闇に堕ちる
「……母上は、ディアス自治領から服従の証として父上に嫁いだ。それはお前も知っているだろう」
不意にエドリックは話題を変えた。ヴェルガは小さく頷く。栄華を極めた王国のなれの果て、ディアス自治領は今やアルフェニアのいち領土だ。三つの大国の前身となった亡国は、名だけは尊ばれるものの実質的な力はなかった。
「その時すでに父上のもとにはカレリアから嫁いできた王妃がいた。当初与えられた母上の役割は、ディアス自治領が完全にアルフェニアの手中にあると諸国に知らしめることだ。第一王妃の悋気もあり、それ以上は求められていなかった。それゆえ、公爵家から三番目の王妃が嫁いできても、母上は父上の情けを得ることがなかった」
「……父上にとっては、名以外に何も持たない飾りの妃よりも大国から来た妃と有力貴族出身の妃のほうが大切だったからでしょう?」
「ああ、その通りだ。それが己の子供を産ませるにふさわしい女だったからなのか、愛しい妻だからだったのかは知らんがな。……しかしそんな日々が続いていれば、諸国から疑問の声が上がる。力をもってディアスの地を制したアルフェニアは、祖国を統一することで祖先に報いることを望んだのではなく……祖先をないがしろにしたのではないか、とな」
「ディアスの姫である母上とアルフェニアの王である父上が不仲だとみなされれば、自治領奪還の大義名分を得た諸国がアルフェニアに攻めてくる。それを防ぐため、ようやく父上は母上に情けを与えて……そして私達が生まれた、と?」
つとめて他人事のように問う。エドリックは重く頷いた。
本当は、王女として生まれていたらよかったのだが――――そう続けたエドリックの瞳は静かな怒りに満ちていた。彼が己の生まれた意味をよく思っていないのは明白で、その命を物としてしか見てくれない両親への憎しみがにじんでいて。それでも愛を乞う、小さな子供のようだった。きっと同じ目をヴェルガもしているのだろうが。
「兄の私はできそこないで、弟のお前は悪い意味で優秀すぎる。ディアスの姫から生まれた私達は、どちらも王子としては不適格だ」
理解したくなかった現実は、他ならない兄の口から突きつけられた。母が父から忘れられた一番の理由。王の隣で美しく微笑み、古の王家の流れを汲んだ王子を生む。その役目を終えたからではない。単純に、生まれた王子が父の求める後継者ではなかったからだった。
だから第二王妃に三人目の子供はいない。才能のない一番目、災いを招く二番目が生まれてしまった以上、三番目を作ったところで期待できることなどないから。これ以上子供を増やしても、持て余してしまうだけだから。また使えない王子が生まれたら困るから。だから王は、とりあえず生まれてしまった子供達の最低限の面倒だけ見てあとは放置した。生まれるのが王子か王女か、そんな賭けに出る気はもう王にはなかったのだろう。
「……もしも私達が王女であれば、王位の継承とは離れたところで生きることもできたでしょうね。ディアスの血を求める者のもとに嫁ぐだけでつとめを果たしたと評価されたはずです。それもまた、父上が娘に求める役割なのですから。嫁ぎ先での待遇の良し悪しはあるでしょうが……」
ローザリアの結婚は、つまるところそういう意味だ。父王は、今年成人を迎えたローザリアを女王に据えるのではなく他国に嫁がせてその国の王族との結びつきを強くすることを選んだ。カイルが父の眼鏡に適わなければ、エレナも卒業と同時にどこかへ嫁がされるのだろう。
「そうだ。しかし私達は王子として生まれた。……ゆえに、私は母上の血の価値を示さねばならん。どこの馬の骨ともしれん輩に、負けるわけにはいかんのだ」
「兄上……」
エドリックは、結局のところ母のことを嫌ってなどいないのだろう。彼女を愛しているからこそその弱さを憎み、彼女を苦境に追いやった己を嫌い、枷にしかならない弟を厭い、すべての元凶たる父を恨み、けれどそれでも諦めない。自身が善き王となることで、自分を否定したすべてに自分を認めさせようとしている。父を見返そうとしている。
しかしヴェルガはエドリックとは違う。いかなる才能を発揮したところで認められることのないヴェルガに、エドリックと同じことはできない――――けれど、そんな彼にも一つだけできることがあった。
「私も兄上と同じ、ディアスの血を引く者です。けれど私は、兄上とは違って王を目指すことを赦されてはいません。……私は傍系とはいえエイルス王の子孫であり、彼と同じく邪神の寵愛を受けた者。なればこそ、私にしか果たせない役目が……私が果たすべき大義があるのでしょう」
エイルス王は、自身の後継者を望んでいなかった。二の舞にしたくないとまで言った。それでもヴェルガは決めた。決めてしまった。邪神の器としてではなく、呪われた王子としての在り方を。
どうして自分は邪神の加護を受けたのか。何故、この忌まわしき身が王族として生まれてしまったのか。闇と混沌の神ケルハイオス、あるいは献身と自己犠牲の神。そう呼ばれた神がヴェルガとともにある。それがリートなのか、それとももっと上の……たとえば理とやらが決めたことなのかはわからない。それでもヴェルガが必要悪の体現者の寵愛を受けていることに変わりはなく。だからつまり、それが答えなのだろう。
邪神の器、それはあくまでも世界における均衡を保つための調停者の名に過ぎない。しかしヴェルガが邪神の器だということを知る者は少ないし、多くの者にとってヴェルガは混沌に愛された災いの子だ。人々は、ヴェルガがそうあることを望んでいる。そうでなければ、偽りの悪を飲み込む真の巨悪が蘇るから。だから誰もが勘違いをする。誤解する。無意識のうちにそう思い込んでいるから、ヴェルガに悪役であることを期待する。
ゆえに、人々の願い通り悪役になることを選んだ王子は望んだ。己の生きた証を世界に刻むことを、たとえ悪しき名だとしても人々に認められることを。
――俺が悪役になれば、それですべては解決するだろう?
ああ、そう嗤った時に目の前にいたのは誰だったか。言った覚えのない言葉、けれど頭に響くその声は確かに自分のもので。小さな声で同じ音を転がせば、案の定舌によく馴染んだ。
「ヴェルガ?」
「兄上。申し訳ございません。……願わくば、兄上とはよい兄弟でありたかった。私達は仲のいい兄弟になれると、もっと早く気づきたかった」
たとえどれだけ努力したところで、エドリックはきっと王になれないだろう。エドリックは、父が最も重んじている神からの祝福が圧倒的に足りないのだから。
父王にとってエドリックは三番目の王子であり、それ以上でもそれ以下でもない。継承権第三位という立場から、あの場に招かれなかっただけで。実際のところ、彼のこともまた己の後継者候補とはみなしていないのだ。
セスティスか、ルーウィルか、キースか、あるいはエレナか。第一王子の名も、第五王子の名も、神の力の前では何の意味ももたらさない。善神の器と第二王女の仲はいまだ公式のものではない。とするとやはり、炎と正義の神の力を得るであろうルーウィルこそ現状もっとも次期国王の座に近いのだろう。そもそも、この中でヴェルガがつくことができるのはルーウィルしかいない。
――私の次は誰を殺す気だ。兄上達を手にかけたのもお前だろう? 力づくで奪い取った王冠は、血に塗れてさぞ美しく輝くのだろうな。……残念だよヴェルガ。こんな形でさえなければ、私はお前に臣従を誓ったというのに。
「いずれ私は罪人となるかもしれません。ですが、それは兄上にはかかわりのないこと。何故なら私は兄上の弟である以前に、邪神の化身なのですから。……もしもその日が来るのなら、私を殺すのは兄上であってほしいものです」
心を揺らす、聞いた覚えのないエドリックの言葉。それに被せるように、それを掻き消すように告げる。
今のままではエドリックは王にはなれない。即位できるだけの大義名分が必要だ。たとえば、そう、世に混沌をもたらす邪神の権化を打ち倒すとか、王を殺した大罪人をその手で裁くとか。
「どういう意味だ!? おいヴェルガ、お前は一体何をするつもりだ!」
「私が兄上に恭順を示すことはないでしょう。それでも、兄上が善き王となることを願うことはお許しください――<ヴーシュ・ルマーネ>」
呪詛とともに立ち上がる。これ以上追及されないように、決意が揺らがないように。放ったのは認識に干渉する呪詛だ。ほんの数十分のことではあるが、彼の目はヴェルガを映さない。
ヴェルガには予想できていた。炎と正義の神の権能、それは“悪を裁く”こと……否、“己の正義を突き通す”ことができる力だと。それはつまり、たとえ用いる手段が何であれすべてを自分の思い通りにできるということだ。
ティスアイファスにはその手の逸話が多い。革命を起こしてエイルス王を失脚させた騎士をはじめとして、ティスアイファスの加護を受けた英雄達もまた悪を許さなかった。たとえ本当の目的が別にあったとしても、炎と正義の神とその英雄はこの世の悪を糺していくのだろう。それが、彼らの掲げる正義だから。
だから、炎と正義の神となったルーウィルは魔王を倒そうとするかもしれないし、己の手に余るヴェルガを殺そうとするかもしれない。ヴェルガが闇の導きの書を持っていることなど、ルーウィルがその気になればすぐにわかることだろう――――若き王の傍に控える闇と混沌の神は、炎と正義の神にとって己の治世に陰りを落とす邪悪になる。
邪神の器には、魔王を殺すようルーウィルに働きかけることなどできない。けれどルーウィルが勝手に動くなら、それを止めることこそヴェルガの役目になる。そして、邪神の器に課せられた制限はあくまでも世界の善悪の均衡にかかわることだ。己を殺そうとした者を殺してはいけないなどという制約はない。
王の意に叛くのは、ルーウィルにとっての“悪”だ。ルーウィルからしてみればヴェルガは自分に都合のいい翻訳者であり、それ以上でもそれ以下でもない。肉親の情など抱かれていないのは明白だ。それどころか自分の立場をおびやかす者になりえると気づいた時点で、ルーウィルはたやすくヴェルガを切り捨てるだろう。たとえそれが同じ王族であれ、半分血を分けた兄弟であれ、ヴェルガがその覚悟を決められる以上ルーウィルもたやすくその手を血に染めるに決まっている。
はっきり言ってしまえば、ルーウィルが魔王を殺そうとしようが自分を殺そうとしようがどうでもよかった。別にヴェルガはエドリックに王になってほしいからルーウィルにつくのではない。闇の導きの書があるからといって、自分が闇と混沌の神になる気もない。ルーウィルが何かをするなら、自分もまた相応の態度でもって相応の対応を返す。それだけだ。
エドリックのためにすべてを棒に振るわけではない。リディーラ、ロラン、アディン、ティリカ。派閥の面々を切り捨て、彼らとともにいられる温かい世界を自分の手で壊したいとも思わない。ただ、自分がこの世に生まれた意味を――――邪神の器ではなく、父に利用されるばかりの子供でもなく、ヴェルガ=アイゼ=エスティメスとして生を受けた意味を果たしたい。
(まあ、すべては神の所望するようになるだろう。……それを受け入れるとは言っていないがな)
客室のドアをノックする。入室の許可と同時にドアを開けると、ヴェルガの姿を認めてルーウィルはにまりと笑った。
「ルーウィル兄上。私に、殿下が王となるためのお手伝いをさせていただけますか?」
闇の名におけるすべての神の祝福を受けた王子。誰にも望まれなかった忌み子。そうやって生まれた自分の価値を、正しく発揮するときが来た。




