カイルの事情 1
* * *
カイル=ディンヴァード。その名前は、生まれた時からカイルのものだったわけではなかった。
カイルはもともと、辺境の子爵領で暮らす農民の子供だった。六人兄弟の末っ子だということもあってか、親兄弟はみな優しかった。家は貧しかったが、カイルの家族は幸せに暮らしていた。
カイルの父は美丈夫で、母はたおやかな女性だった。その血を受け継いでカイルや兄達も中々整った容姿をしていたが、カイルが一番イケメンだった。
もっとも、それはあくまでも田舎の村の基準だ。広い世界の基準で言えば、せいぜい中の上と言ったところだろう。鏡に映る自分のイケショタっぷりにいくら驚こうと、父のマッチョぶりや母の美人ぶりを自慢に思おうと、もっと優れた容姿の奴なんて都会にはゴロゴロしているに違いない。結局、カイル一家は平凡の範疇を出ていないのだ。
しかし平凡な家庭に生まれたはずのカイルには、普通の子供と違うところがいくつもあった。最も顕著だった相違は、彼が“カイル”としてこの世界に生まれ落ちる前のことを覚えていたことだろう。
物心ついた時には、それがこの世界の記憶ではなく別の世界の記憶なのだとわかるようになっていた。カイルはそれを、前世の記憶、と称した。
本、ゲーム、テレビ。本はともかくゲームもテレビもこの世界には―少なくとも幼いカイルの身の回りには―なかったが、カイルにはそういった品々についての知識があった。そんな娯楽の品々を楽しんでいた記憶から、カイルはこの世界をファンタジーな異世界として認識した。ああ俺、異世界に転生したんだ。弱冠九歳のカイルは、漠然とそう思った。
カイルの記憶によれば、この世界は前世でいう近世ヨーロッパに似ていて、けれどまったく異なる文化の世界だった。文明レベルは前世のほうが進んでいるようだが、現世は法術という前世とはまったく違った技術が発展しているらしい。
ある程度は前世の知識で無双できるだろうが、それもどこまで通用するか。記憶は日々劣化する。カイルはひとまず前世に関する記憶を書き留めることに熱心だった。当然、前世の自分が日常的に使用していた言語でだ。
農民では文字の読み書きなどできないし、教えてもいないのにできたら不気味がられてしまう。そもそもカイルはこの世界の言語をどう読み書きしたらいいのかわからない。だから記憶のメモはかつての母国語で記したのだが、そのメモは周囲の大人達にとっては幼子の微笑ましい落書きにしか見えなかった。
カイルとしての自我よりも前世の自我のほうが我が強かったのか、“現世の自分”と“前世の自分”の境界は非常にあいまいで、けれどどちらもカイルだった。
かつての自分は、ここではないまったく別の世界で暮らしていたのだ。現世での知識や常識を吸収する前に前世の知識が身についていたため、現世の世界での生活はカイルにとって新しい発見の毎日だった。
まず、この世界には前世と違って法術なる不思議な力があり、魔物という恐ろしい生き物がいる。法術は魔力という燃料を用いることで使うことができ、魔力の量や質は人によって違うという。魔力持ちは出自にかかわらずいるというが、数が多いわけではないらしい。カイルはこれを、前世で好んでいた創作物によく登場しているものだと思うことでその事実を受け入れた。
次に、この世界には神というものが明確に存在している。十二の主神とそれぞれの眷属神を含め、神の数は百を超えるらしい。生まれる子供はたいてい何かしらの神の加護を受けていて、人々はそれを祝福と呼んでいた。カイルに与えられた祝福の数は途方もなく多かったが、これは異例のことだそうだ。
普通、農民の子なら与えられる祝福は農業を司る神のものだけらしい。眷属神だけなら複数の神の加護を得る者もいるというが、それにしたって二、三柱で、主神クラスからの加護を得るなど夢のまた夢だ。カイルのように数えきれないほどの加護を得られるのは、それこそ王侯貴族ぐらいのものだった。
カイルの両親は、息子を悪目立ちさせないように、通例通りカイルの祝福を農耕神アグティのものだけだということにし、カイルも必要以上に祝福についてひけらかすことをしなかった。もちろん自慢したい思いはあったが、飛び出る杭がどうなるのかを思うと怖かったからだ。
祝福自体にさしたる効能はなかった。少なくとも、その祝福の効果をカイルが実感したことはあまりなかった。たとえば豊穣神から祝福を受けているなら育てた作物が少し増えるとか、農耕神から祝福を受けているなら農作業をしてもあまり疲れないとか、そんな利点があるそうだが、そんな加護は農村生まれならほとんど全員が持っている。比較対象が比較としての意味をなさない以上、祝福の有無でどれだけ差が出るのかはわからなかった。
一つ一つの加護に強弱の差でもあれば少しは違ったかもしれないが、この祝福というのは誰に対して与えられるものであっても一定らしい。祝福の優劣は、その数だけでのみ決まるそうだ。十二の主神のうち一柱から祝福を得ていれば、少なくともその眷属神の半分の祝福を得たことになる。
逆を言えば、ある主神に仕える眷属神の中から半数以上の祝福を得ていれば、その主神からも祝福を得られるということだ。主神からのそれと眷属神からのそれではこれぐらいの差しかなく、あくまでも重視されているのが数だというのがわかる。
祝福の数なら確かにカイルは誰にも負けない。だが、多くの祝福を得ていることが一体なんの意味を持つのだろう。カイルにはわからなかった。人より足が早い、人より力が強い、人より物覚えがいい……どれが"才能"でどれが"祝福"のおかげなのか、カイルはもちろん他の者にも判別できなかったというのもあるだろう。
カイルの周囲の大人達は、それをカイルに教えられない者ばかりだった。農業に関係する神以外からの祝福がもたらす恩恵について、彼らはまったくの無知だったからだ。もらったことがないからわからない、関係ないことだから知ろうとしなかった、それが彼らの言い分だった。
もしこれがゲームで、すべてのパラメータがステータスか何かに表示されているのなら、その効果もわかりやすい形で目に見えて表されるのだろう。だが、あいにくそんなものはない。カイルの認識として、祝福の数が多いというのは自尊心をちょっと満たす程度のものでしかなかった。ゲーム風に言うなら、コンプリート要素の実績トロフィーといったところだろう。
もちろん、この世界で生まれ育った生粋の現地人からすればそういう言葉では片付けられない。聞いたところでは、祝福の数で王が決まることもあるという。祝福は多ければ多いほどいいとされ、具体的な知識こそないもののカイルの周囲の大人達はみなこぞって祝福をありがたがった。神からの贈り物、神の愛、英雄の証。中身のわからないものをそう呼んで尊ぶ村人達のことはカイルには少し理解しがたかったが。
カイルが暮らしているのは、イーヴレオスという地方にあるアルフェニアという王国だ。アルフェニアはイーヴレオスの中でも一位、二位を争うような大国らしい。そんな国でも祝福の数が重視されているのだから、実はカイルが知らないだけで祝福にはものすごい意味や力があるのだろうか。
もっとも、地理や国力など辺境領地の平民の子として生を受けたカイルにはあまり関係のないことではあったが。王都生まれならまだしも、辺境で暮らす平民が国外のことを知る必要などどこにもない。それを証明するかのようにカイルの両親はイーヴレオス地方にあるアルフェニア以外の国家についてよく知らなかったし、隣国の名前すらもあやふやだった。
知りたがるカイルに、苦笑交じりで「そんなこと、俺らが知っていてもなんにもならないぞ」と言った父に、カイルは少なからず失望した。カイルは決して勤勉なほうではなかったが、自分の国のことぐらい知っておかないと大成できないのではないか、という危惧があったのだ。
それは焦燥となってカイルを追い立てた。学がないから貧乏で、金がないからちゃんとした学校に通えず、学歴がないから鍬を取るぐらいしか仕事がなく、都会に出るための路銀すらもろくに貯められない。大国といえど近世レベルでは平民の生活水準などしょせんはこんなものか。前世を思い出すたび、そんな斜に構えて馬鹿にするようなことを思う。頭の中でもう一人の自分がそう言うのだ。
何事にも一生懸命の無鉄砲で熱血漢な現世のカイル、冷徹で計算高く野心に溢れる前世のカイル。この二人はどちらも自分自身であることに違いはないはずだが、些細なことでよく脳内での言い合いが始まってしまう。カイルが己の二面性に自分なりの決着をつけ、成り上がり欲だけは心の奥で燃やし続けるものの、他の感情では現世の自分が前世の自分に打ち勝てるようになるのはまだ先の話だ。
ほどなくしてカイルは両親を教師にするのを諦め、農作業の合間を縫って村の司祭に教えを乞うようになった。村では司祭が一番教養があるともっぱらの評判だったからだ。司祭は文字の読み書きや算術ができて、カイルはようやくこの国の言葉を読んだり書いたりできるようになった。
カイルは優秀だった。いや、司祭が教えた勉強は、そのほとんどが前世の時点で身に着けていたものだったと言ったほうが正しいだろうか。知っていることをこの世界の常識になぞらえて改めて教わっているだけなので、カイルは土が水を吸うように次々と知識を吸収することができた。
「これが知識チートか」と呟くカイルの言葉の意味を理解できる者はいなかったが、カイルが誰よりも秀でていることは誰の目にも明らかだった。当然、司祭の教えも徐々にカイルにとっては無意味なものになる。司祭は優秀な教え子の成長を喜んだがそれと同時にわずかに嫉妬し、しかし次の瞬間には幼子に対して嫉妬心など抱いたことに深く恥じ入っていた。
ほどなくしてカイルは、不便な生活を少しでもよりよいものにしようと物作りに励むことにした。
都会の街では法術を用いた便利な道具、法術具がたくさんあるらしいが、田舎のこの村ではそんな便利グッズなどどこにもない。井戸から水を汲むのも、畑を耕すのも、すべて自分だ。ボタン一つで涼風や温風を吐きだす機械も水を温めてくれる機械もない。前世のあの楽な暮らしが忘れられなかったカイルは、ないなら作ればいいとばかりにそれらを生み出すことに励んだ。
カイルはあまり手先のいいほうではなかったが、神はカイルに味方してくれていた。そう、カイルには法術の才能があったのだ。エアコンだのテレビだの、前世の記憶にある文明の利器の仕組みなどカイルは知らない。だが、それがもたらす結果は知っている。あれがどういう原理で動くかは知らなくても、動いた結果どうなるのかはわかっていて、なおかつ法術という科学とはまた違った便利な文明があるのだから、見様見真似とはいえそれらしい道具を作るのにさほど時間はかからなかった。
カイルの作った法術具は、村で唯一の法術具になった。しかし、街から来た行商人の話では、都会にはすでに似たような法術具があるという。負けていられないとばかりにカイルは色々作った。作り、それを維持するだけの魔力がカイルにはあった。
だが、色々作ってはたと気づいた。こんなにたくさん作ったら、俺一人じゃ絶対管理できない、と。
法術具を扱うには、法術の源である魔力が必要だ。法術には治癒、召喚、守護、呪詛の四つの種類があり、カイルは召喚の法術を使ってあらゆる精霊を喚び出してその力を法術具に込めたり、遠くにある物を道具の中に入れたりしている。法術具を動かすため、カイルは定期的に法術具に自分の魔力を込めてそれを村人達に貸し出していた。法術具に溜めた魔力がなくなれば、村人は法術具を持ってカイルのもとを訪れるのだ。
法術具の貸出料でカイルの家はそれなりに潤った。だが、それに比例するようにカイルの疲労は溜まり続けている。魔力のほうは一向に枯渇する気配がないので大丈夫だと思うが、肉体的に疲れてしまったのだ。
家族は思わぬ収入に喜んだが、だんだんカイルを心配するようになった。カイルも、ひっきりなしに訪れる村人の対応を面倒に思うようになった。そしてこう考えたのだ――――魔力がなくても動くものを作ればいいんじゃね?
カイルが目指したのは、前世の科学技術で作られた機械の完全再現だ。しかしカイルの試みは失敗に終わった。当然だ、仕組みがわからないからわからないところを法術に頼ったのに、法術を抜きにして再現できるわけがない。それがカイルの、この世界に生まれて初めての挫折だった。
しばらくふてくされていたカイルだったが、できないものは仕方ない。すぐに彼は思考を切り替え、魔力がそう簡単になくならないよう今まで以上に法術具に魔力を込めようと思った。どうせ魔力は無尽蔵にある。村中の法術具をいったん回収し、カイルはそれに必要以上の魔力を込めた。計算では、向こう十年は魔力の補充がなくても動き続けられるだろう。村人は喜んだ。
前世の記憶があっても無双できるわけじゃない、という経験はカイルにとって貴重な勉強になった。むしろこの底なしの魔力こそが異世界ライフを充実させる鍵ではなかろうか。平民の息子として生まれたはずの自分が秘めるポテンシャルに戦々恐々とせずにはいられないカイルだった。
ある日、そんなカイルに転機が訪れた。法術具を一人で作り続ける九歳の少年がいる、という噂を聞きつけた貴族が、カイルに会いに来たのだ。その貴族こそ、のちのカイルの養父となるサンベル=ディンヴァード男爵だった。
普通、貴族は平民などのために便宜を図ることなどない。もちろんすべての貴族がそうだというわけではないが、大抵の貴族は平民などにはこれといった関心を持っていなかった。その証拠に領主はカイルの名など知らなかったし、他の貴族達も噂の少年が平民出身だと聞いてからは与太話だと切り捨てている。真剣にその話を聞いていた貴族はサンベルぐらいだった。
「君がカイルか」
「あ……は、はい」
家にやってきた謎の紳士を、カイルは委縮しながら見上げた。薄い金色の髪をぴったりと撫でつけた男は口ひげを撫でながらカイルを見下ろしている。
「君の評判は私の耳にも入っている。ずいぶんと優秀だそうだな」
「え、えっと、ありがとうございます」
「ああ、ディンヴァード様、もったいないお言葉でございます!」
「まさかカイルに会うためにディンヴァード様が来てくださるなんて……」
両親は感極まって跪いていた。カイルはこの紳士が何者なのかを知らなかったので、困惑しながら両親を見るが二人は何も言ってくれない。ディンヴァードというこの男はきっと偉い人なんだろう、と見当をつけることはできても、どれだけ偉いのかわからないのだ。
「そのことなんだが、折り入って相談がある。……ご子息を、私に預けてはくれないだろうか?」
「えっ?」
問いかけはカイルではなく両親に向けられたものだった。それでもカイルは思わず声を上げる。両親はぎょっとしたように男を見て、それから二人で顔を見合わせた。
「そ……それは、どういった意味でしょう?」
「私達夫婦には子供がいない。しかし、後継ぎがいないのは少々問題でな。そこで、優秀な少年を養子に欲しいと常々思っていたのだ。無論、君達にも相応の謝礼は渡そう。親子の縁を切れとまでは言わないし、会いたいならいつでも会わせてやる。どうだろう、考えてみてはくれないだろうか」
カイルはその時思いもしていなかったが、この時のこの紳士の申し出は貴族が平民に対してするものとしては破格と言っていいものだった。貴族が平民の子を養子に欲し、実の両親との繋がりも断たせない。それがどれだけ平民側に譲歩した申し出か、両親はわかっていた。
だが、さすがに二つ返事で差し出せるほどカイルへの情が薄いわけではない。どう答えるべきかまごつく二人を見て、紳士はふっと微笑んだ。
「なに、今ここで答えを聞かせてくれとは言わん。……明日、また来よう。返事はその時に聞かせてくれ。案ずるな、どんな返事であっても私は君達を恨まない」
そう言い残し、紳士は帰っていった。
それから両親は、わけがわからず呆然とするカイルに事の次第を説明した。今の男の名はサンベル=ディンヴァード、ディンヴァード家はこの領で暮らす貴族の一族のひとつであり、村長よりもさらに偉い人物だということ。ディンヴァード家は男爵位を持っていて、サンベルの申し出を受け入れるならカイルは貴族になれること。カイルがサンベルの養子になっても、家族はずっと家族であること。サンベルの養子になれば、カイルはきっとこんな狭い田舎ではなく王都で立派に身を立てられるに違いないこと。どうするかはカイルが決めればいいと、両親は言葉を締めくくった。
家族は好きだ。だが、出世はしたい。持って生まれたこの魔力と神の祝福と前世の知識を、こんな田舎で埋もれさせるなんてもったいない。家族にはまた会える。たとえ養子になったとしても、住む家と保護者が変わるだけではないだろうか。カイルは悩んだが、答えはすぐに出た。
カイルの決定を聞き、両親は少し寂しそうに微笑んだ。しかし息子の大成を願ってか、二人はカイルの選択を尊重した。そして翌日、改めてやってきたサンベルにカイルは自分の口で返事をし、カイルはカイル=ディンヴァードになった。