カイルの事情 3
そんなカイルの望みは、意外な形で叶った。ブレイラブルの寮に戻る途中、中庭で落としたハンカチを探す一人の少女と出会ったのだ。
エレナとだけ名乗ったその清楚な少女はついさっき入学式を終えたばかりの、フィランピュアの一年生らしい。まさか見て見ぬふりをするわけにもいかず、カイルはエレナのハンカチ探しに付き合うことになった。
「ありがとうございます、ディンヴァード様!」
カイルがエレナのハンカチを見つけたのは、陽が傾きかけたころだった。差し出された白いレースのハンカチを嬉しそうに受け取り、エレナは花の咲くような笑顔を浮かべる。
「ああ、どうお礼をしたらいいのかしら」
「気にすんなって。たいしたことをしたわけじゃないんだしさ」
「ですが、なんのお礼もしないわけには……」
「そうか? なら……そうだな、じゃあ、そのディンヴァード様っていうのはやめてくれよ。堅苦しいのは好きじゃないんだ」
「かしこりました。では、カイル様とお呼びいたしましょう」
これからも仲良くしてくださいましね、とエレナは可愛らしくねだる。もちろんだと言って差し出した手を、エレナは一瞬目を丸くしながらも握ってくれた。
「もし学院で困ったことがあれば、わたくしの名を出してくださいまし。……わたくしはエレナ=アルフェンリューク=エスティメス。わたくしの名がある限り、カイル様に不自由はさせませんわ」
「エスティメス?」
彼女と同じ姓を知っている、ような気がする。あれはそう……確か、テストの結果が貼り出された掲示板だ。カイルの名前の下に書かれていた二位の男、ヴェルガの名字もエスティメスではなかっただろうか。
「エレナ、ヴェルガって奴を知ってるか?」
「……ヴェルガ?」
その名を出した途端、エレナの表情がわかりやすく曇る。わずかな逡巡のあと、エレナはうかがうような眼差しをカイルに向けた。
「ええ、わたくしの兄ですわ。ヴェルガお兄様がどうかしたのですか?」
「本当か!?」
よかった。エレナにヴェルガとの仲をとりなしてもらえるかもしれない。カイルはほっと胸を撫で下ろした。
「俺、あいつと友達になりたいんだ。だから、どうしたら仲良くできるか知りたくてさ」
「そうでしたの。……ですけれど、カイル様が気にするほどの男ではありませんわ。お兄様とはかかわらないほうがカイル様のためですわよ。あんな男と一緒にいても、カイル様が不幸になるだけに決まっています」
「そ、そうなのか?」
だが、どうやらそううまくはいかなかったようだ。脅し文句にも似た言葉に思わず身がすくむ。
「ええ。それでもどうしてもお兄様と親しくなりたいのなら……そうですわね、普段通りのカイル様のままで接してみてはいかがでしょう。常にかしこまっている間柄なんて、友人とは呼べないのでしょう?」
エレナはにっこりと笑う。彼女の言葉の真の意味を読み取ることはカイルにはできなかった。
しかしそれも仕方のないことだろう。カイルはヴェルガとエレナが兄妹だということを知らなかったし、そもそもその生家さえもわからない。彼らが腹違いの兄妹であり、その仲が冷え切っていることなど、カイルには知る由もないことだ。まさかこの愛らしい少女がわざと兄への悪印象を植えつけようとしているなんて、思い至れるわけがなかった。
常にかしこまっている間柄なんて、友人とは呼べない。それはエレナと出会った直後、かしこまるエレナに向けてカイルが何気なく発した言葉だった。もう友達なんだからそんなに固くなるなよ、と。より正確には二人は先輩と後輩の関係なのだが、カイル自身今日転入してきたばかりなので学年の差などまったく意識していなかったのだ。
前世の常識と平民生まれという出自から、カイルは自然とそんな持論を持つようになっていた。もっとも、その持論自体は決して珍しいものではない。時と場合をわきまえているだけで、そう考えている貴族の子女は多かった。
だが、それはあくまでも砕けた振る舞いができる信頼関係が築かれていることを前提としているものであり、初対面であれば身分の上下や態度には当然厳しくなる。しかしカイルには、そちらの前提条件がすっぽり抜け落ちていた。
見ず知らずの他人に礼儀を欠いた馴れ馴れしい振る舞いをされれば、大抵の貴族は気分を害する。エレナが何も言わなかったのは、カイルを気に入り、その無礼な態度を許したからだ。そんなことなど知らないカイルはエレナを親しみやすい子だと思ったし、彼女の兄であるヴェルガもきっとそうなのだろうと思った。それが間違いであることを指摘してくれる者はここにはいない。
「それで何か言われましたら、わたくしの名前を出してくださいまし。……もしヴェルガお兄様がカイル様を拒むなら、その程度の男だったということです。それでわたくしが何故お兄様をカイル様にかかわらせたくないか、わかっていただけると思いますわ」
その後、寮に戻ったカイルは縁あって隣室の少年と仲良くなり、話のはずみでつい先ほど知り合ったフィランピュアの少女のことを話した――――エレナとヴェルガが王族だと知ったのは、その直後のことだった。
*
カイルが初めてヴェルガを目にする機会を得たのは、始業式から一週間経ってからのことだった。ヴェルガはカイルとはクラスが違ったようで、講義でもなければ会う機会がなかったのだ。
講義は今週から始まる。週の初めの、午後の最後の授業。カイルがヴェルガに話しかけようと彼に近づいたのは、アルフェニア史が終わってすぐのことだった。
ヴェルガは席に着いたまま帰り支度をしている。彼と言葉を交わしている、隣に座っている片眼鏡の男子生徒は友人だろう。向こうがにこにこ笑いながら一方的に話しかけ、仏頂面のヴェルガがそれに二言三言の短い返事を返すという構図ではあるが。
白銀の髪と、氷のように透き通った冷たい水色の瞳。氷刃の王子という通り名は、彼の身分だけでなくその外見から名付けられたものなのかもしれない。白皙の貴公子はなにやらきらきらしくもとげとげしい空気をまとっていた。
さすがは生まれついての王族というべきか、その圧倒的な近寄りがたさに気後れしてしまう。だが、昨日カイルはエレナに約束したのだ。明日、ヴェルガを誘うから放課後に三人でどこかへ遊びに行こう、と。ここで退くわけにはいかない。
カイルの約束に対してエレナは難色を示したが、誘うだけ誘ってみればいいと言った。エレナが何故嫌そうだったのかはわからないが、きっと自分のことを心配してくれたのだろう。エレナはヴェルガとカイルを引き合わせたくないようだったから。
「よっ、ヴェルガ」
エレナに言われたとおり、カイルは自然体でヴェルガに声をかける。その瞬間、ヴェルガの友人(推定)の男子生徒がものすごい速さで顔を上げた。信じられないものを見るような目でこちらを見てくる名も知れない彼にぎょっとするが、構わずカイルは言葉を続ける。
「俺、カイル=ディンヴァードって言うんだ。よろしくな」
「……」
名を名乗ると、ヴェルガは無言でカイルを見上げた。不機嫌そうなアイスブルーの瞳がじろりとこちらを睨んでくる。
(なんだこいつ超こええええええ!)
カイルは笑みを浮かべたままだったが、内心では冷や汗がだらだらと垂れていた。
あ、これやばいヤツだ。覇者の眼光とか、射殺す魔眼とか、そんな技名がつくヤツだ! 心の中でそう叫んで固まるカイルの心中など気にも留めず、ヴェルガは苛立ったような低い声で問いかける。
「何か用か、ディンヴァード」
「え? いや、用ってほどじゃねぇんだけどさ」
あまりのことに、用事が一瞬頭から抜け落ちた。気を取り直し、カイルは改めてへらりと笑う。
「お前、これから帰りだろ? よかったら俺達と一緒に遊びに行かねぇか?」
「……」
沈黙が下りた。相変わらずヴェルガはすごい目つきでカイルを見ている。「貴様ごときがこの私を誘う? 正気か貴様」という心の声が聞こえてきそうだった。
「申し訳ありません。アルフェンアイゼ殿下のお時間は、すでに私達がいただくことになっているのです」
そう口を挟んできたのは、片眼鏡の男子生徒だ。彼は慇懃な笑みを浮かべてカイルを見上げている。だが、名前も知らない彼の言葉はカイルにとって脈絡のないものにしか聞こえなかった。
「あるふぇんあいぜ? 誰だそれ」
俺が誘ってるのはヴェルガだぜ、と続けようとした瞬間、その声が遮られる。遮ったのは他でもないヴェルガだった。
「……今、お前の目の前にいる。お前にとっては、覚えるに値しないもののようだが」
怒っている。確実に怒っている。小刻みに震えているのはその怒りを抑えるためだろう。
そういえばヴェルガはただのヴェルガでもヴェルガ=エスティメスでもなかった。頭が真っ白になってすっかり忘れていたが、この男はあだ名がそうだというだけではなく本物の王子でもあって、王子ということは殿下という敬称で呼ばれてしかるべき人物で、しかも"ヴェルガ"と"エスティメス"の間にもうひとつ名前があったのだ。
アルフェンアイゼというのがきっと彼のミドルネームなのだろう。そういえばこの国の名前はアルフェニアだし、隣室の友人から王族のミドルネームにはアルフェンの名がつくと教えられていた。それをもっと早く思い出していれば、こんな失態はなかったはずだ。
(や、やっちまったー!!!!!)
さすがにこれはまずい。どう取り繕えばいいのかわからず、テンパったカイルが選んだのは軽い冗談として流すことだった。下手に慌てるより、さらっと流して別の話題に変えてしまったほうがまだダメージが少ないと思ったからだ。
「あー、そういえばそうだったな。悪い悪い、俺って人の名前覚えるの苦手でさ。てか、この国の奴って、みんな名前が長くねぇか?」
「……もう限界だ」
そんなカイルのあがきに対する答えはその一言だった。カイルから顔を背けたヴェルガは独り言のようにそう呟く。片眼鏡の少年の憐れむような眼差しがカイルに突き刺さった。
「誘いは断る。俺は忙しい。お前に割いている時間はない」
そう言い捨てて、ヴェルガは帰り支度を再開させる。片眼鏡の少年も、ため息をつきつつそれにならった。
「え、あ、ごめん、そんなつもりじゃ、」
「ロラン、行くぞ」
それがヴェルガの最後の言葉だった。カイルのほうなど見ることもなく、ロランと呼ばれた片眼鏡の少年を伴い、ヴェルガは教室を出て行ってしまう。
「あー、行っちまった。……エレナになんて説明しようかなぁ……」
ヴェルガが自分に抱く印象はこれで地に落ちたことだろう。名前を忘れていたのはさすがに自分が悪いと思うが、エレナの助言も無駄にしてしまった。カイルは力なくそう呟く。教室中から向けられる視線が痛かった。
* * *
次話からヴェルガ視点に戻ります。