女神の啓示
* * *
教師の話はカイルにとって格好の子守唄だ。五限の哲学なんて、昼食を終えたばかりの身にはもはやただの昼寝の時間でしかない。
あまりにも退屈な講義と満腹感は睡魔を呼びよせる。心地よい眠気に身をゆだね、カイルはこっくりこっくり舟をこいでいた。
「――イル、カイル!」
「……ん?」
それが“夢”だという認識はあった。だって自分は確かに教室にいて、席に着いていたのだから。だから、こんな花の咲き乱れる庭園にいるはずがない。
眼前には白いドレスをまとった美しい少女がいた。腰に佩いた剣と流麗な装飾が彫られた銀の胸当てと小手が、彼女がただの令嬢でもなければ一介の戦士でもないことを示している。少女の顔には見覚えがあった。確かヴェルガの婚約者だ。ヴェルガと一緒にいる姿をよく見かけるのでその理由を友人に訊いたら、そんな答えが返ってきた。
カイルが把握しているだけでも、彼女とは作法の発展演習と馬術の発展演習が一緒だし、ヴェルガの派閥であるアルフェンアイゼ派の中心人物ということでなんとなく顔は覚えている。
アルフェンアイゼ派は他の生徒達とは一線を引いているようなところがあり、そしてまた他の生徒もアルフェンアイゼ派を避けているようなところもあるので、そういった意味では目立っていたのだ。講義でペアになったり話したりすることはないので、顔ぐらいしか知らないが。
かろうじて出席を取るときや彼女の友人が彼女を呼ぶときにその名を聞いたことがある気もするが、あまり覚えていない。レディーアとかリヴィーラとか、そんな感じだっただろうか。正解がわからないので、彼女のことはとりあえずレディーラと呼ぶことにしよう。
さして親しくもない、しかも彼氏持ちの子が夢に出てきたことになんともいえない気まずさを覚えながら、カイルはがしがしと頭を掻いた。はて、これはどういう夢なのだろう。明晰夢のようだし、ある程度は自分の思うとおりに夢を展開させていけると思うのだが。
「カイル! よかった、わたしの声が届いたのね! ……ううん、それも当然か。だって貴方は、わたしの英雄様だもの」
レディーラ(仮)は頬を赤く染めてはにかみ、カイルの手を取る。普通にびっくりした。レディーラ(仮)が動くと爽やかないい匂いがして、それにもどぎまぎしてしまうが、この驚きはそれとはまた別のものだ。
「うぇぇっ!?」
いやいや、俺別にNTRとか興味ないし……えっ、でも俺の夢ってことはこれが俺の潜在的な願望なのか……!? なんてわななくカイルの戸惑いをどう受け取ったのか、レディーラ(仮)は慌てて手を離した。
「ご、ごめんなさい。わたしったら、自己紹介もしていないのに……。突然こんなことを言われても困るわよね」
「え、うん、まあ困るって言うか、その……なあ」
罪悪感しかない。夢から覚めて、ヴェルガと本物のレディーラ(仮)に会ったらどんな顔をすればいいのだろう。あ、まず会わないか。だってヴェルガにはわりと嫌われてるし。自分で言って悲しくなってきた。
「改めて自己紹介を。わたしは雷と勝利の神サウィンダー。カイル、貴方の守護神よ」
「……は?」
「“サウィンダー”はあくまでも通名だから、わたしのことはツィーカと呼んでちょうだい。態度も普通でいいわ。かしこまったものは苦手なの」
雷と勝利の神サウィンダー。その名前は当然カイルも知っている。十二の主神が一柱にして神々の王、戦いや武芸に関する眷属神を持つ神だ。カイルのクラスであるブレイラブルは、サウィンダーの眷属神の一柱である武勇の神ブレイラブルの名から取られている。闇の神以外のすべての神から祝福を与えられたせいで、逆にほぼすべての神にフラットな印象しか持てないカイルにとっては、もっとも縁のある神だ。
しかし神話で語られるサウィンダーは、武を司る神らしくムキムキのおっさんだった。立派な髭を携えた大男で、身の丈ほどの剣を軽々操る一騎当千の武将だという。きっと先陣を切っていくタイプの王なのだろう。まさにむさくるしさの塊だ。間違ってもこんないい匂いがする可愛い女の子ではない。
「お前、レディーラじゃないのか? あ、俺の夢だからそういうことになってるのか?」
「レディーラ?」
レディーラ(仮)改めサウィンダー、もといツィーカは小首をかしげる。そのさまは普通に愛らしくて、彼女が知人の婚約者でなければ素直にときめいていただろう。
「ここは厳密に言えば貴方の夢ではないわ。わたしは眠っている貴方に干渉して、その夢を土台にして顕現しただけよ」
「え……ってことは、お前はほんとに神なのか?」
「そう。わたしは正真正銘、本物のサウィンダーよ。……神話とあまりにもかけ離れた姿で驚いたかしら」
「あ、ああ。俺の知り合いにもそっくりだしな」
美少女化された英雄とか神とか、馴染みがないわけではない。前世では、そういった存在はさも当然のようにあらゆるところに溢れていた。きっと現世でもそれと似たような……正確には逆の現象が起こっていたのだろう。だから、むさいおっさん神が美少女神になっているのだ。
カイルが笑った途端、ツィーカはわずかに目を見張った。しかしすぐに納得したように頷く。
「きっとその子はわたしのオルトね。まったく同じ顔だもの、混乱するのも無理はないわ」
「オルト? なんだそれ?」
「簡単に言うと、生まれ変わりよ。誰にでも起きることではないけど……先祖の外見だけ引き継がれた子供が生まれることがあるの。そういう子がオルト。もしかしたら、あなたの知り合いさんの家系図を遡ればわたしの名前が出てくるかもしれないわね」
「見た目だけ同じなら、転生ってわけじゃないんだよな? 先祖返りみたいなモンか?」
「……いいえ。それは違うわ。あくまでオルトは生まれ変わり。だって、オルトはわたし達の――」
ツィーカは、はっとしたような顔をしてそこで言葉を切る。そして空を見上げ、わずかに顔をしかめた。
「時間がないみたいね。……本題に入りましょう。カイル、神が貴方の前に姿を現したのには理由があるの。わたしは、貴方に神託を下すために来たのよ」
「そりゃそうだ。女神様が用もないのにふらっと来るわけないもんな。……でも、俺は神様の期待に応えられるようなたいした人間じゃねぇぜ?」
心当たりがあるとすれば、前世の記憶とチートのことだ。しかしツィーカはそれには触れないまま、真剣な眼差しでカイルを見つめる。
「魔王が復活しようとしているの。貴方はこの世界で唯一それを阻止できる英雄よ。……けれどまずは、雷の導きの書を見つけて。詳しい話はその後で改めてしましょう。雷の導きの書は理の塔、その地下九階にあるわ」
「あっ、ツィーカ!?」
ツィーカの姿がふっと揺らいだ。まるでノイズが走るかのように、その輪郭が歪みだす。紡ぐ言葉がところどころ拾えなくなる。
「神の間の祭壇に、祝詞と供物を捧げて――――全神加護持ちは、その祝福に対応する導きの書を――――できるから――――」
「理の塔ってとこに行けばいいんだな!? で、導きの書ってヤツを手に入れて、魔王を倒せばいいのか!?」
消えゆくツィーカに慌てて尋ねる。ツィーカは頷き、泣きそうな顔で笑った。
「お願いだから、わたしを助けて」
「ツィー――ッ!」
手を伸ばす。けれどカイルの手はツィーカのひとかけらだって掴めなかった。それもそうだろう、だってカイルは目覚めてしまったのだから。周囲の生徒の生ぬるい眼差しと教師の冷たい目が突き刺さる。カイルは愛想笑いで場をごまかし、立てた教科書に顔をうずめた。
*
「変な夢とは一概に言えませんね。神話を紐解いてみても、夢という形をとって神が英雄に神託を与える例は多いですし」
「ナディカなら信じてくれるって思ったぜ。俺も、あれがただの夢だとは思えなくてよー」
「まあ、講義中に眠るような愚行と引き換えにしてもおつりがくるような奇跡だったとは思いますよ?」
深海の色をした瞳が責めるように細められる。前の席の少女がカイルの机に身を乗り出すと、窓から差し込む光を反射した銀の髪が輝く部分をわずかに変えた。一瞬それに見惚れつつ、反省アピールとして肩をすくめる。
彼女の名前はナディカ=メレクル。転入以来、右も左もわからないカイルを手のかかる弟か何かと思っているのか、しょっちゅうカイルの世話を焼いてくれるクラスメイトだ。カイル自身ナディカのことは頼りにしているのでかなり助かっている。
空き教室の無断使用から始まる派閥問題も、ナディカがいなかったら解決しなかったかもしれない。カイルは新しい部活を作りたかっただけで、別に自分の派閥を作ろうとは思わなかったのだが、エレナの説得とナディカのサポートによって探偵部兼ディンヴァード派が生まれた。無事部を起ち上げる最低人数も集まり、今日から活動開始だ。今日の活動内容は学院の敷地内にあるダンジョンという場所で、とある女生徒が講義中に落としてしまったアクセサリーを探すことだった。
何を隠そう、彼女が五人目の部員だ。六人目の部員は彼女の妹で、発見と引き換えに二人とも正式な部員になってもらう約束だった。部員の確保のためにも何が何でも見つけなければ。
「理の塔とやらがどこにあるかは知りませんが、神の間や祭壇という言葉で真っ先に連想されるのはダンジョンですよね。身近ですし。塔という言葉からはかけ離れていますが……」
ナディカは呟く。すでに支度の終えたナディカを横目で見つつ、帰り支度をするカイルは頷いた。
「ナレア先輩のイヤリングを探すついでに、導きの書ってのも見つけようと思うんだ。ツィーカのこともほっとけないし」
「それは構いませんが、ツィーカさんのことはしばらく秘密にしたほうがいいと思いますよ。誰もが私のようにあっさり信じるわけではないでしょうし」
「うーん……それもそうか。なら、導きの書のことも言わないほうがいいよな」
「……まさか女神までライバルになるなんて、どこまで人気なんですかこの男……女神が相手だなんてどうやって戦えばいいんです……?」
「? 何か言ったか?」
「いいえ、なにも。それでは行きましょう。我らが探偵部、記念すべきお客さん第一号がお待ちですからね」
「あっ、待てよ!」
ナディカは深刻な顔で何かをぶつぶつ呟きながら、さっさと教室を出て行ってしまう。カイルも慌ててそれを追いかけた。




