希う
頬を伝う涙が、膝に乗った愛する少女のまぶたを濡らす。これが美しいおとぎ話であったなら、姫にかけられた眠りの呪いは王子の祈りの雫で解けただろう。けれどこれは現実だ。リディーラが目覚めないのは呪いのせいではなく、ヴェルガの流す涙にだってそんな不思議な力は備わっていない。
静けさだけがそこにあった。魔王が消えたことにより、バケモノは現れなくなった。水も霧もゆっくり消えていく。世界から魔王が失われたことで、善と悪の天秤はまた大きく狂うのだろう。けれどそんなこと、今のヴェルガにはどうでもいい。魔王という存在が完全に消滅したのか、それとも単純に封印しただけなのか、それすらわからなかったが興味なんてはじめからなかった。
生きているのはきっともう自分しかいない。みんなみんな死んでしまった。ヴェルガはこの虚無を知っている。遠い昔、味わったことがあったから。
それと同時に一つ前の記憶が溢れ出す。友が去る前の学び舎で。主のいない宮殿で。寒々しく薄暗い軟禁部屋で。枯れ花しかない中庭で。虚飾ばかりの玉座の前で。かけられた言葉が、吐いた言葉がぐるぐる渦巻く。どうしてこんなことになったのか、どうしてまた同じことを繰り返していたのか。その原因は、“一つ前”にあった。
――俺は英雄になんてなれなかった。……俺にできるのは、どうしようもない悪役だけだ。
――覚悟しろよアイゼ王、宰相メレクル! 俺の名前はカイル=ディンヴァード、お前らの圧政を終わらせる男だ!
――終わりのときが来たようですね。民は私達を許さないでしょう。処刑の日もそう遠くありません。……ですが、私達にとって死は終わりではないんですよね? だって私達はもう、人ではないんですから。
――陛下、貴方はこんな人ではありませんでした。今の貴方は……そう、まるで正真正銘の邪神のようです。献身の果ての自己犠牲の姿などではない、もっと悪辣な……。それとも今のそれが本当の貴方で、私が信じた過去の貴方はすべて偽りだったのですか?
――陛下、貴方はやり遂げた。国のため、人のため、世界のために……貴方は国を貶めて、人を苦しめて、世界を混乱させた。……それは、世界にとって必要なこと。だけど、許されないことでもある。だから……ラバイオ家の名にかけて、暴君は私が処刑する。
――我がユース家も、革命軍の支援をしているのです。もうすぐカイル様が……革命軍の指揮者がいらっしゃるでしょう。貴方がたもこれで終わりですわ。さぁ、おとなしく投降なさってくださいな。
――最後にひとつだけ、弱音を吐かせてください。……私は、疲れてしまいました。今まで何度も何度も時間を巻き戻してきましたが、その果てに辿り着いた結末がこれなんですよ。こんなことなら、星の導きの書なんていらなかった……!
――俺も、ちょっとは歴史を勉強したんだ。混沌の邪神の存在意義もわかった。でも、だからこそ言わせてくれ。王サマ、あんたは必要悪なんかじゃない。絶対悪だよ。あんたこそ魔王だ、世界をおびやかす悪逆そのものだ!
――貴方をいっときでも親友と思った、それこそが私の罪です。その恥は一生消せない業として、私について回るでしょう。貴方の在り方に友宜を感じ、貴方の思想に共鳴し、貴方の才能に忠義を誓うなど……ああ、少年時代の私はかくも愚かだった。せめて、この手で償わねば。
――おめでとうヴェルガ、君は次なる神に選ばれた! 僕の時代は終わりを告げた、君が新たなケルハイオスだ! 僕が千年座り続けたこの椅子を、君は何年守ってくれるんだい?
――お前が……お前が私の築き上げたものを否定するのか! お前が善神の器の役目を果たさなかったから、私もナディカもこうなった! そうだ、何もかもお前のせいだディンヴァード! お前が魔王にさえならなければ……!
――それでも最後に、これだけ教えていただきたい。陛下……ヴェルガ、貴方は何を抱え込んでいたんです? それは親友にすら背負わせられないものでしたか? それとも私達が親友だったというのは、私の思い上がりだったんですか?
――もしかしたら私もヴェルガくんも、本当に大切なことが見えていなかったのかもしれません。
――なぁ王サマ、あんたの話はこれっぽっちもわからねぇ。それでも、ただ一つだけ言えることがある。あんたは何もかも間違ってるんだ。
――復讐ですって? そんなこと、望んでなんかない! 死なせはしないわ……!
「そうだ……俺は……」
――たとえ世界中の人が貴方に石を投げても、貴方がわたしの手を振り払っても! わたしは、貴方をあいしつづけると決めたもの!
――……もう一度だけ、やり直してみませんか?
「思い出したか?」
揺らぐ幻覚が現れる。過ぎ去った未来の姿、ただあいするものを守りたかった愚かな少年のなれの果て。魔王の前に敗れ去り、それでも足掻き続けた己の末路。血に塗れ、諦観に溺れた暴君が、ヴェルガを静かに見下ろしていた。
「ナディカの気まぐれも、しょせんは無意味なものだったようだ。俺にできることなどあるはずがない。……そうだ、最初からそんなものはなかった。私の出した答えこそ、百年の挑戦の果てに辿り着いた唯一絶対のものなのだから」
それは、幾度も同じ惨劇を繰り返した末に出した結論だった。どうしたら惨劇を止められるか、考えた末の決断だった。
俺が悪役になればいいとナディカに言った。なら私も付き合いますと彼女は答えた。もう自分達は引き返せないところまで来ていた。だから、同じ罪を分かち合った。
「本当に、本当に俺は愚かだよ。結局、私と同じことを選んだ。私と同じように悪役になろうとした。“最初”の私とまったく同じだ。……それは、どれだけ時間をやり直したって私にできることなんて他にないということの証明だろう?」
友情の清算は、何かが芽生えぬうちにした。
入学時点ですでに友人だった少年は、手ひどいことを言って突き放した。後によき理解者になってくれる者達も、得難い仲間になるはずだった者達も、徹底的にいじめ抜いた。あらぬ噂を立てられて学院にいられなくなった者もいた。それでも折れない者は、親に圧をかけて自分の視界に入らないようにさせた。いつの間にか、自分の周りにはたった一人の共犯者を除いて誰もいなくなっていた。それこそ望むことだった。
血族の殺害は、すべて自分の手でやった。
招かれてもいない王宮の晩餐に出向き、供されたタルトに遅効性の毒を混ぜた。その場には、国王はもちろん第一王妃の子らという王族の中でも主要な者が揃っていた。食んだ者はみな死んだ。特別に調合したその毒に気づかなかった毒見ものちに死んだが、些細なことだった。次兄と、彼の母が乗る馬車にそれぞれ細工をした。馬車は谷底に落ち、従った者はみな死んだ。母と実兄は病に見せかけて殺した。その心臓を止めることなど、法術を使えば簡単なことだった。眠る末弟の首を絞めた。病弱な末妹の薬を、何の効果もないものとすり替えた。何も知らない二人は、何も気づかないまま穏やかに死んでいった。
恋心の決別は、最悪の形で行った。
学院にいさせてはいけない少年と、自分から遠ざけなければいけない少女。二人を同時に学院から追放するために、彼らが不貞を働いていたことにした。共犯者とともにでっち上げた証拠を盾にして彼女の奔放さをなじり、彼の非常識さを責めた。一方的に婚約の破棄を告げて、一切の弁明も聞かないままに二人を学院から追い出した。彼らを庇う声は上がらなかった。みな貴方の不興を買うのが恐ろしいのだと、共犯者は言った。共犯者――――ナディカも、自身の恋を諦めていた。
何度も時間を繰り返した果てに、そうやって玉座を手に入れた。来たるべき悲劇、それを回避するためだけに足掻いた結果がそれだった。
魔王の復活を食い止めるには善神の器に導きの書を渡すわけにはいかず、善神の器を魔王にさせないためには彼が正義として振る舞い続けるに足りる理由が必要で、そしてなにより悲劇の救済のために闇と星の権能を使いすぎたヴェルガとナディカが普通の人間でいるわけにはいかなかったから。
ヴェルガは闇と混沌の神ケルハイオスを、ナディカは星と時の神シャイツァイトを。古来からの掟に従ってそれぞれの名を受け継いだ二人は、それぞれの役割を担うことになる。ナディカはヴェルガを巻き込んだ責任感から、ヴェルガはナディカを利用した罪悪感から。二人は共犯者となって、共に同じ運命を背負った――――けれどその死の間際、ヴェルガとナディカは気づいてしまったのだ。
「これ以上は時間の無駄だ。さあ、この意味のない人生を巻き戻して私の人生をやり直そう。すべてを思い出した俺は知っているはずだ。どうすれば神の道が開けるか」
全部忘れて、なかったことにして。一度は諦めたはずの幸せを、また夢見てしまった。違う選択肢があった可能性に縋り、罪を重ねておきながらものうのうと救いを求めてしまった。だから、これで本当に最後だなんて銘打って、またこうして意味のない繰り返しを――――
「……違う」
これが無意味だなんて誰が決めた。夢見ることが許されないなんて誰が言った。この時間の価値を計れるのは、今を生きるヴェルガだけなのに。
すべてを諦めた自分。その行いを糾弾した人々。そんなもの、どれもがただの過ぎ去った亡霊だ。過去になした功罪は消えた。かつてのヴェルガは失敗したのかもしれないし、成功したのかもしれない。けれど今のヴェルガには関係ないことだった。
かつてのヴェルガが正しかったかどうかなんて、決めるのはその道を歩んだ幻影自身だ。彼が選んだ道はもう閉ざされ、辿り着いた道の果てから新たな一歩を踏み出している。これからどこに向かうかを決めるのは、他ならないまだ何者でもない少年なのだから。
「私にとっては最後でも、俺にとっては一度目だッ――!」
ナディカは自分達が生まれる年まで時間を巻き戻し、神の力の継承をなかったことにした。けれどその時点での“邪神”はヴェルガだ。邪神に他の神の権能は効かない。時機の小さなずれから生まれた歪みは、神の名残をわずかに留めた。
ひとりしかいないはずの“神”のうち、古い神は座を譲って力を失い、本人の心にたゆたう残滓になる。それまでのすべてを記憶している幻影は深層意識の底に眠り、そこでようやく邪神の座は再びリートのものになったのだ。
リートは何も覚えていないはずだ。時の女神となったナディカが行った大規模な時間の巻き戻しは、邪神の座にヴェルガがついていた時分に行われている。今まで二人が繰り返してきた時間どころか、二人が生まれてからのすべてがなかったことになり、そこではじめて邪神の名がリートに返還されたのだ。邪神でなくなって消滅していたリートに、他神の権能の無効化はできない。たとえリートとかつてのヴェルガの間に親交があったとしても、リートは何も覚えていない。そして時の女神でなくなったナディカの記憶もまた、消えた自分がすべてを受け止める形で心の奥底に封じ込められた。
神の力を持たない、人間としてのヴェルガとナディカはそうやって生まれ直した。実際に流れた時は一年にも満たず、けれど時間にするならおよそ百年。それほどの長きに渡って導きの書を行使し続けた事実は消えた。今引き出せる導きの書の力は、以前のそれとは程遠い。けれど、だからこそ。今のヴェルガにはまだ時間がある。過去の悪役と同じ道を辿る前に、やり直す機会がある。今のヴェルガは闇と混沌を司る邪神ではないのだから。
失われた過去の追憶は、まるで他人事のようで。それが実際にあったことだというのはわかっても、今のヴェルガには結びつかない。今のヴェルガとかつてのヴェルガはもはや別人だ。今はもう消えてしまった百年に及ぶ奮闘と、それらすべてを飲み込んでなおただ一人さまよう亡霊。たった今ぶわりと流れた回想は、あくまでも幻影としての“彼”の最後の生の追体験にすぎない。それは暴君のものであるが、少年が有するものではなかった。
「なッ……!? 無駄に決まっている! 私の百年に及ぶ挫折を、たかが一度失敗しただけの俺が塗り替えられるものか!」
「黙れ! そんな奇跡を信じたからこそ、私は何もかも捨てて俺にすべてを託したんだろう!?」
来たれ。鋭く短い詠唱の声に従って、導きの書は主の前に姿を現した。
何もわからないのに使えてしまった時とは違う。リートに教えられた時とも違う。実感はないが、不思議と理解できる。邪神の器としての領分を守ったまま、導きの書に秘められし神の力を借りる方法が。
「私達は新しい自分をまっさらな状態で作り上げて、叶えられなかった夢を押しつけた! 私は期待したはずだ! 何も知らないころの自分なら、終わらない時間の流れに疲れきって狂い始める前の自分なら、今とは別の答えに辿り着くんじゃないかとな!」
ヴェルガは適当なページを開いただけだ。たったそれだけで、不可視の力が導きの書を通して身体の中へと流れ込む。いまだ不完全な闇の導きの書は、それでも主に共鳴した。
ああ、確かにこの力を使ったことがある。心の奥底に眠る邪神がそれを知っている。あの時振るえた力は今よりももっと純然たるものだったが、人の身で行使するならこの程度でも十分すぎた。
「ナディカの気まぐれ? ふざけるな、それを承諾したのは確かに私の意思だ! 提案したのはナディカが先だったかもしれないが、私だって同じことを考えていたんだろう!?」
「知ったような口を……!」
「知っているさ! 俺は私なんだ、私が言ったことだろう! 自分のことは自分が一番わかっている!」
どれだけ否定してもそれは揺るがない。何者でもない少年は、選択次第で狂気に堕ちた暴君になる。もしもの可能性どころの話ではなく、実際にそうなった未来がある。だから今さら否定はしない。その事実から目を背けない。拒むのは、ただ少し長く生きたからといって上位存在ぶる自分の過ちだ。
「私はやり直したいんだ、狂った悪役にならずにみんなを守りたかったんだ! だってそうだろう、リディーラにあんなことを言われても揺らがないなんて私じゃない! だから私は希った、自分を含めた救済を!」
かつてヴェルガは、リディーラのためと自分に言い聞かせて彼女を手ひどく突き放した。暴君の傍にいさせては、彼女までそしりを受けてしまうから。いずれ裁かれる罪人と添い遂げさせては、彼女まで苦しめてしまうから。
意図はどうあれ、ヴェルガはリディーラを裏切った。その理由を説明しないまま、彼女の名誉を傷つけた。だからリディーラはヴェルガのことを見放しているべきで、そうでなければいけなかった。
――ヴェルガは、どんなになってもわたしの大好きなヴェルガよ。
けれどリディーラは、ヴェルガを信じていてくれていたから。重く一途な愛は楔となって狂気に満ちたヴェルガの心を穿つ。己を殺したはずの悪役の中に生まれたわずかな迷いは、ありえぬことだと一笑にふした夢物語を一瞬だけでも信じさせてしまった。
リディーラの愛に応えたい。誠意を持って報いたい。もう一度、友に囲まれて笑いたい。繰り返される時間の流れに消えていき、捨てたはずの暖かな思い出が、ささやかな願いが、死して神の座に招かれようとした時に蘇る。それは非情に徹した暴君を、最後の最後で人間たらしめた。
ナディカも同じだったのだろう。処刑を待つだけの元婚約者に手を伸ばしたリディーラ、それに心を動かされてしまったヴェルガを見て、ナディカもまた果てぬ夢を見てしまった。だから闇と混沌の神は、星と時の女神は、覚悟のうえで得た神の座を捨ててまでただの人間に戻ったのだ。ゆえに少年はそれに応えなければならない。他ならない、己の望んだ未来なのだから。
「ああ……足が痺れて動けないな」
まったく関係ないことを呟いて空を仰ぐ。この鬱屈した物語を振り払うように、嘲るように、拒むように。揺らぐ自分の幻影は、それを聞いてようやくぎこちなく笑った。
「廻れ廻れ悠久の刻、万物乗せた螺旋の渦よ。逆らう者に誉れあれ」
それ以上の自問自答は必要ない。だからヴェルガは自然と湧き出る言葉を紡ぐ。
ぶわり、と。巻き上がった風は幻を掻き消し、ページをばらばらとめくり上げる。そこから生まれる光の奔流はやがてひとつの姿を形作った。それは時計の針のようにも短剣のようにも、そして鍵のようにも見える。時間を司る神が持つ権能の象徴が、今ヴェルガの手にあった。
他の主神の権能を再現する、闇と混沌の神ケルハイオスの真の権能。星と時の神シャイツァイトの力を模倣し、なおかつ人の身で扱えるまでに劣化させたそれは本来あるべき輝きとは程遠い。だが、これで十分だ。
「顕現せよ――模倣展開・運命を拒む禁忌の鍵!」
惨劇が起きる前。魔王が蘇る前。この日の午前零時に、時計の針は巻き戻る。




