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13人と黒い給食室――食べた者から、昨日の自分を忘れていく。残された献立表には、明日の欠席者の名前がある  作者: 妙原奇天


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上巻

第1章 本日の欠席者

 雨は、朝からずっと降っていた。

 降る、というより、山そのものが水に沈んでいくような降り方だった。校舎の古い窓ガラスは、外から絶え間なく叩きつけられる雨粒に震え、薄く曇った向こう側では、杉林が黒い塊になって揺れている。山肌から流れてきた泥水が、運動場の隅を茶色く染めていた。

 名国町立堰代中学校は、町の中心部から車で三十分ほど登った山間にある、小さな中学校だった。

 全校生徒は二十八人。ひと昔前なら、各学年二クラスあったらしい。だが今は、一学年につき一クラス。空き教室のほうが多く、廊下には、何年も使われていない掲示板がそのまま残っている。色褪せた文化祭のポスター。端が丸まった交通安全標語。十年前の卒業制作らしい木製のプレート。

 その古びた校舎の三階、三年一組の教室で、間宮灯真は黒板の前に立っていた。

「じゃあ、この問題。江戸幕府が大名統制のために行った制度として、参勤交代がある。参勤交代の目的を、二つ答えなさい」

 チョークで問題番号を書きながら振り返ると、教室の中には十一人の生徒がいた。

 補習にしては、妙に静かだった。

 いや、普段ならもっと騒がしいのだろう。間宮はまだ、この学校に来て三週間しか経っていない。臨時の社会科教師として、産休に入った教員の穴を埋めるために赴任したばかりだ。生徒たちの性格も、家庭環境も、得意不得意も、まだ紙の上の情報と授業中の反応でしか知らない。

 だが、今日の空気がいつもと違うことくらいは分かった。

 原因は雨だった。

 教室の蛍光灯は点いているのに、窓の外が暗いせいで、室内全体が水底のように青黒く沈んでいる。湿気を吸ったプリントは、机の上で少し波打っていた。窓際の席の生徒が、時折、外を気にしている。

 芦原海都が、シャープペンシルを指の上で回しながら言った。

「先生、これ、マジで帰れんの?」

「警報は出てるけど、今のところ下校判断はまだだ。補習が終わる頃には、少し弱まるかもしれない」

「弱まる感じ、あります?」

 芦原は窓のほうを顎で示した。

 その瞬間、空が白く光った。遅れて、腹の底を揺らすような雷鳴が届く。教室の何人かが小さく肩を跳ねさせた。

 間宮は窓の外を見た。

 雨脚は、むしろ強くなっている。

「……職員室で確認してくる。問題、解いておいて」

「えー」

「えーじゃない。戻ってきたら当てるぞ、芦原」

「俺ばっか当てるじゃん」

「声が大きいからな」

 少しだけ笑いが起きた。

 その笑いに、間宮は内心でほっとした。閉じ込められたような空気の中では、些細な冗談でも必要だった。生徒たちの不安は、まだ言葉になる前の湿気のように教室に漂っている。大人がそれを無視すれば、子どもたちはすぐに敏感に嗅ぎ取る。

 間宮は教卓に置いた出席簿を一瞥した。

 白瀬真白。芦原海都。葛葉莉央。生野周。野宮彩葉。その他、今日補習に来ている三年生たち。

 十一人。

 間宮はその人数を頭の中で数えてから、教室を出た。

 廊下は薄暗かった。

 堰代中の校舎は、山の斜面に沿って建てられている。三階の廊下の窓からは、すぐ近くに杉の梢が見えた。雨に濡れた枝が、風でガラスを擦るたび、きい、と低い音がした。

 職員室に向かう途中、階段の踊り場で、養護教諭の落合静とすれ違った。

 落合は、白衣の上に紺色のカーディガンを羽織っていた。手には懐中電灯と救急箱を持っている。

「間宮先生、三年生は大丈夫ですか」

「今のところは。そちらは?」

「二年生の補習組は、さっき全員保護者に引き渡しました。残っている生徒は三年生だけです」

「職員は?」

「高瀬先生と、間宮先生と、私だけです。校長先生たちは町の会議に出ていて、まだ戻っていません」

 落合の声は落ち着いていたが、目だけが少し硬かった。

「道路、危ないみたいですか」

「ええ。さっき、防災無線が途中で切れてしまって。県道で土砂が崩れたかもしれないって」

「土砂……」

 間宮は廊下の窓の外を見た。

 この学校へ来るには、山を巻くように走る細い県道を通るしかない。片側は斜面、片側は谷。初めて赴任した日に、対向車が来たらどうするのだろうと思った道だ。

 その道が塞がれたら。

 間宮の胸の奥に、冷たいものが落ちた。

「職員室で高瀬先生が確認されています」

「分かりました」

 職員室に入ると、学年主任の高瀬静一が、固定電話の受話器を耳に押し当てていた。

 五十手前の、背の高い男だった。髪には白いものが混じり、眼鏡の奥の目はいつも少し疲れて見える。だが声は太く、態度には、この学校で長く生徒と保護者を相手にしてきた人間特有の揺るぎがあった。

「……もしもし。もしもし? 名国町立堰代中学校です。聞こえますか。県道の状況を――」

 高瀬は眉を寄せ、受話器を見た。

「切れた」

「通信、駄目ですか」

「携帯も圏外だ。さっき一度だけ町役場につながったが、途中で切れた。県道十八号、学校下のカーブ付近で崩れたらしい」

「崩れた……」

「正確な規模は分からん。だが、少なくとも今すぐ車は通れない」

 職員室の空気が重くなる。

 外では、雨が窓を叩き続けていた。床に置かれた傘立てから、水がぽたぽたと落ちている。壁の時計は午後二時四十分を指していた。

「三年生は補習中か」

「はい。十一人、全員教室にいます」

「保護者への連絡はつかない。しばらく校内待機だな」

「備蓄はありますか」

「防災倉庫に水と乾パンが少しある。全員で一晩くらいならどうにかなる。ただし、状況次第だ」

 高瀬は落合を見た。

「保健室の毛布を出しておいてください。間宮先生は生徒を一階の多目的室に移動させてください。三階にいるより安全だ」

「分かりました」

 そのときだった。

 蛍光灯が、一度、瞬いた。

 白い光が細く揺れ、次の瞬間、職員室全体が暗くなった。

 窓の外の灰色だけが、室内の輪郭をかろうじて浮かび上がらせる。パソコンの画面が一斉に落ち、コピー機の稼働音も消えた。かわりに、雨の音が急に大きくなった。

「停電か」

 高瀬が低く言った。

 落合が懐中電灯を点ける。白い光の輪が、床と机の脚を照らした。

 間宮は廊下に出た。

 教室から、ざわめきが聞こえる。生徒たちが不安げに声を上げている。

 だが、それとは別に。

 どこか遠くから、かすかな音がした。

 金属が触れ合うような音。

 食器と食器が、軽くぶつかるような。

 かちゃん。

 間宮は足を止めた。

「……今の、聞こえました?」

「何がですか」

 落合が尋ねる。

「食器みたいな音が」

「給食室じゃないですか」

「でも、今日はもう給食は終わってますよね」

「ええ。調理員さんたちも昼過ぎには帰っています」

 落合の懐中電灯の光が、廊下の奥を照らす。

 階段の下、さらに一階のほうから、もう一度音がした。

 かちゃん。

 まるで、誰かが皿を並べているような音だった。

     *

 生徒たちを一階の多目的室へ移動させるのは、思ったより大変だった。

 停電した校舎で階段を下りるだけでも、生徒は緊張する。特に野宮彩葉は、階段の途中で何度も足を止めた。小柄で、前髪を眉の下で切り揃えた女子だ。普段から誰かの後ろに隠れるように歩く生徒だったが、今日は顔色が悪かった。

「大丈夫か、野宮」

「……先生、これ、帰れますよね」

「道路の確認が取れるまで待機だ。救助は来る。学校は頑丈だから、まずは落ち着こう」

「でも、携帯、全然つながらなくて」

「職員室の固定電話も不安定だ。こういう山の中だと、天気で通信が悪くなることはある」

 間宮は、できるだけ当たり前のことのように言った。

 嘘ではない。だが全部でもなかった。

 多目的室には、古い長机と折りたたみ椅子が積まれていた。間宮と高瀬で机を動かし、生徒たちを座らせる。落合が毛布を配った。

 窓の外は、三時を過ぎたばかりとは思えないほど暗かった。雨で運動場が霞んでいる。遠くの山からは、ときどき地鳴りのような音が聞こえた。

「先生、腹減った」

 芦原海都が言った。

「この状況で第一声がそれかよ」

 葛葉莉央が呆れたように言う。

 葛葉は、肩までの髪をひとつに結んだ女子だった。目つきが鋭く、いつも少し斜に構えている。だが、ただ反抗的というわけではない。授業中、誰よりも早く違和感を見つけるのは彼女だった。間宮はひそかに、こういう生徒ほど本当は周囲をよく見ているのだと思っていた。

「いや、だって補習終わったらコンビニ寄るつもりだったし」

「山道崩れてんのにコンビニの心配かよ」

「コンビニは文明だからな。文明が遠い」

「うるさい」

 芦原と葛葉のやり取りに、数人が小さく笑った。

 その中で、生野周だけは窓際の椅子に座り、黙って外を見ていた。

 生野は、普段から口数の少ない男子だった。授業で当てても短く答えるだけで、友人と騒ぐことも少ない。だが、成績は悪くない。むしろ、提出物には几帳面な字でびっしり書き込みがある。

 間宮は彼に声をかけようとして、やめた。

 今は全体を落ち着かせるのが先だった。

 高瀬が前に立ち、生徒たちに状況を説明する。

「現在、学校へ続く県道で土砂崩れが起きている可能性がある。安全確認が取れるまで、全員校内で待機する。保護者への連絡は、通信が復旧次第、こちらから行う。いいな」

「今日、帰れないってことですか」

 白瀬真白が尋ねた。

 白瀬は、教室でもいつも姿勢がよかった。声は細いが、言葉を選ぶのがうまい。成績もよく、クラスの中では自然とまとめ役になることが多いらしい。だが今は、膝の上で両手をきつく握っていた。

「可能性としてはある」

 高瀬は曖昧にごまかさなかった。

「だが、慌てる必要はない。学校には水も毛布もある。救助が来るまで、ここで安全に待つ」

「ごはんは?」

 芦原がまた言った。

 高瀬が苦笑する。

「防災倉庫に乾パンがある。あとで配る」

「乾パンかあ」

「文句を言うな」

 そのとき、多目的室の外の廊下を、何かが横切った気がした。

 間宮は顔を上げた。

 廊下は暗い。落合が置いた懐中電灯の光が、床の一部だけを白く照らしている。その向こう、階段へ続く廊下に、人影のようなものが動いた気がした。

「間宮先生?」

 落合が気づいて声をかける。

「いえ……」

 間宮は廊下に出た。

 湿った空気が肌にまとわりつく。雨の音に混じって、どこからか匂いがした。

 温かい匂い。

 玉ねぎを炒めたような、牛乳を煮込んだような、給食特有の甘く重い匂い。

 間宮はゆっくりと振り返った。

 廊下の先。

 給食室のある方向から、薄い光が漏れていた。

「……給食室?」

 停電しているはずだった。

 校舎中の電気が落ち、職員室も、多目的室も、廊下も暗い。それなのに、一階の奥にある給食室だけが、ぼんやりと白く光っている。

 高瀬も廊下に出てきた。

「どうした」

「給食室、明かりが点いてます」

「そんなはずはない」

 高瀬の声がわずかに硬くなった。

 落合も懐中電灯を手に近づいてくる。生徒たちも、何事かと多目的室の入口から顔を覗かせた。

「おい、なんか匂いしね?」

 芦原が言う。

「カレー?」

「違う。シチューっぽい」

「いや、今日の給食、もう終わったじゃん」

 ざわめきが広がる。

 高瀬は生徒たちを制した。

「全員、中で待っていなさい。間宮先生、落合先生、確認します」

 給食室へ向かう廊下は、妙に長く感じた。

 堰代中の給食室は、校舎の北側にある。町の給食センターから配送されるのではなく、小規模校らしく校内調理だった。だが調理員は昼過ぎに帰っている。火の元も確認済みのはずだ。

 給食室の扉には、磨りガラスの小窓がついていた。

 その向こうが、白く明るい。

 そして、湯気が見えた。

 高瀬が扉を開ける。

 その瞬間、温かい空気が廊下へ流れ出した。

 間宮は息を呑んだ。

 給食室の中には、食器が並んでいた。

 長い調理台の上に、白い皿、銀色のスプーン、汁椀、牛乳パック。そして湯気を立てる料理。人数分に小分けされたそれらが、きれいに、あまりにもきれいに並べられている。

「……誰が」

 落合が呟いた。

 高瀬は無言で中に入る。

 間宮も後に続いた。

 調理台の上には、十三人分の給食があった。

 皿の数を、間宮は指で追った。

 一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、十三。

 十三。

 残っている生徒は十一人。教師が二人。養護教諭が一人。

 合わせれば十四人のはずだ。

 だが、給食は十三人分しかない。

 間宮の背筋に、雨とは違う冷たさが走った。

「高瀬先生」

「触るな」

 高瀬の声は低かった。

「誰かが侵入した可能性がある。まず確認を――」

「でも、鍵は?」

 落合が言う。

「給食室の鍵、閉めてありましたよね」

 高瀬は答えなかった。

 間宮は、調理台の端に置かれたものに気づいた。

 黒い紙だった。

 給食の献立表。通常なら、職員室前の掲示板に貼り出されるような、白い紙に印刷されたものだ。だがそれは違った。厚手の黒い紙に、白い文字が浮かび上がるように書かれている。

 印刷ではない。チョークでもない。インクでもないように見えた。

 そこには、こう書かれていた。

 一日一食、必ず食べること。

 食べなかった者は、翌朝、欠席扱いとする。

 間宮は、しばらく意味を理解できなかった。

 欠席扱い。

 あまりにも学校らしい言葉だった。

 だからこそ、不気味だった。

「悪趣味な」

 高瀬が吐き捨てるように言った。

「誰かのいたずらだ。生徒には見せるな」

 だが遅かった。

 廊下側の扉の隙間から、生徒たちが覗いていた。

「何それ」

 葛葉莉央の声がした。

「先生、何て書いてあるんですか」

「戻りなさい」

 高瀬が鋭く言った。

 だが、芦原が先に読み上げてしまった。

「一日一食、必ず食べること。食べなかった者は、翌朝、欠席扱いとする……って何? 怖っ」

「やめなよ」

 白瀬が小さく言った。

 生野周は、扉のそばで立ち尽くしていた。顔色が悪い。彼の目は、黒い献立表に釘付けになっていた。

「先生」

 生野が、ほとんど聞こえない声で言った。

「これ、食べちゃ駄目です」

     *

 会議は、給食室前の廊下で行われた。

 会議といっても、正式なものではない。高瀬、間宮、落合の三人が、生徒たちに聞こえない程度の距離で小声を交わしただけだ。

「食べさせるべきではありません」

 間宮は言った。

「誰が用意したのか分からない。停電中に、明かりが点いて、温かい給食が並んでいる。異常です」

「異常なのは分かっている」

 高瀬は険しい顔で答えた。

「だが、現実問題として食料が必要だ。乾パンだけでは、生徒たちがもたない」

「一晩なら乾パンと水で足ります」

「本当に一晩で済む保証があるのか」

 その言葉に、間宮は黙った。

 保証はない。

 雨は止まない。道路がどれほど崩れたのかも分からない。通信は途切れたまま。校舎には十四人。乾パンと水だけで何日も持たせるのは難しい。

 落合が慎重に言った。

「毒物の可能性はあります。けれど、見たところ普通の給食です。匂いもおかしくありません。ただ、調べる設備はここにはありません」

「食べない選択をした結果、低血糖や脱水で具合が悪くなる生徒が出たらどうする」

 高瀬の声には、苛立ちよりも焦りが滲んでいた。

「雨の中、救急車も来られない。生徒を守るために、使えるものは使うべきだ」

「でも、この献立表は」

「いたずらだ」

 高瀬は言い切った。

 その断定の強さに、間宮は違和感を覚えた。

 まるで、そうでなければならないと自分に言い聞かせているようだった。

「誰のいたずらですか」

「分からん。生徒か、外部の人間か。だが、この状況で無用な恐怖を広げるほうが危険だ」

 高瀬は廊下の向こうを見た。

 多目的室の入口で、生徒たちが不安そうにこちらを見ている。芦原は空元気のように笑っていたが、野宮は白瀬の袖を握っていた。葛葉は腕を組み、じっと高瀬たちを観察している。

「生徒には、調理員が残してくれていたものだと説明する」

「嘘をつくんですか」

「パニックを防ぐためだ」

 高瀬は間宮を見た。

「間宮先生。あなたはまだ若い。生徒に正直であろうとするのはいい。だが、全部をそのまま見せることが、生徒を守ることとは限らない」

 間宮は言い返せなかった。

 教師になってまだ数年。臨時でこの学校へ来たばかりの自分と、長年この土地で子どもたちを見てきた高瀬。経験の差は明らかだった。

 だが、それでも。

 間宮は給食室の中を見た。

 十三人分の給食。

 十四人いるはずなのに、十三人分。

 その数のずれが、喉に刺さった小骨のように残っていた。

     *

 給食は、多目的室に運ばれた。

 料理は白いクリームシチューではなく、野菜スープとコッペパン、ポテトサラダ、牛乳だった。まだ温かかった。湯気が上がり、空腹の生徒たちの視線が自然と集まる。

「うまそうじゃん」

 芦原が言った。

「この状況でよく言えるね」

 葛葉が睨む。

「いや、怖いけどさ。腹は減るだろ」

「芦原くん、ほんとに食べるの?」

 白瀬が心配そうに尋ねる。

「先生たちが大丈夫って言うなら」

 芦原は高瀬を見た。

 高瀬は生徒たちの前に立った。

「これは、給食室に残っていたものだ。調理員さんが非常時に備えてくれていた可能性がある。もちろん不安はあるだろうが、体力を保つためにも、食べられる者は食べなさい」

 間宮は黙って聞いていた。

 嘘だ。

 その可能性は、ほとんどない。

 しかし、高瀬の言葉を否定すれば、生徒たちは混乱する。落合も黙っている。彼女も納得しているわけではないのだろう。けれど、今は安全と秩序を優先している。

 生徒たちに食事が配られる。

 十三人分。

 結果的に、落合は「私はあとで防災倉庫のものをいただきます」と言って、自分の分を辞退した。高瀬も同じように食べなかった。間宮にも皿が渡されようとしたが、彼は手を伸ばせなかった。

「先生、食べないんですか」

 白瀬が見上げる。

「少し、あとで」

 間宮は曖昧に答えた。

 芦原が最初にパンをかじった。

「普通にうまい」

 その一言で、何人かがほっとしたように食べ始めた。

 野宮も白瀬に促されて、少しずつスープを飲む。葛葉は最後まで疑わしげに匂いを嗅いでいたが、やがて小さく口をつけた。

 ただ一人、生野周だけは、配られた皿に触れなかった。

「生野」

 高瀬が声をかける。

「食べなさい。体調を崩すぞ」

「嫌です」

「わがままを言うな」

「わがままじゃありません」

 生野の声は震えていた。

 だが、その震えは恐怖だけではなかった。何かを必死にこらえているような声だった。

「これ、絶対おかしいです。さっきの紙、見たでしょ。食べなかったら欠席扱いって。普通じゃない」

「だからこそ、食べればいい」

 高瀬が言った。

「先生」

 間宮は思わず口を挟んだ。

 高瀬は一瞬だけ、間宮を見た。その目に、余計なことを言うなという圧があった。

 生野は首を振った。

「違う。食べたら、向こうのルールに入る気がする」

 多目的室が静まり返った。

 向こう。

 その言葉が、妙に生々しかった。

「向こうって何だよ」

 芦原が笑おうとした。だが笑いきれなかった。

「知らない。でも、食べたら終わりだと思う」

「生野くん」

 白瀬がそっと言った。

「でも、食べなかったら、明日……」

 言葉の先は、誰も口にしなかった。

 欠席扱い。

 馬鹿げた言葉だ。悪趣味ないたずらのはずだ。そう思いたい。だが、停電した校舎で給食室だけが明るく、十三人分の給食が並んでいた事実が、それをただの冗談にさせてくれない。

 生野は椅子を引いた。

「俺は食べない」

「生野」

「食べるなら、みんな勝手に食べればいい。でも俺は嫌だ」

 彼は多目的室の隅に移動し、膝を抱えて座った。

 高瀬は深く息を吐いた。

「放っておけ。落ち着いたら食べるだろう」

 間宮は生野の皿を見た。

 スープの湯気は、まだ細く立っていた。

     *

 夜になると、校舎は別の建物のようになった。

 外は完全に闇だった。雨は弱まらず、窓を叩く音はむしろ激しくなっている。停電は復旧しない。懐中電灯と非常灯だけが、廊下の一部をぼんやり照らしていた。

 生徒たちは多目的室で毛布にくるまっていた。

 眠れる者は少なかった。芦原は最初こそ冗談を言っていたが、今は壁にもたれて黙っている。白瀬は野宮の隣に座り、彼女の手を握っていた。葛葉は入口近くで、廊下の暗がりを睨むように見ている。

 生野は、部屋の隅にいた。

 結局、彼は給食を一口も食べなかった。

 高瀬は何度か説得したが、生野は頑として拒んだ。無理やり食べさせるわけにもいかず、乾パンと水を渡すと、それだけを少し口にした。

 間宮は出席簿を開いた。

 懐中電灯の光を当て、三年一組の名簿を確認する。

 白瀬真白。

 芦原海都。

 葛葉莉央。

 生野周。

 野宮彩葉。

 他の生徒たち。

 十一人。

 間宮は一人ずつ、顔と名前を照合した。

 十一人いる。

 確かに十一人。

 だが、昼間からずっと、胸の奥に妙な違和感があった。

 本当に、十一人だったか。

 補習に来ていたのは、十一人だったか。

 教室にいた生徒を思い出す。窓際に生野。前の席に白瀬。芦原は後ろでシャープペンを回していた。葛葉は腕を組んでいた。野宮は白瀬の近くにいた。

 それで全部だったか。

 間宮は目を閉じた。

 教室の風景を、できるだけ正確に思い浮かべる。

 机の並び。

 プリントの枚数。

 チョークの粉。

 雨の音。

 誰かが咳をした。

 誰かが、窓の外を見ていた。

 誰か。

 誰だ。

「先生」

 声をかけられて、間宮は目を開けた。

 葛葉莉央が立っていた。

「眠らないんですか」

「見回りがあるからな」

「本当は、先生も怖いんじゃないですか」

 間宮は返事に詰まった。

 葛葉は、暗い廊下を見た。

「さっきから、音がします」

「音?」

「給食室のほう。食器を洗ってるみたいな音」

 間宮は背筋を伸ばした。

「いつから」

「みんなが寝静まった頃から。まあ、ほとんど寝てないですけど」

 耳を澄ます。

 雨の音。

 風の音。

 古い校舎の軋む音。

 その奥に。

 かちゃん。

 水が流れるような音。

 皿と皿がぶつかる、小さな音。

 間宮は立ち上がった。

「ここにいてくれ」

「嫌です」

「葛葉」

「先生一人で行って、戻ってこなかったらどうするんですか」

 強い目だった。

 中学生の目ではなかった。恐怖を知って、それでも見ようとする者の目だった。

「危ない」

「もう危ないです」

 間宮は何も言えなかった。

 結局、落合に多目的室を任せ、間宮は葛葉とともに廊下へ出た。高瀬は職員室で通信の確認をしている。呼びに行くべきか迷ったが、音が続いているうちに確かめたかった。

 給食室へ近づくにつれ、匂いが強くなった。

 洗剤の匂い。

 湯気の匂い。

 そして、どこか甘ったるい、牛乳を温めたような匂い。

 扉の小窓から、中を覗く。

 明かりは消えていた。

 だが、音は中からしている。

 かちゃん。

 かちゃん。

 間宮は扉に手をかけた。

「先生」

 葛葉が小声で言った。

「やめたほうがいいかもしれない」

「なら、ここで待っていてくれ」

「それも嫌です」

 間宮は扉を開けた。

 給食室の中は暗かった。

 懐中電灯の光が、ステンレスの調理台を照らす。昼間、給食が並んでいた場所には、何もない。皿も、スプーンも、牛乳パックも、跡形もなく片づけられていた。

 シンクに水滴が残っている。

 今、洗ったばかりのように。

「誰かいますか」

 間宮の声が、調理室の壁に吸い込まれる。

 返事はない。

 葛葉が間宮の袖を掴んだ。

「あれ」

 彼女が指したのは、床だった。

 濡れた足跡があった。

 給食室の奥から、廊下へ向かって続いている。小さな足跡だった。大人のものではない。上履きでもない。裸足のように見えた。

 間宮は光を追わせた。

 足跡は、配膳台の前で途切れていた。

 その上に、黒い献立表が置かれていた。

 昼間見たものと同じ黒い紙。

 だが、文字は変わっていた。

 本日の食事は終了しました。

 未食者 一名。

 間宮の喉が鳴った。

 葛葉が息を止める。

 次の行に、ゆっくりと白い文字が浮かび上がった。

 生野周。

 その瞬間、多目的室のほうから悲鳴が聞こえた。

     *

 戻ると、生野周はいなかった。

 多目的室は騒然としていた。落合が生徒たちを落ち着かせようとしている。野宮彩葉は泣いていた。白瀬真白は真っ青な顔で、部屋の隅を見つめている。

 そこに、生野がいたはずだった。

 毛布が一枚、床に落ちている。

 乾パンの袋と、水のペットボトルが置かれている。

 だが、生野周の姿だけがない。

「いつ消えたんですか」

 間宮は落合に詰め寄った。

「分かりません。私も見ていたんです。でも、一瞬、廊下のほうで音がして、生徒たちがそちらを見て……振り返ったら、もう」

「校内を探しましょう」

「待て」

 職員室から戻ってきた高瀬が、鋭い声で言った。

「全員ここから動くな。間宮先生、私と探す。落合先生は生徒を見ていてください」

「生野くん、いなくなったんですか」

 白瀬が震える声で言う。

 間宮は答えられなかった。

 芦原が立ち上がる。

「俺も探す」

「座っていなさい」

「だって生野が――」

 そこで、芦原は言葉を止めた。

 不思議そうに眉を寄せる。

「……あれ」

「どうした」

「生野って、誰だっけ」

 多目的室が、凍りついた。

 間宮は芦原を見た。

「何を言ってる」

「いや、今、俺、なんか名前言ったよな。生野? 誰?」

「ふざけるな」

 葛葉が怒鳴った。

「さっきまでそこにいたでしょ。食べないって言って、隅に座ってた男子」

「え、誰が?」

 芦原は本気で困惑していた。

 冗談ではない。

 間宮には分かった。彼の顔には、演技の余地がなかった。

「白瀬」

 間宮は振り向く。

「生野周を覚えているな」

 白瀬は口を開いた。

 だが、声が出なかった。

 彼女は自分の喉に手を当て、何かを思い出そうとするように目を伏せる。

「……ごめんなさい」

「白瀬?」

「今、先生が言った名前、知らないです。でも」

 白瀬の目に涙が滲んだ。

「でも、誰かがいた気がします。すごく怖がってて、食べないって言ってて……でも、顔が、思い出せない」

 野宮が泣き出した。

「夢の人だ」

「野宮?」

「さっき、寝かけたとき、知らない男の子が夢に出てきたんです。食べるなって。食べたら忘れるって」

 間宮は高瀬を見た。

 高瀬の顔から血の気が引いていた。

「高瀬先生。生野周を覚えていますか」

「……」

「高瀬先生」

「三年生は」

 高瀬は出席簿を奪うように取った。

 ページをめくる。

「三年生は、十人だ」

「違います」

 間宮は即座に言った。

「十一人でした」

「名簿には十人しかいない」

 高瀬が出席簿を向けた。

 間宮は懐中電灯の光を当てる。

 そこには、十人分の名前しかなかった。

 白瀬真白。

 芦原海都。

 葛葉莉央。

 野宮彩葉。

 その他の生徒。

 生野周の名前は、ない。

 最初から存在しなかったかのように。

「そんな」

 間宮はページをめくった。前のページも、後ろのページも確認する。転校生の記録。欠席欄。補習参加者名簿。

 どこにも、生野周の名前はなかった。

 だが、間宮の頭の中には、はっきりと彼の姿が残っている。

 窓際の席。

 伏せた目。

 震える声。

 これ、食べちゃ駄目です。

「先生」

 葛葉が掠れた声で言った。

「私、覚えてます。名前は……今、ちょっとぼやけてるけど。でも、いた。絶対いた」

 間宮は出席簿を握りしめた。

 そのとき、指先に違和感があった。

 名簿の十一番目。

 何も書かれていないはずの欄に、黒い染みがあった。

 インクが滲んだような、焦げ跡のような、小さな黒い点。

 間宮はそれを見つめた。

 黒い染みは、ゆっくりと広がっているように見えた。

     *

 夜明けは、ひどく遅かった。

 雨は少し弱まっていたが、空はまだ鉛色だった。校舎の窓には水滴がびっしりとつき、外の景色はぼやけて見えた。

 誰も眠れなかった。

 生徒たちは多目的室で固まって座っていた。芦原は何度も「本当に誰かいなくなったのか」と尋ね、そのたびに葛葉が「いた」と答えた。白瀬は泣き疲れた野宮の肩を抱いていた。

 高瀬は一晩中、校内を探した。

 だが、生野周は見つからなかった。

 靴もない。鞄もない。机もない。上履き入れにも名前はない。三年一組の教室に戻ると、窓際の席そのものが一つ減っていた。

 昨日までそこに机があったはずなのに、床には何の跡もない。

 まるで、最初からなかったように。

 朝六時過ぎ、給食室に明かりが点いた。

 誰も何も言わなかった。

 ただ、全員がその光を見た。

 停電はまだ復旧していない。校舎のほかの場所は暗い。それなのに、給食室だけが、昨日と同じように白く明るくなっている。

 間宮は一人で向かおうとしたが、葛葉と白瀬がついてきた。高瀬も黙って後に続く。落合は生徒たちのそばに残った。

 給食室の扉を開ける。

 中は、昨日と同じように整っていた。

 調理台の上に、黒い献立表が置かれている。

 間宮は近づいた。

 白い文字が、すでに浮かんでいた。

 本日の欠席者――生野周。

 間宮は息を止めた。

 その名前を見た瞬間、頭の中で消えかけていた輪郭が、もう一度はっきりした。

 生野周。

 確かにいた。

 彼は食べなかった。

 そして、欠席扱いになった。

「先生」

 白瀬が震える声で言った。

 間宮は、献立表の下を見た。

 そこに、新しい文字が浮かび上がっていた。

 明日の献立:白いシチュー。

 明日の欠席予定者:白瀬真白。

 白瀬が小さく息を呑んだ。

 葛葉が「最悪」と呟いた。

 高瀬は何も言わなかった。

 間宮は黒い献立表を見つめたまま、ようやく理解した。

 これは、閉じ込められたのではない。

 校舎に避難しているのでもない。

 この学校は今、何かの内側にある。

 そしてその何かは、生徒を一人ずつ、学校の言葉で処理している。

 遅刻でも、早退でも、死亡でもなく。

 欠席。

 間宮は拳を握った。

 白瀬真白は、隣で震えていた。まだそこにいる。名前も、顔も、声もある。間宮はそのすべてを、必死に目に焼きつけた。

 消させてたまるか、と思った。

 だがその決意を嘲笑うように、給食室の奥で水音がした。

 蛇口から、一滴。

 また一滴。

 透明な水が、シンクに落ちる。

 かちゃん、とどこかで皿が鳴った。

 まるで、明日の給食の準備が、もう始まっているかのようだった。


第2章 食べなければ消える

 白瀬真白は、黒い献立表の前で立ち尽くしていた。

 給食室の白い照明は、停電中の校舎の中でそこだけ切り取られたように明るかった。窓の外は、まだ朝とは思えないほど暗い。雨は弱くなったり強くなったりを繰り返し、山の斜面を流れる水音が、校舎の古い壁の内側まで響いている。

 明日の献立:白いシチュー。

 明日の欠席予定者:白瀬真白。

 白い文字は、黒い紙の上に浮かび上がっていた。

 間宮灯真は、その文字から目を離せなかった。紙に書かれたただの文字であるはずなのに、そこには妙な生々しさがあった。チョークでもインクでもない。文字そのものが、黒い紙の内側から白く滲み出ているように見える。

 白瀬は何も言わなかった。

 口を開けば、自分の名前がそこにあることを認めてしまう。そんなふうに、言葉を飲み込んでいるようだった。

「白瀬」

 間宮が声をかけると、彼女はようやく瞬きをした。

「……私、ですか」

 小さな声だった。

「先生、これ、私の名前ですよね」

「そうだ」

 否定できなかった。

 違う、と言いたかった。悪い冗談だ、と言いたかった。誰かが仕組んだいたずらで、朝になれば笑い話になると。だが、生野周は消えた。名前も、席も、鞄も、記録も、ほとんどすべてが消えた。消えてなお、間宮の記憶と、黒い献立表の文字だけが彼の存在を証明していた。

 だから、白瀬の名前を見間違いだとは言えなかった。

 葛葉莉央が、間宮の横から献立表を覗き込む。

「明日の欠席予定者って、つまり予告ですよね」

「まだ決まったわけじゃない」

 間宮は即座に言った。

「そう言わなきゃいけないのは分かります。でも、先生もそう思ってないでしょ」

 葛葉の目は、泣いてはいなかった。

 泣くより先に、怒っている目だった。恐怖を怒りに変えて、ぎりぎり立っている。そういう目だ。

 高瀬静一は、給食室の入口で黙っていた。彼の顔は青白く、いつもの厳格さが少し剥がれ落ちていた。だが、すぐに眼鏡の位置を直し、いつもの声を取り戻そうとする。

「全員、多目的室へ戻る。ここにいても仕方がない」

「高瀬先生」

 葛葉が振り返る。

「仕方がないって、本気で言ってます?」

「今は生徒を落ち着かせることが先だ」

「生徒って、白瀬も生徒ですけど」

「葛葉」

 間宮が制した。

 葛葉は唇を噛んだが、それ以上は言わなかった。

 白瀬は、まだ献立表を見ている。

 その横顔は、ひどく静かだった。

 怖がっていないわけではない。むしろ、恐怖が強すぎて表情が追いついていないのだろう。彼女の指先は、制服のスカートを握りしめて細かく震えていた。

「白瀬、戻ろう」

 間宮が言うと、白瀬はゆっくり頷いた。

「はい」

 その返事は、普段の授業中と同じだった。

 出席確認で名前を呼ばれた時のように。

 間宮は、その声を覚えておこうと思った。

 白瀬真白。

 声。顔。立ち方。右手で左袖を掴む癖。濡れた廊下を歩く時、少しだけ足元を見ること。恐怖を感じても、周りを先に見ること。

 忘れない。

 絶対に忘れない。

 そう思った瞬間、給食室の奥で、かちゃん、と皿の鳴る音がした。

 全員が振り返る。

 だが、そこには誰もいなかった。

     *

 多目的室に戻ると、生徒たちの視線が一斉に白瀬へ向いた。

 何があったのか、全員が知りたがっている。けれど、聞いてしまえば次の恐怖が自分にも降りかかる気がして、誰も最初の言葉を出せない。空気が固まっていた。

 芦原海都が、無理に笑おうとした。

「なんか、あった?」

 その声は、いつもより少し高かった。

 白瀬は答えない。

 葛葉が代わりに言った。

「白瀬の名前があった」

「名前?」

「明日の欠席予定者」

 芦原の顔から笑みが消えた。

 野宮彩葉が、白瀬の制服の袖を掴む。

「真白ちゃんが、消えるってこと?」

「消えない」

 間宮は強く言った。

 自分でも驚くほど、硬い声だった。

「まだ何も決まっていない。生野の時と同じことが起きるとは限らない。むしろ、今分かっていることを整理すれば、止める方法があるかもしれない」

「整理って、どうやって」

 葛葉が言う。

「まず、昨日の条件を確認する」

 間宮は床に座り、出席簿とメモ帳を開いた。机を使う気になれなかった。机に向かうと、昨日までそこにあったはずの生野の席を思い出すからだ。

「昨日、給食を食べた者と食べなかった者を分ける。食べなかったのは生野だけだった」

「で、生野が消えた」

 芦原が言った。

 名前を口にできた。

 間宮は芦原を見る。

「芦原。今、生野のことを思い出しているのか」

「いや……なんか、先生たちがずっと言ってるから、名前だけは分かるっていうか。でも顔は無理。どんな奴だったかって言われると、全然」

「昨日、話したことは?」

「覚えてない」

「食べないって言っていたことは?」

 芦原は眉を寄せた。

「それも、聞けばそうだった気がするけど……自分で見た感じがしない。人から聞いた話みたい」

 間宮はメモする。

 名前は再入力できる。だが記憶の実感は戻らない。

 葛葉が腕を組んだ。

「つまり、給食を食べた人間は、生野のことを忘れたってことですか」

「そう考えるのが自然だ」

「でも先生は覚えてる。先生は食べてないから」

「ああ」

「私も少し覚えてます。顔は曖昧だけど、いたことは分かる。昨日、私も食べたのに」

 間宮は葛葉を見た。

 確かにそうだ。葛葉は昨日、給食に口をつけた。全部食べたかどうかまでは見ていないが、少なくとも食べていた。

「どのくらい食べた?」

「パンを半分と、スープを少し。ポテトサラダは食べてません」

「少量なら影響が弱いのかもしれない」

「じゃあ、いっぱい食べた人ほど忘れてる?」

 葛葉の視線が芦原に向く。

「何だよ」

「芦原、ほぼ完食してたでしょ」

「腹減ってたんだよ」

「そのせいで忘れたかもしれない」

「責めんなよ!」

 芦原が声を荒げた。

 その瞬間、多目的室の空気がびくりと跳ねる。芦原自身も驚いたように口を閉じた。

「……ごめん」

 彼は俯いた。

「でも、俺だって怖いんだよ。誰か消えたって言われても分かんねえし、分かんねえのに、なんかすげえ嫌な感じだけ残ってるし。俺が悪いみたいに言われても、どうすりゃいいんだよ」

「芦原が悪いわけじゃない」

 間宮は言った。

「誰かを責めるために整理してるんじゃない。次を防ぐためだ」

 白瀬は黙っていた。

 野宮が泣きそうな顔で彼女を見る。

「真白ちゃん、昨日、食べたよね」

「うん」

「じゃあ、食べても消えるの?」

 誰も答えられなかった。

 それこそが、最も恐ろしい点だった。

 昨日の献立表には「食べなかった者は、翌朝、欠席扱いとする」と書かれていた。ならば、食べれば助かる。そう考えるのが自然だった。生野は食べなかった。だから消えた。単純なルールなら、まだ対処できる。

 だが白瀬は食べた。

 それなのに、次の欠席予定者に選ばれた。

 食べなければ消える。

 食べても選ばれる。

 では、給食とは何なのか。

 高瀬が重い声で言った。

「予定者という言葉に意味があるのかもしれん」

「どういう意味ですか」

 間宮が尋ねる。

「生野は未食者として欠席になった。白瀬は予定者として名前が出ている。つまり、まだ欠席と決まったわけではない」

「どうすれば予定を変えられるんですか」

 葛葉が問う。

「それを考えるんだ」

 高瀬はそう言ったが、その声には確信がなかった。

 落合静が、白瀬の前にしゃがんだ。

「白瀬さん。体調はどう?」

「……少し寒いです」

「気持ち悪さは? 頭痛は?」

「ないです」

「昨日の給食を食べた後、変な感じはあった?」

 白瀬は考え込んだ。

「夜、夢を見ました」

「夢?」

「誰かが、私の名前を呼んでいました。でも、声は聞こえるのに、顔が見えなくて。何度も、白瀬真白って」

「その夢を見たのは、何時頃?」

「分かりません。ほとんど眠れてないので」

 落合は頷き、メモを取る。

 野宮が小さく手を上げた。

「あの、私も夢を見ました」

 全員が彼女を見る。

 野宮は怯えたように肩を縮めた。

「昨日も言ったけど、知らない男の子が出てきて……食べるなって。あと、もうひとつ言ってました」

「何て?」

 間宮が促す。

「名前を、書いてって」

「名前?」

「忘れないように、書いてって。たくさん。何回も。消される前にって」

 間宮はメモ帳を見下ろした。

 名前を書く。

 単純だ。だが、生野の名前は出席簿から消えた。記録は書き換えられる。ならば、紙に書いても無駄かもしれない。

 それでも、何もしないよりはましだった。

「全員、自分の名前を書こう」

 間宮は言った。

「今ここにいる全員の名前、顔、特徴、昨日から覚えていることを書く。互いに確認する。紙が消えるかどうかも含めて、実験する」

「実験って、俺たちで?」

 芦原が嫌そうに言う。

「今、分かることを増やすしかない」

「でも、書いたって消されるんじゃ」

「消されたなら、それも分かる」

 葛葉が言った。

「消されるものと消されないものの違いを探せる」

 芦原は何か言いたそうだったが、結局黙って頷いた。

 間宮は職員室からノートと油性ペン、チョーク、ガムテープ、古い模造紙を持ってきた。停電しているためコピー機は使えない。だが、紙とペンならいくらでもあった。

 多目的室の床に模造紙を広げる。

 そこに、まず間宮が大きく書いた。

 間宮灯真。

 高瀬静一。

 落合静。

 白瀬真白。

 芦原海都。

 葛葉莉央。

 野宮彩葉。

 そして他の生徒たちの名前。

 最後に、間宮は少し迷ってから、下にもうひとつ書いた。

 生野周。

 書いた瞬間、指先が冷えた。

 だが、文字は消えなかった。

「全員、これを見てくれ」

 間宮は言った。

「ここにいる人間の名前だ。生野周も昨日までいた。窓際に座っていた。給食を食べなかった。黒い献立表に未食者と書かれた。そして今朝、欠席扱いになった」

 生徒たちは模造紙を見つめた。

 芦原は、苦しそうに顔を歪めている。記憶の穴を、無理やり覗き込もうとしているようだった。

「……生野」

 彼は呟いた。

「生野周。いた。たぶん、いた。俺、昨日、あいつに何か言った?」

「食べればいいって言ってた」

 葛葉が答える。

 芦原は顔を伏せた。

「最悪だ、俺」

「みんな混乱してた」

 白瀬が言った。

 芦原は彼女を見る。

「白瀬、お前、平気なのかよ」

「平気じゃないよ」

 白瀬は静かに答えた。

「でも、私が怖がってるだけだと、みんなも怖くなるから」

「そういうの、今はいいって」

「よくないよ」

 白瀬はかすかに笑った。

「だって、私のこと、覚えててほしいから。怖い顔じゃなくて、普通の顔で」

 芦原は何も言えなくなった。

 間宮は、胸が締めつけられるのを感じた。

 白瀬真白。

 彼女は、自分の名前が消えるかもしれない状況で、まだ周りを見ている。誰かを落ち着かせようとしている。だからこそ、怖かった。そういう生徒から順に、この学校は奪おうとしているのではないか。

 欠席扱い。

 それは、ただの消失ではない。

 その子がいたことを、学校の都合のいい言葉で処理する行為だ。

     *

 昼が近づくにつれ、給食室から匂いが漂い始めた。

 白いシチューの匂いだった。

 玉ねぎと牛乳。煮込まれた鶏肉。柔らかくなったじゃがいも。給食の時間になれば、誰もが一度は嗅いだことのある、懐かしくて温かい匂い。

 それが今は、ひどく禍々しかった。

 十二時ちょうど。

 停電中の校内に、チャイムが鳴った。

 誰も触れていない放送設備から、古い電子音が流れる。

 キーンコーンカーンコーン。

 その音が廊下を渡り、多目的室の壁を震わせた。

 野宮が小さく悲鳴を上げる。

「給食の時間だ」

 芦原が呟いた。

「やめろよ」

 葛葉が睨む。

「いや、だって」

 そのとき、扉の外で足音がした。

 全員が振り返る。

 廊下の向こうから、何かが近づいてくる。

 ぺた。

 ぺた。

 濡れた裸足で床を歩くような音。

 間宮は立ち上がり、扉の前に立った。高瀬も横に並ぶ。落合は生徒たちを後ろに下がらせた。

 足音は、多目的室の前で止まった。

 数秒の沈黙。

 そして、扉の下の隙間から、黒い紙が一枚、すっと差し込まれた。

 間宮は息を止めた。

 紙には白い文字があった。

 本日の献立:白いシチュー。

 配膳場所:給食室。

 全員、十二時十五分までに着席すること。

 遅れた者は、欠食扱いとする。

「欠食……」

 落合が呟いた。

「また言葉が変わった」

 葛葉が言う。

「欠席じゃなくて欠食」

「給食室に行けってことかよ」

 芦原が顔を歪める。

「行かなかったら?」

 野宮が震える声で聞く。

 誰も答えなかった。

 黒い紙は、さらに文字を浮かび上がらせた。

 欠食者は、代理欠席者を一名発生させる。

 多目的室の空気が、音を立てずに崩れた。

「代理欠席者って何」

 野宮が泣きそうに言う。

「自分が食べなかったら、誰かが代わりに消えるってこと?」

「たぶん、そういう意味だね」

 葛葉の声は低かった。

「ふざけんなよ」

 芦原が壁を殴った。

「何なんだよ、これ。食べなきゃ消える。食べても名前が出る。行かなきゃ誰かが代わりに消える。どうすりゃいいんだよ!」

 間宮は黒い紙を握りしめた。

 紙は冷たかった。

 高瀬が言う。

「行くしかない」

「高瀬先生」

 間宮が振り向く。

「行かなければ、代理欠席者が出る。ここで拒否しても危険が増えるだけだ」

「でも、食べたら記憶に影響が出る可能性があります」

「ならば、最小限にすればいい」

 高瀬は自分に言い聞かせるように言った。

「食べるふりでは駄目かもしれない。だが、少量だけなら影響を抑えられる可能性がある。昨日、葛葉が比較的覚えているなら、量は関係している」

 落合も頷いた。

「医学的に説明できる状況ではありません。でも、摂取量で作用が変わる可能性はあります」

 葛葉が皮肉っぽく笑った。

「変な薬みたいですね」

「そう考えたほうが、まだ対処しやすい」

 間宮は白瀬を見た。

 彼女は、黒い紙ではなく、自分の手を見ていた。

 その手は震えている。

「白瀬」

「行きます」

 彼女はすぐに答えた。

「食べなかったら、誰かが代わりに消えるかもしれないんですよね。だったら、行きます」

「無理しなくていい」

「無理しない選択肢がないです」

 白瀬は顔を上げた。

 その目に、恐怖はあった。

 だが、それだけではなかった。

「先生、私の名前、書いてください。たくさん。もし私が変になっても、私が白瀬真白だって分かるように」

 間宮は頷いた。

「ああ。書く」

「私も書く」

 葛葉が言った。

「ていうか全員で書く。壁にも床にも机にも。消せるもんなら消してみろってくらい」

「校舎に落書きは」

 高瀬が反射的に言いかけ、途中で黙った。

 この状況で校則を持ち出すことの馬鹿馬鹿しさに、自分でも気づいたのだろう。

 葛葉は油性ペンを握った。

 多目的室の模造紙に、彼女は大きく書いた。

 白瀬真白はここにいる。

 それを見て、芦原もペンを取った。

 白瀬は真面目。字がきれい。たまに怒ると怖い。

 野宮が泣きながら書いた。

 真白ちゃんは、私の手を握ってくれた。

 他の生徒たちも、ひとつずつ書いていく。

 白瀬は朝、怖くても笑った。

 白瀬は右手で左袖を掴む。

 白瀬はシチューのにんじんが苦手。

 白瀬は白瀬真白。

 白瀬真白。

 白瀬真白。

 白瀬真白。

 間宮はその名前を見つめた。

 紙に書かれた文字たちは、まだ消えていない。

 まだ。

     *

 給食室には、十三人分の白いシチューが並んでいた。

 昨日と同じように、調理台の上に皿とスプーン、牛乳、パンが整然と置かれている。湯気が上がり、クリーム色の表面には小さな油の膜が浮いていた。具材は、鶏肉、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ。どれも普通の給食にしか見えない。

 だが、普通であることが異常だった。

 停電した山奥の中学校。通信は途絶え、道路は崩れ、調理員はいない。そんな場所で、白いシチューだけが温かく用意されている。

 高瀬が座席を指示した。

 給食室の隣にあるランチルームに、全員が集められる。普段は全校生徒が一緒に給食を食べる場所だ。木製の長机が並び、壁には「よく噛んで食べよう」「残さず食べよう」という掲示物が貼られている。

 その標語すら、今は脅迫文のように見えた。

「全員、少量ずつ食べる」

 高瀬が言った。

「無理に完食する必要はない。ただし、口をつける。飲み込む量は最小限でいい」

「食べたふりじゃ駄目ですか」

 芦原が言う。

「それで欠食扱いになる可能性がある」

「飲み込んだかどうか、どうやって分かるんだよ」

 葛葉が天井を見上げる。

「この学校なら分かりそうなのが嫌ですね」

 白瀬は席に着いた。

 目の前に、白いシチューが置かれる。

 彼女の手は、スプーンを持ったまま動かなかった。

 間宮は隣に座る。

「無理に急がなくていい」

「先生は食べないんですか」

「俺は食べない」

「代理欠席者は?」

「教師は対象外かもしれない。昨日、俺も高瀬先生も落合先生も食べていないが、未食者にはならなかった」

「でも、今日からルールが変わっていたら?」

 白瀬の言う通りだった。

 間宮は答えに詰まる。

 落合が、全員の皿から少量ずつ別の容器に取っていた。あとで匂いや色の変化を確認するためだという。科学的な検査などできない。それでも、彼女は何かをせずにはいられないようだった。

 高瀬は時計を見る。

「十二時十五分になる」

 壁の時計は止まっているはずだった。

 停電で電池式の時計だけが動いている。秒針がやけに大きく聞こえた。

 十二時十四分五十秒。

 五十一秒。

 五十二秒。

 誰も動かない。

 五十五秒。

 白瀬がスプーンを持ち上げた。

 五十七秒。

 シチューを少しだけすくう。

 五十九秒。

「いただきます」

 白瀬はそう言って、口に入れた。

 全員が息を止める。

 白瀬は飲み込んだ。

 時計の針が、十二時十五分を指した。

 何も起こらなかった。

 少なくとも、その場では。

 張りつめていた空気が、少し緩む。芦原が乱暴にスプーンを握り、ごく少量を口に入れた。葛葉も同じようにする。野宮は泣きながら、白瀬に手を握ってもらい、ほんの少しだけシチューを舐めた。他の生徒たちも続く。

 間宮は食べなかった。

 高瀬も、落合も食べない。

 黒い献立表は、ランチルームの端に置かれていた。そこには何の文字も浮かばない。食べたと認められたのか、それとも次の段階を待っているのか。

 白瀬は、もう一口食べようとした。

 間宮はその手を止める。

「もういい」

「でも」

「最低限でいい」

 白瀬は頷き、スプーンを置いた。

 その瞬間。

 彼女の名前を書いた模造紙が、多目的室のほうでばさりと落ちる音がした。

     *

 走って戻った。

 多目的室の床に、模造紙が落ちていた。

 壁に貼っていたガムテープが剥がれたわけではない。紙そのものが、濡れたように重くなって、床に貼りついている。

 間宮は膝をついた。

 さっきまで、そこには全員で書いた言葉があった。

 白瀬真白はここにいる。

 白瀬は真面目。

 真白ちゃんは、私の手を握ってくれた。

 白瀬真白。

 白瀬真白。

 白瀬真白。

 だが、今は違った。

 文字が滲んでいた。

 黒いインクが水を含んだように広がり、紙の上で潰れている。読める言葉もある。読めない言葉もある。特に「白瀬真白」の名前だけが、ところどころ欠けていた。

 白□真白。

 白瀬□□。

 □□真□。

 まるで、誰かが名前の部品を少しずつ摘み取っているようだった。

「嘘」

 野宮がしゃがみ込む。

「ちゃんと書いたのに」

 葛葉が別のノートを開いた。

「こっちも」

 そこには、生野周の名前を書いたページがあった。間宮が朝、生野の存在を記録するために書かせたものだ。

 生野周。

 窓際にいた。

 給食を食べなかった。

 食べるなと言った。

 その文字は、真っ黒に塗り潰されていた。

 インクで塗ったのではない。紙そのものが焦げたように黒くなっている。触ると、指先に粉のようなものがついた。

「記録も駄目か」

 間宮は呟いた。

「じゃあ、どうすんだよ」

 芦原が言う。

「書いても消される。覚えてても忘れる。食べなかったら消える。食べても名前削られる。無理ゲーだろ、こんなの」

「まだ全部消えたわけじゃない」

 葛葉が紙を睨む。

「白瀬の名前、少し残ってる。生野のページは全部真っ黒だけど、白瀬は欠けてるだけ」

「半分だけ消えかけてるってこと?」

「予定者だからかも」

 間宮は白瀬を見た。

 彼女は自分の名前が欠けた紙を見つめていた。

 顔色が悪い。

「白瀬、大丈夫か」

「……先生」

「どうした」

「私、自分の名前、変に見えます」

 間宮の胸が冷える。

「変って?」

「白瀬真白って書いてあるのは分かります。でも、見てると、これ本当に私の名前だっけって。文字が、遠いです」

「声に出せるか」

 白瀬は唇を動かした。

「しらせ、ましろ」

 言えた。

 間宮は安堵しかけた。

 だが次の瞬間、白瀬は眉を寄せた。

「……今、合ってました?」

「合ってる」

「よかった」

 彼女は笑おうとした。

 その笑顔は、崩れかけていた。

 落合が白瀬の脈を取る。

「少し速い。でも意識ははっきりしてる」

「名前に対する違和感以外は?」

「今のところは」

 白瀬は自分の胸に手を当てた。

「でも、変です。自分の中の何かが、少しずつ剥がれていく感じがします。痛くはないけど、怖い」

 野宮が泣きながら白瀬に抱きついた。

「やだ、真白ちゃん、消えないで」

「うん。消えないよ」

「本当に?」

「たぶん」

「たぶんじゃやだ」

「じゃあ、絶対」

 白瀬は野宮の背中を撫でた。

 その仕草は優しかった。

 だが間宮には、白瀬自身が自分の存在を確かめるために、誰かに触れているように見えた。

     *

 午後になると、雨はまた強くなった。

 校舎の外では、土砂がさらに崩れるような音が何度か聞こえた。高瀬と間宮は窓から県道の方角を確認しようとしたが、雨と霧で何も見えない。職員室の電話は相変わらずつながらず、携帯は圏外のままだった。

 救助は来ない。

 少なくとも、今日中には難しいかもしれない。

 その事実を、生徒たちも薄々感じ始めていた。

 間宮は、給食室のルールを書き出した。

 一、食べなかった者は翌朝、欠席扱いになる。

 二、給食を食べた者は、消えた者の記憶を失う可能性がある。

 三、欠席予定者は事前に黒い献立表に表示される。

 四、予定者は給食を食べても安全とは限らない。

 五、記録は改変、または消去される。

 六、少量摂取なら記憶の欠落が弱い可能性がある。

 葛葉がそれを見て言った。

「これ、ルールっていうより、給食室側の都合ですよね」

「都合?」

「こっちが勝つためのルールじゃない。向こうが私たちを処理するためのルール」

 処理。

 その言葉に、間宮は眉を寄せた。

 だが、否定できなかった。

 欠席扱い。

 欠食。

 代理欠席。

 学校の言葉を使って、人間の存在を削っていく。

「先生」

 葛葉は声を低くした。

「これって、誰かがやってるんですか」

「誰か?」

「たとえば、高瀬先生とか」

 間宮は反射的に周囲を見た。高瀬は職員室にいる。落合は白瀬と野宮のそばにいる。今の会話は聞こえていない。

「根拠は」

「昨日から、高瀬先生は変です。給食を食べさせようとした。献立表のことを隠そうとした。生野が消えても、すぐに状況を認めなかった」

「それは、生徒を混乱させないためだ」

「本当に?」

 葛葉の目は鋭かった。

「高瀬先生、この学校長いんですよね」

「ああ」

「なら、昔にも何かあったんじゃないですか」

「昔?」

「この学校、変です。生徒少ないのに、空き教室多すぎる。廊下の掲示物、古いまま残りすぎてる。卒業アルバムも、職員室の棚に鍵かけて置いてあった」

「卒業アルバム?」

「昨日、先生が出席簿を見てる時、職員室で見ました。十年前のやつだけ、棚の奥に押し込まれてた。なんか、隠してるみたいに」

 十年前。

 間宮は、その言葉に引っかかった。

「葛葉は、なぜそんなところを見ていた」

「気になるからです」

 彼女はさらりと言った。

「私、こういう時、気になるものは見ます」

「危ないことはするな」

「危ないことしか起きてないです」

 その返しに、間宮は何も言えなかった。

 葛葉は少しだけ視線を落とす。

「白瀬を消したくないんです。生野のこと、私はもうほとんど思い出せない。でも、消えたってことだけは分かる。それが嫌なんです。人が消えるのも嫌だけど、消えたことを忘れるのが、もっと嫌です」

 間宮は、葛葉の言葉を聞きながら、生野の顔を思い出そうとした。

 薄い輪郭。

 窓際。

 伏せた目。

 食べちゃ駄目です。

 まだ思い出せる。

 だが、朝より少しぼやけている気がした。

 自分は食べていない。それなのに。

 この校舎にいるだけで、何かが削られているのかもしれない。

「職員室へ行こう」

 間宮は言った。

「卒業アルバムを確認する」

「白瀬も連れて行きますか」

 葛葉が尋ねる。

 間宮は迷った。

 白瀬を多目的室に残すのも危険だ。かといって歩かせるのも負担になる。

 そのとき、白瀬が顔を上げた。

「私も行きます」

「聞こえていたのか」

「はい」

 白瀬は立ち上がった。

「自分のことかもしれないなら、知りたいです。何もしないで待ってるほうが怖い」

 落合が心配そうに眉を寄せる。

「無理はしないで。少しでも変だと思ったら言って」

「はい」

 野宮が白瀬の手を離さない。

「私も」

「野宮さんはここにいて」

「嫌です」

「彩葉ちゃん」

 白瀬が優しく言う。

「ここで、私の名前を見ていて。消えそうになったら、教えて」

 野宮は泣きそうになりながら頷いた。

「絶対、見てる」

「ありがとう」

 白瀬は野宮の手をそっと離した。

     *

 職員室は、昼間でも薄暗かった。

 窓の外は灰色で、机の上の書類は湿気を含んでいる。停電したパソコンの黒い画面に、間宮たちの顔がぼんやり映った。

 高瀬は職員室にいなかった。

 通信機器を確認すると言っていたが、どこかへ移動したらしい。

「棚はこっちです」

 葛葉が迷わず奥へ向かう。

「勝手に入ったのか」

「昨日、給食室が光ってた時、先生たちがそっちに行ったので」

「葛葉」

「怒るなら生きて帰ってからでお願いします」

 間宮はため息をつき、懐中電灯で棚を照らした。

 卒業アルバムは、年度ごとに並んでいた。

 五年前。六年前。七年前。

 そして、十年前のものだけが、確かに奥へ押し込まれていた。背表紙の文字は薄れている。名国町立堰代中学校 第六十三回卒業記念。

 間宮はそれを引き出した。

 表紙には埃が積もっていた。

 開くと、古い紙とインクの匂いがした。集合写真。運動会。文化祭。修学旅行。今よりもずっと生徒数が多い。廊下に貼られていた古い掲示物と同じ年代の写真だ。

 ページをめくる手が、なぜか少し震えた。

 三年二組。

 間宮はそのページで手を止めた。

 そこには、三十人近い生徒たちの顔写真が並んでいた。

 その中に、間宮灯真によく似た少年がいた。

「先生」

 白瀬が息を呑む。

 間宮は写真を凝視した。

 中学生くらいの男子。今より幼く、髪も短い。だが、目元や口元は自分に似ている。似ているどころではない。自分自身に見えた。

 だが、名前欄は黒く塗り潰されていた。

 隣の写真にも、白瀬真白によく似た少女が写っていた。

 白瀬より少し大人びているようにも、幼いようにも見える。髪型は違う。制服も古い。だが、顔立ちは驚くほど似ていた。

 その名前欄も、黒く塗り潰されている。

「これ、私……?」

 白瀬の声が震えた。

「いや、十年前だ。年齢が合わない」

「でも」

 彼女は自分の写真に似た少女を指でなぞる。

「私、この子のこと、知ってる気がします」

 葛葉がページを覗き込んだ。

「こっち、先生に似てる人。名前が消されてる」

「俺は、この学校の卒業生じゃない」

 間宮は言った。

「中学は別の町だった。履歴書にもそう書いている」

「記憶が本当なら、ですよね」

 葛葉の言葉に、職員室の空気が冷える。

「記録が消えるなら、記憶だって当てにならない」

「俺の記憶が改変されていると?」

「可能性の話です」

 間宮はアルバムを閉じようとした。

 だが、白瀬が止めた。

「待ってください」

 彼女はページの端を見ていた。

 集合写真の下。担任の名前が印刷されている。

 担任 高瀬静一。

 間宮は、その文字を見た。

 十年前。

 三年二組。

 高瀬静一。

 そして、黒く塗り潰された名前。

「高瀬先生は、知っている」

 葛葉が呟いた。

 そのとき、職員室の扉が開いた。

 高瀬が立っていた。

 濡れた傘を持っている。外の倉庫へ行っていたのか、肩が少し濡れていた。彼は間宮たちと、開かれた卒業アルバムを見比べた。

「何をしている」

 声が、低かった。

「高瀬先生」

 間宮はアルバムを持ち上げた。

「これは何ですか」

「古い卒業アルバムだ」

「この写真の名前が塗り潰されています。俺に似た生徒と、白瀬に似た生徒の名前が」

「偶然だ」

「担任はあなたです」

「十年前のことだ。生徒の顔など、全員覚えているわけではない」

 高瀬は近づき、アルバムを閉じようとした。

 葛葉がその手を遮る。

「本当に覚えてないんですか」

「葛葉。職員室の資料を勝手に見るのは――」

「今それ言います?」

 葛葉の声が鋭くなる。

「生野が消えました。白瀬の名前が消えかけてます。なのに先生はずっと、普通の学校みたいなことばっか言ってる」

「普通を保たなければ、集団は壊れる」

「もう壊れてます!」

 葛葉の声が職員室に響いた。

 白瀬が肩を震わせる。

 間宮は二人の間に入った。

「高瀬先生。十年前、この学校で何があったんですか」

 高瀬は答えない。

 その沈黙が、答えのようだった。

 やがて彼は、重く息を吐いた。

「今話すことではない」

「では、いつ話すんです」

「生徒たちを守ることが先だ」

「白瀬を守るために聞いています」

 高瀬の表情がわずかに歪んだ。

 白瀬の名前に反応したように見えた。

 その瞬間、遠くから悲鳴が聞こえた。

 多目的室の方角だった。

     *

 走って戻ると、野宮彩葉が模造紙の前で泣いていた。

 床に広げられた紙。

 白瀬真白の名前が、さらに欠けていた。

 白瀬真白はここにいる。

 その文字は、

 白□真□はここにいる。

 になっていた。

 芦原が顔を上げる。

「さっき、一気に消えた。俺たち、見てたのに」

「誰も触ってない」

 別の生徒が震える声で言う。

「文字が、勝手に溶けた」

 野宮が白瀬にしがみつく。

「真白ちゃん、名前言って。早く」

 白瀬は口を開いた。

「しらせ、ましろ」

 言えた。

 だが、少しだけ間があった。

 ほんの一秒にも満たない間。

 それでも間宮には分かった。

 彼女は、自分の名前を探していた。

「白瀬」

 間宮は膝をつき、彼女と目を合わせる。

「俺の名前は?」

「間宮先生」

「君の名前は?」

「白瀬真白」

「葛葉は?」

「葛葉莉央」

「野宮は?」

「野宮彩葉」

「生野は?」

 白瀬の目が揺れた。

「……生野、周」

 まだ言える。

 間宮は安堵した。

 だが次の瞬間、白瀬は不思議そうに首を傾げた。

「生野くんって、誰でしたっけ」

 多目的室が静まり返った。

 間宮は、言葉を失った。

 葛葉が唇を噛む。

「白瀬まで……」

「ごめんなさい」

 白瀬は混乱したように言う。

「名前は分かるんです。でも、誰か分からない。私、知ってたはずなのに」

 落合が彼女を支える。

「座って。ゆっくり呼吸して」

 白瀬は座った。

 その表情に、疲労が濃く出ている。

 間宮は拳を握った。

 給食を食べたことで、白瀬の中から何かが削られた。自分の名前だけではない。消えた者の記憶も、さらに遠ざかっている。

 そして記録も守れない。

 紙に書いた言葉は滲む。名前は欠ける。アルバムは黒く塗り潰される。

 何なら残せる。

 何なら、この学校に奪われない。

 葛葉が呟いた。

「紙じゃ駄目なら、身体は?」

「身体?」

「手に書くとか。皮膚に」

 芦原が顔をしかめる。

「油性ペンでも消えるんじゃねえの」

「消えるか試せばいい」

 葛葉は自分の手の甲にペンで書いた。

 白瀬真白。

「おい」

「私で試す」

 文字は消えなかった。

 少なくとも、その場では。

 それを見て、野宮も自分の腕に書いた。芦原も、乱暴な字で手首に書いた。白瀬真白。生野周。忘れるな。

 間宮はペンを取った。

 自分の掌に、強く書く。

 白瀬真白。

 生野周。

 そして、その下に。

 十年前。

 高瀬静一。

 黒い卒業アルバム。

 書き終えた瞬間、掌が熱を持ったように痛んだ。

 間宮はペンを置き、爪を立てた。

 文字だけでは足りない。

 痛みごと覚える。

 白瀬真白。

 生野周。

 消されてたまるか。

     *

 夜。

 雨は弱まっていた。

 だが、校舎の中の闇は濃くなっていた。停電は続き、懐中電灯の電池も心許なくなっている。生徒たちは多目的室で固まり、落合が体調を確認して回っていた。

 高瀬は一言も話さなかった。

 職員室から戻って以来、彼は窓際に立ち、外を見ている。十年前のことを問いただしても、今は話せないの一点張りだった。

 間宮は、もう一度職員室へ行く決意をした。

 卒業アルバムの写真を詳しく調べる。黒く塗り潰された名前欄の下に、何か痕跡が残っているかもしれない。職員会議録や事故報告書も探す必要がある。

 白瀬が立ち上がった。

「私も行きます」

「休んでいたほうがいい」

「ここにいると、自分が薄くなっていく感じがします。動いていたいです」

 その言葉を否定できなかった。

 葛葉も当然のように立つ。

「私も」

 高瀬が振り返る。

「駄目だ。夜の校内を歩くな」

「じゃあ先生も来てください」

 葛葉が言う。

 高瀬は黙った。

 結局、間宮、白瀬、葛葉の三人で職員室へ向かうことになった。落合は多目的室に残り、高瀬はしばらく迷った末、廊下の途中までついてくると言った。

 廊下は、昼よりも冷えていた。

 雨の湿気と、古い木材の匂い。遠くで水が滴る音。自分たちの足音だけが、やけに大きく響く。

 白瀬は間宮の少し後ろを歩いていた。

「先生」

「どうした」

「私、前にもこの廊下を歩いたことがある気がします」

「この学校の生徒なんだから、あるだろう」

「そうじゃなくて」

 白瀬は廊下の奥を見た。

「もっと昔。今より、校舎が明るくて、生徒がたくさんいて。給食の匂いがして。誰かが泣いていて」

 葛葉が足を止める。

「白瀬?」

「分からない。でも、職員室のアルバムを見てから、変なんです。あの写真の女の子、私じゃないのに、私の中にいるみたいで」

 間宮の掌が疼いた。

 十年前。

 自分に似た少年。

 白瀬に似た少女。

 黒く塗られた名前。

 高瀬は何かを知っている。

 職員室に入ると、空気がさらに冷たかった。

 懐中電灯で棚を照らす。アルバムは、さっき机の上に置いたはずだった。

 だが、ない。

「アルバムがない」

 間宮は机の下、棚の奥を確認する。

 ない。

 葛葉が舌打ちした。

「高瀬先生?」

 廊下にいたはずの高瀬の姿もなかった。

 白瀬が、職員室の奥を見つめる。

「先生」

「どうした」

「あれ」

 彼女が指したのは、壁際の古い書庫だった。

 普段は鍵がかかっているはずのスチール棚。その扉が、少しだけ開いている。

 間宮は近づいた。

 中には、古い資料が詰め込まれている。学校沿革、行事記録、防災訓練計画、給食会計簿。

 そして、一冊の薄いファイル。

 表紙には、手書きでこう書かれていた。

 平成二十八年度 臨時休校関係資料。

 間宮はファイルを開いた。

 中には、新聞記事の切り抜きが入っていた。

 大雪で山間部の中学校が一時孤立。

 生徒十二名、教員二名が校内待機。

 体調不良者一名搬送。

 記事はそこで切れている。

 次のページには、職員会議のメモがあった。

 欠席扱いで処理。

 保護者説明は高瀬が担当。

 記録から削除。

 間宮は息を呑んだ。

「記録から削除……」

 葛葉が震える声で読む。

「これ、何ですか」

 白瀬は、さらに奥の紙を引き出した。

 それは集合写真のコピーだった。

 三年二組。

 黒く塗り潰された名前欄。

 だが、コピーの裏に、薄い鉛筆書きがあった。

 間宮灯真。

 葛葉透。

 白瀬が、鉛筆書きの名前を見た瞬間、ふらりと揺れた。

「白瀬!」

 間宮が支える。

 彼女の唇が震えている。

「先生」

「大丈夫か」

「私、たぶん……この人を知ってます」

「葛葉透?」

 葛葉莉央の顔色が変わった。

「葛葉?」

 白瀬はゆっくり頷いた。

「名前を見たら、胸が痛くなりました。私じゃないのに、私の中の誰かが、泣いてる」

 葛葉莉央は、白瀬の手からコピーを奪うように取った。

 葛葉透。

 その名前を、彼女は食い入るように見つめる。

「……透」

 声が掠れていた。

「葛葉、知ってるのか」

 間宮が尋ねる。

 葛葉は答えなかった。

 そのとき、職員室のスピーカーから、ざらりとノイズが流れた。

 停電しているはずの放送設備。

 そこから、子どもの声がした。

『給食当番は、準備をしてください』

 間宮たちは凍りついた。

『明日の欠席予定者は、変更されません』

 ノイズ混じりの声は、淡々としていた。

『白瀬真白は、半欠席となります』

 白瀬の身体が震えた。

 間宮は彼女を支える腕に力を込める。

 放送は、まだ続いた。

『名前を提出してください』

 職員室の扉が、ひとりでに開いた。

 廊下の先。

 給食室の方角から、白い光が漏れている。

 その光の中で、誰かが立っていた。

 白い給食着。

 白い帽子。

 顔は見えない。

 小さな手に、銀色のトングを持っている。

 間宮は、声を出せなかった。

 その給食当番は、こちらを見ているようだった。

 そして、ひどく懐かしい声で言った。

「先生、私たち、前にもここにいたんじゃないですか」

     *

 翌朝。

 白瀬真白の席は、残っていた。

 彼女も、生きていた。

 多目的室で目を覚ました白瀬は、自分の身体を確かめ、震える息を吐いた。野宮が泣きながら抱きつき、芦原が安堵のあまり床に座り込む。葛葉は何も言わなかったが、壁にもたれて目を閉じた。

 間宮も、胸を撫で下ろしかけた。

 だが、すぐに異変に気づいた。

「白瀬」

 彼が名前を呼ぶと、芦原が不思議そうな顔をした。

「先生、誰を呼んでるんですか」

 間宮は振り返る。

「誰って、白瀬だ」

「しらせ?」

 芦原は首を傾げた。

「何それ。あいつの名前?」

 あいつ。

 芦原は、白瀬の顔を見ていた。

 顔は分かっている。そこにいる女子生徒として認識している。だが、名前だけが結びついていない。

 野宮も混乱していた。

「真白ちゃん……真白、ちゃん? あれ、私、今、何て」

 彼女は自分の口を押さえる。

 葛葉が白瀬を見て、唇を動かした。

「……」

 声が出ない。

 彼女はもう一度、言おうとする。

「し……」

 舌が止まる。

 葛葉莉央ですら、白瀬真白の名前を呼べなくなっていた。

 間宮は自分の掌を見た。

 油性ペンで書いた文字。

 白瀬真白。

 そのうち、「瀬」の字だけが、薄く滲んでいた。

 まだ読める。

 まだ、読める。

 白瀬本人は、自分の名前を口にしようとした。

「私は……」

 彼女は息を吸う。

「しら……」

 声が途切れる。

 白瀬は目を見開いた。

「先生」

 その顔から、血の気が引いていく。

「私、自分の名前が、言えません」

 間宮は、給食室へ走った。

 黒い献立表は、すでに調理台の上に置かれていた。

 白い文字が浮かび上がっている。

 白瀬真白は、半欠席となりました。

 名前は残る。

 顔も残る。

 声も残る。

 けれど、誰もその名を呼べない。

 間宮は黒い献立表を握り潰そうとした。

 だが紙はびくともしなかった。

 給食室の奥から、かちゃん、と皿の音がした。

 明日の準備が始まっている。

 間宮は、掌に爪を立てた。

 白瀬真白。

 白瀬真白。

 白瀬真白。

 痛みだけが、まだ彼女の名前をこの世界に繋ぎ止めていた。


第3章 半欠席の少女

 白瀬真白の名前を、誰も呼べなくなった。

 それは、彼女が消えたということではなかった。

 白瀬は、そこにいる。

 多目的室の窓際に座り、毛布を肩にかけ、両手で紙コップを包んでいる。顔も見える。声も聞こえる。誰かが話しかければ、彼女はちゃんと返事をする。息もしているし、触れれば体温もある。昨日までと同じ制服を着て、昨日までと同じように、不安そうに周囲を見ている。

 けれど、名前だけが消えていた。

「し……」

 葛葉莉央は、何度目か分からない挑戦をした。

 唇が動く。舌が上顎に触れる。喉から息が漏れる。

 だが、その先に進まない。

「し、ろ……いや、違う。違うのは分かるのに」

 葛葉は自分の喉を押さえた。苛立ちと恐怖で、目が赤くなっている。

 芦原海都は、白瀬のほうを見ながら頭を掻いた。

「顔は分かるんだよ。お前がいるのは分かる。さっきからそこに座ってるのも分かる。でも、名前って言われると、なんか、口の中で溶ける」

「溶ける?」

 間宮灯真が聞き返す。

「そう。言おうとすると、別の言葉になる。あいつ、とか、そこの、とか……名前だけ出てこない」

「真白ちゃんだよ」

 野宮彩葉が泣きながら言った。

 だが、その声は途中で不自然に途切れた。

「まし……ま……あれ? 私、今、言えた?」

 彼女は自分の口に手を当てた。

 白瀬が、痛みに耐えるような顔で微笑む。

「大丈夫。言えてないけど、言おうとしてくれたのは分かるから」

「やだ、そんなの」

 野宮は白瀬にしがみついた。

「名前呼べないのに、友達って言えるの? やだよ、こんなの」

 白瀬は答えなかった。

 答えられなかったのかもしれない。

 間宮は、掌を見た。

 昨日、油性ペンで書いた文字が残っている。

 白瀬真白。

 生野周。

 十年前。

 高瀬静一。

 黒い卒業アルバム。

 だが、白瀬真白の「瀬」の字だけが、薄く滲んでいた。完全には消えていない。読める。読めるのに、間宮も彼女の名前を声に出すことができない。

「しら……」

 彼は、ゆっくり発音しようとした。

 舌が止まる。

 喉の奥に見えない蓋をされたようだった。名前の形は頭の中にある。文字も分かる。目の前の少女と、その文字が結びついていることも理解している。なのに、音にできない。

 ひどく不快だった。

 忘れたのではない。

 奪われたのだ。

「先生も、呼べないんですね」

 白瀬が言った。

「ああ」

 間宮は正直に答えた。

「でも、名前は覚えている。ここに書いてある。君は――」

 そこで言葉が詰まった。

 白瀬は、少しだけ目を伏せた。

「無理しなくていいです。言おうとしてもらうたびに、自分が削られてるみたいで、少し怖いから」

「すまない」

「謝らないでください」

 彼女は小さく首を振った。

「先生が悪いわけじゃないです」

 その言葉を聞いた瞬間、間宮は胸の奥に鈍い痛みを覚えた。

 先生が悪いわけじゃない。

 本当にそうなのか。

 昨日、職員室で見つけた十年前の卒業アルバム。黒く塗り潰された名前。自分によく似た少年。白瀬に似た少女。担任の欄に記されていた高瀬静一。そして、ファイルに残されていた「欠席扱いで処理」「記録から削除」という文字。

 あれは何だ。

 なぜ、自分によく似た少年が、十年前のこの学校に写っていた。

 なぜ、その名前が黒く塗り潰されていた。

 間宮灯真。

 自分はこの学校の卒業生ではない。

 そう記憶している。

 だが、記憶はもう信用できない。

 この校舎は、名前を奪う。記録を消す。人がいた証拠を、学校の言葉で処理する。

 ならば、間宮自身の過去も、すでに何かに処理されているのではないか。

「間宮先生」

 落合静が静かに声をかけた。

 彼女は白瀬の体温を測っていた。懐中電灯の光の中で、体温計の表示を確認する。

「熱はありません。脈は少し速いですが、昨日より悪化しているわけではなさそうです。ただ……」

「ただ?」

「本人確認の一部が抜けているように見えます」

「本人確認?」

 落合は言葉を選ぶように続けた。

「医学的な説明ではありません。あくまで印象です。名前は、自分と他人を結びつけるものです。白瀬さんは自分自身のことを認識している。でも、周りが名前を呼べない。本人も、発音しようとすると詰まる。つまり、身体や人格は残っているのに、社会的な識別だけが削られている」

 葛葉が低く呟いた。

「半欠席」

 全員が彼女を見る。

「黒い献立表にそう書かれてましたよね。完全に欠席じゃない。半分だけ欠席」

「半分って、何が半分なんだよ」

 芦原が苛立ったように言う。

「存在?」

「名前です」

 葛葉は即答した。

「生野は完全に欠席になった。名前も顔も席も荷物も消えた。でも白瀬は、身体は残ってる。顔も残ってる。声も残ってる。消えたのは名前だけ。だから、半欠席」

 白瀬が小さく息を呑んだ。

 葛葉は続ける。

「たぶん、給食室は一気に消すだけじゃない。名前、記憶、役割、身体。段階的に奪うことができる。白瀬はその途中なんだと思います」

「役割って何だよ」

 芦原が聞く。

「たとえば、クラスメイトだったこと。友達だったこと。誰かの娘だったこと。出席番号。部活。係。そういう、その人がここにいる理由」

 葛葉の声は冷静だった。

 冷静すぎるほどだった。

「名前が消えた次は、そういうものが消えるのかもしれない」

 野宮が白瀬の腕にしがみつく力を強めた。

「やだ」

「私も嫌だよ」

 白瀬は微笑もうとしたが、唇が震えた。

「でも、分かったほうが、まだ戦える」

 その言葉に、間宮は顔を上げた。

 白瀬は、泣いていなかった。

 消えかけている少女が、泣いていない。

「私、ただ待ってるのは嫌です。名前が呼べなくても、まだここにいるなら、できることをしたいです」

 間宮は頷いた。

「分かった」

 彼は出席簿を開いた。

 白瀬の欄は、空白になっていた。

 昨日までは、そこに確かに彼女の名前があった。いや、あったはずだ。今は、罫線だけが残っている。出席番号も抜けている。白瀬が座っているのに、名簿上では、彼女は最初から在籍していないことになっている。

 間宮は、その空白を見つめた。

「紙の記録は駄目だ。手に書いても薄くなる。記録媒体は全部、書き換えられる可能性がある」

「じゃあ、何なら残るんですか」

 芦原が言う。

「痛み」

 葛葉が言った。

 間宮は彼女を見た。

 葛葉は、自分の手の甲に書いた白瀬の名前を爪でなぞっていた。皮膚が赤くなっている。

「先生も昨日、爪立ててましたよね。痛みと一緒なら、少し残るかもしれない」

「自傷みたいなことは駄目だ」

 落合がすぐに言った。

「でも、覚える方法は必要です」

「痛めつける以外にもある。声に出せないなら、リズムで覚える。手拍子、合図、仕草。名前そのものじゃなくても、その人と結びつくものを増やす」

「名前じゃない記号?」

 葛葉が言う。

「そう。名前が奪われても、関係までは簡単に奪えないかもしれない」

 間宮は白瀬を見る。

「君が君だと分かるものを、名前以外で残す。声。癖。好きなもの。嫌いなもの。誰と何をしたか。紙が消えるなら、全員で何度も口に出す。名前は呼べなくても、事実を積み上げる」

「事実も消されたら?」

「その時は、また別の方法を探す」

 白瀬はしばらく間宮を見つめた。

 やがて、小さく頷いた。

「私は、にんじんが苦手です」

 突然の言葉に、芦原が目を瞬かせる。

「は?」

「昨日の白いシチューにも入ってました。小さい頃から、煮たにんじんが苦手です。でも給食だと残しにくいから、いつも最初に食べます」

 野宮が泣きながら笑った。

「うん。そう。真……その子、いつも先ににんじん食べる」

 名前は呼べない。

 でも、彼女の癖は言える。

 葛葉が続けた。

「字がきれい。授業ノートが異常に読みやすい。あと、怒る時に声が低くなる」

「そんなことない」

 白瀬が少しだけ頬を赤くする。

「あるよ。芦原が掃除サボった時、めちゃくちゃ低い声で『芦原くん』って言ってた」

「怖かった、あれ」

 芦原がぼそりと言う。

 白瀬が目を丸くした。

「覚えてるの?」

「名前は無理。でも、それは覚えてる。掃除サボったら、お前に怒られた」

 芦原は、自分でも驚いたように言った。

「そういうのは、残ってるんだな」

 間宮はメモを取ろうとして、手を止めた。

 紙は消える。

 だが、それでも書く。

 消えるまでの時間を測る。どの情報が残りやすいか確かめる。名前は消えやすい。癖や出来事は残りやすいかもしれない。

 その時だった。

 給食室の方角から、金属音が聞こえた。

 かちゃん。

 全員が黙る。

 かちゃん。

 今度は、皿が重なる音ではなかった。

 何かが、開く音。

 古い金属の扉が、ゆっくり動くような音だった。

     *

 給食室の奥に、配膳用エレベーターがあった。

 それは、昨日まではなかったはずのものだった。

 いや、正確には、壁に埋め込まれた古い設備として存在していたのかもしれない。だが、間宮は一度も意識したことがなかった。調理台の奥、食器棚の隣。ステンレス製の小さな扉が、黒い口のように開いている。

 配膳用の小型リフト。

 昔、校舎の階上へ給食を運ぶために使われていたのだろう。だが堰代中では、少なくとも今は使われていない。ランチルームで全校生徒が食べるからだ。

 扉の内側には、暗い縦穴があった。

 間宮は懐中電灯を向けた。

 光は途中で吸い込まれるように消える。

「下に続いてる」

 葛葉が言った。

「地下ってことですか」

 白瀬が間宮の背後から覗き込む。

「この校舎に地下室はないはずだ」

 高瀬静一が低い声で言った。

 彼はいつの間にか給食室の入口に立っていた。顔色が悪い。昨日からほとんど眠っていないはずだが、それ以上に、何か見てはいけないものを見てしまった人間の表情だった。

「高瀬先生、この設備を知っていますか」

 間宮が尋ねる。

「昔の配膳用リフトだ。だが、もう使われていない。下に空間などない」

「では、この下は?」

「配管スペースだろう。人が入れる場所ではない」

 葛葉が、開いた扉の縁を指でなぞる。

「でも、風が上がってきます」

 間宮も気づいていた。

 縦穴の奥から、冷たい空気が流れている。

 それは地下室の空気だった。

 湿っていて、古くて、牛乳をこぼした雑巾のような、甘く腐った匂いを含んでいる。

 落合静が首を振った。

「入るのは危険です。構造も分からない。崩れているかもしれない」

「でも、音はここからしました」

 葛葉が言う。

「それに、この中に何かあるかもしれない」

「夜まで待つ必要はない」

 間宮は言った。

「今、確認する」

「駄目だ」

 高瀬の声が飛んだ。

 全員が彼を見る。

「危険だと言っている。県道が崩れ、校舎も地盤が緩んでいる。そんな場所に入ることは許可できない」

「許可の問題ですか」

 間宮は静かに聞いた。

「生徒の命がかかっている」

「だからこそだ。これ以上、不確かなものに触れるな。給食室のルールを刺激するような真似は避けるべきだ」

「刺激?」

 葛葉が目を細める。

「高瀬先生、まるで相手がいるみたいに言いますね」

 高瀬は口を閉じた。

 落合が間に入る。

「今は争わないでください。地下を調べるにしても、準備が必要です。ロープ、懐中電灯、救急用品。それに、生徒全員をどうするかも考えないと」

 もっともだった。

 小型リフトは、人が入るには狭い。だが、縦穴の横に点検用の梯子がついているのが見えた。大人でも、体を横にすれば降りられるかもしれない。危険は大きい。

 間宮は判断を保留した。

「夕方までに準備する。夜、降りる」

「間宮先生」

 高瀬が低く言う。

「これは命令だ。降りるな」

「理由を説明してください」

「危険だからだ」

「それだけでは納得できません」

「若い教師の正義感で、生徒を危険に晒すな」

 間宮の中で、何かが熱くなった。

「では、何もしないんですか」

「給食の時間に従い、救助を待つ」

「従って白瀬は半欠席になった。生野は消えた」

「他に方法がない」

「方法を探すために降りるんです」

 高瀬は、しばらく間宮を睨んだ。

 だが最後には、視線を逸らした。

「後悔するぞ」

 それだけ言い残し、彼は給食室を出て行った。

 後悔。

 間宮は、その言葉の重さを感じた。

 高瀬は知っている。

 十年前、何かがあった。

 そしてその何かは、この給食室の地下と関係している。

     *

 その日の昼、黒い献立表には、新たな文字が浮かんだ。

 本日の献立:赤いミートソース。

 欠席予定者:芦原海都。

 芦原は、それを見た瞬間、笑った。

「は?」

 笑ったというより、喉が勝手にそういう音を出したようだった。

「いや、嘘だろ。次、俺?」

 誰も答えなかった。

 給食室の調理台には、赤いミートソーススパゲッティが十三人分並んでいた。濃いトマトの匂いがする。湯気の上がる赤いソースは、昨日の白いシチューよりもずっと生々しく見えた。

「何で俺なんだよ」

 芦原は献立表に近づいた。

「なあ。何で俺? 俺、昨日も今日も食ったじゃん。ちゃんとルール守っただろ」

 黒い紙は答えない。

「ふざけんなよ!」

 芦原は献立表を掴もうとした。

 間宮が止めるより早く、彼の指が黒い紙に触れた。

 じゅ、と嫌な音がした。

「っ!」

 芦原が手を引っ込める。

 指先が赤くなっていた。火傷のように皮膚が腫れている。

「触るな」

 間宮は芦原の手を取り、落合に見せた。

 落合が冷水で冷やし、ハンカチを巻く。

「深くはない。でも、痛むでしょう」

「痛えよ、普通に」

 芦原は顔を歪めた。

 だが、本当に痛いのは指先ではないのだろう。

 自分の名前が黒い献立表に載った。

 それだけで、人はこんな顔になるのかと間宮は思った。

 白瀬の時もそうだった。

 名前を書かれることは、殺されることに似ている。

 いや、この学校では、それ以上かもしれない。

 死ぬだけなら、誰かが覚えている。

 欠席扱いは、死んだことすらなかったことにされる。

「芦原」

 間宮は彼の肩に手を置いた。

「まだ決まったわけじゃない」

「それ、白瀬の時も言ってましたよね」

 芦原は苦笑した。

「で、どうなりました? あいつ、名前呼べなくなってるじゃん」

 白瀬が視線を落とした。

「ごめん」

 芦原は慌てて言う。

「あ、違う。お前を責めてるわけじゃない。ごめん。俺、マジで余裕ない」

「分かってる」

 白瀬は答えた。

 名前は呼べないのに、会話はできる。

 その不自然さが、かえって痛々しかった。

「芦原くん」

 野宮が泣きそうな声で言う。

「消えないよね」

「消えねえよ」

 芦原は即答した。

「俺、そんな簡単に消えねえし」

 強がりだった。

 誰が聞いても分かる強がり。

 それでも、その場にいた生徒たちは少しだけ救われた顔をした。芦原は普段からそういう役割だったのだろう。空気が重くなれば冗談を言い、誰かが泣けば茶化し、教師に怒られても笑う。中心人物。ムードメーカー。

 だが、中心にいる者ほど、消える時は大きな穴を残す。

 そして給食室は、その穴さえ埋めてしまう。

 昼食前、間宮は全員に確認した。

「今回は全員、可能な限り少量にする。食べる前に、芦原について覚えていることを言う。紙にも書く。皮膚にも書く。声にも出す。名前が奪われても、芦原がいた事実を残す」

「俺、死ぬ前の人みたいじゃん」

 芦原が笑う。

「死なせないためだ」

 間宮は言った。

 芦原は笑みを消し、少しだけ俯いた。

「先生、そういうの、ずりいよな」

「何がだ」

「信じたくなるじゃん」

 間宮は何も言えなかった。

 信じさせたい。

 だが、守れる保証はない。

 それでも教師は、信じろと言わなければならない時がある。

 赤いミートソースを前にして、生徒たちは芦原について語り始めた。

「芦原くんは、授業中にシャーペン回すのがうるさい」

 白瀬が言った。

「おい、それ最初に言うこと?」

「でも覚えてる」

「まあ、そうだけど」

 葛葉が続ける。

「空気を読んでないようで、意外と読んでる。誰かが泣きそうになると、わざと馬鹿なことを言う」

「褒めてんの、それ」

「たぶん」

 野宮は涙を拭いた。

「芦原くんは、体育祭の時、私が転んだら戻ってきてくれた」

「え、そうだっけ」

「そうだよ。リレーで負けるのに、戻ってきてくれた」

「覚えてねえ」

「私は覚えてる」

 芦原は、困ったように目を逸らした。

 他の生徒たちも続けた。

 掃除をサボる。

 でも重い荷物は持ってくれる。

 字が雑。

 声が大きい。

 給食のパンをよく二個食べる。

 怖い話が苦手。

 妹がいる。

 将来は町を出たいと言っていた。

 芦原は最初、茶化そうとしていた。

 だが、途中から黙った。

 自分という人間が、他人の言葉で積み上げられていく。その奇妙な時間の中で、彼は何度も目を瞬かせた。泣くのをこらえているのだと、間宮には分かった。

「俺も言っていい?」

 芦原が言った。

「自分のこと」

「もちろん」

 間宮が頷く。

 芦原は少し考えた。

「好きな曲は、最近よく流れてるやつ。タイトル忘れた。嫌いな野菜はピーマン。初恋は……言わなきゃ駄目?」

「言わなくていい」

 葛葉が言う。

「いや、言っとく。小四の時の、隣の席の子。名前は言わない。将来は、町を出たい。東京とか行ってみたい。別に何になりたいとかないけど、この山しか知らないまま終わるのは嫌だ」

 彼はそこで一度、言葉を切った。

「あと、消えたくない」

 多目的室が静かになる。

「俺、忘れられたくない。別にすげえ奴じゃないし、たぶん大人になっても普通の奴だけど、最初からいなかったことにされるのは嫌だ」

 その言葉に、白瀬が強く頷いた。

「分かる」

 名前を呼べない少女が、そう言った。

「私も、それが一番怖い」

 間宮は、二人を見ていた。

 この作品の、この学校の恐怖の芯が、そこにあると思った。

 死ではない。

 忘却だ。

 人が人として扱われず、記録の都合で空白にされること。

 それが、この給食室の本質なのだ。

     *

 昼食後、文字はまた滲んだ。

 今度は、紙だけではなかった。

 芦原の名前を書いた模造紙の文字が赤く滲んだ。ミートソースの色に似ていた。白い紙の上で、芦原海都の「海」の字が崩れ、「都」の点が流れた。

 皮膚に書いた文字も薄くなった。

 葛葉の手の甲に書かれた「芦原海都」は、夕方には「芦原海□」になっていた。野宮の腕に書いた文字は、汗をかいたわけでもないのに、赤茶色にぼやけている。

 だが、完全には消えない。

 生野周の時より、消え方が遅い。

 白瀬の時とも違う。

「予定者ごとに、奪われ方が違うのかもしれない」

 葛葉が言った。

「白瀬は名前。芦原は……何だろう」

「役割?」

 間宮は芦原を見た。

 芦原は、昼食後から妙に静かだった。

 さっきまで冗談を言っていた彼が、ほとんど話さない。呼びかければ返事はする。自分が芦原海都であることも言える。だが、場を明るくしようとしない。

 中心人物としての役割が、削られ始めているのかもしれない。

 夕方になると、その異変ははっきりした。

 生徒たちが不安でざわついているのに、誰も芦原を見ない。

 これまでなら、何かあれば自然と彼に視線が集まっていた。芦原が笑えば、少し空気が緩んだ。芦原が声を上げれば、誰かが反応した。

 だが今は違う。

 彼がそこにいるのに、集団の中心から外れている。

 最初から、そういう役割ではなかったかのように。

「なあ」

 芦原が、ぽつりと言った。

「俺、こんなに喋らない奴だったっけ」

 誰もすぐには答えられなかった。

 葛葉が言う。

「うるさい奴だったよ」

「だよな」

「今も十分うるさい」

「それは嘘だろ」

 芦原は笑った。

 だが、その笑いは弱かった。

「なんか、変なんだよ。何か言わなきゃって思うんだけど、何言えばいいか分かんない。前の俺なら、こういう時、もっと適当に喋ってた気がする」

「給食室が奪ってるのかもしれない」

 白瀬が言った。

 彼女は芦原の正面に座っていた。

「私の名前みたいに、芦原くんの何かを」

「俺の何を?」

「みんなの中での場所」

 芦原は黙った。

「それ、きついな」

「うん」

「名前消えるのもきついけど、場所消えるのもきつい」

 白瀬は頷いた。

 名前を奪われた少女と、役割を奪われかけている少年。

 二人が向き合っている。

 その光景を見ながら、間宮は給食室の悪意を感じていた。

 これは、ただ人間を消すだけではない。

 その人間が、その場にいた意味を分解している。

 名前。

 記憶。

 役割。

 身体。

 葛葉の推測は正しい。

 そして、もしその順番なら。

 最後には、身体も奪われる。

     *

 夜、地下へ降りる準備をした。

 間宮は職員室と防災倉庫から、ロープ、懐中電灯、軍手、救急セット、古いヘルメットを集めた。落合が簡易的な応急処置用品を袋に入れる。葛葉は当然のようについてくるつもりでいた。

「駄目だ」

 間宮は言った。

「生徒を連れて行けない」

「でも白瀬は行くんですよね」

「白瀬も駄目だ」

 白瀬が顔を上げる。

「先生」

「危険すぎる」

「私、半欠席です」

 その言葉に、間宮は黙った。

「給食室に近づいてるのかもしれない。だったら、私が行ったほうが見えるものがあるかもしれません」

「それでも危険だ」

「ここにいても危険です」

 白瀬の声は静かだった。

「先生、私、名前が呼ばれなくなってから、給食室の音が前より聞こえるんです。さっきから、地下で誰かが食器を並べてる音がします。たぶん、私だけじゃない。あそこに何かあります」

 葛葉が頷いた。

「私も行きます。白瀬だけ行かせるなら、絶対ついていきます」

「葛葉」

「止めても行きます」

 間宮は頭を抱えたくなった。

 教師としては、絶対に連れて行くべきではない。

 だが、彼女たちを閉じ込めておくこともできない。鍵をかけても、この校舎の中で安全な場所などない。むしろ、彼女たちはすでに怪異の中心に近い場所にいる。

 落合が小さく言った。

「私も同行します」

「落合先生まで」

「大人が一人では危険です。それに、白瀬さんの体調を見る必要があります」

 高瀬は、入口で黙って聞いていた。

「私は反対だ」

「分かっています」

 間宮は答えた。

「それでも降ります」

「なら、私は多目的室に残る。ほかの生徒たちを見ている」

 高瀬の声は硬かった。

 間宮は、彼が同行しないことに少し安堵した。

 同時に、疑念も深まった。

 高瀬は地下に何があるか知っているのではないか。

 だから降りたくないのではないか。

 夜九時。

 給食室の明かりは消えていた。

 だが、配膳用エレベーターの扉だけが開いていた。

 縦穴の中から、冷たい空気が上がってくる。間宮はロープを固定し、梯子の強度を確かめた。古いが、すぐに壊れる感じではない。

「俺が先に降りる。次に落合先生。白瀬、葛葉の順だ。無理だと思ったらすぐ戻る」

「はい」

 白瀬が頷く。

 葛葉は軍手をはめ直した。

「行きましょう」

 間宮は縦穴に身体を入れた。

 狭い。

 肩が金属の壁に擦れる。梯子は冷たく、湿っていた。下から、古い牛乳のような匂いが濃く上がってくる。懐中電灯を口にくわえ、一段ずつ降りる。

 十段。

 二十段。

 校舎の構造から考えると、もう一階の床下に着いているはずだ。だが梯子は続いている。

 三十段。

 四十段。

 やがて、足が床に触れた。

 そこは、地下室だった。

 広い。

 間宮は懐中電灯を掲げた。

 光の輪の中に、古い調理台が浮かび上がる。錆びた寸胴鍋。積み上げられた食器。壁際に並ぶロッカー。床には、乾いた水垢のような白い跡が広がっている。

 古い給食センター。

 そんな言葉が頭に浮かんだ。

 だが、ここは学校の地下だ。

 あるはずのない場所。

 背後で落合が降りてくる。続いて白瀬、葛葉。

 白瀬が床に立った瞬間、地下室の奥で、かちゃん、と皿が鳴った。

「聞こえます」

 白瀬が囁く。

「奥です」

 彼女の指す方向へ進む。

 懐中電灯の光が、壁を照らした。

 そこに、無数の名札が掛けられていた。

 給食当番が胸につけるような、白いプラスチックの名札。古いもの、新しいもの、黄ばんだもの、真新しいもの。壁一面に、整然と吊るされている。

 間宮は近づいた。

 一枚目。

 生野周。

 そこに、確かに名前があった。

 間宮の息が止まる。

「生野……」

 今度は声に出せた。

 なぜか地下では、その名前を発音できた。

 葛葉が震える手で名札に触れようとして、途中で止める。

「ここに、残ってた」

 白瀬が奥を見ている。

「私のも、あります」

 間宮は彼女の視線を追った。

 そこには、白瀬真白の名札が掛けられていた。

 名前の一部が薄くなっている。だが、確かに読める。

 さらに、その隣。

 芦原海都。

 新しい名札だった。

 まだ真っ白で、文字も濃い。だが、端が赤く滲み始めている。

「予定者の名札もある」

 落合が呟く。

 葛葉が、さらに奥の列を照らした。

「十年前の日付があります」

 古い名札が並んでいる。

 平成二十八年度。

 三年二組。

 給食当番。

 その中の一枚に、間宮灯真と書かれていた。

 間宮は、動けなくなった。

 名札は古びていた。

 端が黄ばみ、文字も擦れている。だが、はっきり読める。

 間宮灯真。

 職種欄、あるいは所属欄のような場所に、手書きでこう記されていた。

 三年二組・給食当番。

「先生」

 白瀬が震える声で言う。

「これ……」

 間宮は名札を手に取った。

 触れた瞬間、指先に冷たい水の感触が走った。

 そして、一瞬だけ、別の景色が見えた。

 雪。

 白い廊下。

 寒さで震える手。

 湯気の立つ鍋。

 誰かが泣いている。

 足りない。

 足りない。

 全員分、ない。

 銀色のトングを握る自分の手。

 誰に渡す。

 誰を、後回しにする。

「先生?」

 葛葉の声で、間宮は我に返った。

 名札を握りしめていた。

 掌が汗で濡れている。

「大丈夫ですか」

「……ああ」

 本当は大丈夫ではなかった。

 今の映像は何だ。

 記憶か。

 自分のものか。

 十年前、自分はここにいたのか。

 そのとき、地下室の奥で、白い影が動いた。

 全員が懐中電灯を向ける。

 白い給食着。

 白い帽子。

 小柄な背中。

 顔は見えない。

 その影は、調理台の前で皿を並べていた。

 かちゃん。

 かちゃん。

 その隣に、もう一つ影があった。

 同じく白い給食着を着た、少年のような姿。

 間宮は息を呑んだ。

「生野?」

 影が、ゆっくり振り返った。

 顔はぼやけている。

 だが、生野周だった。

 窓際に座っていた、あの少年。

 ただし、その目には何の感情もなかった。彼は間宮たちを見ても驚かない。ただ無表情に、皿を一枚、また一枚と並べている。

「生野くん」

 白瀬が一歩踏み出す。

 生野は答えない。

 彼の胸には、名札がついていた。

 名前の欄は黒く塗り潰されている。

 葛葉が震える声で言った。

「給食当番……」

 生野は、給食当番になっていた。

 欠席扱いになった者は消えるのではない。

 ここに取り込まれる。

 名前を失い、皿を並べる側になる。

 間宮は叫びそうになった。

 そのとき、白い影がもう一つ増えた。

 芦原海都が、そこに立っていた。

 いや、まだ完全ではない。

 彼の身体は薄く、輪郭が揺れている。多目的室にいるはずの芦原と、ここに現れ始めた芦原の影が、重なっているようだった。

「まずい」

 落合が言った。

「芦原くんが」

 間宮は踵を返した。

「戻る!」

     *

 地上へ戻ると、多目的室は混乱していた。

 芦原海都の身体が、薄くなっていた。

 比喩ではない。

 彼の輪郭が、背景に溶けている。服の色が淡く、顔の線がぼやけている。本人は床に座り、自分の手を見つめていた。指先の向こうに、床の模様が透けて見える。

「先生」

 芦原の声も、少し遠かった。

「俺、これ、やばい?」

 間宮は駆け寄った。

「芦原、俺を見ろ」

「見てる」

「自分の名前を言え」

「芦原海都」

 言える。

 まだ言える。

「好きなものは?」

「コンビニのチキン。あと、妹が作る変な卵焼き」

「嫌いなものは」

「ピーマン。あと、今の給食室」

「将来は?」

「町を出る」

「どこへ?」

「東京」

「何をする?」

 芦原はそこで詰まった。

「……何だっけ」

「何でもいい。言え」

「分かんねえ。でも、出たい。ここじゃないところに行きたい」

 間宮は彼の肩を掴んだ。

 触れる。

 まだ触れられる。

 だが、体温が薄い。そんな表現はおかしいのに、そう感じた。そこに人間がいる手応えが、少しずつ減っている。

 野宮が泣き叫んだ。

「芦原くん、消えないで!」

 白瀬は、彼の正面に座った。

 自分も名前を奪われているのに、彼をまっすぐ見た。

「芦原くん。体育祭で、私に怒られたこと覚えてる?」

「掃除じゃなくて?」

「体育祭も怒った」

「そんな怒ってた?」

「怒ってた。リレー前にふざけて転びそうになったから」

「あー……」

 芦原の顔に、少しだけ色が戻った気がした。

「そうだ。お前、めっちゃ怖かった」

「覚えてる?」

「覚えてる」

 葛葉が続けた。

「芦原、あんた、私の読書感想文を勝手に読んで『難しすぎ』って言った」

「言ったわ」

「謝って」

「今?」

「今」

「ごめん」

 葛葉は泣きそうな顔で睨んだ。

「消えたら許さないから」

「それ、脅し?」

「そう」

 芦原は笑った。

 その笑い声は、少しだけはっきりしていた。

 間宮は気づいた。

 関係を呼び戻せば、芦原の輪郭が戻る。

 名前だけでは足りない。

 役割だけでも駄目だ。

 具体的な記憶。誰かとの出来事。感情の伴う関係。それが、彼をこちら側に繋ぎ止めている。

「全員、芦原との出来事を言え!」

 間宮は叫んだ。

「どんな小さなことでもいい。思い出せる限り、全部だ!」

 生徒たちは口々に話し始めた。

 芦原が給食のパンを分けてくれたこと。

 掃除をサボって怒られたこと。

 雨の日に傘を貸してくれたこと。

 授業中に変な答えを言って、先生に呆れられたこと。

 体育のサッカーで外したシュートを、ずっと言い訳していたこと。

 妹の話をしたこと。

 町を出たいと言ったこと。

 その一つ一つが、薄れていく芦原に糸をかけるようだった。

 芦原の身体は、完全には戻らなかった。

 だが、消える速度は止まった。

 彼は床に座り込んだまま、泣いていた。

「忘れないでくれよ、先生」

 声が震えていた。

「俺、まだ何にもしてない。町も出てない。東京も行ってない。妹に、帰るって言ってない」

「忘れない」

 間宮は言った。

「絶対に忘れない」

「ほんとに?」

「ああ」

「先生、教師だからそう言ってるだけじゃねえの」

「違う」

 間宮は芦原の肩を掴んだ。

「俺が忘れたくないんだ」

 芦原は、くしゃりと顔を歪めた。

「ずるいな、やっぱ」

 その夜、芦原の輪郭は薄いままだった。

 だが、彼はまだそこにいた。

 全員が彼の周りで、彼について話し続けた。眠れば消える気がして、誰も眠らなかった。野宮は何度も泣き、白瀬は名前を呼べないまま彼に話しかけ、葛葉は手の甲に爪を立てて記憶を保とうとした。

 間宮は、地下から持ち帰った名札を握っていた。

 間宮灯真。

 三年二組・給食当番。

 その名札は、掌の中で冷たかった。

     *

 翌朝。

 芦原海都の席は、残っていた。

 机もある。

 椅子もある。

 鞄もある。

 だが、芦原海都はいなかった。

 いや、正確には、誰もそう認識できなかった。

 多目的室の隅に、机と椅子が一組だけ置かれていた。昨日まで彼が座っていた場所だ。そこには、彼の制服の上着がかかっている。シャープペンシルもある。妹が作ったという歪な形のキーホルダーも鞄についている。

 だが、生徒たちはそれを見て首を傾げた。

「この机、誰のだっけ」

 誰かが言った。

 野宮が泣きそうな顔で机を見つめる。

「誰か、いた」

 葛葉は唇を噛み、手の甲を見た。

 そこに書いたはずの「芦原海都」は、赤く滲んで読めなくなっていた。

 白瀬は、机の前に立っていた。

 名前を失った少女が、役割を失った少年の机を見つめている。

「覚えてる」

 彼女は言った。

「名前は……分からない。でも、覚えてる。うるさくて、優しくて、町を出たいって言ってた」

 間宮は掌を開いた。

 白瀬真白。

 生野周。

 十年前。

 高瀬静一。

 黒い卒業アルバム。

 そして昨夜、爪で刻むように書き足した文字。

 芦原海都。

 文字は、かろうじて残っていた。

 間宮は給食室へ向かった。

 黒い献立表は、調理台の上にあった。

 本日の欠席者――芦原海都。

 ただし、その下に、小さな文字が追加されている。

 役割欠席。

 身体は保留。

 間宮は、その文字を見つめた。

 完全には消えていない。

 芦原は地下にいる。

 給食当番として、取り込まれかけている。

 まだ、取り戻せるかもしれない。

 その希望を抱いた瞬間、献立表の下に新しい文字が浮かび上がった。

 明日の欠席予定者:間宮灯真。

 間宮は、息を止めた。

 背後で、白瀬が小さく声を上げる。

 葛葉が呟いた。

「先生……」

 給食室の奥から、かちゃん、と皿が鳴った。

 間宮は自分の掌に爪を立てた。

 痛みが走る。

 その痛みの中で、十年前の光景がまた瞬いた。

 雪。

 給食室。

 足りない食事。

 泣いている少女。

 銀色のトング。

 そして、自分の声。

 次は、誰に渡す?

 間宮は、黒い献立表を見つめたまま、ようやく理解し始めていた。

 給食室は、自分を待っていたのだ。


第4章 先生、昨日なにを食べた?

 間宮灯真は、黒い献立表の前で、自分の名前を見ていた。

 明日の欠席予定者:間宮灯真。

 白い文字は、墨のように黒い紙の上で静かに光っていた。触れれば焼ける。破ろうとしても破れない。水に浸しても、火に近づけても、きっと消えないのだろう。そんな確信だけがあった。

 給食室の奥では、見えない誰かが皿を重ねている。

 かちゃん。

 かちゃん。

 その音は、もう間宮にはただの怪音ではなかった。

 準備の音だ。

 明日の給食のための音。

 明日の欠席者を迎えるための音。

「先生」

 白瀬真白が、背後から声をかけた。

 いや、白瀬真白。

 間宮の頭の中には、まだ彼女の名前がある。掌にも、滲みかけた文字が残っている。だが声には出せない。喉の奥で名前だけが腐った飴のように溶ける。

 間宮は振り返った。

 白瀬は給食室の入口に立っていた。顔色は悪い。半欠席になってから、彼女の存在はどこか輪郭が薄くなったように見える。実際に透けているわけではない。声も届く。身体もある。それでも、名前を呼べないというだけで、彼女と世界のあいだに薄い膜が一枚挟まったようだった。

 その隣に、葛葉莉央がいる。

 葛葉は黒い献立表を睨んだ。

「次は先生ですか」

「ああ」

「食べても食べなくても、駄目なんですよね」

「まだ分からない」

「そう言うと思いました」

 葛葉の声は苛立っていた。

 怒っている。怖がっている。だがその怒りが間宮に向いているのではないことも、分かった。彼女は、怒ることで立っている。

 芦原海都が“役割欠席”になった朝から、多目的室の空気はさらに悪くなっていた。

 芦原の机と椅子は残っている。鞄も、上着も、妹からもらったという歪なキーホルダーもある。けれど、生徒たちは芦原の名前を思い出せない。顔も声も、ほとんど抜け落ちている。ただ、何か大事なものがそこにあったという感覚だけが、机の周囲に残っている。

 白瀬は名前を奪われた。

 芦原は役割を奪われた。

 生野周は存在ごと欠席扱いになり、地下で給食当番になっていた。

 そして次は、自分。

 間宮は掌を握った。

 地下で見つけた名札の感触が、まだ指先に残っている。

 間宮灯真。

 三年二組・給食当番。

 十年前の日付。

 自分は、この学校の生徒だったのか。

 それとも、似た誰かがいただけなのか。

 しかし昨日、名札に触れた瞬間に流れ込んできた記憶は、他人のものとは思えなかった。雪。給食室。泣き声。足りない食事。銀色のトング。自分の手。誰に渡すか、選ばなければならないあの感覚。

 それは、記憶というより、身体の奥に沈んでいた罪だった。

「先生、大丈夫ですか」

 白瀬が尋ねる。

「大丈夫だ」

 間宮は答えた。

 言った瞬間、それが嘘だと分かった。

 白瀬も分かったのだろう。彼女は何も言わず、ただ間宮の掌を見た。そこに刻まれた名前たち。白瀬真白。生野周。芦原海都。十年前。高瀬静一。黒い卒業アルバム。

 そして、地下の名札から写し取った文字。

 間宮灯真 三年二組・給食当番。

「先生は」

 白瀬は言葉を選んだ。

「消される側なんでしょうか」

 間宮は答えなかった。

 葛葉が代わりに言う。

「それとも、消した側?」

 その問いは、刃物のように真っ直ぐだった。

 白瀬が息を呑む。

「葛葉さん」

「聞かなきゃ駄目でしょ」

 葛葉は間宮を見た。

「先生は、私たちを助けようとしてくれてる。それは分かってます。でも、給食室は先生を待ってた。先生の名札が地下にあった。高瀬先生も十年前を隠してる。だったら、先生自身が何かした可能性を考えないと駄目じゃないですか」

 間宮は、目を逸らさなかった。

「そうだな」

 その返事に、葛葉の表情が少し揺れた。

 責める準備をしていたのに、間宮が逃げなかったからかもしれない。

「俺も、そう思っている」

 自分の声が、やけに遠く聞こえた。

「俺は、自分がこの学校の生徒だった記憶がない。けれど、地下の名札は俺の名前だった。触れた時に、十年前らしき記憶も見た。もしあれが本物なら、俺はここにいた。そして、給食当番だった」

「給食当番って」

 白瀬が呟く。

「欠席者を配膳する側、ですよね」

 間宮は頷いた。

 給食室の奥で、また皿が鳴った。

 かちゃん。

 その音が、同意の返事のように響いた。

     *

 落合静は、保健室で間宮の脈を測った。

 停電が続いているため、保健室は薄暗い。窓の外では、雨が細かく降り続いていた。大雨の勢いは少し弱まったが、山の斜面から流れる水は途切れない。遠くで時折、土の崩れる低い音が聞こえる。

 救助は、まだ来ない。

 電話も繋がらない。

 校舎は、世界から切り離されたままだった。

「脈が速いです」

 落合は時計を見ながら言った。

「瞳孔反応も少し鈍い。昨日の地下探索の疲労もあるでしょうけど、それだけではないかもしれません」

「給食を食べていないのに?」

 間宮は聞いた。

「食べていなくても、校舎内にいるだけで影響を受けている可能性があります。白瀬さんも、芦原くんも、症状の出方が違いました。これは単純な毒物や薬物では説明できません」

 落合の声は冷静だった。

 だが、彼女の手は少し震えていた。

 養護教諭として、彼女はずっと現実的な対応を続けている。脈を測り、体温を確認し、食事の量を記録し、火傷を処置する。理解不能な怪異の中で、彼女だけが学校の保健室という現実にしがみついているようだった。

「ただ、給食を口にした生徒たちのほうが、変化は大きいです」

「今日の献立は?」

「まだ表示されていません」

 落合は間宮の目を見た。

「先生、食べるつもりですか」

「分かりません」

「食べなければ、別のルールを出してくるかもしれない」

「はい」

「食べれば、何かを奪われるかもしれない」

「はい」

 落合は体温計をケースに戻した。

「吐き出す方法を試すしかないかもしれません」

「吐き出す?」

「完全に飲み込まない。口に含んで、給食室側に“食べた”と誤認させる。すぐ吐き出す。昨日の白瀬さんたちの少量摂取より、さらに少なくする」

「誤認してくれる相手ならいいですが」

「相手という言い方をするなら、相手は学校です」

 落合は静かに言った。

「学校は、記録を見ます。出席か欠席か。食べたか食べないか。遅刻か早退か。中身ではなく、処理の形式を重んじる。なら、形式だけ満たせば、抜け道になる可能性があります」

 学校は、記録を見る。

 その言葉が、間宮の中に残った。

 この給食室の怪異は、怨霊のようでいて、もっと官僚的だった。情念で襲ってくるのではない。処理する。名前を消す。欄を空白にする。欠席扱いにする。代理欠席。欠食。役割欠席。半欠席。

 学校の書類のように、人間を分類していく。

「先生」

 落合は声を低くした。

「高瀬先生に、もう一度話を聞くべきです」

「俺もそう思っています」

「昨日、職員室の資料を見てから、高瀬先生の様子が変です。あの人は、何かを知っています」

「十年前のことですね」

 落合は頷いた。

「私はこの学校に来てまだ五年です。でも、噂は聞いたことがあります」

「噂?」

「昔、大雪で学校が孤立したことがあると。その時に、生徒がひとり体調を崩した。でも、記録上は大きな事故にはなっていない。保護者からの苦情も、町の議事録も、なぜか残っていない」

「記録から削除」

「ええ」

 落合は、保健室の古い棚を見た。

「学校では、ときどき“なかったこと”が作られます。いじめも、事故も、教師のミスも。言葉を変えて、記録を薄めて、責任者を曖昧にする。私は、それが嫌で保健室にいるようなところがあります。生徒が痛いと言ったら、痛い。それだけは、記録から消させたくないから」

 間宮は、白瀬の名前を呼べない喉を意識した。

 生野の消えた席。

 芦原の残された机。

 地下の名札。

 記録から消えるとは、こういうことなのだ。

 そこにいた人間が、痛かったことも、怖かったことも、言えなくなる。

「高瀬先生を探します」

 間宮は立ち上がった。

 その瞬間、軽いめまいがした。

 落合がすぐに支える。

「無理はしないで」

「大丈夫です」

「大丈夫という言葉は、今いちばん信用できません」

 落合は真顔で言った。

「私は同行します」

     *

 高瀬静一は、三年一組の教室にいた。

 昨日まで補習をしていた教室。

 窓際の席は、ひとつ少ない。生野周の机が消えたからだ。いや、正しくは、最初からなかったことになっている。床に跡も残っていない。机の列は、不自然ではない程度に整っている。

 芦原海都の席は、残っていた。

 机の上には、彼のシャープペンシルが置かれている。持ち主を失ってなお、物だけがそこに取り残されていた。

 高瀬は、その机の前に立っていた。

「高瀬先生」

 間宮が声をかけると、高瀬はゆっくり振り返った。

 顔に疲労が濃く出ていた。頬はこけ、眼鏡の奥の目は赤い。昨夜ほとんど眠っていないのは間宮たちも同じだが、高瀬の場合、それだけではない。十年前から眠れていない人間の顔に見えた。

「何だ」

「話を聞かせてください」

「今さら何を」

「十年前、この学校で何があったのか」

 高瀬は何も言わなかった。

 間宮は一歩近づく。

「俺の名札が地下にありました。三年二組、給食当番と書かれていた。俺はこの学校の生徒だったんですか」

「……知らん」

「本当に?」

「記憶にない」

「記録にはあった」

「記録は消える」

 高瀬は、吐き捨てるように言った。

 その言葉に、間宮は動きを止めた。

「記録は消える。名前も消える。写真も消える。最初からなかったことになる。そういうものだ」

「そういうもの?」

「学校とは、そういうものだ」

 高瀬は黒板を見た。

 そこには、間宮が初日に書いた問題の跡が薄く残っている。江戸幕府。参勤交代。大名統制。そんな普通の授業の文字が、今は別世界のもののように見えた。

「十年前」

 高瀬は、ようやく話し始めた。

「あの日も、天気が悪かった。雨ではなく雪だった。山では珍しくないが、あの日は特別ひどかった。昼前から降り始め、午後には県道が塞がった。校長と教頭は町の研修に出ていて、学校に残っていた職員は私と、当時の養護教諭だけだった」

 間宮は黙って聞いた。

 落合も、教室の入口で息を殺している。

「補習で残っていたのは、生徒十二人。三年二組だった。受験前で、希望者だけの補習だ。帰すべきだった。昼の時点で帰しておけばよかった。だが、すぐ弱まると思った。保護者の迎えも遅れていた。私は、校内待機を選んだ」

 高瀬の声は淡々としていた。

 だが、その淡々さが逆に痛々しかった。

「停電した。暖房も止まった。食料は、給食室に残っていたものと、防災用の備蓄だけ。全員分はなかった。いや、正確には、一食だけ足りなかった」

 一食。

 間宮の掌が痛んだ。

 地下の記憶と重なる。

 雪。

 震える手。

 銀色のトング。

「生徒の中に、体の弱い女子がいた。持病があって、冷えと空腹に弱かった。養護教諭は、その子に優先して食べさせるべきだと言った。私は全員で平等に分けるべきだと言った。だが、平等に分ければ全員が足りなくなる。結局、私は判断を先延ばしにした」

「先延ばし?」

「教師が一番やってはいけないことだ」

 高瀬は乾いた笑みを浮かべた。

「誰かを選ぶ責任から逃げた。生徒たちに配膳を任せた。給食当番だった生徒に、配らせた」

 間宮は息を止めた。

「それが、俺ですか」

 高瀬は答えない。

「俺だったんですか」

「分からん」

「高瀬先生!」

「分からないと言っている!」

 高瀬の声が教室に響いた。

 雨音が一瞬遠くなったように感じた。

 高瀬は肩で息をしていた。

「顔を思い出せない。名前も消えた。あの日、誰が給食当番だったのか、何度も思い出そうとした。だが、記憶が靄のようになる。記録にも残っていない。ただ、配膳用のトングを握っていた生徒の手だけを覚えている」

 間宮の指が震えた。

 自分の手を見る。

 そこに、銀色のトングの感触が蘇る。

「その体の弱い女子は」

 落合が聞いた。

「どうなったんですか」

「翌朝、衰弱していた。低体温もあった。救助が来て搬送されたが、病院で亡くなったと聞いた」

「名前は」

 高瀬は唇を噛んだ。

「分からない」

「分からないはずがないでしょう」

 落合の声に、初めて怒りが滲んだ。

「亡くなった生徒ですよ。担任だったんでしょう。名前を忘れるなんて」

「忘れたんじゃない!」

 高瀬は机を叩いた。

 芦原の机が、がたんと音を立てた。

「消えたんだ。名簿からも、写真からも、職員会議録からも。保護者対応の記録からも。卒業アルバムからも。思い出そうとすると、頭の中が真っ黒になる。だが、彼女がいたことだけは残った。誰かが、いた。私たちが、いなかったことにした」

 その言葉は、教室の空気を切り裂いた。

「欠席扱いにしたんですね」

 間宮は言った。

 高瀬は俯いた。

「事故として処理するには、問題が多すぎた。判断ミス。備蓄不足。連絡不備。保護者からの追及。学校は、町は、教育委員会は、できるだけ穏便に済ませようとした。書類上は、体調不良による欠席、後日家庭で容態悪化……そんなふうに曖昧にされた」

「亡くなったのに、欠席?」

「そうだ」

 高瀬の声は掠れていた。

「欠席にした。あの子を。私たちは」

 その時、教室のスピーカーから、ざらりとノイズが流れた。

 間宮と落合が振り返る。

 停電しているはずの校内放送。

 そこから、子どもの声が聞こえた。

『給食の時間です』

 高瀬の顔が強張った。

『本日の献立は、透明なスープです』

     *

 給食室には、透明な液体の入った器が並んでいた。

 水のようにも見える。

 だが、湯気が立っている。匂いはない。色もない。表面には油の膜も浮いていない。本当にただの湯のようだった。

 黒い献立表には、白い文字が浮かんでいる。

 本日の献立:透明なスープ。

 欠席予定者:間宮灯真。

 間宮は、その文字を見ながら喉の奥が乾くのを感じた。

 多目的室から、生徒たちも給食室前に集まっていた。白瀬、葛葉、野宮。ほかの生徒たち。芦原の机だけが多目的室に残されている。生野周は地下。芦原海都も、半ば地下にいる。

 これ以上、誰も奪わせるわけにはいかない。

「先生は食べないでください」

 葛葉が言った。

「食べたら何を奪われるか分からない」

「食べなければ、別のルールが出るかもしれない」

「だったら、ルールごと壊せばいい」

「どうやって」

 葛葉は言葉に詰まった。

 その時、黒い献立表の文字が変わった。

 教師が食べない場合、生徒三名を代理欠席とする。

 誰かが悲鳴を上げた。

 野宮が白瀬の腕にしがみつく。

「代理欠席って……」

 白瀬が青ざめた。

「先生が食べなかったら、私たちの誰かが三人消えるってこと?」

 黒い紙は答えない。

 だが、文字は消えない。

 間宮は、目を閉じた。

 やはり来た。

 落合の予想通り、学校は形式を見る。教師が食べるか食べないか。食べなければ、処理を別の欄へ移す。代理欠席者。生徒三名。

「俺が食べます」

 間宮は言った。

「駄目です!」

 白瀬が叫んだ。

 名前を呼べない少女の声が、給食室に響いた。

「先生まで消えたら、誰が」

「君たちを守る」

「守れてないじゃないですか!」

 その言葉は、白瀬自身も驚くほど鋭かった。

 彼女は口元を押さえた。

「ごめんなさい。でも、先生が消えたら、本当に終わりな気がするんです」

「終わらせない」

「どうやって」

「食べるふりをする」

 間宮は落合を見る。

 落合はすでにタオルと水を用意していた。

「口に含んですぐ吐き出します。飲み込まないでください。喉に流れたら、すぐ吐かせます」

「分かりました」

 高瀬が横から言った。

「やめろ」

 間宮は彼を見る。

 高瀬の顔は蒼白だった。

「それを口にしてはいけない」

「なぜですか」

「透明なスープは、記憶だ」

 全員が黙った。

「十年前にもあった。最後に出てきた。あれを飲んだ者は、忘れる。自分が何をしたかも、誰を見捨てたかも、何を隠したかも。罪を忘れる。だから学校は平常に戻った。私たちは授業を続けた。卒業式もした。何事もなかったように」

「高瀬先生も飲んだんですか」

「飲まなかった」

 高瀬は震える声で言った。

「だから私は覚えている。全部ではない。名前は消された。顔も消えた。それでも、自分たちが何をしたかだけは残った」

「では、俺が飲めば」

「君は忘れる」

 高瀬は言った。

「今の自分を守るために、十年前のことを忘れるかもしれない。あるいは逆だ。十年前の記憶が戻り、今の君が壊れるかもしれない」

 間宮は透明なスープを見た。

 水面に、自分の顔が映っている。

 臨時教師。

 生徒を守るべき大人。

 だがその下に、十年前の給食当番の少年が沈んでいるのかもしれない。

「それでも」

 間宮は器を手に取った。

「生徒三人を代理欠席にはできません」

 葛葉が一歩踏み出す。

「先生」

「葛葉、止めるな」

「先生は、いつも勝手です」

 葛葉の声は震えていた。

「大人って、そうやって自分が犠牲になるふりをして、こっちに何も選ばせないんですか」

 間宮は、器を持つ手を止めた。

「私たちだって考えたい。選びたい。守られるだけじゃなくて、先生を守りたい。なのに、先生はすぐ一人で背負おうとする」

 白瀬も頷いた。

「私、名前を奪われても、まだここにいます。芦原くんも、完全には消えてない。生野くんも地下にいた。だったら、先生も一人で消えないでください」

 間宮は、言葉を失った。

 教師として、生徒を守る。

 その思いに嘘はない。

 けれど、それが時に、生徒を“守られるだけの存在”に押し込めることもある。

 十年前の高瀬も、そうだったのではないか。

 大人が判断する。

 生徒に選ばせない。

 責任を取るふりをして、実際には責任を曖昧にする。

 そして最後には、誰かが欠席扱いになる。

「分かった」

 間宮は言った。

「一人では飲まない。落合先生の方法で、最小限だけ口に含む。全員で俺のことを記録してくれ。名前だけじゃなく、今ここにいる俺を」

「先生の嫌なところも?」

 葛葉が聞いた。

「全部だ」

「じゃあ書きます。無茶をする。自分を犠牲にすればいいと思っている。生徒の話を聞いているようで、肝心な時に聞かない」

「容赦ないな」

「でも、助けようとしてくれる」

 葛葉は顔を伏せた。

「だから、忘れたくない」

 白瀬が言った。

「先生は、社会の先生です。字が少し右上がりです。黒板を消す時、端が残ります。初日に緊張して、私たちのクラス名を間違えました」

「それは忘れてくれていい」

「嫌です」

 野宮が泣きながら言った。

「先生は、生野くんの名前を忘れないって言いました。芦原くんのことも、忘れないって言いました。だから、先生も忘れちゃ駄目です」

 間宮は頷いた。

 透明なスープを口元へ運ぶ。

 匂いはない。

 味も、きっとない。

 だが、器を近づけた瞬間、耳の奥で吹雪の音がした。

 白い廊下。

 寒さ。

 誰かの咳。

 間宮はスープを口に含んだ。

 冷たい。

 湯気が出ていたのに、液体は氷のように冷たかった。

 次の瞬間、視界が真っ白になった。

 雪。

 雪。

 雪。

 誰かが泣いている。

 寒いよ、と言っている。

 お腹がすいた、と誰かが言っている。

 給食室の明かりだけが点いている。

 鍋の中には、人数分より一つ少ない食事。

 高瀬先生が言う。

 平等に分けろ。

 養護の先生が言う。

 あの子を先に。

 誰かが言う。

 ずるい。

 誰かが言う。

 死ぬわけじゃない。

 自分の手には、銀色のトング。

 皿が並んでいる。

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 足りない。

 一枚、足りない。

 誰に渡す。

 誰を後回しにする。

 白い顔の少女が、こちらを見ている。

 名前が分からない。

 けれど、その目を知っている。

 少女は震えながら、少しだけ笑う。

 大丈夫、と言った。

 私は、あとでいいよ。

 その言葉に、ほっとした自分がいた。

 ほっとしてしまった自分がいた。

 間宮は、スープを吐き出した。

 落合が背中を叩く。

 激しく咳き込み、床に透明な液体が散った。白瀬がタオルを差し出し、葛葉が器を遠ざける。

「飲み込んだ?」

 落合が鋭く聞く。

 間宮は咳き込みながら首を振った。

 だが、喉の奥に冷たさが残っていた。

 一滴。

 一滴だけ、落ちた感覚があった。

     *

 夜が来る頃、間宮の記憶は崩れ始めた。

 最初は、日付だった。

 今日が何日なのか分からなくなる。赴任して何週間目だったか。自分がこの学校へ来た理由。産休代替。社会科。臨時教師。それらは言葉としては残っているのに、自分のこととして実感できない。

 次に、年齢が揺らいだ。

 自分は二十七歳のはずだった。

 だが廊下に映る窓ガラスの中に、中学生の自分が重なる。細い腕。制服。冷えた指。トングを握る手。自分は教師なのか。生徒なのか。守る側なのか。選ぶ側なのか。

 多目的室では、生徒たちが間宮の周囲に集まっていた。

 落合が体調を確認し、葛葉が記録を取る。白瀬は名前を呼べないまま、間宮の目を見て話しかけ続けた。

「先生。ここは堰代中学校です」

「分かってる」

「先生は間宮灯真です」

「ああ」

「私の名前、分かりますか」

 間宮は喉を震わせた。

 言えない。

 だが掌の文字を見れば分かる。

 白瀬真白。

 間宮は頷いた。

「分かる」

「生野くんは?」

「生野周。給食を拒んで、欠席扱いになった。地下にいた」

「芦原くんは?」

「芦原海都。役割欠席。まだ戻せる」

 白瀬は小さく息を吐いた。

「よかった」

 葛葉が横から言う。

「十年前は?」

 間宮の視界が揺れた。

 雪が降る。

 給食室が白い。

 少女が咳をする。

 自分が皿を配る。

「先生」

 葛葉の声が近づく。

「十年前、先生は何をしたんですか」

「分からない」

「思い出しかけてるんですよね」

「分からない」

「逃げないでください」

 その言葉に、間宮は葛葉を見た。

 彼女の目は、怒っていた。

 だがその奥に、別のものがある。

 恐怖。

 期待。

 そして、痛み。

「葛葉」

「何ですか」

「君は、なぜこの補習に来た」

 葛葉は一瞬、表情を消した。

「受験前だからです」

「本当に?」

「……何が言いたいんですか」

「昨日、職員室で見た資料に、葛葉透という名前があった」

 その名前を口にした瞬間、多目的室の空気が変わった。

 葛葉の顔から血の気が引いた。

 白瀬が胸を押さえる。

 野宮が「透?」と小さく繰り返す。

「君は、その名前を知っているんじゃないか」

 葛葉は唇を噛んだ。

「先生こそ、知ってるんじゃないですか」

「俺は――」

 言いかけて、雪の記憶が流れ込む。

 少女。

 咳。

 細い手。

 あとでいいよ、と言った声。

 名前。

 名前。

 名前は。

「葛葉、透」

 間宮は呟いた。

 葛葉莉央の目が揺れた。

「……姉です」

 その声は、ほとんど息だった。

「私の姉です。十年前、この学校で消えた。家には、姉の写真が一枚も残ってません。母も父も、私に姉はいないって言います。でも、私は覚えてる。全部じゃないけど、覚えてるんです。小さい頃、手を繋いでくれたこと。歌ってくれたこと。名前。透って名前だけは、消えなかった」

 葛葉の声が震える。

「だから、この学校に来たんです。補習にもわざと残った。何か起きれば、姉のことが分かるかもしれないと思った」

 間宮は、言葉を失った。

 葛葉莉央は、ただ巻き込まれた生徒ではなかった。

 彼女は、自分からこの闇に近づいていた。

 姉が“いなかったこと”にされた理由を知るために。

「先生」

 葛葉は間宮を見た。

「姉に、何をしたんですか」

 間宮の中で、何かが割れた。

 雪。

 給食室。

 足りない一食。

 葛葉透。

 名前が戻る。

 顔も戻る。

 白い頬。薄い唇。肩で息をしながら、それでも笑った少女。

 私は、あとでいいよ。

 その言葉に甘えた。

 自分は、トングで別の皿に最後の一食を乗せた。

 透の皿は、空だった。

 空のまま、彼女の前に置いた。

「俺は」

 間宮の声は、掠れていた。

「最後の一食を、渡さなかった」

 葛葉は動かなかった。

 白瀬が息を呑む。

 落合が目を閉じた。

「俺が選んだ。いや、選ばなかった。彼女が、あとでいいと言ったから。俺は、それに逃げた。渡さなかった。寒かった。怖かった。自分も腹が減っていた。みんなが見ていた。誰かを優先したら責められると思った。だから、いちばん何も言わない彼女を、後回しにした」

 言葉が止まらなかった。

 透明なスープの一滴が、記憶の蓋を溶かしていく。

「翌朝、彼女は動けなくなっていた。先生たちは救助が来れば助かると言った。でも、助からなかった。なのに、そのあと、彼女の名前が消えた。机も、写真も、声も。俺は……俺は、自分が何をしたかも忘れていた」

 葛葉莉央は、静かに立ち上がった。

 間宮は殴られると思った。

 罵られると思った。

 だが葛葉は、何も言わなかった。

 ただ、間宮を見ていた。

 その沈黙が、何より重かった。

「ごめん」

 間宮は言った。

「ごめん、葛葉。俺は」

「私に謝らないでください」

 葛葉の声は、冷たかった。

「謝る相手、違います」

 その通りだった。

 間宮は、顔を伏せた。

 給食室の奥で、かちゃん、と皿が鳴った。

 まるで、十年前の少女がそこにいると告げるように。

     *

 深夜。

 間宮はひとり、給食室にいた。

 落合には止められた。白瀬も葛葉も、野宮も、行かないでと言った。だが間宮は、どうしても確かめなければならなかった。

 透明なスープを口にしてから、記憶は断続的に戻り続けている。

 十年前、自分はこの学校にいた。

 給食当番だった。

 最後の一食を葛葉透に渡さなかった。

 その翌朝、彼女は欠席扱いになった。

 そして自分もまた、その記憶を失った。

 なぜ。

 どうやって。

 誰が。

 答えは地下にある。

 配膳用エレベーターの扉は、開いていた。

 間宮は梯子を降りた。

 地下の給食センターは、昨日より明るかった。壁に掛けられた名札が、懐中電灯なしでも白く浮かび上がっている。生野周。芦原海都。白瀬真白。間宮灯真。十年前の生徒たち。

 そして、奥の壁に一枚の名札があった。

 葛葉透。

 間宮は、その名札の前に立った。

 触れようとして、指を止める。

 背後で、皿の音がした。

 振り返る。

 白い給食着の影が、調理台の前に立っていた。

 小柄な少女。

 顔は見えない。

 だが、間宮には分かった。

「葛葉、透」

 初めて、名前を呼べた。

 地下の空気が震えた。

 少女は、ゆっくりこちらを向いた。

 その顔は、黒く塗り潰されていた。

 目も、鼻も、口もない。

 ただ、顔全体が、卒業アルバムの名前欄と同じ黒で覆われていた。

 間宮は息を止めた。

 少女は、トングを差し出した。

 銀色のトング。

 十年前、自分が握っていたもの。

 間宮は、それを受け取った。

 指先に冷たさが走る。

 次の瞬間、地下室の壁一面に、白い文字が浮かび上がった。

 最後の一食を、誰に渡しますか。

 間宮は、トングを握りしめた。

 十年前と同じ問い。

 今度は誰を選ぶのか。

 自分か。

 生徒か。

 透か。

 それとも、また誰かを欠席扱いにするのか。

 背後で、誰かの声がした。

「先生」

 振り返ると、白瀬がいた。

 その後ろに葛葉莉央、落合、野宮。

 そして、輪郭の薄い芦原海都と、無表情な生野周が、白い給食着のまま立っていた。

 間宮は愕然とする。

「どうして」

 葛葉が答えた。

「一人で行くなって言いましたよね」

 その声は震えていた。

 怒っている。怖がっている。それでも来た。

 間宮は、トングを見下ろした。

 白い文字は、さらに増える。

 明日の欠席者は、間宮灯真。

 ただし、教師が選択を拒否する場合、生徒三名を代理欠席とする。

 間宮の喉が詰まった。

 十年前と同じだ。

 選ばなければ、誰かが犠牲になる。

 選べば、その責任が自分に残る。

 高瀬はこれを恐れていた。

 自分も逃げた。

 だが、もう逃げない。

 間宮はトングを床に置いた。

「選ばない」

 地下室の空気が、ぴたりと止まった。

 黒い顔の少女が、こちらを見ている。

 間宮は続けた。

「誰かを後回しにすることでしか成り立たない給食なら、そんなものは食べない。教師が選べと言われても、生徒を欠席扱いにはしない。俺自身を消せと言われても、代理欠席は認めない」

 白い文字が揺らいだ。

 葛葉が、静かに言った。

「綺麗事ですね」

「ああ」

 間宮は頷いた。

「十年前に言えなかった綺麗事だ」

 葛葉は、泣いていた。

 それでも、間宮から目を逸らさなかった。

「姉にも、そう言ってほしかった」

「ごめん」

「だから、今度は言ってください。ちゃんと。姉に」

 間宮は、黒く塗り潰された顔の少女を見る。

「葛葉透」

 名前を呼ぶ。

「俺は、君を後回しにした。君が何も言わないことに甘えた。君が優しかったから、そこに逃げた。ごめん。君は欠席じゃなかった。いなかったことになんて、していいはずがなかった」

 少女は動かない。

 だが、黒い顔の中央に、小さな亀裂が入った。

 そこから、白い息のようなものが漏れる。

 皿が一枚、床に落ちた。

 割れなかった。

 ただ、乾いた音を立てて転がった。

 その皿の底に、文字が浮かび上がる。

 最後の献立:先生の記憶。

 間宮は、その文字を見た。

 まだ終わっていない。

 透明なスープの一滴で戻った記憶は、断片にすぎない。

 すべてを思い出すには、最後の献立を食べなければならない。

 食べれば、今の自分を失うかもしれない。

 食べなければ、生徒たちは欠席扱いになる。

 黒い顔の少女――葛葉透は、間宮に向かって手を伸ばした。

 その手は、冷たそうだった。

 間宮は、逃げなかった。

 そして地下室の奥で、給食のチャイムが鳴り始めた。



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