うたかたの夢
寝苦しい夜だった。まさか本当にエドリックに風邪を伝染されたわけではないだろうが、身体がだるく頭がぼうっとする。
それでもなんとか眠ろうと、目を固くつむってじっとする。明日は平日だ。寝坊するわけにはいかない。あと三十分ほど待って、まだ眠れないようなら食堂に行ってホットミルクでももらってこよう。そう心に決め、ヴェルガは布団を深く被った。
* * *
澱む。澱む。世界が澱む。暗く閉ざされた牢の中で、ただ一つ残された希望の光を眺めていた。
「僕は何も恨まない。僕を裏切った人達のことも、僕の死を望む人達のことも、僕の生を許さない世界のことも、そして僕にこんな業を背負わせた神のことも。こうなることを選んだのは、僕自身だし……僕は、それらを憎む以上に強くそれらを愛してるんだ」
たった一人の幼馴染み。すべてを失くしたと思った中で、彼女だけはそこにいてくれた。もっと真剣に彼女と向き合っておけばよかった、なんて今さら悔いてももう遅い。
「僕は世界のすべてを愛そう。僕はこの地に生きるすべての民を愛そう。だから、もしも僕の死を嘆いてくれるのなら――君もまた、すべてを愛してほしいんだ」
「……それがあなたの願いなのね」
「僕が愛するものを、君が憎むようになるのは忍びないからさ。我ながら勝手な願いだろう?」
「そんなこと、今さらじゃない。あなたの勝手さにはもう慣れたわ」
「じゃあ、ついでにもう一つわがままを聞いてもらおうかな。ネフェル、君が欲しいんだ。君がたくさんたくさん幸せな経験をして、色々な人に愛されて、子供とか孫とかも生まれてきて、しわしわのおばあさんになって、みんなに嘆かれながら見送られてからでいい。……僕の、道連れになってくれないか?」
「……本当に勝手な男。ようやくわたしの偉大さに気づいたのね。どうしてもっと早くそれが言えなかったの? もしそうだったら、わたしは……」
彼女はそこで言葉を区切る。一瞬視線を地面に這わせるが、彼女はすぐに勝気そうな笑みを見せた。
「わかったわ。あなたが今まで勝手なことをし続けたぶん、わたしも勝手に幸せになってやる。それで、その時になったら迎えに来なさい。いいわね、リート」
――――これはうたかたの夢。目が覚めれば忘れてしまう、つまらない結末。
* * *
☆
歪む。歪む。世界が歪む。噎せ返るような血の臭いのするその場所で、それでも構わず高らかに笑った。
「そうか、そうか! それがお前の選択だというのなら、俺も相応の礼儀を尽くしてやろう!」
眼前には剣を構えた少年がいる。その目つきは険しく、義憤でぎらぎらと燃えていた。
かつての自分なら、きっとそんな顔をされたら恐ろしくてすぐに目をそらしていただろう。けれどそんな弱さは、今ではもうとっくに捨てたものだ。怖がる気持ちなど湧いてこなかった。
「言いたいことはそれだけなんだな?」
「これ以上の言葉は必要ないだろう?」
研ぎ澄まされた殺気にひるむことすらなく、無言で口角を釣り上げる。その嗤いは少年には効き目がないようだが、彼の背後に控える少女達にはてきめんだったようだ。こちらの覚悟にあてられてか、あるいはこちらの行動原理に理解が及ばずか。少年同様義憤に燃えていたはずの瞳は、おぞましいモノを見るような怯えたものに成り下がっていた。
その中の一つと目が合う。彼女のそれは演技だ。だって、彼女が怯える理由などないから。彼女も目だけで小さく頷き返した。……共犯者たる彼女も、すでに覚悟は決まっているようだ。
「……それもそうだな。んじゃ、そろそろ終わりにしようじゃねぇか! お前との因縁をな!」
その刹那、少年の持つ剣が眩く輝いた。一拍と置かずに雷をまとった刃が振り下ろされる。けれど必殺の一撃は、虚無から生まれる闇に掻き消されて空を描いた。
「終わるのは貴様の命だ、ディンヴァード!」
その声とともに喚んだのは、かつて彼に押し負けた炎の精霊だ。もうあの頃の自分とは違う。何度も繰り返した時間の中で研鑽に研鑽を重ね、あの頃とは比べ物にもならないほどの力を手に入れた。負ける気などまったくしない。
案の定、燃え盛る精霊は敵対者を包み込んだ。雄叫びを上げるように激しくうねる炎はすべてを食らい尽くすかのように暴れだす。彼らの苦悶の声が聞こえてくるまで、そしてそれが途切れるまでそう時間はかからなかった。
決闘はあっけなく終わった。だが、ここに至るまでに積み重ねた時は長い。疲れたように目を閉じ、深くため息をついた。
勝利の余韻が押し寄せる。しかしそれを味わおうと思った瞬間、思い出した――――自分に彼は、殺せない。
「もう、お前の好きには――させねぇよっ!」
その言葉と同時に、炎が切り裂かれた。
あ、と。
目を見開いたときにはもう遅く。
英雄は疾く地を駆けていて。
雷をまとう刃が振り下ろされる。
灼けるような痛みが走り。
どぱり、溢れる血の色が目に焼きついた。
「じゃあな、アルフェンアイゼ。……こんなことになってから言うことじゃねぇんだけどさ、俺は……お前とも友達になりたかったんだぜ?」
手向けの言葉はもう聞こえない。意識はゆっくりと闇に呑まれていった。
――――これはうたかたの夢。目が覚めれば忘れてしまう、つまらない物語。
☆
* * *
眩む。眩む。世界が眩む。ぎらぎらと照りつける太陽の下、処刑台の上で跪いていた。
最期に何か言い遺すことはあるか。処刑人にそううながされる。乾き切った唇はひびわれ、舐めると少し痛かった。
「……この世の悪を司りし我が神よ。善たる十一の神に背きし邪なる王よ」
天を仰ぐ。紡ぐ言葉は思ったよりかすれていた。これでは天におわす神どころか背後の処刑人や官吏にすら聞こえないだろう。
「この身は貴柱の忠実なしもべなれば、私は死をも恐れません。愛しきこの世界のため、御身の名のもとに殉じましょう」
己の使命を知り、この道を選んだ時点で、こうなることは知っていた。覚悟はできていた、はずだった。
悔いはなかった。むしろ光栄に思えるほどの余裕だってあった。けれど最期が迫るにつれ、どうしても考えてしまう。他に可能性はなかったのだろうか、と。
普通に遊んで、普通に恋をして、普通に大人になって、普通に働いて、普通に死んで。そんな未来は、最初からなかったのだろうか。
「けれど、どうかこれだけ教えてくださいませんか。我が神ケルハイオスよ、なにゆえかような試練をこのリートラウトにお与えになったのですか? この任を負うべくは、リートラウトでなければならなかったのですか?」
ひそひそと何かが聞こえる。処刑人達だ。どうやらこの声は彼らの耳にも届いていたらしい。今わの際に邪神に縋る姿が不気味に映ったのか、処刑人が動き出す気配がした。
「私は己が選ばれた理由もわからないままに、御身の名に恥じぬよう微力ながら力を尽くしてまいりました。私の働きは、私を選びたもうた貴柱のご期待に沿えるものでしたか?」
まだ途中であるにもかかわらず、台の上に無理やりうつぶせに寝かせられる。巻きつけられた太い鎖に身体の自由を奪われた。
いい加減にしろ、お前は邪神にすら見捨てられたのだ――――官吏が冷笑を浮かべた瞬間、頭の中の何かが弾け飛ぶ。
「我が神ケルハイオス、貴柱はすべてを愛していらした。なればこそ、私のことも愛していただけるのでしょう? 貴柱の愛は、貴柱のお慈悲は、このリートラウトが求めても許されるものだったのでしょう!?」
見捨てられた。見捨てられた。それならば、この死にはなんの意味も与えられないというのだろうか?
いいや、そんなはずがない。だって闇と混沌を司る神は、あらゆる神の中でもっとも優しい神なのだから。零れ落ちる命を嘆き、自らを擲って堰となろうとした神が、ひとつの命を使い捨てるはずがない。
「ケルハイオス、貴柱の御名だけが私の生を赦してくださっていた! 貴柱が与えたもうた加護が、私にどれだけ生きる勇気を与えたことか! 私は、その恩に報いるべく貴柱のしもべとなったのです! どうかお答えください我が神よ、私は貴柱のためだけに――ッ!!」
斧が振り下ろされたと気づけたのは、首に激しい痛みが走ってからだった。飛び散った血がびちゃびちゃと処刑台を汚す。けれどまだ死ねない。ああ、へたくそな処刑人め。これがネフェルであれば、きっと一度で楽になれたのに。
「わ……私、はッ……己の愛に、見返りなど求めていない……! この愛が、報われることなど、願っていない……! 私は、ただ……私がそうしたいから、すべてを愛しているだけだッ……! それでも我が神……ケルハイオスよ、すべてを愛するはずの……貴柱にすら、愛していただけないのなら……私は……私は、何のために生まれてきたのですか……?」
「うるさい! これ以上、その呪われし神の名を呼ぶな!」
思わず手を止めた処刑人の傍で官吏が喚く。けれどそれも無視して、ただ縋るように重ねて問うた。
意識は朦朧としていたが、気を失いそうになるたびに痛みが現実へと引き戻して意識を覚醒させる。ただの生き地獄だ。それでも、笑うことだけは忘れなかった。
「私が貴柱に、選ばれたのは……私が誰からも望まれず、誰からも愛されない……贄にふさわしい者だったから、なのですか……? 貴柱は、最初から……世界の贄に……するために、私を造り……神の書を与えたのですか……? 貴柱は最初から、私に期待など……していなかったのですか……? 私をお選びになったのは、ただ都合がよかったからで……それ以上の理由など、なかったのですか……?」
「ええい、黙れ黙れ! 化け物めが、早く死んでしまえ!」
「……いいえ、それでも構いません……。貴柱の愛すら、得ることが叶わずとも……。私は、たとえ傀儡としてであれ……この美しい世界で、生きることが……できました……。これ以上、望むことなど……ございません……。それだけで、この身に余る……幸福でございます……! 嗚呼――かように穢れた、我が身にすらも……生きる幸せをお与えになるなど、我が神の……なんと、なんと慈悲深きことかッ……!」
「狂信者が……! やめろ、お前はケルハイオスにすら切り捨てられたんだ! もしまだ邪神がお前を守護しているのなら、ここでお前が処刑されるわけがないだろう!」
なるほど、それも道理だ。けれどそれは違う。自分は、自分であるがゆえに――――ケルハイオスのしもべだからこそ、ここで死ぬのだ。
それを疑ってはいけない。そうでなければ、これまでの人生が無駄になる。だから今はただ、死こそを希望としなければ。
……そうだ。これでようやくネフェルのところに行ける。少し待たせてしまったが、怒ってはいないだろうか。迎えに行くつもりが来てもらう側になってしまったが、約束は果たそう。
これからは永遠に一緒だ。結局一度だって言えなかった本当の愛を、意味も理由もわからなかった唯一の愛を、きちんと彼女に伝えなければ。
「愛しきケルハイオスよ、感謝……いたします。僕を……人間にしてくれて……ありがとう……。たとえ僕の、思い込みでも……貴柱のおかげで、僕は……今まで、生きていけたんだ……」
視界は歪み、紅に染まる。もう何も視えなかった。それでも笑う。もう一度斧が振り下ろされて。それが、最期の言葉になった。
――――これはうたかたの夢。目が覚めれば忘れてしまう、つまらない結末。
* * *
☆
狂う。狂う。世界が狂う。骸の上に築かれた玉座から、ひれ伏す愚民を見下ろしていた。
「気分はどうですか?」
「……悪くない」
玉座の陰に潜む少女の問いかけに、平坦な声音で応じる。
ああ、一国の王の座はこれほど簡単に手に入るものだったのか。兄達を殺し姉を殺し弟を殺し妹達を殺し、そして父と母と父の他の妻達を殺すだけでいい。それだけでこの国の頂に立つことができる。
何故今までためらっていたのだろう。こんなことならさっさとやっていればよかった。そうすれば、そうすれば――――今になってこんな苦しさを味わわなくて済んだのに。
「それはなによりです。……覚えておくといいですよ。それが貴方の犯した罪の味だと思いますから。そしてちょうど今、私もそれを味わっているところです」
嗤う声に釣られて嗤う。これが罪だというなら、それでも構わない。たとえ誰にそしられようと、望むものを手にするためならば何だってしてみせると決めた。今さら臆することなどない。ない、はずだ。
「この国のすべては貴方のものです。さあ、破滅に向かう栄華の中で貴方は何を望みますか? 何を求めますか? すべて貴方の思うがままに。今ならなんだって叶えられるでしょう」
「……俺の、望み?」
問う声に促され、ゆっくりと口を開く。
「……そうだ。俺には叶えたい願いがあった。お前もそうだろう?」
その目的のためなら手段は選ばなかった。
「それなのに何をやっても失敗ばかりで、思うようにいかなくて。だから、今までとは違うことをしてやろうと思ったんだ」
血を分けた家族を殺し、気の置けなかった友人達まで切り捨て、心を通わせていた婚約者すらも遠ざけた。何かが違えばいい好敵手になれたかもしれない少年を放逐し、ふざけた態度を取りながらもよき助言者であり続けたものからその座を奪い、そして。
「小手先のごまかしなんてやっていても意味がない。元凶を断たないと何も変わらないと気づいたからな」
それが正しいと思ったから。そうするしかないと考えたから。
「たとえ何を失おうと、俺には願いを叶えなければいけない理由があった」
しかしいざすべてを終えた今、その選択は過ちだったのではないかと思えてしまう。だって、だって世界はこんなにも冷たい。
「そして俺の……俺達の狙い通り、全部うまくいった。そうだろう?」
「ええ、そうですね。私も貴方も、想い通りの結末を手に入れました。最高のハッピーエンドです。……物語のようにすべてがそこで終わってくれればよかったんですけどね」
望んだのは。求めたのは。何を犠牲にしてでも掴みとると決めたものは。
「これでよかったはずなんだ。……なのに、どうして……」
願ったのは。目指したのは。こんなになってまで、欲していたのは。
「こんなに胸が痛いんだ……?」
こんな形で、得られるものだっただろうか?
「俺は、間違ってないはずなのに……!」
――――これはうたかたの夢。目が覚めれば忘れてしまう、つまらない物語。
☆




