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きっとそれは散歩道みたいな

 半年が経った。

 初めて桜庭の勤める美容院へいってから、美雪は毎月通うようになった。その間に季節は春を終え夏を通り越して秋。ようやく涼しさを覚え、過ごしやすさにほっとする季節だ。

 仕事を終えた美雪は、一度自宅へ戻ってから制服を脱いだ。クリーム色のワンピースにカーキ色のジャケットを合わせると、髪の毛をささっと左耳の後ろにまとめた。シュシュを指で引っ張って整えると化粧を直して慌しく家を出る。

 いってきます、と声をかけると母親が軽い声で応えた。


 桜庭に切ってもらっている髪の毛は、初めに比べて長くなり、彼が提案したようにやわらかくパーマがかけられている。その髪形は美雪によく似合った。

 初めて美容院に行った翌日、毛先を軽くして整えてもらった髪形は、会社の人に好評だった。中年の男性ばかりの職場だけれど、何人かに似合ってるなあと言われて嬉しくなったのは、今でも思い出すだけで頬が緩む。

 あれから半年。桜庭とは月に一回店で会うのと、たまに連絡を取り合って食事をするようになった。今日もこれから待ち合わせである。


 美雪の家から駅までは、歩いて十分くらい。待ち合わせの場所はその駅から数分のところにある居酒屋だ。

 幸い平坦な道だし距離も近いから歩いて向かう。

 人がごちゃっと行き交っている駅前を通り過ぎて、大通りから一本脇に入った先に見知った姿を見つけて美雪は足を速めた。

 スマホを開いて立っていた桜庭が、美雪に気づいて閉じたそれをポケットに突っ込む。


「定時で上がれた?」

「うん。ちゃんと今日は早く帰りますって宣言しといたの」

「あそう」


 じゃあ入ろうぜ、と桜庭はすぐ脇にある店の扉を押し開けた。いらっしゃいませー! と元気な声がかけられる。

 二名様ご案内です、とインカムで言って店員が前を歩く。その案内についていって席に着いた。

 この店はすべての席が個室になっていて、長い暖簾が扉代わりになっている。布を押し上げて入りやすくしてくれた店員に、美雪は礼を言って中へ入った。こぢんまりしたそこは横並びに座る形のテーブル席だ。造り付けのそれに、足元は掘りごたつのようになっていて、脱いだ靴を店員がしまってくれた。


 桜庭とはこれで二回目。他の友人とも一回来たことがあるこの店は、和食と中華を扱っている居酒屋だった。

 今案内されたような小さい個室から十人くらいは余裕があるちょっと大きめの部屋まで様々あったと記憶している。

 料理はチェーン店ほど安くはないが、創作料理もあっておいしい。個室だから気兼ねすることはないし、ちょっと落ち着いた雰囲気が気に入っている。


「パーマも、ようやく慣れた気がする」


 ジョッキを両手で持ちながら美雪がそう言うと、桜庭は耳の後ろからちょんと出ている美雪の髪に手を伸ばした。


「乾かすときにちょっと注意するのと、普段強く結んだり引っ張ったりしなければ、まあまあ持つはずだから。……似合ってるし、よかったじゃん」

「会社の人とか、お客さんにも褒められたんだよ。本当、サクのおかげだねえ」

「おう。敬え敬え」


 からからと笑った桜庭に釣られるように、美雪もくすくす笑う。

 こうして会うときは、気軽に話して食べたり飲んだりするだけだけれど、それがまた心地よくて美雪は嬉しくなる。そりゃあ小さいころに遊んだ相手だけれど、大人になってからこんなふうになるなんて考えもしなかった。


 桜庭は美雪にとって気兼ねしない相手だし、世間話をしながら料理を突き合うのは楽しい。

 暖簾越しに、失礼しますーと声がかかって、店員が料理を持ってきた。アボカドとマグロの和え物と、鶏串の盛り合わせを受け取って桜庭がテーブルに置く。ありがとうございます、と美雪が頭を下げると店員も笑顔で頭を下げた。

 顔を戻すと、桜庭と目が合う。


「……なに?」


 たまたま視線が合った、というわけじゃないらしい。美雪の様子を見るように、桜庭は目を向けたままだ。

 首をかしげると、彼は頬杖をつきながら上目で美雪を見つめた。


「いや。美雪って、今までどうやって生きてきたのかなあと思って」

「はあ?」

「ぜんぜん変わってねえんだもん。擦れてないっていうの? 媚びてるとかじゃなくて、素直なんだよなー」

「はあ、そうかなあ」


 褒められてるのか貶されているのかもよくわからないし、美雪自身はそんなふうに自分の事を思ってもいなかったので目をぱちぱちさせて隣を見る。

 桜庭は頬杖を解いてうーんと背中を伸ばした。


「そう。うちの店でもそうだけど。美雪みたいに、ちょこちょこ礼言ったり、返事してくれる人って意外と少ないもんだよ。店のスタッフでも、結構美雪は気に入ってる人多いし」

「えええ、意外。なんだこのちんちくりん! て思われてると思ってた」

「なんだそれ」


 ぶはっと桜庭が肩を揺らした。ちんちくりんてなんだよ、とくつくつ笑いながらジョッキを煽った。

 それに美雪は眉を寄せて言葉を連ねる。


「だって、サクの店、かっこいい人とか綺麗な人ばっかりな上に、みんなお洒落なんだもん」

「そりゃあ、ああいう仕事だから身なりは気を遣うでしょ。顔は、いい悪い別にして大事なのは清潔感かな。まあ、個人差あるけど客が不快にならないようにはしてるし。……でも、美雪だって洒落込んで来るじゃん美容院」

「……美容院行くときは、なんかお洒落してかないといけない気になるの。そういう人ばっかりだから」

「まあ、服装とか雰囲気で客のイメージ掴むこと多いから、それは正解だけどねー」

「あ、そうなの? じゃあよかった」


 ホッとしたように笑ってから、美雪は焼き鳥を串から解してばらしていく。

 最近は美容院のスタッフにも顔と名前を覚えられたようで、森下さんこんにちは、なんて笑顔で迎えてもらえるようになった。先月のときは、そのブラウス可愛いですねなんて服のことまで触れてもらえて嬉しかったなあと思いながら、抜き終えた串をまとめて皿の端に寄せた。

 あそこの店は、みんな感じがいいのである。スタッフの顔を思い浮かべて、ふと美雪は手を止めた。


「そういえば。サクは、彼女さんいないの?」


 唐突に尋ねた美雪の言葉に、桜庭はごほっとビールで軽くむせた。もうすでに二杯を空にしている彼は、酔った気配はなく、ほんのちょっと顔が赤いくらいだ。

 二、三回咳をしてから眉を寄せてジョッキを置く。


「……いきなりだなあ。つーか、いたらこうして他の女と二人で会わないでしょう普通」

「それは、そうだよね。うん、まあそうだよねー」


 美雪はうんうんとうなずきながらも歯切れが悪い返事をする。それに桜庭は訝しげに首をかしげる。


「なに?」

「いやあ、スタッフさん同士でお付き合いするとかないのかなあと思って」


 美雪はジョッキに手を伸ばしながらそう答えた。

 思い浮かべたスタッフで、一人気になる人がいたのを思い出したのだ。いつも美雪の髪を洗ってくれる女性スタッフである。あの店で桜庭に担当してもらっている間に、彼女の視線を妙に感じることがあったので、もしかしたらそういう関係なのかなあと思った。

 けれども、普通に考えれば桜庭の言う通り、恋人がいたらこうして美雪と二人で出かけていないだろう。たぶん。

 桜庭のことが気になっているのかあと、彼女のことを思い浮かべた美雪は隣で男がため息をついたことに気付かなかった。


「スタッフ同士はないと思うよ、うちの店は」

「ふーん。そうなんだ」


 桜庭は、彼女のことに気付いているんだろうか。

 気付いていそうだなあと思う。美雪相手にあれこれと細かいことを察してくれるくらいなのだから。ただ、同じ職場だといろいろあるから、気付かない振りをしていそうだなあと美雪は思った。

 美雪から見ても、桜庭はかっこいい。

 見た目とか雰囲気はもしかしたら人並みというやつなのかもしれないが、仕草とか話し方だとか、押し付けがましくないし無理がない。歩調を緩めて隣を歩いてくれるような、そんな気遣いがあると常々思う。

 周りの景色を見ながら他愛もない話をしているのに、前から来た人に美雪がぶつかりそうになったらさっと手を引いて助けてくれるような、そんな感じだ。あくまでも自然体なのである。


 昔から知っている相手なのに、小学生のときの美雪は田中のことが好きだったし、高校のときはサッカー部の桜庭の先輩にほのかな想いを寄せていた記憶がある。

 桜庭本人が対象になっていなかったことが、ここにくると不思議だなあとしみじみした。男女としての意識を持つ前に関係が薄れたからだろうか。

 しかし、お互い社会人として出会う職場での人間関係は、また一味違うものがある。

 ただ同じ職場は、休みも同じだし仕事内容もわかるし理解しあえるからよいけれど、職場での切り替えがはっきりできる場合でなければ大変だと認識している。うまくいっているときも、関係がこじれたときも、少なくとも周りの人は気を遣うことがあるだろうし、逆にこじつける理由としてでっち上げられるときもある。

 そういうことって難しいなあと、美雪はごくりとビールを飲んでいたのだけれど、隣からの視線を感じてきょとんとした。


「なあに?」


 ことりとジョッキを置いて首をかしげる。


「美雪もおんなじだと思ってたけど、一応念のため。――彼氏はいないの?」


 美雪は目を丸めた。


「いません」

「ああよかった。お前、いるけど友達とご飯するってちゃんと言ってあるとか言いそうだからなあ。のほほんとしやがって」


 言いながら、安心したという様子ではなくて桜庭はちょっとだけ眉を寄せている。

 呆れを含んでいるのを見て取って、美雪はむっと口を尖らせた。


「のほほんて、人をバカみたいに」

「だってそうだろ? 素直で、どっか抜けてて、わかりやすい」

「……わかりやすいんじゃなくて、どっちかというとサクが鋭いだけだと思うんだけど」

「いや、それはないな。なんでわかるかって、相手が美雪だからだろうし」

「そうかなあ」


 軽い調子であっさりそう言うのに、美雪は納得がいかない顔で口を尖らせた。それに桜庭はため息をつく。


「それなりに見てる相手じゃないと俺だってわかんないんだってば。――美雪はそういうとこで、本当擦れてないよなあ。女っぽく勘ぐったり含ませたりしないで、そのままなとこ」


 これも、褒められてるのか貶されているのかわからない。そして、そんな言葉になんて返したらよいのかももちろんわからなくて、美雪は口をつぐんで困惑した。

 桜庭は、そんな美雪の顔を覗き込む。

 横に並んで座ったこの状態が、今さらながら意識された。狭い。桜庭のジーンズに包まれた太ももと、美雪のタイツ越しのそれが触れ合うくらいの位置だったのを、このときまでまったく考えもしなかった。

 覗きこむようにして、桜庭は美雪に顔を近づける。焦点が合わなくてもう少しでぼやける、そのちょっと手前で彼は止まった。

 真剣な瞳が目の前にあって、美雪は息を呑む。

 おもしろいほど、身体は何も動かなかった。鼻先が触れるか触れないかのその位置で、桜庭はゆっくりと口を開いた。


「美雪。付き合って」


 低い、わずかに掠れた声。

 近すぎて耳に直接囁かれたような錯覚に陥って、心臓がどくんと鳴った。美雪は自分の顔がみるみる赤くなったのがわかった。


「な、何に?」


 ようやく唇が搾り出した声は、頼りないほど震えた。

 この状況で、なにを言っているんだと自分でも思うけれど、言葉を考える前に勝手に口をついて出てしまったから止めようもない。

 間の抜けた美雪の言葉に、桜庭はふっと吐息を零すようにして笑った。

 顔を離して困ったように頬をかく。


「うーん……人生かなあ」


 それじゃあプロポーズじゃん……! 美雪が真っ赤になって批難がましく言ったのに、それでもまあいいけどなんて桜庭が苦笑して余計に美雪は言葉を失う。

 からかうように笑った相手が、さっきよりも赤い顔をしているのに、ここでようやく美雪は気付いた。


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