奏太。
『今日、駅にいた?』
心臓が、またばかみたいに跳ねた。
どうして。
見えてたの。
気づいてたの。
美月は何度も文章を打ち直した。
『いたよ』
それだけでは冷たい気がした。
『いたけど、邪魔したら悪いかなって』
送った瞬間、後悔した。
重い。
変。
絶対変。
けれど、すぐに既読がついた。
そして、返事が来た。
『邪魔なわけない』
続けて、もう一通。
『俺、森下を探してた』
美月はスマホを握ったまま、動けなくなった。
探してた。
誰を。
私を?
画面の中に、また文字が浮かんだ。
『明日、一緒に帰らない?』
美月はその一文を見つめたまま、胸の奥が苦しくなるほど高鳴っていくのを感じていた。
私だけが片想いだと思っていた。
でも、その夜だけは少しだけ、違う夢を見てもいい気がした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
美月はまだ、自分だけが片想いしていると思っています。
でも、奏太の何気ない言葉や視線には、少しだけ違う気配もあります。
次話では、消したはずのLINEと、奏太から届いたメッセージをきっかけに、二人の距離が少しずつ動き出します。




