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13人と黒い給食室――食べた者から、昨日の自分を忘れていく。残された献立表には、明日の欠席者の名前がある  作者: 妙原奇天


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下巻

第5章 黒い給食当番

 給食のチャイムが、地下で鳴っていた。

 それは本来、校舎の天井に取りつけられたスピーカーから流れる音のはずだった。だが今、その音は地下の壁そのものから滲み出しているように聞こえた。古い給食センターのような空間。錆びた寸胴鍋。白く曇ったタイル。壁一面に掛けられた名札。そこに並ぶ、生野周、芦原海都、白瀬真白、間宮灯真、そして葛葉透の名札。

 キーンコーンカーンコーン。

 明るいはずの音が、死者を呼び集める鐘のように響いている。

 間宮灯真は、銀色のトングを床に置いたまま、黒い顔の少女を見ていた。

 葛葉透。

 十年前、この学校で欠席扱いにされた少女。

 自分が、最後の一食を渡さなかった相手。

 彼女は白い給食着を着て、調理台の前に立っていた。顔は黒く塗り潰され、目も鼻も口も分からない。だが、間宮には彼女がこちらを見ていることが分かった。

 黒い顔の中に、小さな亀裂が入っている。

 名前を呼んだからだろうか。

 謝ったからだろうか。

 それとも、十年間、誰にも呼ばれなかった名前が、ようやくこの地下で音になったからだろうか。

「葛葉透」

 間宮は、もう一度その名を呼んだ。

 地下の空気が震える。

 壁に掛けられた古い名札が、かすかに揺れた。生野周の名札。芦原海都の名札。白瀬真白の名札。十年前の日付が入った、名前の読めない名札たち。

 葛葉莉央が、間宮の背後で息を呑んだ。

「姉さん……」

 その声は、怒りでも悲しみでもなかった。

 もっと幼い、何かを探す子どものような声だった。

 葛葉莉央は、いつも冷静だった。大人を疑い、ルールの穴を探し、誰より早く異常に気づく。恐怖を怒りに変えて立っている生徒だった。だが今、彼女はただの妹に戻っていた。

 十年前に消えた姉を、ずっと探していた妹。

 黒い顔の少女は、葛葉莉央の声に反応したように、わずかに首を傾けた。

 だが、近づいては来ない。

 調理台の上には、皿が並んでいる。

 一枚、二枚、三枚。

 数えていくと、十三枚あった。

 間宮は、その数に気づいて唇を噛んだ。

 また十三。

 この学校に取り残された人数と、いつも一つずれる数。

 給食室は、最初から足りない状態を作る。

 誰かが食べるためには、誰かが後回しになる。誰かが残るためには、誰かが欠席扱いになる。そういう構造そのものを、給食室は再現している。

 壁に、白い文字が浮かんだ。

 給食当番は、配膳を開始してください。

 間宮は動かなかった。

 床に置いたトングを見下ろす。

 拾えば、また十年前と同じになる。

 皿を選ぶ。誰に配るか決める。誰を後回しにするか決める。

 その行為そのものが、給食室のルールに組み込まれている。

「先生」

 白瀬真白が言った。

 間宮は、まだ彼女の名前を声に出せない。だが、頭の中でははっきり読める。白瀬真白。半欠席になり、名前を奪われ、それでもここにいる少女。

 彼女は、間宮の隣に立った。

「トング、拾わないでください」

「ああ」

「私たちも、配られたものを黙って食べたりしません」

 白瀬の声は震えていた。

 それでも、まっすぐだった。

 葛葉莉央が、調理台の皿を睨む。

「そもそも、十三枚しかないのがおかしいんです。毎回、誰かを余らせる前提になってる。だったら、その前提に乗ったら負けです」

「でも、乗らなかったら代理欠席になる」

 野宮彩葉が言った。

 彼女は落合静の腕を握っている。顔は涙で濡れていたが、それでも逃げずに地下へ来ていた。

 落合は、野宮の手を包むように握り返した。

「代理欠席という言葉も、学校側の処理です。欠席欄に誰かを入れるための言葉。つまり、向こうは“誰か一人を選ぶこと”にこだわっている」

「なら、選ばなければいい」

 葛葉が即座に言った。

「でも、それで済む相手じゃないよ」

 声がした。

 全員が振り返る。

 調理台の奥、白い給食着を着た少年が立っていた。

 生野周だった。

 顔は、以前より少しだけ戻っているように見えた。完全ではない。目元はぼやけ、口元も薄い。それでも、初めて地下で見た時の無表情な給食当番とは違っていた。

 彼の胸の名札は、黒く塗り潰されている。

 しかし、間宮には分かった。

 生野周だ。

「生野」

 間宮は声を出した。

 今度も、地下ではその名前を呼べた。

 生野はゆっくり頷いた。

「先生、俺、ずっとここにいた気がします。食器並べて、片づけて、また並べて。何のためか分からないのに、手だけが勝手に動く」

「戻れるか」

「分かんない。でも、さっき先生が名前を呼んだ時、一瞬、思い出しました。俺、食べなかった。怖かったから。みんなに、食べるなって言いたかった」

 野宮が泣きながら言う。

「夢に出てきたの、生野くんだったんだ」

 生野は小さく頷いた。

「たぶん。俺、ずっと言ってた。食べるなって。でも、声が届かなかった」

 彼の背後から、もう一人の影が現れた。

 芦原海都。

 こちらも白い給食着を着ていた。だが生野より輪郭が薄く、身体がところどころ透けている。役割欠席。身体は保留。黒い献立表の文字が頭をよぎる。

「芦原」

 間宮が呼ぶと、芦原は苦笑した。

「先生、俺の名前、まだ呼べるんすね」

「当たり前だ」

「地上だと、みんな忘れてたっぽいのに」

「忘れていない。完全には」

 芦原は、調理台に寄りかかった。

「俺さ、ここで皿を並べてると、だんだんどうでもよくなるんですよ。自分が誰だったかとか、何したかったかとか。皿を並べるのが役割で、それ以外いらないって感じになる」

「役割を奪われるというより」

 白瀬が呟いた。

「別の役割に置き換えられるんだ」

「そう、それ」

 芦原は力なく笑った。

「俺、クラスのうるさい奴だったはずなのに、今は給食当番。笑える」

「笑えない」

 葛葉が言った。

「全然笑えない」

「だよな」

 芦原は、少しだけ目を伏せた。

 その時、壁の文字が増えた。

 給食当番は、欠席予定者に配膳してください。

 欠席予定者。

 間宮灯真。

 調理台の上の皿のひとつが、ひとりでに動いた。

 透明なスープが入っている。

 いや、透明なスープではない。

 その器の中には、白く濁った何かが満たされていた。牛乳のようにも、粥のようにも見える。湯気は立っていない。けれど、器の周囲だけ空気が冷えている。

 皿の底に、文字が浮かぶ。

 先生の記憶。

 間宮の喉が鳴った。

「最後の献立……」

 葛葉が呟く。

 黒い顔の少女、葛葉透が、その器を両手で持ち上げた。

 そして、間宮の前に差し出した。

 十年前、間宮が彼女に渡さなかった食事。

 今度は、彼女が間宮に差し出している。

 その皮肉に、胸が潰れそうになった。

 間宮は器を見た。

 食べれば、十年前の真実をすべて思い出す。

 だが、今の自分を失うかもしれない。

 食べなければ、生徒たち全員が欠席扱いになる可能性がある。

 どちらを選んでも、誰かが傷つく。

 それが、この給食室のやり方だった。

 選択肢の形をして、人を追い詰める。

 選んだ者に罪を背負わせ、選ばれなかった者を消す。

 高瀬がしたこと。

 十年前の間宮がしたこと。

 その構図が、またここで再現されている。

「先生」

 葛葉莉央が言った。

「食べるんですか」

「まだ決めていない」

「食べたら、先生は全部思い出す。でも、先生が壊れるかもしれない」

「ああ」

「食べなかったら?」

「給食室は、代理欠席を出すかもしれない」

 葛葉は、黒い顔の姉を見た。

「姉さんは、それを望んでるんですか」

 黒い顔の少女は答えない。

 顔には口がない。

 だが、彼女の持つ器が、かすかに震えた。

 芦原が言う。

「たぶん、望んでるわけじゃない」

「何で分かるの」

 葛葉が聞く。

「俺も、ここに立ってると分かる。自分でやってるのに、自分じゃない。皿を並べたくないのに、手が並べる。名前を呼びたいのに、口がない。誰かを消したいわけじゃないのに、給食当番として配らなきゃいけない」

 生野が小さく頷いた。

「ここにいると、学校のルールにされる」

 学校のルールにされる。

 その言葉に、間宮は背筋が冷えた。

 そうだ。

 葛葉透が怪異を生んだのではない。

 少なくとも、彼女だけではない。

 欠席扱いにしたのは教師たちだ。記録を消したのは学校だ。責任を曖昧にしたのは大人たちだ。透の痛みは、その仕組みに取り込まれ、給食室という形で再現されている。

 透は加害者であり、被害者であり、同時に学校に使われている存在だった。

「欠席にしたのは」

 間宮は呟いた。

「この子たちじゃない」

 全員が間宮を見る。

 言葉は、腹の底から出てきた。

「生野が悪いわけじゃない。芦原が悪いわけじゃない。白瀬が悪いわけじゃない。葛葉透が悪いわけでもない」

 黒い顔の少女の手が、器を持ったまま止まる。

「欠席にしたのは、俺たちだ」

 地下の照明が明滅した。

 タイルの壁が、低く唸る。

 間宮は、一歩前に出た。

「十年前、俺は君を後回しにした。高瀬先生たちは、その責任を記録から消した。学校は、君の名前をなかったことにした。今、この給食室はそのやり方を繰り返してる。食べたか、食べないか。出席か、欠席か。誰を残して、誰を消すか。でも、そんなものはルールじゃない。ただの隠蔽だ」

 白い文字が、壁に浮かび上がる。

 給食当番は、配膳を開始してください。

 間宮は叫んだ。

「しない!」

 声が地下に反響した。

「もう誰にも配らない。誰も後回しにしない。誰か一人を欠席欄に入れて、この場を終わらせたりしない」

 葛葉莉央が、姉の名札の前に立った。

「葛葉透」

 彼女は、初めてその名をはっきり呼んだ。

「私の姉です。家族が忘れても、記録が消えても、私は覚えてる。全部は覚えてない。でも、姉さんがいたことは、私が知ってる」

 黒い顔の少女の亀裂が広がった。

 白瀬真白が、自分の喉に手を当てた。

 地上では自分の名前さえ呼べない彼女が、地下ではゆっくり息を吸う。

「白瀬真白」

 言えた。

 彼女自身が、自分の名前を言えた。

 声は震えていたが、確かに地下に響いた。

「私は白瀬真白です。名前を取られても、まだここにいます。だから、消された人の名前も呼びます。生野周。芦原海都。葛葉透」

 生野周の名札が白く光った。

 芦原海都の名札の赤い滲みが、少し薄くなった。

 野宮彩葉も泣きながら言った。

「生野周くん。芦原海都くん。葛葉透さん。白瀬真白ちゃん。間宮灯真先生。みんな、いました。います。欠席なんかじゃない」

 落合静が続ける。

「保健室では、痛いと言った生徒の記録を残します。消させません。生野周さん、芦原海都さん、白瀬真白さん、葛葉透さん。全員、ここにいます」

 生徒たちの名を呼ぶたび、地下の壁が震えた。

 だが、まだ足りない。

 壁一面に掛けられた十年前の名札たち。

 名前が黒く潰れているもの。読み取れないもの。日付だけ残ったもの。彼らもまた、欠席扱いにされたのだろうか。あるいは、透の事件に関わり、記憶を失った者たちなのか。

 間宮は、壁に近づいた。

 黒く塗られた名札に触れる。

 指先が冷たくなる。

 すると、壁に白い文字が浮かんだ。

 三年二組 出席簿。

 地下のタイル一面に、罫線が走った。

 まるで巨大な名簿のように、壁いっぱいに名前が並び始める。

 黒く塗り潰された名前。

 消えかけた名前。

 読める名前。

 その一番下に、葛葉透。

 さらに、間宮灯真。

 生野周。

 芦原海都。

 白瀬真白。

 野宮彩葉。

 葛葉莉央。

 落合静。

 高瀬静一。

 現在ここにいる者たちの名前まで、出席簿に追加されていく。

 その下に、赤い文字が浮かんだ。

 最後の献立:先生の記憶。

 欠席処理を完了するには、教師の記憶を提出してください。

 間宮は、器を見た。

 葛葉透が差し出した「先生の記憶」。

 逃げられない。

 ここで真実を完全に思い出さなければ、この出席簿は完成しない。欠席処理は終わらない。名前を呼ぶだけでは、まだ透の顔は戻らない。

 間宮は、器に手を伸ばした。

「先生!」

 白瀬が叫ぶ。

「待ってください」

 葛葉も言った。

「食べたら、先生が先生じゃなくなるかもしれない」

「それでも」

 間宮は器を受け取った。

 今度は逃げない。

 十年前、彼は葛葉透に「あとでいい」と言わせ、その言葉に甘えた。自分の恐怖を、彼女の優しさの陰に隠した。そして忘れた。忘れることで生きてきた。

 ならば今度は、自分が差し出されたものから逃げてはいけない。

「俺は、思い出さなきゃいけない」

 間宮は言った。

「忘れたまま許されることはできない」

 葛葉莉央が、きつく拳を握った。

「許すかどうかは、私が決めることじゃないです」

「分かってる」

「姉さんが決めることでもないかもしれない。だって姉さんは、もう学校のルールにされてるから」

「そうだな」

「だから、先生」

 葛葉は涙を拭った。

「思い出したあと、逃げないでください。罪悪感で消えたりしないでください。先生が消えたら、また欠席が増えるだけだから」

 間宮は、かすかに笑った。

「分かった」

 その返事が終わる前に、地下の上方から足音が聞こえた。

 梯子を降りてくる音。

 全員が振り返る。

 高瀬静一が、地下に降りてきた。

 彼は息を切らし、顔面蒼白で、片手に古い出席簿を抱えていた。

「間宮先生」

 高瀬は地下の壁に浮かぶ名簿を見て、立ち尽くした。

「これは……」

「十年前の出席簿です」

 間宮は言った。

 高瀬の視線が、葛葉透の名前で止まる。

 彼の顔が歪んだ。

「透……」

 その名を、高瀬が呼んだ。

 葛葉莉央が目を見開く。

「覚えてるんですか」

「今、思い出した」

 高瀬は、胸を押さえるように出席簿を抱いた。

「葛葉透。三年二組。体が弱くて、いつも保健室にいた。だが成績はよかった。字が綺麗で、給食のにんじんが苦手で……」

 白瀬が小さく息を呑む。

 にんじんが苦手。

 白瀬と同じ。

 高瀬は声を震わせた。

「私は忘れていた。忘れたふりをしていた。いや、本当に忘れていたのかもしれない。でも、忘れたことにして、生きてきた」

 彼は黒い顔の少女に向かって、深く頭を下げた。

「葛葉透。すまなかった。君を欠席扱いにしたのは、私だ。記録を曖昧にした。保護者への説明を濁した。職員会議で、これ以上問題を大きくしないようにと言った。君の名前を守らなかった」

 葛葉莉央の唇が震えた。

 高瀬は続ける。

「最後の一食を配ったのは、間宮先生だったかもしれない。だが、そうさせたのは私だ。大人が選ぶべき責任を、生徒に押しつけた。あの日、君を殺したのは、寒さだけではない。私たちの沈黙だ」

 地下が揺れた。

 名札たちが一斉に鳴る。

 かちゃかちゃかちゃ、と、無数の食器が震えるような音が響いた。

 黒い顔の少女の亀裂が、さらに広がる。

 その下から、白い肌が少しだけ見えた。

 間宮は、器を持ち上げた。

「高瀬先生」

「何だ」

「最後まで、見ていてください」

「ああ」

「そして、もし俺が俺でなくなりそうなら、生徒たちの名前を呼んでください」

 高瀬は頷いた。

「分かった」

 間宮は、「先生の記憶」を口にした。

     *

 それは味ではなかった。

 冷たさでも、熱さでもなかった。

 口に入れた瞬間、間宮は自分という容器の底が抜ける感覚を味わった。

 記憶が、落ちてくる。

 雪の日。

 十年前の堰代中学校。

 間宮灯真は、中学三年生だった。

 臨時教師ではない。大人でもない。ただの生徒。受験前の補習に残っていた十二人のうちの一人。家庭は裕福ではなく、町を出ることを夢見ていた。真面目なふりをしていたが、内心ではいつも怯えていた。誰かに嫌われること。失敗すること。教師に怒られること。友人たちの輪から外れること。

 そして、給食当番だった。

 大雪で校舎が孤立した午後、給食室に残っていた食事は、十二人分より一つ少なかった。

 高瀬は迷っていた。

 養護教諭は葛葉透を優先すべきだと言った。透は持病があり、冷えと空腹に弱い。だが、ほかの生徒たちも寒さと空腹で限界だった。誰かだけ特別扱いするのか、という不満が生まれた。

 その時、誰かが言った。

「給食当番が配ればいいじゃん」

 冗談のような声だった。

 だが高瀬は、止めなかった。

 間宮は、トングを持った。

 一皿ずつ配った。

 皿を受け取った生徒は安堵した。受け取っていない生徒は、間宮を見る。早くくれ。自分にもくれ。なぜあいつが先なんだ。そんな視線が刺さる。

 最後の一皿。

 そこに、葛葉透がいた。

 白い顔。震える指。唇は紫色だった。

 彼女は間宮を見て、笑おうとした。

「私は、あとでいいよ」

 その声は、ほとんど聞こえなかった。

 でも、間宮には聞こえた。

 あとでいい。

 その言葉に、救われたと思った。

 救われてしまった。

 間宮は最後の一皿を、別の生徒に渡した。

 透の前には、空の皿が残った。

 夜、透は咳をしていた。

 間宮は聞こえていた。

 だが、寝たふりをした。

 朝、透は動けなくなっていた。

 救助が来た時、彼女は意識が朦朧としていた。救急車に乗せられた。高瀬が何度も名前を呼んでいた。養護教諭が泣いていた。

 だが、翌週には彼女の机がなくなった。

 卒業アルバムから名前が消えた。

 保護者説明では、体調不良による長期欠席とされた。

 間宮は何度も言おうとした。

 自分が配らなかった。

 透は食べていなかった。

 みんな知っているはずだ。

 だが、誰も話題にしなかった。

 高瀬も、ほかの教師も、同級生も。

 いつの間にか、透の名前を口にしようとすると喉が詰まるようになった。

 そしてある日、間宮は完全に忘れた。

 自分が堰代中学校の生徒だったことも。

 葛葉透がいたことも。

 最後の一食を渡さなかったことも。

 ただ、教師になった。

 生徒を守りたいと、どこかで思いながら。

 何から守りたいのかも知らずに。

     *

 間宮は、地下の床に膝をついていた。

 喉が焼けるように痛い。

 胃の奥が冷たい。

 誰かが背中を支えている。

 白瀬真白だった。

 今度は、名前を声に出せた。

「白瀬」

 彼女の目が見開かれる。

「先生、今」

「白瀬真白」

 間宮は、もう一度呼んだ。

 白瀬の目から涙が落ちた。

「はい」

 声が震えていた。

「私は、白瀬真白です」

「分かってる」

 間宮は周囲を見る。

 葛葉莉央。野宮彩葉。落合静。高瀬静一。生野周。芦原海都。

 全員の名前が、頭の中に戻っていた。

 いや、戻っただけではない。

 重さを持って、そこにある。

 忘れたら痛む名前として。

「思い出したんですね」

 葛葉莉央が言った。

「ああ」

「姉のことも」

「ああ」

「最後の一食を」

「渡さなかった」

 間宮は逃げなかった。

「俺が、渡さなかった」

 葛葉莉央は、しばらく何も言わなかった。

 その沈黙の間、地下のすべての音が消えていた。

 やがて彼女は、黒い顔の姉を見た。

「姉さん」

 葛葉透の顔の黒い亀裂は、大きく広がっていた。

 その下から、少女の顔が少しずつ現れていく。

 白い肌。薄い唇。優しげな目元。

 だが、まだ完全ではない。

 顔の半分は黒く塗り潰されたままだ。

 壁の巨大な出席簿が、赤く光る。

 欠席処理は未完了。

 全欠席者の名前を確認してください。

 間宮は立ち上がった。

「白瀬」

「はい」

「君は、半欠席になったことで、地下の名前を読めるかもしれない」

 白瀬は、自分の胸元を押さえた。

「私が?」

「名前を失いかけたから、消された側に近づいている。君なら、黒く塗られた名前を読めるかもしれない」

 高瀬が息を呑んだ。

「危険だ」

「分かっています」

 白瀬は答えた。

「でも、やります」

「無理しなくていい」

 間宮が言うと、白瀬は首を振った。

「名前を取り戻したいんです。私だけじゃなくて、みんなの名前を」

 葛葉莉央が、白瀬の隣に立った。

「私も読む。姉の名前を探すためにここまで来たんだから、最後までやる」

 野宮彩葉も泣きながら前へ出た。

「私も。忘れたくないから」

 芦原海都が、薄い身体のまま笑った。

「俺も読めるなら読みますよ。給食当番、もう飽きたし」

 生野周も頷いた。

「俺も戻りたい」

 落合静は、全員を見て、小さく息を吐いた。

「では、全員で確認しましょう。名前を呼ぶ。記録する。忘れない」

 高瀬は古い出席簿を開いた。

「私も読む。今度こそ、担任として」

 壁に並ぶ名札たちが、白く光り始めた。

 白瀬真白が、一枚目の黒い名札に触れる。

 彼女の指先が震える。

「……読めます」

 白瀬は目を閉じた。

「志波郁」

 黒い名札の表面から、墨のような汚れが少し剥がれた。

 高瀬が続ける。

「志波郁。三年二組」

 葛葉が次を読む。

「若宮奏」

 野宮が繰り返す。

「若宮奏さん」

 芦原が言う。

「小坂部啓」

 生野が続ける。

「日瀬由」

 名札が一枚ずつ光る。

 黒い塗り潰しが剥がれ、名前が戻っていく。

 それは長い作業だった。

 十年前の生徒たち。記録から消された名前。記憶の中で曖昧にされた名前。直接亡くなったのは葛葉透だけだったかもしれない。だが、あの日の処理によって、あの場にいた全員の記憶が歪められ、責任の所在が消され、存在の一部が欠席扱いにされた。

 学校は、誰か一人だけを消したのではない。

 あの事件に関わった全員から、真実を奪った。

 そしてその空白を使って、給食室は十年後に再び配膳を始めた。

 最後に、白瀬は一番下の名札に触れた。

 葛葉透。

 今度は黒く塗り潰されていない。

 だが、白瀬はその名を丁寧に読んだ。

「葛葉透」

 葛葉莉央が、泣きながら続けた。

「葛葉透。私の姉です」

 高瀬が言った。

「葛葉透。三年二組。欠席ではない」

 間宮は、その名を最後に呼んだ。

「葛葉透。俺が後回しにした人。俺が忘れてはいけなかった人」

 地下の壁一面の出席簿が、眩しいほど白く光った。

 赤い文字が浮かぶ。

 欠席処理、取消。

 給食室の中で、無数の皿が一斉に落ちた。

 割れる音はしなかった。

 ただ、長い長い息のような音が、地下全体から漏れた。

 黒い顔の少女――葛葉透の顔から、最後の黒が剥がれた。

 彼女は、中学生の少女の顔をしていた。

 弱々しく、けれど穏やかに笑っていた。

 間宮の記憶の中で「あとでいいよ」と言った時と同じ顔だった。

 だが今度は、彼女は言った。

「いなかったことにしないで」

 声は、はっきり聞こえた。

 間宮は頷いた。

「しない」

 葛葉莉央も泣きながら頷いた。

「しない。絶対に」

 透は、莉央を見た。

 十年前に止まった姉と、十年分成長した妹。

 二人の時間は、ここで初めて向かい合った。

 透は手を伸ばした。

 莉央も手を伸ばす。

 指先が触れる直前、地下室が大きく揺れた。

 壁の出席簿が崩れ始める。

 名札が次々に落ちる。

 配膳用エレベーターの縦穴から、強い風が吹き込んできた。

「戻るぞ!」

 間宮は叫んだ。

 落合が野宮を支え、高瀬が生野の背を押す。芦原の身体はまだ薄かったが、白瀬がその手を掴んだ。

「芦原海都!」

 白瀬が叫んだ。

 今度は、地上でも消えないように。

「戻るよ!」

 芦原は目を見開いた。

「呼べるじゃん、名前」

「呼べる!」

 白瀬は泣きながら笑った。

 葛葉莉央は、透を見ていた。

 透は静かに頷いた。

 行って。

 声にはならなかった。

 けれど、確かにそう言った。

 葛葉莉央は唇を噛み、姉に背を向けた。

 間宮は最後に、床に落ちた銀色のトングを見た。

 十年前、自分が握ったもの。

 給食室のルールを始めたもの。

 彼はそれを拾わなかった。

 置いていく。

 もう、誰にも配らない。

 梯子を上がる途中、地下から給食のチャイムが聞こえた。

 だが、それはもう恐ろしい音ではなかった。

 どこか遠くで、一日の終わりを告げるような、寂しい音だった。

     *

 地上に出た瞬間、校舎全体が大きく揺れた。

 給食室の明かりが点滅する。

 白い蛍光灯が、ぱちぱちと瞬き、やがて消えた。

 同時に、廊下の非常灯も消える。

 真っ暗になった。

 次の瞬間、校舎の通常照明が一斉に点いた。

 まぶしいほどの白い光。

 停電が復旧したのだ。

 多目的室に残っていた生徒たちが悲鳴を上げ、そして歓声を上げた。校内放送の機器が低く唸り、職員室の電話が鳴り始める。

 現実が、戻ってきた。

 雨音はまだ続いている。

 だが、窓の外の空は少しだけ明るくなっていた。

 高瀬が職員室へ走り、電話を取る。

「名国町立堰代中学校です! はい、全員無事です。県道は――はい、分かりました。生徒がいます。救助をお願いします」

 その声を聞いて、何人かの生徒が泣き出した。

 野宮彩葉は床に座り込んだ。

 白瀬真白は、自分の名前を何度も呟いていた。

「白瀬真白。白瀬真白。白瀬真白」

 そのたびに、彼女の輪郭が濃くなっていくように見えた。

 生野周は、多目的室の入口に立っていた。

 制服姿に戻っている。

 白い給食着ではない。

 芦原海都も、そこにいた。

 彼は自分の手を見て、それから周囲を見回した。

「俺、戻ってる?」

 葛葉が言った。

「戻ってる。うるさい奴が」

「まだ何も言ってねえだろ」

「存在がうるさい」

「ひどくね?」

 そのやり取りに、白瀬が笑った。

 野宮も泣きながら笑った。

 間宮は、その光景を見て、ようやく息を吐いた。

 完全には終わっていない。

 葛葉透は戻らない。

 十年前に失われた時間も、命も、元には戻らない。

 それでも、名前は戻った。

 欠席扱いは取り消された。

 少なくとも今ここにいる生徒たちは、空白にされずに済んだ。

 葛葉莉央は、給食室の前に立っていた。

 扉は閉まっている。

 もう、明かりは点いていない。

 中から皿の音もしない。

「葛葉」

 間宮が声をかけると、彼女は振り向いた。

「先生」

「すまなかった」

「それ、何回言うつもりですか」

「何回でも」

「じゃあ、何回でも聞きます」

 葛葉は、少しだけ笑った。

 だがその笑みは、すぐに消えた。

「姉は、帰ってこないんですよね」

「ああ」

「分かってます」

 彼女は給食室の扉に触れた。

「でも、名前は戻った。私、家に帰ったら、もう一回探します。写真がなくても、記録がなくても、姉のことを書きます。私が覚えていること、全部」

「手伝う」

 間宮は言った。

「学校の記録も、町の記録も、もう一度調べる。高瀬先生にも証言してもらう。葛葉透がいたことを、正式に残す」

「学校って、そういうの嫌がりそう」

「嫌がってもやる」

「先生、急に強くなりましたね」

「十年前に弱かったからな」

 葛葉は間宮を見た。

 その目には、まだ怒りがあった。

 許しではない。

 許しではないが、断絶でもなかった。

「先生」

「何だ」

「私は、先生を許したわけじゃないです」

「分かってる」

「でも、姉の名前を呼んでくれたことは、覚えておきます」

 それだけ言って、葛葉は多目的室へ戻っていった。

 間宮は、閉じた給食室の扉を見た。

 扉の小窓の向こうは暗い。

 ただの給食室だ。

 調理台があり、食器棚があり、鍋があり、蛇口がある。

 それでも、間宮は分かっていた。

 この学校は、まだ記憶している。

 あの地下が本当に消えたのかどうかも、分からない。

 十年前の空白は、名前を呼んだからといってすべて埋まるわけではない。

 それでも、今は戻らなければならない。

 生徒たちのいる場所へ。

     *

 夜明け前、救助隊が到着した。

 土砂崩れは、学校へ続く県道の一部を完全に塞いでいたらしい。重機の到着には時間がかかるが、徒歩での救助ルートが確保されたと説明された。生徒たちは一人ずつ健康状態を確認され、毛布に包まれて校舎の外へ出た。

 雨は止んでいた。

 山には白い霧がかかっている。

 泥水で荒れた運動場の向こうに、救助隊のライトがいくつも揺れていた。現実の光だった。人の声。無線の音。救急車の赤い点滅。保護者を呼ぶ連絡。泣きながら名前を叫ぶ大人たち。

 生野周の保護者も来ていた。

 芦原海都の妹も、母親に連れられて学校前まで来ていた。

 芦原は妹を見つけると、照れくさそうに手を振った。

「お兄ちゃん!」

 妹が泣きながら叫ぶ。

 芦原は、泣きそうな顔で笑った。

「帰るって言っただろ」

 白瀬真白は、母親に抱きしめられながら、自分の名前を確かめるように何度も頷いていた。

 野宮彩葉は、ずっと白瀬の手を握っていた。

 葛葉莉央は、迎えに来た母親を見ても、すぐには駆け寄らなかった。

 母親の顔には、娘を心配する疲労と安堵が浮かんでいる。だが、その奥に、どこか空白があるように見えた。

 葛葉莉央は母親の前に立ち、最初にこう言った。

「お母さん。透姉さんの話をして」

 母親は、目を瞬かせた。

「透……?」

 その名前を聞いた瞬間、母親の表情が崩れた。

 何かを思い出したのか。

 それとも、長く塞がれていた穴から風が吹き込んだのか。

 母親は口元を押さえ、その場に膝をついた。

「莉央……あなた、どうして、その名前を」

 葛葉莉央は、泣きながら母親に抱きついた。

 間宮は、それを遠くから見ていた。

 高瀬静一が、隣に立った。

「私は、教育委員会に話します」

 高瀬は言った。

「十年前のことも、今回のことも。どこまで信じてもらえるかは分かりませんが、記録に残す」

「俺も証言します」

「君には、つらいことになる」

「忘れるよりはいいです」

 高瀬は、しばらく黙っていた。

 やがて、深く頭を下げた。

「十年前、君に背負わせた。すまなかった」

 間宮は、すぐには答えられなかった。

 十年前の自分は、生徒だった。

 責任を背負わされるべきではなかった。

 だが、葛葉透に最後の一食を渡さなかったのは自分だ。その記憶が消えたからといって、なかったことにはならない。

「俺も、背負います」

 間宮は言った。

「ただ、今度は欠席扱いにはしません。誰のことも」

 高瀬は頷いた。

 朝日が、雲の切れ間から少しだけ差し込んだ。

 堰代中学校の古い校舎が、濡れた光を受けて白く浮かび上がる。

 その一階の端、給食室の窓だけが、まだ暗かった。

 間宮は、その暗い窓を見た。

 一瞬、そこに白い給食着の少女が立っているように見えた。

 葛葉透。

 彼女は笑っていた。

 そして、ゆっくりと窓の向こうから消えた。

 皿の音は、もうしなかった。


第6章 最後のいただきます

 最後の給食は、湯気を立てていなかった。

 地下の給食室に並んだ皿の中で、それだけが、冷たく、白く、静かだった。スープとも粥ともつかない。牛乳の膜が張ったようにも見える。水面は揺れていないのに、覗き込むと、そこに映るはずの自分の顔だけが歪んでいた。

 皿の底には、白い文字が浮かんでいた。

 先生の記憶。

 間宮灯真は、膝をついたまま、その皿を見ていた。

 口の中には、まだ冷たさが残っている。透明なスープを一滴飲み込んだ時の感覚とは、まるで違った。あれは扉の隙間から覗き込むようなものだった。だが今、目の前にあるこれは違う。扉そのものを開けるものだ。

 開けた先にいるのは、十年前の自分。

 給食当番だった少年。

 最後の一食を、葛葉透に渡さなかった少年。

 その記憶をすべて取り戻した時、自分がまだ今の間宮灯真でいられる保証はなかった。

 地下の壁一面には、巨大な出席簿が浮かび上がっている。白い罫線。黒く塗り潰された名前。薄く滲んだ名前。読める名前。読めない名前。その一番下には、現在この地下にいる者たちの名前まで並んでいた。

 白瀬真白。

 葛葉莉央。

 野宮彩葉。

 生野周。

 芦原海都。

 落合静。

 高瀬静一。

 そして、間宮灯真。

 赤い文字が、出席簿の上に浮かぶ。

 最後の献立を摂取してください。

 未摂取の場合、全員を欠席扱いとします。

 全員。

 その文字が、地下の空気を重くした。

 白瀬真白が、間宮の隣で息を呑む。

 彼女はもう、自分の名前を言えるようになっていた。半欠席の状態から戻りかけている。だが、まだ完全ではないのだろう。時々、自分の胸元を確かめるように触る。自分がここにいることを、肌で確かめるように。

 生野周と芦原海都は、地下の調理台のそばに立っていた。

 二人とも制服姿に戻りきってはいない。白い給食着が、身体の一部に重なって見える。給食当番として取り込まれた名残が、まだ剥がれないのだ。生野は無口なまま、けれど先ほどよりはっきりした目で間宮を見ている。芦原は薄い輪郭のまま、無理に笑おうとして失敗していた。

 葛葉莉央は、黒く塗り潰されていた姉の名札を握っている。

 葛葉透。

 その名前だけが、今は白く読める。

 彼女の前には、白い給食着の少女がいた。

 黒く塗り潰されていた顔には、細い亀裂が入り、半分ほど表情が戻っている。白い頬。色の薄い唇。やさしげな目元。けれど、顔の半分はまだ黒い。名前を呼ばれても、謝罪を受けても、まだすべては戻らない。

 欠席扱いにされた時間は、十年分あった。

 その十年を、たった一度の謝罪で取り戻せるはずがない。

「先生」

 葛葉莉央が言った。

 声は低かった。

「食べるんですか」

「ああ」

 間宮は答えた。

「食べる」

「食べたら、先生がどうなるか分からないんですよね」

「分からない」

「今の先生の記憶が消えるかもしれない」

「かもしれない」

「それでも?」

 間宮は、皿を見た。

 先生の記憶。

 この言葉が意味しているものは、十年前の記憶だけではないのかもしれない。

 “先生”としての記憶。

 今ここで、生徒を守ろうとしている自分。

 白瀬真白の名前を爪で掌に刻んだこと。生野周を忘れまいとしたこと。芦原海都を呼び戻すために、クラス全員で彼の話をしたこと。葛葉莉央に責められ、その責めから逃げなかったこと。

 それらもまた、失われる可能性がある。

 だが、食べなければ全員が欠席扱いになる。

 給食室は、また選ばせようとしている。

 誰を残すか。

 誰を消すか。

 誰に食べさせるか。

 誰を後回しにするか。

 十年前と同じ問いを、今度は教師になった間宮に突きつけている。

 間宮は、静かに息を吸った。

「俺は、選ばない」

 葛葉が眉を寄せる。

「でも、食べるって」

「誰かを欠席扱いにするためには食べない。誰かを助ける代わりに自分を消すためにも食べない」

 間宮は皿を持ち上げた。

 白い液体は、揺れなかった。

「これは、提出するためじゃない。思い出すために食べる」

 落合静が、そっと言った。

「間宮先生」

「もし俺が忘れたら」

 間宮は、落合を見た。

「記録してください。俺が何を思い出して、何を言ったか。学校の公式な記録じゃなくていい。保健室の記録でも、個人のメモでもいい。消されても、また書いてください」

「分かりました」

 落合は頷いた。

 高瀬静一が、一歩前に出た。

 彼は古い出席簿を両手で抱えていた。十年前のものだ。ところどころ黒くなり、ページの端が湿って波打っている。だが、先ほど地下の壁に名前が浮かび始めてから、その出席簿にも薄い文字が戻り始めていた。

「私も証言する」

 高瀬は言った。

「十年前、私は責任を逃れた。今度は逃げない」

 葛葉莉央が、高瀬を見た。

 その目は冷たかったが、もう完全な拒絶ではなかった。

「逃げたら、私が言います」

「ああ」

「何回でも」

「ああ」

 高瀬は深く頷いた。

「言ってくれ」

 白瀬真白が、間宮の手首を掴んだ。

「先生」

「何だ」

「食べたあと、私の名前を呼んでください」

 間宮は彼女を見た。

「呼べなかったら?」

「呼べるまで、私が言います」

 白瀬は、震えながら笑った。

「白瀬真白ですって。何回でも」

 生野周が言う。

「俺の名前も」

「ああ」

 芦原海都が続ける。

「俺のも。あと、俺が町を出たいって言ってたことも」

「東京へ行くんだろ」

「そうそう。それ。忘れんなよ、先生」

「忘れない」

 葛葉莉央が、姉の名札を握ったまま言う。

「姉の名前も」

 間宮は頷いた。

「葛葉透」

 その名を口にした瞬間、白い給食着の少女が、わずかに顔を上げた。

 半分黒い顔の奥で、目だけがこちらを見る。

 間宮は、その目をまっすぐ見た。

「忘れない」

 そして、最後の献立を口にした。

     *

 最初に戻ったのは、寒さだった。

 骨の芯から体温が抜ける感覚。指先がかじかみ、上履きの中の足が感覚を失っていく。窓ガラスの向こうは白い。雪が、校舎を埋めるように降っている。

 十年前の堰代中学校。

 午後の補習。

 県道が塞がったという知らせ。

 停電。

 暖房の停止。

 保健室に集められた毛布。

 空腹。

 不安。

 そして給食室。

 間宮灯真は、中学生だった。

 自分の制服の袖が短くなっている。手が今より細い。掌にはまだ、教員としての硬さがない。チョークの粉ではなく、シャープペンシルの芯の黒がついている。

 そばには、同級生たちがいた。

 志波郁。

 若宮奏。

 小坂部啓。

 日瀬由。

 そして葛葉透。

 名前が戻っていく。

 消されていた名前たちが、記憶の中で音を取り戻す。

 葛葉透は、窓際に座っていた。

 細い身体を毛布で包み、時々咳をしている。唇は青く、手は小刻みに震えていた。それでも、誰かが不安そうにすると、笑って「大丈夫」と言った。

 その「大丈夫」が、どれほど危ういものだったのか、当時の間宮は分かっていなかった。

 いや、分かろうとしなかった。

 給食室に残っていた食事は、人数分より一つ少なかった。

 温かいシチュー。

 パン。

 牛乳。

 白い湯気。

 それを見た瞬間、生徒たちの表情が変わった。空腹は、人を正直にする。誰かを思いやる余裕を削る。寒さと不安の中で、温かい食べ物は救いだった。

 だからこそ、一つ足りないことが分かった瞬間、その救いは凶器に変わった。

「透に先に食べさせたほうがいい」

 当時の養護教諭が言った。

「この子は体調が悪い。低血糖もあるかもしれない」

「でも、みんな食べてない」

 誰かが言った。

「ずるくない?」

「ずるいって何だよ」

「だって、俺らも寒いし」

「全員で分ければいいじゃん」

「分けたら足りなくなる」

「先生が決めてよ」

 視線が高瀬に集まった。

 若い高瀬静一が、迷っていた。

 まだ今ほど白髪はない。声も今より強い。だが、その目には明らかな迷いがあった。教師として決めなければならない。だが、誰かを選べば、選ばれなかった者の不満を受ける。責任が生まれる。

 その責任から、高瀬は逃げた。

「給食当番が配りなさい」

 そう言った。

 間宮は、トングを持った。

 あの時、自分は何を思ったか。

 嫌だ、と思った。

 でも言えなかった。

 先生に言われたから。

 みんなが見ていたから。

 自分が断れば、誰かに責められると思ったから。

 皿を並べた。

 志波郁に渡した。

 若宮奏に渡した。

 小坂部啓に渡した。

 日瀬由に渡した。

 一人ずつ、皿を受け取るたび、安堵の息が漏れた。

 透は最後のほうまで黙っていた。

 彼女の前に立った時、鍋の中には、残り一食しかなかった。

 その一食を透に渡せば、誰かが食べられない。

 別の誰かに渡せば、透が食べられない。

 間宮の手は震えていた。

 透は、それを見ていた。

 そして笑った。

「私は、あとでいいよ」

 その声は、小さかった。

 優しかった。

 優しいから、卑怯だった。

 いや、卑怯だったのは透ではない。

 その優しさに逃げ込んだ自分だ。

 間宮は、最後の一皿を別の生徒に渡した。

 透の前に置かれた皿は、空だった。

 彼女は、それでも「ありがとう」と言った。

 空の皿に。

 何も受け取っていないのに。

 ありがとう、と。

 その瞬間のことを、間宮は忘れていた。

 忘れていたことが、許せなかった。

 記憶はさらに進む。

 夜。

 雪。

 暗い校舎。

 透の咳。

 養護教諭が彼女の身体をさすっている。

 高瀬が電話をかけようとして、つながらない。

 生徒たちは毛布にくるまって眠るふりをしている。

 間宮は起きていた。

 透が苦しそうなのを知っていた。

 でも動けなかった。

 自分の皿は空になっていた。

 温かいシチューを食べた身体で、空の皿の前にいた彼女を見ることができなかった。

 だから目を閉じた。

 眠ったふりをした。

 朝。

 透は動けなくなっていた。

 救助隊が来た時、彼女はほとんど意識がなかった。毛布に包まれ、担架に乗せられ、雪の中へ運ばれていく。

 その時、透の手が間宮の袖を掴んだ。

 ほんの一瞬。

 彼女は、ほとんど声にならない声で言った。

「いなかったことにしないで」

 間宮は、返事をしなかった。

 できなかった。

 その後、彼女の名前は消えた。

 机が消えた。

 写真が黒く塗られた。

 出席簿の欄が空白になった。

 高瀬は職員会議で、事故として扱うと説明した。詳しい経緯は書かない。学校側の判断ミスを問われないようにする。保護者には体調不良による搬送と説明する。

 誰も強く反対しなかった。

 間宮も。

 言えば、自分が最後の一食を渡さなかったことも明らかになる。

 自分が寝たふりをしていたことも。

 彼女の最後の言葉に返事をしなかったことも。

 だから黙った。

 黙ったまま、卒業した。

 黙ったまま、忘れた。

 忘れて、教師になった。

 誰かを守りたいと、思うようになった。

 けれどそれは、守れなかった誰かの名前を失ったままの願いだった。

     *

 間宮は、地下の床に倒れていた。

 喉の奥が凍っている。

 胃の中に石を詰められたように重い。

 誰かが自分の名前を呼んでいた。

「間宮先生」

 白瀬真白の声。

「間宮先生、聞こえますか」

 次に、葛葉莉央の声。

「先生、起きてください。逃げないって言いましたよね」

 芦原海都の声。

「先生、俺のこと覚えてます? 東京行く予定の芦原です」

 生野周の声。

「先生、食べるなって言ったの、俺です」

 野宮彩葉の声。

「先生、真白ちゃんの名前、言ってください」

 落合静の声。

「脈はあります。呼吸もあります。意識を戻して」

 高瀬静一の声。

「間宮灯真。君は、ここにいる」

 間宮は、目を開けた。

 地下の天井が見える。

 白いタイル。黒い染み。揺れる名札。

 そして、自分を覗き込む生徒たちの顔。

 間宮は、唇を動かした。

「白瀬真白」

 白瀬の目から、涙がこぼれた。

「はい」

「葛葉莉央」

「……はい」

「野宮彩葉」

「はいっ」

「生野周」

「はい」

「芦原海都」

「はいよ」

「落合静」

「はい」

「高瀬静一」

「……はい」

 全員の名前を呼んだ。

 呼べた。

 最後に、間宮は上体を起こし、白い給食着の少女を見た。

「葛葉透」

 彼女は、そこにいた。

 もう、顔は黒くなかった。

 白く、少し痩せた、中学生の少女。

 十年前のままの姿。

 けれどその目には、あの時の諦めだけではなく、長い長い時間の疲れが宿っていた。

「ごめん」

 間宮は言った。

「君を後回しにした。君が優しかったから、そこに逃げた。君が苦しんでいるのを知っていて、寝たふりをした。君の最後の言葉に返事をしなかった。そして、忘れた。忘れて教師になった」

 透は、黙って聞いていた。

「許してほしいとは言えない」

 間宮の声は震えていた。

「でも、もう欠席にはしない。君がいたことを記録に残す。葛葉透という生徒がここにいたことを、俺が証言する。高瀬先生にも証言してもらう。学校にも、町にも、家族にも、もう一度名前を戻す」

 葛葉莉央が、姉の前に立った。

「姉さん」

 透は、妹を見た。

 十年前に止まった姉と、十年分成長した妹。

「私、覚えてたよ」

 葛葉莉央は泣いていた。

「全部じゃない。顔も、声も、何回も分からなくなった。でも、名前だけは覚えてた。透姉さんって、ずっと。誰に言っても、そんな人いないって言われたけど、でも、いたよね。私のお姉ちゃんだったよね」

 透の唇が、かすかに動いた。

「莉央」

 その声は小さかった。

 だが、確かに聞こえた。

 葛葉莉央は、その場に崩れ落ちるように泣いた。

 透は手を伸ばした。

 今度は、その手が妹の髪に触れた。

 一瞬だけ。

 ほんの一瞬。

 それでも、確かに触れた。

 地下の壁の出席簿が、白く光り始めた。

 黒く塗り潰された名札たちが、一枚ずつ震える。

 白瀬真白が立ち上がった。

「私、読みます」

 彼女は、半欠席で名前を失いかけたことで、消された側に近づいていた。だからこそ、黒くなった名札の文字が読める。

 白瀬は壁に近づき、一枚目の名札に触れた。

「志波郁」

 高瀬が出席簿を開き、震える手で書き込む。

「志波郁。三年二組。出席」

 葛葉莉央が次の名札を読む。

「若宮奏」

 野宮彩葉が繰り返す。

「若宮奏さん。出席」

 生野周が読む。

「小坂部啓」

 芦原海都が続ける。

「日瀬由」

 落合静が記録する。

 名前を一つ呼ぶたびに、名札から黒い染みが剥がれた。

 名前を一つ呼ぶたびに、地下の空気が軽くなった。

 それは、儀式ではなかった。

 出席確認だった。

 朝の教室で、教師が名前を呼び、生徒が返事をする。ありふれた行為。毎日繰り返され、誰も特別だと思わない行為。

 だが、それこそが必要だった。

 いた者を、いたと言うこと。

 ここにいる者を、ここにいると確認すること。

 名前を呼び、返事を待つこと。

 学校が欠席扱いにした者たちを、もう一度出席に戻すこと。

 高瀬静一は、涙を流しながら出席簿に名前を書いた。

 彼の字は震えていた。

 だが、逃げなかった。

 最後に、白瀬真白は一番下の名札を読んだ。

「葛葉透」

 高瀬が書く。

「葛葉透。三年二組。出席」

 葛葉莉央が、泣きながら言った。

「葛葉透。私の姉。出席」

 間宮灯真が続けた。

「葛葉透。欠席ではない。いなかったことにはしない」

 地下全体が、大きく揺れた。

 調理台の上の皿が一斉に跳ねる。

 ステンレスの棚が軋み、寸胴鍋が床に落ちた。

 壁の巨大な出席簿に、最後の文字が浮かぶ。

 欠席処理、取消。

 給食当番を終了します。

 その瞬間、白い給食着を着た生野周と芦原海都の身体から、給食着が剥がれるように消えた。

 二人は制服姿に戻った。

 芦原は自分の腕を見て、声を上げた。

「戻った! 俺、戻ってる!」

「うるさい」

 葛葉莉央が涙声で言う。

「でも戻ってる」

「そこは喜べよ!」

 生野周は、自分の胸元を見下ろし、小さく息を吐いた。

「名前、ある」

 彼の制服の胸には、名札が戻っていた。

 生野周。

 白瀬真白も、自分の名前を呼んだ。

「白瀬真白」

 もう詰まらない。

 舌も、喉も、名前を拒まない。

 野宮彩葉が彼女に抱きつき、泣きながら何度も呼んだ。

「真白ちゃん、真白ちゃん、真白ちゃん」

「うん」

 白瀬は泣きながら笑った。

「いるよ」

 葛葉透は、静かにその光景を見ていた。

 彼女の身体は、少しずつ光に透け始めていた。

 葛葉莉央が叫ぶ。

「待って、姉さん」

 透は首を振った。

 その目は、さっきより穏やかだった。

「莉央」

「やだ。まだ話してない。まだ、何も」

「覚えてて」

 透は言った。

「私がいたこと」

「覚えてる。絶対に」

「なら、大丈夫」

 葛葉莉央は、泣きながら首を振った。

「大丈夫じゃないよ」

「うん」

 透は、少しだけ笑った。

「でも、いなかったことにはならない」

 葛葉莉央は、姉の手を掴もうとした。

 今度は、すり抜けなかった。

 一瞬だけ、確かに握れた。

 その温度は、雪の日のように冷たかった。

 けれど、そこにいた。

「姉さん」

「莉央」

 透の身体は、光の粒になってほどけていく。

 最後に、彼女は間宮を見た。

 間宮は、頭を下げた。

「葛葉透」

 その名を、最後まで呼んだ。

 透は、静かに頷いた。

 そして、消えた。

 皿の音はしなかった。

 ただ、地下のどこかで、誰かが小さく「いただきます」と言った気がした。

     *

 地上へ戻ると、停電が終わった。

 給食室の明かりが一度だけ白く瞬き、次の瞬間、校舎中の照明が点いた。廊下の蛍光灯、職員室の電話、放送室の機器、多目的室の非常灯。すべてが、現実に引き戻されるように動き出した。

 雨の音は、もう弱かった。

 窓の外の空は、夜明け前の薄い青に変わり始めている。

 多目的室に残っていた生徒たちは、戻ってきた間宮たちを見て泣き出した。誰かが生野周の名前を呼んだ。誰かが芦原海都に飛びついた。芦原は照れくさそうに笑いながら、「痛い痛い」と言った。

 白瀬真白は、黒板に自分の名前を書いた。

 白瀬真白。

 その文字は、消えなかった。

 次に、生野周。

 芦原海都。

 葛葉莉央。

 野宮彩葉。

 間宮灯真。

 落合静。

 高瀬静一。

 最後に、葛葉透。

 全員が、その名前を見た。

 誰も、読めないとは言わなかった。

 葛葉莉央は、黒板の前に立ったまま、姉の名前を見つめていた。

 高瀬静一は、職員室の電話で救助隊と連絡を取った。

「名国町立堰代中学校です。生徒は全員無事です。教員二名、養護教諭一名も無事。はい、土砂崩れで孤立しています。救助をお願いします」

 全員無事。

 その言葉を聞いて、間宮は一瞬、胸が詰まった。

 全員。

 十年前は、その言葉に一人が含まれていなかった。

 今度は、含める。

 たとえ葛葉透がここに身体として戻らなくても、名前を消さない。記録から外さない。欠席扱いにしない。

 落合静は、保健室の記録用紙に全員の名前を書いていた。

 生野周。異常なし。ただし、一時的な記憶欠落あり。

 芦原海都。異常なし。ただし、一時的な存在認識の低下あり。

 白瀬真白。異常なし。ただし、一時的な氏名発話障害あり。

 葛葉莉央。精神的ショック大。経過観察。

 間宮灯真。記憶混乱、嘔吐、意識障害。経過観察。

 葛葉透。十年前の事故関係者。要記録確認。

 落合は、最後の行を書いた後、ペンを置いた。

 誰にも見せるためではない。

 だが、書いた。

 消されても、また書くために。

     *

 夜明け前、救助隊が到着した。

 土砂崩れは、学校へ続く県道の一部を完全に塞いでいたらしい。車両はまだ入れないが、徒歩での救助ルートが確保された。消防、警察、町役場の職員、そして連絡を受けた保護者たちが、泥に汚れた山道を登ってきた。

 校舎の外へ出ると、雨は止んでいた。

 山には白い霧がかかっている。濡れた杉の葉から、水滴がぽたりぽたりと落ちる。泥で荒れた運動場の向こうに、救助隊のライトが揺れていた。

 生徒たちは一人ずつ名前を確認された。

「白瀬真白さん」

「はい」

 白瀬は、はっきり返事をした。

「生野周さん」

「はい」

「芦原海都さん」

「はい」

 芦原は返事をしたあと、少し照れたように鼻をこすった。

「葛葉莉央さん」

「はい」

「野宮彩葉さん」

「はい」

 名前を呼ばれるたび、間宮は胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。

 出席確認。

 ただの出席確認。

 だが、今はそれが救いだった。

 芦原海都の妹が、母親に連れられて校門のそばまで来ていた。

「お兄ちゃん!」

 妹が泣きながら叫ぶ。

 芦原は一瞬、きまり悪そうに周りを見たが、すぐに手を振った。

「泣くなって。帰るって言っただろ」

「ばか!」

 妹は芦原に飛びついた。

 芦原は「痛い」と言いながらも、その背中を強く抱きしめた。

 白瀬真白は、迎えに来た母親に抱きしめられていた。母親は何度も彼女の名前を呼び、白瀬はそのたびに「うん」と返事をした。自分の名前が誰かの声で呼ばれることが、こんなにも確かなものだったのだと、彼女は初めて知ったような顔をしていた。

 生野周は、保護者の前で少し困ったように立っていた。

 無口な彼らしく、詳しい説明はできない。ただ、母親に抱きしめられた時、彼は少しだけ目を閉じた。

 野宮彩葉は、白瀬の手を離そうとしなかった。

 白瀬も、離さなかった。

 葛葉莉央は、迎えに来た母親の前に立っていた。

 母親は娘の無事に泣いていた。何度も「よかった」と言い、莉央の肩に触れる。だが莉央は、母親の手を握り返す前に、まっすぐ言った。

「お母さん。透姉さんの話をして」

 母親の表情が止まった。

「透……?」

 その名前は、最初、母親の中で音にならなかったようだった。

 だが次の瞬間、何かが崩れた。

 母親は口元を押さえ、膝から力が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。

「莉央……あなた、どうして、その名前を」

「覚えてた」

 莉央は泣いていた。

「私、ずっと覚えてた。お母さんも、思い出して」

 母親は、莉央を抱きしめた。

「透……透、透……」

 その名前を呼ぶ声は、十年分の空白を掘り起こすようだった。

 間宮は、遠くからその光景を見ていた。

 隣に、高瀬静一が立つ。

 高瀬は、古い出席簿を抱えていた。救助隊が来ても、彼はそれを手放さなかった。

「教育委員会に報告します」

 高瀬は言った。

「十年前の件も、今回の件も。信じてもらえる部分は少ないでしょう。だが、記録に残す」

「俺も証言します」

「君には、つらいことになる」

「忘れるよりはいいです」

 高瀬は、目を伏せた。

「私は、忘れたことにして生きてきた。忘れていない部分も、記録にしなかった。だから、給食室は終わらなかったのかもしれない」

「俺もです」

 間宮は言った。

「忘れたまま教師になった。守りたいと思いながら、誰を守れなかったのかも知らなかった」

「これから、どうする」

「葛葉透の記録を戻します。彼女がいたことを、正式に残す。可能なら、卒業アルバムも、名簿も」

「学校は嫌がる」

「でしょうね」

「町も、教育委員会もだ」

「それでもやります」

 高瀬は、かすかに笑った。

「強くなったな」

「十年前に弱かったので」

 高瀬は何も言わなかった。

 ただ、深く頭を下げた。

「間宮先生。十年前、君に背負わせた。すまなかった」

 間宮は、その謝罪をすぐには受け取れなかった。

 受け取ってしまえば、十年前の自分が楽になる気がした。

 だが、楽になっていいのか分からなかった。

「俺も、透に謝り続けます」

 間宮は言った。

「生きている限り」

 高瀬は頷いた。

     *

 その日の午後、堰代中学校は臨時休校になった。

 生徒たちは全員、病院で念のため検査を受けることになった。医師たちは、低体温や脱水、ストレス反応について説明した。記憶の混乱については、極度の恐怖と疲労による一時的なものだろう、と言われた。

 誰も、給食室の話をまともには受け取らなかった。

 当然だった。

 停電中に給食室だけ明るかったこと。十三人分の給食が並んだこと。黒い献立表。半欠席。地下の名札。給食当番になった生徒。十年前の出席簿。

 そんなものを、現実の報告書にそのまま書けるはずがない。

 だが、落合静は保健室の記録に書いた。

 高瀬静一は、職員事故報告書の下書きに書いた。

 間宮灯真は、自分のノートに書いた。

 白瀬真白は、スマートフォンのメモに自分の名前と、消えたくなかった恐怖を書いた。

 芦原海都は、妹に「俺、東京行くから」と改めて言った。

 生野周は、「食べるな」という言葉を、何度もノートに書いた。

 野宮彩葉は、白瀬の名前を忘れないように、手帳の最初のページに書いた。

 葛葉莉央は、姉の名前を書いた。

 葛葉透。

 その下に、こう書いた。

 私の姉。

 欠席ではない。

     *

 三日後、間宮は再び堰代中学校を訪れた。

 校舎は静かだった。

 雨はすっかり上がり、山の緑は濡れた光を含んでいた。運動場の泥はまだ残っているが、県道の土砂は重機で片づけられつつある。校舎の窓は、何事もなかったように朝の光を反射していた。

 高瀬は町役場へ出向いていた。

 落合は保健室で、生徒たちの経過観察記録をまとめている。

 間宮は一人で給食室へ向かった。

 扉の前で、しばらく立ち止まる。

 もう明かりは点いていない。

 皿の音もしない。

 蛇口から水が落ちる音もない。

 ただの給食室。

 そう思いたかった。

 扉を開ける。

 中は、きれいに片づいていた。

 調理台には何もない。黒い献立表もない。配膳台にも、皿は並んでいない。床は乾いている。奥の配膳用エレベーターの扉は、古い金属板で塞がれていた。そんな設備は最初から使えない、と言われれば信じてしまいそうなほど、何もない。

 間宮は、調理台の前に立った。

「葛葉透」

 名前を呼んだ。

 返事はない。

 けれど、呼べた。

 それだけでよかった。

 彼は、持ってきた封筒を調理台に置いた。

 中には、葛葉透の名前を書いた紙が入っている。高瀬が思い出した情報。間宮の証言。葛葉莉央の記憶。落合の記録。それらをまとめた最初の一枚。

 正式な記録にはまだならない。

 だが、ここから始める。

 間宮は給食室を出ようとした。

 その時だった。

 配膳台の上に、何かがあることに気づいた。

 さっきまで、何もなかったはずの場所。

 そこに、小さな名札が一枚置かれていた。

 白いプラスチックの、古い名札。

 間宮は近づいた。

 そこには、こう書かれていた。

 葛葉透。

 間宮は、その名札を手に取った。

 冷たくはなかった。

 火傷もしなかった。

 ただ、普通の古い名札だった。

 彼はそれを封筒の上に置き、深く息を吐いた。

 終わったのだ。

 そう思った。

 その瞬間。

 背後で、かちゃん、と食器の音がした。

 間宮は振り返った。

 給食室には、誰もいない。

 調理台にも、食器棚にも、シンクにも、異常はない。

 だが、音は確かにした。

 もう一度。

 かちゃん。

 今度は、配膳台の上だった。

 間宮の目の前で、何もなかったはずの配膳台に、皿が一枚現れた。

 白い皿。

 その隣に、もう一枚。

 また一枚。

 一、二、三、四。

 皿は、静かに増えていく。

 やがて十四枚になった。

 十三ではない。

 十四。

 その中央に、黒い紙が一枚置かれていた。

 間宮は、息を止めた。

 黒い献立表。

 白い文字が、ゆっくり浮かび上がる。

 次の補習会場:水上町立若宮中学校。

 明日の献立:白いシチュー。

 欠席予定者:未定。

 間宮は、黒い紙を見つめた。

 終わっていない。

 堰代中学校の給食室は閉じた。

 葛葉透の名前は戻った。

 けれど、“欠席扱い”は、この学校だけのものではなかったのかもしれない。

 どこかの学校で、また誰かがいなかったことにされる。

 記録から消される。

 責任を曖昧にされる。

 そのたびに、給食室は明かりを灯す。

 間宮は、震える手で黒い献立表を取ろうとした。

 今度は、焼けなかった。

 紙は冷たく、薄かった。

 だが、破れなかった。

 その時、廊下の向こうで落合の声がした。

「間宮先生?」

 間宮は、黒い献立表を封筒に差し込んだ。

「落合先生」

「どうしました?」

「水上町立若宮中学校に、連絡を取れますか」

「え?」

「確認したいことがあります」

 落合は、間宮の顔を見て、すぐに表情を引き締めた。

「分かりました」

 間宮は、最後に給食室を振り返った。

 皿は消えていた。

 配膳台には何もない。

 ただ、葛葉透の名札だけが、封筒の上で朝の光を受けていた。

     *

 その日の夕方、地方ニュースが流れた。

 山間部にある水上町立若宮中学校で、季節外れの土砂崩れが発生。学校へ続く道路が一時寸断され、補習のため登校していた生徒数名と教職員が校内に待機しているという。通信状況は不安定だが、現在、町と消防が救助に向かっている。

 ニュースの画面には、雨に煙る山道が映っていた。

 間宮は、職員室のテレビの前で立ち尽くしていた。

 高瀬も、落合も、何も言わなかった。

 画面の中で、若宮中学校の校舎が映る。

 古い校舎。

 一階の端。

 給食室らしき窓に、一瞬だけ白い明かりが灯った。

 アナウンサーの声が続く。

「なお、同校では本日、補習授業が行われており――」

 間宮は、封筒の中の黒い献立表を握った。

 紙の奥から、かすかに食器の音がした。

 かちゃん。

 かちゃん。

 まるで、どこか遠くの給食室で、もう皿が並べられているかのように。

 間宮は目を閉じた。

 白瀬真白。

 生野周。

 芦原海都。

 野宮彩葉。

 葛葉莉央。

 葛葉透。

 名前を一つずつ、心の中で呼ぶ。

 そして、目を開けた。

「行きましょう」

 落合が言った。

 高瀬も頷いた。

 間宮は、封筒を鞄に入れた。

 まだ終わっていない。

 だが、今度は知っている。

 欠席扱いを終わらせる方法を。

 名前を呼ぶこと。

 記録に残すこと。

 いなかったことにしないこと。

 それだけで足りないかもしれない。

 それでも、そこから始めるしかない。

 校舎の外では、また雨が降り始めていた。

 細い雨だった。

 給食の時間を告げるチャイムのように、静かに、しつこく、山の上へ降り続いていた。



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