盤面外の戦争と、真祖の強制執行
大陸南東部、【翡翠樹】の領土。
その中心にそびえ立つ巨大な温室タワーの最上階で、この一帯のバイオ市場を牛耳るカルテルの元締め・ギデオンは、血走った目で窓の外を見下ろしていた。
「どういうことだ……! なぜ雨雲が一つも湧かないッ!」
彼の眼下に広がるのは、見渡す限りの枯野だった。
大陸の生態系と食糧生産を司り、年中豊かな恵みをもたらすはずの翡翠樹の領土が、わずか数日の間に急速に干上がっていた。
人工的な気象操作かとも疑ったが、カルテルの誇る魔導士たちがどれだけ探っても、魔力の痕跡すら見当たらない。ただ「不自然なまでに雨雲がこの領土だけを避けている」という、神の呪いのような大干ばつが起きていた。
「代表! 第四、第六農区の作物が全滅しました! 霊樹の樹液抽出ラインも完全にストップしています!」
部下が悲鳴のような報告を上げる。
「慌てるな! 我々には莫大な備蓄がある。むしろ供給不足は好機だ。……市場の流通量を絞り、万能薬と食糧の価格を十倍に跳ね上げろ! 飢えた豚どもは、いくらでも金を出す!」
ギデオンは傲慢に笑った。インフラを独占している強みだ。需要がある限り、価格は彼らが決められる。
しかし、部下の顔色は土気色だった。
「そ、それが……! どこから湧いたのか、謎の新興ギルドが……『アルカディア』と名乗る組織が、我々の代替となる食糧とポーションを、通常の市場価格で大量にばら撒いているのです! 民衆はおろか、富裕層の顧客たちまで次々とアルカディアに乗り換えており……我が商会のシェアは、すでに七割を喪失しました!」
「な、なんだと……!?」
「さらに……! 市場の信用不安から、我が組織の『権利証』が暴落しています! な、何者かが、暴落の直前に天文学的な規模で権利証の空売りを仕掛けていた形跡が……! 我々の資産価値は、今や紙屑同然です!」
「――ッ!!」
ギデオンは膝から崩れ落ちそうになり、必死にデスクにしがみついた。
異常気象、代替品の大量供給、そして市場での空売り。
これが偶然であるはずがない。何者かが、自分たちを完全に潰すために、何重にも張り巡らされた『死のピタゴラスイッチ』を起動させたのだ。
「資金が……ショートする……。だ、ダメだ、すぐに『真紅の天秤』に通信を繋げ! 追加融資を頼み込むんだ!」
ギデオンは震える手で通信魔導鏡を起動した。
『真紅の天秤』――最近この大陸の金融市場に姿を現した、新参の特務金融ギルド。得体の知れない連中だが、背に腹は代えられない。足元を見られようと、今は現金が必要だった。
ノイズが走り、鏡の向こうに仕立ての良いスーツを着た男の姿が映し出される。
『真紅の天秤』頭取、ルシウス。
「る、ルシウス頭取! 助けてくれ! 謎のテロ攻撃で我が組織の資金繰りが――」
『ああ、ギデオン殿。大変な目に遭われているようですね』
ルシウスは、ワイングラスを片手に優雅に微笑んでいた。その瞳には、路地裏のドブネズミを見るような冷酷な光が宿っている。
「い、いくらでも利子は払う! だから今すぐ金貨五十万枚を――」
『……奇遇ですね。私からも、一つご提案があるのです』
ルシウスはグラスを置き、一枚の分厚い羊皮紙をカメラに向けた。
『我が社は現在、ある新興ギルド……アルカディア・グループと包括的な業務提携を結んでおりましてね。彼らの依頼により、貴方の抱える莫大な負債を、たった今一括で引き取らせていただきました』
「は……?」
『融資の条件は一つだけです。……紙屑となった貴方たちの、全インフラと翡翠樹のアクセス権限を、担保として無条件で我が社に譲渡すること』
―――ギデオンの頭が真っ白になった。
アルカディア。市場を奪い、空売りを仕掛けたあのギルドが、自分たちが最後にすがった新興金融ギルドと裏で繋がっていた。
最初から、逃げ道など一つもなかったのだ。自分たちは、アルカディアという巨大な盤面の上で、彼らが描いた帳簿の通りに踊らされ、殺されたのだと理解した。
『すでに、現地に我が社の優秀な執行官を派遣しています。……大人しく、その首を差し出してくださいね』
通信が一方的に切れる。
その直後、執務室の重厚な扉が音もなく開いた。
「――お迎えに上がりました、ギデオン様」
完璧に仕立てられた漆黒のスリーピース・スーツに身を包んだ長身の男。ヴィクトル・ローランが、顔の上半分を覆う仮面の奥で、赤い瞳を細めて立っていた。
「ふざけるな……ふざけるなぁぁぁッ!!」
ギデオンは発狂し、デスクの隠し金庫を乱暴に開け、中から翠色に輝く小瓶を取り出した。
それは、翡翠樹の魔力を極限まで濃縮した『禁忌の原液』。本来は劇薬に等しい代物だ。
「これは……私のインフラだ! 私の……帝国だ! 貴様ら新参者に、奪われてたまるかァァッ!」
ギデオンは小瓶を噛み砕くように飲み干した。
バキバキッ!!
凄まじい骨の軋む音と共に、ギデオンの肉体が爆発的に膨張していく。人間の皮膚が裂け、内側からおぞましい茨や蔦が溢れ出し、瞬く間に執務室の天井を突き破る巨大な『不死の植物魔獣』へと変貌した。
「グルルルルォォォォォッ!!」
「……やれやれ。これだから、追い詰められた債務者は困る」
ヴィクトルの指先から、極細の『赤い糸』が無数に放たれる。
『血影縛鎖』。
魔獣の巨体に糸が絡みつき、鋭利な刃となって分厚い樹皮を切り裂いていく。
だが――浅い。
翡翠樹の命の魔力を取り込んだ魔獣の再生速度は異常だった。糸で切断した端から新たな肉芽が再生し、ヴィクトルのスマートな遠距離攻撃を完全に無力化していく。
「ギァァァァッ!!」
魔獣の巨大な丸太の腕が、ヴィクトルを壁ごと吹き飛ばした。
「ガッ……!」
瓦礫の中から立ち上がるヴィクトル。彼のスーツには土埃が付き、口の端から一筋の血が流れていた。
己の血の匂い。
ヴィクトルは、自身の引き裂かれた袖口を忌々しげに見つめた。
己の手を汚さず、相手に触れることなく、スマートに命を刈り取る。だが、その『洗練』という名の取り立ての美学こそが、純粋な質量のぶつかり合いにおいて、彼の決定的な火力を縛る枷だった。
ギリッ、とヴィクトルの奥歯が鳴る。
端正な顔立ちが、抑えきれない苛立ちと、奥底から湧き上がる名状しがたい『飢え』によって歪んだ。
魔獣が再び咆哮を上げ、今度は部屋全体を飲み込むような無数の茨の槍を放ってきた。
回避不可能な全方位攻撃。
―――ヴィクトルは全く避けなかった。
彼は、首元をきっちりと締めていたネクタイに指をかけ――乱暴に引き千切った。
「――ガ、ァァ……ッ!」
喉の奥から漏れ出したのは、いつもの洗練された丁寧な言葉ではなく、獣のような低い唸り声。
引き裂かれたシャツの胸元から、そして自身の傷口から、異常なまでの量の血液が間欠泉のように噴き出した。
それは重力に逆らって空中で凝固し、ヴィクトルの肉体を覆い始める。
顔面を覆うのは、二本の禍々しい角が天を衝く、深紅の『鬼面』。
極限まで圧縮された血は、鋭利で刺々しい外骨格となって両腕と胸部を包み込み、十指の先には刃のような長い爪が形成された。
『―――真祖顕現』
理性のタガを外し、吸血鬼としての本能と暴力性だけを純粋に引き出した、忌まわしくも美しい化け物の姿。
それはヴィクトル自身の理解も及ばぬ、本能の暴走。
「……ッシャァァァァッ!!」
鬼の面の下から、鼓膜を劈くような咆哮が放たれた。
次の瞬間、ヴィクトルの姿が掻き消える。
「!?」
魔獣が反応するより早く、ヴィクトルは茨の雨を血の装甲で真正面から弾き飛ばし、一直線に敵の懐へと飛び込んでいた。
スマートな糸など使わない。己の身を護ることも考えない。ただひたすらに強欲に、すべてを喰らうためだけに振るわれる、圧倒的な質量の暴力。
ズガァァァァッ!!
血の爪が、魔獣の分厚い樹皮を深々と抉り取る。
そのまま強引に敵の巨体に張り付いたヴィクトルは、魔獣の首筋――幹の最も太い部分に、剥き出しの牙を容赦なく突き立てた。
「――『絶対徴収』」
ゴバァァァッ!!
魔獣の体内を循環していた莫大な翡翠樹の魔力と生命力が、ヴィクトルの牙を通じて、濁流のように吸い上げられていく。
「ギ……ギィィ……ッ!?」
だが、相手は八大世界樹の一角と繋がる怪物。ヴィクトルの吸血をあざ笑うかのように、大地の奥底から無限の魔力が魔獣へと供給され、千切れた傷口から凄まじい速度で新たな蔦がヴィクトルに巻き付いていく。
一人の吸血鬼の容量では到底呑み込みきれない、世界樹の底なしのエネルギー。
だが、鬼の面の下でヴィクトルの瞳が残酷な光を放った。
「ガァァァァァァッ!!」
ヴィクトルは牙をさらに深く食い込ませ、己の『個の暴力』を魔獣の中枢へと強引に叩き込んだ。
吸い尽くせないのなら、その供給ラインごと物理的に引き千切る。
耐えきれなくなった魔獣の胸部――カルテルの魔力制御中枢であるメインコアが、ヴィクトルの理不尽な負荷に耐えきれず、内側から弾け飛んだ。
「ギァァァァァァァァッ!!」
致命的な中枢を破壊された植物魔獣は、断末魔の絶叫を上げながら、ヴィクトルを力任せに振り払い、巨大な温室タワーの床を砕いて大地の奥深くへと逃走していった。
舞い散る灰と瓦礫の中、静かに着地した一つの影。
ヴィクトルは顔を覆っていた血の鬼面と外骨格を気化させるように解除し、元の顔立ちを露わにした。
乱れた息を整えながら、彼は破れたシャツの襟元を直し、血に濡れた口元を白い手袋で拭う。
その瞳は、かつての冷酷な執行官のものではない。圧倒的な『個の暴力』を内包した、本物の捕食者のそれに変わっていた。
「……全額回収とはいきませんでしたが。主要インフラの『差し押さえ』は完了いたしました」
大陸南東部の空に、少しずつ晴れ間が覗き始める。
足元に広がる枯野に、風が吹き抜けていく。そこにはもはや、かつてのカルテルの栄華を誇るものは何も残っていなかった。経済的包囲網と、理不尽な暴力を以って、アルカディアは巨大カルテルの経済基盤に致命的な亀裂を入れ、市場の覇権を強引に奪い取ったのであった。
ここまでお読みいただき本当にありがとうございました!
ヴァンパイア×鬼ってめっちゃかっこよくないですか?
少しでも「面白い」「続きが読みたい」と思っていただけましたら、画面下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にし、リアクションや感想を書いて応援していただけると、それがアルカディア・ファミリーの最大の資本になります!
合わせて【ブックマークに追加】もぜひよろしくお願いいたします!




