カイルの事情 2
貴族社会の常識というやつはとんとわからなかったが、男爵家の養子になってもカイルは優秀だった。
礼儀作法だけはどうしても身につかないものの、魔力量と知識は生まれついての貴族に引けを取らない。祝福の量だって申し分なかった。農民の子から貴族の息子にランクアップしたことで、公にできる祝福の数も増えた。しかしカイルの祝福は貴族から見ても破格だったらしく、そのすべての数を明かすことはできなかったが。
とりあえず、得ている祝福は十二の主神のうちの三柱とそれに見合う数の眷属神達、そして別の二柱の主神の眷属から何柱か、ということにしておいた――――本当は、闇と混沌の神とその眷属神を除くすべての神々から祝福を受けていたのだが。
サンベルとカイルはどちらも金髪緑目であり、サンベルは社交界にめったに姿を現さなかったことから、周囲の貴族はカイルをサンベルの実子だと信じて疑っていないようだった。
出不精の男爵が、田舎暮らしに飽き飽きした幼い息子のためにようやく重い腰を上げて他家に遊びに来た……カイルを連れて他の貴族の屋敷に行くサンベルについて、貴族達はそういう風に見ていた。
サンベルはカイルに貴族の常識を教え、次期男爵らしい教育もある程度は叩き込まれた。しかし、人間というものは使わない知識は案外すぐに忘れてしまうものだ。カイルは優秀で、物覚えもよかったが――――新しい知識を吸収する際、新たな知識を押し込む居場所を作るかのように関係ないことをどんどん忘れていくという悪癖があった。
男爵家とはいえ歴史も浅く、中央に出ることなどめったにない田舎貴族の養子になったカイルは、社交に必死になる必要などなかったし、王族やそれに並ぶ有力貴族と言葉を交わす機会などないに等しい。養父であるサンベル自身、最低限の礼儀作法はわきまえていたが、他の貴族からは貴族らしくないと陰口を叩かれるような男だったというのもあるだろう。礼儀作法についてはサンベルも緩かった。
だからカイルは、必死になって礼儀作法について知ろうとはしなかったし、王族の名前や有力貴族の家名をきちんと覚えることをしなかった。これが七年後、どんな結果を招くことになるのか、この時の彼は知る由もない。
サンベルに魔力はないが、その彼の目から見てもカイルは優れた法術師だった。数多くの祝福と豊富な魔力、そして大人顔負けの知識を持つ彼がいれば、ディンヴァード家はさらに発展するに違いない。そこでサンベルは養子の名に箔をつけるため、王都にある学院に通わせることにした。
サンベルの不幸は、彼が中央の社交界に招かれたことがなかったことだろう。ディンヴァード家はいわゆる成金だ。授爵したのはサンベルの祖父の代のことで、商売に成功した祖父が貧困にあえぐ男爵から爵位を買い取ったらしい。
しかしその商才は父に受け継がれることはなく、サンベルが生まれたときからずっと祖父の築いた財産を食い潰して生きている。そんな父から爵位を譲り受けたサンベルは、王都から遠く離れた田舎の人間だった――――彼は第三王子のことは知っていても、その実弟の第四王子についてそこまで注意を払っていなかったのだ。王には五人の息子がいて、四番目の王子は成人と同時に臣籍に下ることが決定している。サンベルが知っているのはその程度のことで、だからこそさほど気にもしていなかった。第四王子が養子と同い年で、これから養子を入学させようと考えている学院に第四王子も入学するのだと、サンベルは思いもしていなかった。
中央の貴族の子息が通う全寮制の王立学院は、入学金も学費も莫大だ。しかしそこに通えば、最先端の知識と流行、あるいは他国の情報を故郷に持ち帰り、家を栄えさせることができるし、領地をさらに発展させることができるかもしれない。当然領主からの覚えはよくなるだろうし、うまくやれば領地の一部を手にすることだって夢ではないだろう。それがサンベルの期待だった。
そしてそれ以外にも、学院に通ううまみはある。サンベルの知らないような有力貴族ともつながりができることだ。
弱小貴族のディンヴァード家では王家や名のある名門貴族からの招待状が届かないため、自領の周辺領地しか行ったことのないサンベルではろくなコネが作れない。だが、カイルを学院にさえ通わせればできるに違いない――――しかし悲しいかな、そのコネを手に入れるための準備などサンベルにはできず、そもそもサンベルは養子の人脈作りなどまったく視野にいれていなかった。
出不精なサンベルと、大領地とほとんどかかわらない小領地のありかた。それが、ディンヴァード家の発展と大領地の貴族の存在を結びつかせなかったのだ。カイルの未来の結婚相手だって、地元の地主の娘ぐらいにしかサンベルは考えていなかった。大事な一人養子を、婿養子として王都の大貴族に引き抜かれるのを、無意識のうちに警戒していたからなのかもしれないが。
カイルのほうも、身分の高い美しい令嬢との出会いに期待はしたものの、しょせんは夢物語だと一笑にふしていた。俺みたいな田舎っぺが王都のお嬢さんに相手にされるわけがない、と。
サンベルもカイルも、己の目を外に向けようとはしなかった。どちらも領地の中だけを見ていたのだ。カイルの入学にかかるもろもろの費用を工面するため、サンベルは奔走した。カイルも、養父が自分のために頑張ってくれているらしいとわかり、前世の知識を使ってそれを助けた。二人はそのことしか考えていなかった。
学校なんて自領やその周辺の小領地にもたくさんあるし、わざわざ王都まで行くのは面倒だったが、理由はともあれ都会で暮らせるというのはちょっと楽しみだったのだ。前世はともかく、現世では故郷であるこの辺境から出たことがない。そんなカイルにとって、王都というのは未知の夢溢れる場所だった。
サンベルが役人だったことを利用しての内政、便利な新商品の制作など、カイルの知識チートのおかげで入学資金はそれなりに集めやすかったが、普通辺境の小さな領地の貴族はたとえ領主であっても王都の学院などには通わないらしい。それこそ自領や周辺の領地の学校に通えば十分だそうだ。王都の学院は、王都にほど近い大領地を治める貴族や宮廷に強い影響力を持つ有力貴族の子息のためのものだ、というのが辺境の弱小貴族の常識らしい。
もちろんそういうわけではないはずなのだが、彼らの向上心は驚くほど低く、また国も別に次期領主であろうと王都の学院に通うよう積極的に働きかけようとしていないので、そんな常識が根づいてしまったのだろう。
辺境の弱小領主というのはいくら国から領土を賜っているとはいえその領地はごく狭く、何より歴史も浅ければ大した蓄えもない家ばかりだ。領主はもちろんそこに住む貴族も、少し前の先祖の功績で爵位を賜っただけに過ぎない。まさにディンヴァード家がそれだ。国が彼らを軽視し、彼らが自分達を卑下して栄華を諦めるのも仕方ないことかもしれなかった――――だが、カイルは彼らのような負け犬になる気などさらさらない。
ディンヴァード家の息子が王都の学院に入学したがっていると知り、カイルが暮らす領地と同じぐらい小規模な周辺の領主達は身の程知らずめとげらげら笑っていた。自領の貴族でさえそうだった。わざわざ王都まで行って恥をかく必要などない、と。
だが、それぐらいのことで諦めるサンベルではない。笑うなら笑え、その代わり金は落としていけとばかりにサンベルは彼らに様々な商品を売りつけ、カイルを学院に通わせる資金を貯めた。どうやらディンヴァード家の商才は、父を飛び越えて孫に受け継がれていたらしい。
必要資金が集まったのはカイルが十五歳になった年の秋のことで、正規の入学時期である春は過ぎてしまったものの、編入試験に合格すれば転入生として学院に通うことができるらしい。
いくら田舎貴族とはいえ、学校というのは入学資格さえ満たしていれば受け入れてくれるものだ。冬に行われた編入試験をあっさり突破し、カイルは難なく翌年度の春から二年生として転入できることになった。
学院には神の名を冠した四つのクラスがあるという。賢神ライドワイズ、武勇の神ブレイラブル、芸術の女神ローリネスト、慈愛の女神フィランピュア。それぞれ光と秩序の神ルドルリヒト、雷と勝利の神サウィンダー、森と平和の女神レスピス、月と美の女神シェーンという四柱の主神の眷属神だ。
クラス分けは得ている祝福の傾向に左右されるらしい。学院には生徒がなんの神の祝福を受けているか調べる道具のようなものがあり、それでカイルの祝福の数が一部の教師にバレてしまったわけだが、「目立ちたくないんで!」とごり押したのでなんとか秘密は守られた。
結局、カイルが転入するのはブレイラブルというクラスに決まった。カイルが公表していた祝福は武勇の神ブレイラブルを眷属とする雷と勝利の神サウィンダーのものが一番多かったし、十二の主神を統括する神の王サウィンダーにかかわりがあるクラスこそがカイルにはふさわしいと言われたからだ。もちろん選考の理由は他言無用だと言われたが。
クラスは三年間変わることはなく、生活する寮もそれぞれのクラスに沿ったもののようだ。学校行事は寮対抗で行われるというから、自分と同じ寮の生徒と仲良くなることが推奨されているが、他の寮に知り合いを作っておくと何かと便利らしい。どう便利なのかは学園生活を送るにつれてわかってくるだろう。当面の心配は、友人ができるかどうかだが。
まだ通ってもいないのに春休みとはこれいかに、と思いながら、春休みの間に実力テストなるものも受けた。テストの科目は履修希望を出した科目だけだ。
作法についてはさっぱりわからなかったが、他はなんとかすべての回答欄を埋めることができた。手応えのほどはわからない。できたような気もするし、できなかったような気もする。問題用紙は持ち帰れなかったし、解答も配られなかったので、自己採点はできなかった。結果が出るまで点数はわからない。
点数は、始業式の日に順位と同時に掲示板に貼り出されるようだ。それなんて公開処刑? と思ったが、それが通例のようなので甘んじて受け入れることにした。
そもそも自習しかしていないんだから、結果がどれだけ悲惨でも養父さんも納得してくれるさ。真ん中ぐらいにいれば御の字か……ぐらいの軽い気持ちでカイルはその日を待ったのである。
始業式を終え、生徒達は流れるように成績が貼り出される掲示板へと向かった。カイルもその中の一人だ。結果、カイルは我が目を疑った。作法はまあ仕方ない、仕方ないとして――――このよすぎる成績はなんなんだ。
作法のテストは下から数えたほうが早かった。だが、他の科目はすべてカイルが一位だった。カイルが選んだ科目の中で、カイルが一位でない科目など作法以外はなかったし、一位の科目の得点はどれも満点か満点に一、二点及ばないものばかりだった。
目をこすって掲示板を見た。結果は変わっていなかった。一度水道に行き、顔を洗ってからまた戻ってきて掲示板を見た。やはり結果は変わっていなかった。
一位、カイル=ディンヴァード。何十人もの生徒達の名前の上で堂々と輝くその名前は自分のものであるはずなのに、とても自分のものには思えない。カイルはあんぐりと口を開け、穴が開くほど掲示板を見つめていた。
「嘘だろ!? あの氷刃の王子が二位だぞ、二位」
「なあ、ディンヴァードって誰だ?」
「さあ。聞いたこともない名前だ」
「何者かは知らないが、王子の不興を買わないといいがな……」
「そういえばブレイラブルに転入生がいるらしいぞ。ディンヴァードというのがその転入生なんじゃないか?」
掲示板の周囲では、男子生徒達がひそひそとそんな会話を交わしていた。春休み中に寮の部屋へ荷物を運んでいたためブレイラブルの生徒にはカイルの顔を知られているかもしれないが、他の寮生はカイルのことなど知らないだろう。だからこそ、彼らはすぐ脇にカイルがいるにもかかわらずカイルの話題を口にできるのだ。
彼らの会話につられるように、カイルは自分の下にある名前を見た。ヴェルガ=アルフェンアイゼ=エスティメス。これがその“氷刃の王子”などというたいそうな名前で呼ばれている生徒の名なのだろう。
会話の内容から察するに、このヴェルガなる生徒に逆恨みされていそうで少し怖い。まだ見ぬ脅威に身を震わせ、カイルは足早に掲示板の前から立ち去った。
「うふふ。まさか発展剣術で十番内になれるとは思いませんでしたわ。これもティリカ様に足さばきを教えてもらったおかげですわね」
「ん……。アディンの筋がいいから、だよ。でも、わたしが役に立てたなら、嬉しい」
しばらく歩いていると、いつの間にか中庭に出た。少し離れた場所を二人の女子生徒が並んで歩いているのが見える。しかしその内の一人が紡ぐ低い声は間違いなく男のもので、たおやかな口調と可憐な外見とのギャップが激しかった。
彼女……いや、彼は、友人らしい女子生徒―こちらはきっと本当に女子生徒だ―のほうを見ているため、カイルからでは顔が見えない。
だが、この声にはカイルも聞き覚えがあったし、何故か女子の制服を着ている男子生徒について一人だけ心当たりがあった。アディン=ユース。カイルと同じくブレイラブルの二年生で、今日がほぼ初対面とはいえ一応クラスメイトだ。
アディンの隣を歩いている猫背の小柄な少女に覚えはないから、ブレイラブルの生徒ではないかカイルとは学年が違うのだろう。彼女は顔の上半分、ちょうど鼻の頭辺りまで長い前髪で覆われているので、どこかで会っていてもわからないかもしれないが、常にその髪型なら逆に覚えやすそうだ。……果たして彼女はあれで前が見えるのだろうか。
「テストの順位、といえば……ヴェルガ、二位で、驚いた、ね」
「あれは……ねえ? まさかヴェルガより得点の高い方がいらっしゃるとは思いませんでしたわ」
「ッ!」
この二人は、あのヴェルガという生徒を知っているのか。思わず表情をこわばらせ、カイルはさっと物陰に隠れて耳をそばだてる。わざわざ盗み聞きのような体になったのは、自分の存在を知られたら何か恐ろしいことが起きるかもしれないと危惧したからだ。
「きっと気にしているでしょうから、ヴェルガにこの話をするのはやめたほうがいいでしょうね」
「そう、だね。とりあえず、今日は、みんなでたくさん遊べば、嫌なことは忘れられるよ……たぶん」
アディン達はカイルに気づくことなく歩き去っていった。大した情報を得ることは叶わなかったが、アディンがヴェルガと知己だとわかっただけでも収穫だろうか。明日、それとなくアディンに探りを入れてみよう。そう決めて、カイルもそこから立ち去った。