エドリックの野心 1
「まあ! よく帰ってきてくれましたね!」
ラヴェンデル宮に着いたヴェルガを出迎えたのは、ぱぁっと顔を輝かせた母クローラだ。白銀の髪とアイスブルーの瞳。浮かべられた卑屈な笑みが自分に重なる。クローラのことを苦手に思うのは、同族嫌悪の意味もあるだろう。
絶世の美姫と世に謳われたとはいえ、成人するのもそう遠くない子供が二人もいる身だ。さすがにその美貌は噂に聞くほど輝いてはいない。心労的なものもあるだろう。引っ込み思案な母の性格を考えれば、王家に嫁いでエドリックやヴェルガを産む前が一番幸せな時間かもしれなかった。
学院との距離の近さから、休日にふらりと立ち寄られることも想定されていたのか、使用人達も特に困ったような様子もなくヴェルガを迎え入れた。それはヴェルガの荷の軽さと、扱いの軽さが原因なのかもしれないが。
淡々と挨拶や近況報告を済ませる。エドリックの姿は見えなかった。出迎えを期待していたわけではないし、むしろ安堵すら覚えるが。もし会ってしまえば、どんな嫌味を投げられるかわかったものではない。
客間に通される。腰を落ち着けられたところで切り出すのはリディーラとの婚約の話だ。おずおずと口を開く。その瞬間、クローラの表情がわずかに曇った。
「婚約の解消は認められません」
気弱な母にしてはきっぱりと言い切られる。とはいえ、返答は予想できていたものだ。冗談めかして笑い、軽くお茶を濁す。いつもなら、これで母はほっと安堵の息をついてくれていた。だが、母の表情は真剣なままだ。
「そのような恐ろしいことはもう二度と口に出さないでくださいまし。あなたとリディーラ様の縁談は、両家にとって素晴らしいお話ではないですか。破棄する必要などないでしょう?」
「……」
リディーラとの婚約を破棄するということは、ヴェルガの後ろ盾がなくなることであると同時にヴェルガの未来が白紙に戻ることを意味している。公爵にならないということは、王位継承権を力づくで奪い取る選択肢ができるのと同意義だ。クローラの厳しい眼差しは、それを責めているようでもあった。そんな気はヴェルガにはないにもかかわらず、だ。
「……申し訳ありません」
「わかってくださったようでなによりです。あのような素敵なお嬢さんですもの。不満があるとは思えませんが、もし何か問題があるようでしたら、二人でよく話し合ってごらんなさい」
そう言ってクローラは晴れやかに笑った。一方のヴェルガは笑みを浮かべているが内心はどんよりと曇っている。
(“素敵なお嬢さん”だからこそ、解消したいんだがな……)
いつまでもリディーラを縛りつけておくわけにはいかない。だってリディーラなら、自分よりも素敵な男を見つけられる。カイルがそうだ。リディーラの幸せを願うからこそ身を引きたかった。後悔が、絶望が、醜い嫉妬が溢れ出てくるより前に。
「そうそう、あとでエドリックにも会いに行ってあげてくださいまし。わたくしが口うるさいのが気に入らないのか、部屋に閉じこもって出てきてくれないんです。ですが、あなたの話なら聞いてくれるかもしれません。あなた達は昔から仲がいいんですもの」
「はぁ……」
母親を疎んじて部屋に籠もるなんて、あの兄がそんな子供っぽい振る舞いをするとは思えない。だが、母がそんな嘘をつくとは思えなかった。……エドリックとヴェルガの仲がいい、なんてよくわからないことを言ってくる時点で、母の言葉は七割がたあてにならないものなのかもしれないが。
エドリックと仲がよかった時期などあっただろうか、と内心で首をかしげる。心当たりはなかった。物心がつく前の話なのかもしれない。その時の光景が目に焼き付いているのだろうか。エドリックに尋ねてみたら鳥肌を立てられて怒鳴られそうな話だが。
「兄上が嫌がるなど……一体、何の話を?」
「王位の継承権の話です。どうしてエドリックは殿下達と競おうとするのでしょう。ディアスの一族が王位を欲したら、国を乱してしまうかもしれないのに……」
伏せ目がちのクローラは、小さな声で独り言つ。自分の世界に入ってしまって目の前にヴェルガがいることを忘れているような、そんな様子だった。
「身の丈に合わない願いは己を滅ぼすだけです。第二のエイルス王を出すわけにはいかないし、わたくしはエドリックをエイルス王の二の舞にしたくはありません」
エイルス王。アルフェニア王国の前身、ディアス王国が滅びるきっかけを生んだ暴君だ。ディアス王国はエイルス王から崩壊への道を歩み、やがて三つに分裂した。
ディアス王国史上最大最悪の暴君、エイルス=ディアス。"エイルス"は本当はミドルネームだったらしいが、古代を生きた歴史上の国王らしくファーストネームは伝わっていない。傍系とはいえヴェルガの先祖に当たる人物なので、本気で探せばわかるかもしれないが。
エイルス王は闇と混沌の神ケルハイオスの化身の一つであり、"千日王"の名で広く知られている。その二つ名が示す通り、彼の治世はわずか千日ほどで幕を閉じた。エイルス王の放蕩ぶりと横暴さに耐えきれず、民衆が革命を起こしたからだ。
幼い時分から周囲に混沌を振り撒き続けたというエイルス王は、炎と正義の神ティスアイファスに祝福された英雄によって殺された。革命を指揮したのもその英雄で、もとはエイルス王の側近であり親友でもあったという。
後世に伝わる史実が正しいなら、エイルス王は先王の長子ではなかった。それどころか正妻の子ですらなく、父王と高級遊女の間に生まれた非嫡子だったようだ。王族となる前の身分はむしろ奴隷に近く、王子の地位と継承権を得るまでにかなりの騒動があったらしい。
それでもエイルスは王子となり、父王亡きあとは病弱な兄王子を押し退けて王位を得た。これはケルハイオスが人の世に混沌をもたらすために王位を乗っ取ったのだとみなされている。当然、彼の治世はすぐに破綻した。革命を起こした人々の誤算は、エイルスの後に王となった兄王子が早々に病没してしまったこと、そして王を失った貴族が三派に分裂してしまったことだろうか。
残った王族は、二人の王子の妹王女だけだった。彼女こそヴェルガの直接の先祖だ。異母兄エイルスの横暴に胸を痛め、志半ばで倒れた実兄の遺志を継ぐために、彼女は一人矢面に立った。
三派に別れた貴族達は、それぞれ一つの大きな名家の当主を派閥の主に擁していた。その中の一人が、のちのアルフェニア王国の開祖となる男だ。
いずれ劣らぬ家格と力を持つ三人の当主は、妹王女と結婚した者こそこの国の王になるのだと信じて疑っていなかった。邪神の化身である暴君の台頭と、その次の王の早すぎる崩御。それによって弱った国も自分ならば建て直せる、と。ディアス王国では女性に継承権はなかったというから、それも妥当な考えだろう。
しかし、結局妹王女は誰も選ばなかった。三人の中から誰か一人を選べば、残りの二人の反感を買うと彼女はわかっていたからだ。妹王女は国を三つに分け、それぞれを三人の当主が統べる新たな国家とした。妹王女自身は分割のせいで小さくなった王家直轄領に引きこもり、そこをディアス自治領としてそれ以外の土地への干渉はしないときっぱり宣言した。平和主義、ともすれば無責任な妹王女の決断は、それでも何とか受け入れられた。こうして地図からディアス王国の名は消え、代わりに今日まで続く三つの大国の名が刻まれる。それがカレリア王国、テイルラント帝国、そしてアルフェニア王国だ。
ディアス自治領は三代前のアルフェニア王に侵略され、アルフェニアに併合された。ディアスの王族の末裔であるクローラが今代のアルフェニア王に嫁ぐことになったのはその影響もあるだろう。
「エドリックも、ヴェルガのように聞き分けのいい子でしたらよかったのですけれど……」
憂い顔のクローラはそう言って深くため息をつく。その時胸に湧きあがった複雑な感情の意味と名前は、ヴェルガにはわからなかった。
*
「あっ……兄上、ヴェルガです。お目通り、願えますか」
「……なんだ、帰ってきていたのか。入れ」
クローラの言った通り、エドリックは私室にいた。ベッドに寝そべっていた彼はヴェルガの姿を認めると同時に咳き込みながら半身を起こす。頬はわずかに赤く、薄氷の瞳はわずかに潤んでいた。額にはタオルが載せられている。具合でも悪いのだろうか。
「どうかなさったのですか?」
「見ての通りだ。孤児院に視察に行ったときに風邪をもらってきたらしい」
けほり、エドリックはまた咳き込む。部屋は少し荒れているようで、看病する使用人が出入りしているようには見えなかった。
「母上からは、何も……」
「はっ。この私が母上に臥せっているところを見せると思うか? 母上のことだ、私の具合が悪いとわかればやれ毒だ暗殺未遂だと騒ぎ立てるに決まっている。ただの風邪だというのにだ。ゆっくり寝ていたいのに、神経質な喚き声など聞きたくもない」
「……私には、見せてくれるんですね」
「風邪は人に伝染せば早く治ると聞いたからな。しょせんはつまらん噂話だが、民がそれを信じるというなら私も身をもって体験してみるべきだろう?」
「えっ」
エドリックは、誰にも気づかれないよう症状が軽いうちに引きこもったのだろう。
いつから風邪を引いていたのかはわからないが、だんだん症状が悪化していったに違いない。その状態でヴェルガを迎えた以上、エドリックは本気でヴェルガに風邪を伝染そうとしている可能性は否定できなかった。
「まあ、私のことはどうでもいい。わざわざ何の用だ?」
「母上が、兄上を……その、心配しているようでしたので……。体調が優れないなら、出直しましょうか?」
「いや、構わない。そろそろお前にも真面目に話をしておきたかったことだ。王位の継承について、な。どうせ、王を目指すのを諦めるよう説得しろと言われたのだろう?」
立ち去ろうとするヴェルガを引き留め、エドリックは真剣な声音でそう告げる。いつもは見上げている薄氷の瞳を見下ろすのは妙な気分だった。




