母からの手紙
「お疲れ様。収穫はあったかい?」
部屋に戻ってきたヴェルガを出迎えたのはリートだった。リートが顕現していることに少し驚くが、得に問いただすこともなく帰宅の返事をする。
「月と風、光の三冊が手に入ったぞ。闇を合わせて四冊の導きの書が俺達の手の内にあるということだ。……ところで、一つ訊いていいか?」
「なんだい?」
「導きの書を手に入れる時に聞こえた声はなんなんだ? 必ず聞こえてくるようだが」
「ああ、あれか。導きの書の意志、ようは僕みたいな奴の声だよ。あいつらは結構恥ずかしがり屋でね。ほいほい表に出てくるのは僕ぐらいなんだけど」
リートはへらりと笑った。しかしその返事を聞いた瞬間、ヴェルガの目が訝しげに細められる。
「……俺が闇の導きの書を手にした時に聞こえた声は、お前の声じゃなかったぞ?」
「それはそうさ。あの時の僕はまだ本の中にいた。意志として人の形をとることもなく、君に語りかけたんだ。けれど今、こうして僕は人の形をしている。姿が変わったんだから、声帯が変わるのも仕方ないだろう?」
なんでもないことのようにあっさりと言い返された。それに納得したように、ヴェルガは小さく頷いた。
「そうか。……ところで、あの時お前は、俺になんと言ったんだ? とっさのことで、内容までは覚えていないんだ」
「“余の叡智を欲するか。混沌の神のしもべを名乗る者よ、混沌の神の愛し子よ、混沌の神の力を受け継ぎし者よ、貴様にはその資格がある。しかしその覚悟はあるか?” 堅苦しい言い方だよね。僕、こういうのはあんまり好きじゃないんだけどさ。ま、導きの書を手にした人に対する定型文だから仕方ないんだけど」
ヴェルガの問いに、リートはよどみなくすらすらと答える。……間違いない。声は違うが、確かにあの時言われた言葉だ。
あの言葉は、導きの書を手にした本人以外は聞こえないらしい。リートがあの時の言葉を知っているというなら、やはりリートが発言者――――正真正銘の導きの書の意志なのだろうか。
「そういえば、君宛てに手紙が来てるみたいだよ?」
「手紙?」
リートはドアポストを指さす。寮生へ宛てられた手紙は寮監のもとに届けられ、そこから仕訳されてそれぞれの寮生の部屋に届けられる仕組みだ。ヴェルガが受け箱を開けると、綺麗な白い封筒が出てきた。用いられている封蝋は王家のものだ。差出人の署名はクローラ=ディニ=エスティメス。この国の第二王妃、ヴェルガの母だ。
わずかに顔をしかめながら封蝋を砕く。時候の挨拶、安否を気遣う言葉。見慣れた筆跡を目で追い、ヴェルガは小さくため息をついた。
「誰からだったんだい?」
「母親からだ。たまには顔を見せてくれ、と」
返事は要らないから、来れるなら明日にでも来て構わない。手紙はそう締めくくられていた。その性急さでさえ、ヴェルガは社交辞令だと断じてしまうが。
春休みは何かと理由をつけて帰省しようとしなかった。それでもどこからも文句が出ないあたり、自分の人望も親の心もたかが知れていると思っていたが、さすがに完全に無視はされなかったらしい。
もし帰省するとすれば、中間テスト明けの中休みだろうか。あまり気乗りはしなかった。またのらりくらりとかわそうか。母の頼みで帰ったところで、どうせどこにも自分の居場所などないのだから。
帰省先となるのは離宮の一つであるラヴェンデル宮であって、王の住まうリーリエ宮ではない。だが、必ず王宮にも顔を出すよう強いられるだろう。ラヴェンデル宮に帰ることもそうだが、王宮に向かうことも憂鬱にもほどがある。
ラヴェンデル宮は代々の王妃に与えられる離宮の一つで、父王の代では第二王妃クローラとその子供が暮らすことになっている。この学院に入学する前は、ヴェルガもそこで暮らしていた。
今あそこで暮らしているのはクローラと、それからエドリックだけだ。ヴェルガは学院を卒業したらすぐにリディーラと結婚することになっているので、ヴェルガがラヴェンデル宮に戻ることはない。エドリックもそのうち離宮を出るだろう。王の代替わりが起きない限り、ラヴェンデル宮の主人はクローラであり、彼女だけがそこにずっと住んでいることになる。
正直、全寮制の学院に入学したことでラヴェンデル宮を出られた時、ヴェルガはほっとした。これでもうこの宮殿に足を踏み入れずに済む、と。
ラヴェンデル宮は王都内にある。学院からの距離としては、歩いて行っても一時間もかからない。その近さは逆にラヴェンデル宮への足を遠ざけさせていた。会おうと思えばいつでも会えるのだから無理にいかなくてもいいだろう、と。
十五年ばかり過ごした場所ではあるが、愛着はない。母のことは決して嫌いではないが、苦手ではあった。実兄については言うまでもない。
先の春休みだけでなく、長期休暇が訪れるたびにヴェルガはなるべく帰省をしなくても済むよう予定を組んでいた。どうしても帰らなければならないときは、滞在時間を可能な限り短くしていた。
行ってもほんの二、三時間、長くて一泊。王宮に滞在している時間を含めてもこれだ。意図的に滞在期を少なくしているのは明白だった。ヴェルガがラヴェンデル宮を疎んでいることに、クローラが気づいているかは定かではないが。
「ふぅん。じゃ、近々母君のところに行くのかい?」
「いいや。その予定はない。行ったとしても来月だ。すぐに帰るだろうがな」
ぽん、と机に封筒を置く。勉強を理由に断ろう。課題もあるし、予習や復習だってしておきたい。帰って社交や親兄弟の機嫌取りをしている暇はなかった。それが身になるものならまだしも、どうせ敵意と悪意をぶつけられるだけのものなのだからなおさらだ。
どう断りの返事を書こうか、頭の中で文章を組み立てる。その瞬間、哀れみのこもった母の眼差しが脳裏によぎった。それほど頑張る必要などないでしょう――――何度もかけられた言葉。その声音は優しかったが、何よりもつらかった。必要かどうかは自分で決める。母の囁きを振り払い、ヴェルガは制服を着替えようとした。手をつけるのは部屋着に着替えてからでいいだろう。
「ええ? それはよくないよ。うん、とてもよくない」
ヴェルガがしゅるりとタイをほどいたと同時にリートが大げさに眉をひそめる。椅子に座ったまま、リートはヴェルガを見上げた。彼から目をそらしながらヴェルガは着替えを続ける。
「母君を粗末に扱うのは感心しないな。いいじゃないか、会いに行くぐらい」
「だが、」
「大切なものというのはね、なくしてから気づいても遅いんだ。母君は君に会いたがってる、それだけで行動するには十分だろう? 明日来ても構わないなんて、それだけ母君が君を待ち焦がれている証左じゃないか」
「これが本心である確証なんて、どこにもないじゃないか。帰省しないと外聞が悪いから、建前として送られてきたものかもしれない」
「そんなことまで疑うなんて、君は本当に僕の……いや、それを論じてる場合じゃないか。どうして君はそこまで疑ってかかるんだい? もっと無条件に物事を信じてもいいじゃないか。世界は君が思ってるより醜くないんだよ?」
「……」
「君が行きたくないというなら、僕が代わりに行ってあげようか? どうせ同じ顔だ、振る舞いさえ真似れば君の代わりは務まるはずさ」
「……それは困る。お前が何をしでかすか、わかったものじゃない」
結局、折れたのはヴェルガだった。早ければ早いほどいいというリートに押し切られ、明日からラヴェンデル宮に一泊することになってしまった。本当に急に行って邪険に扱われないか、それが少し心配だが。
今日準備をすれば、明日の朝早くには出立できるだろう。ちょうど欲しいものもあったし、途中で街を見て回ろうか。街で時間を潰して、昼頃にラヴェンデル宮に着くようにしよう。断り切れない自分の弱さにため息をつきながら、ヴェルガは夕食を摂るために食堂に向かった。
「んー……あのころの僕って、あそこまで懐疑的じゃなかったはずなんだけどな。やっぱり、僕であっても僕じゃないっていうのは大きいね。どう動くのか、何を考えてるのか、まったくわからない。だからこそつまらなくないんだけどさ」
ヴェルガが出ていった扉を見つめながら、リートは首をひねる。けれどその口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
「僕の素性も疑われてるよなぁ。まあ、我ながらいつ見破られても仕方のない嘘だとは思うんだけど。せめて大人の姿で顕現できてたら、別方面での自己紹介もできたのに――僕は未来の君なんだよ、って」
ああ、それもそれでつまらなくなさそうだ。その場を賑わせる混沌にしかならないけれど、混沌こそが僕の望むものだからね――――
心の底から愉しそうに。笑うリートの声音はどこまでも弾んでいた。




