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神の書・裏

* * * * *


 燃える。燃える。世界が燃える。炎に包まれた街を窓から見下ろし、リートは高らかに笑っていた。


「悪くない、悪くないよ! これが人の強さなんだね! これが君達の選択だと言うのなら、僕はその煌めきに敬意を表そう!」


 彼の背後には剣を携えた男達がいる。誰もが険しい目つきでリートを見ていた。その中にかつて親友と呼んだ青年がいることをリートは知っていたし、彼こそがこの軍勢を指揮している将であることも知っていた。


「言いたいことはそれだけか?」


 背後から感じるのは研ぎ澄まされた殺気だ。きっと今、無数の剣の切っ先が向けられているのだろう。振り返らなくてもわかる。だってもう、ここには敵しかいないから。


「ああ、悪いけど少し待ってくれ。まだ神に祈りを捧げていないんだ」


 手にしていた黒い本。涙が表紙に落ちてはじめて自分が泣いていることに気づいた。まさかまだ涙なんてものを流せたなんて。後ろの兵士達に気づかれないよう、慌ててそれを拭いとる。

 全部全部失った。奪われた。富も地位も名誉も、友も居場所も信頼も。この手には何一つとして残っていない。いや、最初からそんなものは持ち合わせていなかったのか。唯一あるのは、この黒い本だけだ。


「お前のような大罪人に、そんなことが許されるとでも? どれほど神に懺悔したところで、お前の処遇は変わらない。お前は暴君として処刑されるんだ」

「……ッ」

「恨むなら、己の浅慮を恨むんだな。身の程知らずにも王の座に座った己の愚かさを悔い、冥府の底に堕ちるがいい」


 背後から乱暴に引き寄せられて強引に振り向かされ、首筋に剣を突き立てられる。敵意のこもった無数の眼差しに貫かれ、リートは諦めたように笑った。


* * * * *


 薄暗い牢獄で、リートは身じろぎ一つせず横たわっていた。嵌められた首輪からは太い鎖が伸び、壁際に打ち付けられている。後ろ手に手錠を嵌められ、片方の足にも鉄球をつけられていた。牢の中の重罪人といった風体のリートの瞳は固く閉ざされている。だが、一瞬眉間にしわが寄ったと思うとゆっくりまぶたが持ち上がっていった。


「……ん」


 果たしてどれだけの間ここに囚われていたのだろう。

 悠久とも思える退屈から逃げるため、彼は微睡みの世界に行くことを選んでいた。睡眠を必要としない身体でも、望めば夢を見られる。だから彼は、この牢獄にいるときはいつも微睡んでいた。覚醒するのは、見た夢があまり心地いいものでなかったときか――――外部から強い刺激があったときだけだ。


「リート? 嫌な夢でも見たの?」


 鉄格子の向こうに立つ帯剣した女が、リートの目が開いたことに気づいた。寝起き特有の不機嫌さをにじませながら、リートは視線だけを彼女に向ける。


「確かに、夢見はよくなかったね……。僕はどれぐらいここにいた?」

「かれこれ百年になるかしら。短くもなく長くもなく、まあ休暇と思えばちょうどいいんじゃない?」

「こんなの休暇にならないよ。退屈で死ぬかと思った」


 顔をしかめながら、リートは己を戒める手錠を無理やり壊す。唖然とする女のことなど気にもせず、彼はそのまま「邪魔」の一言で首輪に繋がれた鎖を力任せに引きちぎった。ちぎれた鎖のぶら下がる首輪も、鉄球がつけられた足の拘束具も、リートが触れただけでぱきりと簡単に壊れてしまう。


「……それ、鍛冶の神の力作よ?」

「僕は"封印された"んじゃない。"封印されてあげた"んだ。こんなもの、その気になればいつだって壊せるさ」


 リートが立ち上がると、女は慌てて剣を抜いて鉄格子を斬る。もはや牢の役目を果たさなくなったその場所で、リートは愉しそうに笑った。


「嫌な夢は見たけど、僕が起きたのはそれだけが理由じゃないんだ。ねえネフェル、少し留守を頼まれてくれないかな? ちょっと人の領域に顕現しなきゃいけなくてさ」

「どうせ止めても行くんでしょう? 好きにしなさいよ。あとはわたしが何とかするからさっさと行って」


 女は呆れたように肩をすくめた。その瞬間、リートの身体が淡い光に包まれる。別れの言葉に返事をしながら、リートはその場から消えていった。


*


「ここは……」


 次にリートが立っていたのは、見覚えのない暗い部屋だった。光源になるのは窓から差し込む月明かりぐらいのものだが、この程度の闇でリートの目は鈍らない。問題なく周囲を把握することができた。

 家具はそれほど多くなく、質はいいがおとなしいデザインのものでまとめられていた。その中で一番目を引くのは本棚だ。壁一面に本棚が並べられている。そこまで狭くもない部屋のはずだが、ぎっしり本のつまった本棚のせいで圧迫感が感じられた。戸棚やクローゼット、キッチンなど、壁際に面した調度品の周囲にはさすがに本棚はないが、それにしてもこの蔵書量は目を見張るものがあった。

 部屋の主は几帳面な性格なのか、掃除と整理が行き届いている。机上の物もきちんと整頓されていた。

 リートの小指には黒い糸が巻きついている。リートにしか視えないその糸は、寝台の中に向かって伸びていた。寝台の上の掛け布団はわずかに盛り上がっている。寝台に近づいてみれば、誰かがそこで寝ているのがわかった。かすかではあるが、規則正しい寝息が聞こえてきたからだ。この部屋の主、リートが顕現するに至った理由そのものだろう。彼の名前は知っていた。ヴェルガ=アルフェンアイゼ=エスティメス。当代の邪神の器だ。

 だが、その顔はよくわからない。布団を被っていることに加え、リートに背を向ける形で丸まっているので、リートからは顔がよく見えないのだ。唯一わかったのは、彼が銀髪だということぐらいだった。


(起こすのは悪いよなぁ……)


 壁にかけられた時計は二時を差していた。午前二時、夜中だろう。そこにいきなり現れて、叩き起こすのはいかがなものか。人の常識と時間の感覚を失った頭も徐々に覚醒し、ぼんやりとそう思う。部屋の主と接触するのは夜が明けてからのほうがよさそうだ。

 視線をずらすと姿見が目に入った。真っ黒なローブに包まれた少年がこちらを見ている。鏡の向こうにいるのは自分なのだが、なんだか妙な懐かしさを覚えた。

 だが、この夜の闇に溶けることを目的としたような不審者さながらの黒いローブはいただけない。こんな格好をした知らない奴が勝手に自分の部屋に入ってきたら、自分なら……少なくとも人間だったときの自分なら、まず命の危険を感じるだろう。警戒するし、迷わず人を呼ぶ。ローブは脱ぐことにした。

 ついでに、自分の感覚とこの時代の感覚がどれほどずれているか確認するためにクローゼットを開けてみることにする。この時代の衣服はどんなものがあるのだろう。

 幸い、収められていた服はリートの知るそれを少し華美にした程度のものばかりだった。だが、やはりこちらの古めかしさはぬぐえない。リートの今の格好では、型だの生地だのが現代とずれていた。仕方ないので、怪しさを消すために服を拝借することにする。並べられている服の中で、何故か一式揃っていてなおかつセットがいくつもあったものを選んだ。これなら拝借してもばれないだろう。怒られたらその時はその時だ。


「さて、と……」


 着替えを済ませると同時にあくびが出る。嗜好品に過ぎなかった睡眠が、人の領域に降り立ったことで必需品に変わってしまったらしい。眠気からくる頭痛のような気持ち悪さを自覚して、リートは小さく眉をひそめた。


(……やることをやったら一眠りしようかな。どうせヴェルガも、朝にならなきゃ起きないだろうし)


 机に近寄る。机に備え付けられた小さな本棚には、本や薄い冊子がいくつも並べられていた。背表紙の文字はよく読めないものが多い。異国の言葉か何かだろうか。

 少し興味がそそられたが、それより眠気が打ち勝った。迷わず机上に置かれたままの黒い本を手に取る。


「やあ。こうして会うのはいつぶりだろうね?」


 にこやかに微笑みながら本に語りかけるリートの姿を他人が見れば、きっと奇異な光景として受け取られてしまうのだろう。けれどリートは知っている。この黒い本は、闇の導きの書(カノン)と銘打たれた書物は、相応の者が呼び掛ければきちんと反応することを。


「貴様は……!?」


 案の定、返事はすぐに返ってきた。脳に直接語りかけてくるこの声は、リートにとっては聞き慣れていたものだ。


「貴様の選定はすでに成ったというのに、何故貴様がここにいる!? まさか、新たな選定の邪魔をするというのか!?」

「ひどいなぁ。さすがに僕はそこまで醜くないよ。ただちょっと、特等席で事のなりゆきを見守りたいだけさ。……君のそれが"選定"だと言うのなら、当然僕にも審査の権利はあるだろう?」


 リートの掌の上に、小さな栞が現れた。金緑石の粉を散りばめた黒い栞だ。適当なページを開き、リートはそこに栞を挟む。


「だから、君はここでおとなしくしていてくれ。大丈夫大丈夫、僕が君の代わりをやってあげるから」

「あ……何故だ……何故、余を……。余の叡智を……欲する、者が……。余は、その……覚悟、を……試さねば……」

「うるさいなぁ。前から思ってたんだけど、君は少し越権が過ぎるんじゃないかい? 代理人なら代理人らしくしてくれよ」

「余、は……代理人、などでは……。すべては、ことわ……り……」


 ぱたん、と。声を最後まで聞くことなくリートは本を閉じる。栞に封じ込められたその声は、もう二度と聞こえてこなかった。これで心おきなく寝ることができる。


「少し……ほんの少し、眠るだけだから……」


 机に突っ伏して目を閉じる。その身体が徐々に薄れていくことを、夢の世界に旅立つリートが気づくことはなかった。


*


 目覚めると、リートは自分の館の寝室にいた。あの暗い牢獄ではない。リートに与えられた、彼のための館だ。

 意図して還ってきたわけではない。となれば、勝手に戻されてしまったのだろう。受肉したばかりの不安定な立場というのもあり、眠ったせいで人の領域との繋がりが途切れてしまったらしい。早くヴェルガに会って因果を結ばなければ、うたた寝するたびに連れ戻されてしまう。


(受肉したから、時間の感覚は人間だったときのものに戻ってるはずだ。たとえ寝過ごしていても、年単位の遅れにはなってない)


 それでもあれからどれだけの時間が経ったかよくわからない。リートは急いでヴェルガの部屋に戻る。しかしすでにヴェルガの姿はなかった。家具とその 配置が変わっていない……部屋の主が変わっていないことに安堵しつつ、リートは小指の糸を見る。この糸を辿っていけばヴェルガのもとに辿り着けるだろう。

 部屋の鍵を開けて外に出る。鍵を外からかけ直す技術はないので開けたままだ。ヴェルガがかけたのか、勝手に部屋の物を持ち出したり害ある物を持ち込んだりしたら発動する呪詛がかかっていたし、リートもそれに上乗せして似たような法術をかけたので防犯面では大丈夫だろう。

 ここはなんの館なのか、似たような扉が等間隔に並んでいる。しかし人の気配はしない。糸を辿ることに集中しているため探索はできないが、ずいぶん大きな館のようだ。

 糸は館の外に続いていた。まったく知らない土地とはいえ、この糸さえあれば迷うことは――――


(……いや、違う。僕はここを……知っている?)


 ふと足を止め、空を仰いだ。周りの景色は様変わりしている。けれど空気は馴染み深いものだ。


(そうか、ここは……! へえ、ずいぶん手を入れたものだね。時代が変わればこうも変わるのか。うん、つまらなくない)


 周囲を見渡しながら足を前に進める。辿り着いたのはひときわ大きな建造物だった。この建物にはリートが知る学び舎の面影がある。場所は違うはずだが、この建物はあれを模倣して建てられたのかもしれない。とすると、あの館は学生寮なのだろうか。

 糸に従って校内に入ったが、三つばかり無関係な教室を覗いたところでヴェルガに会うのは難しいとわかった。今は講義中らしいこと、今自分が着ているのはこの学び舎の制服で、この姿のまま教師に見つかるとなんらかの面倒ごとが起きるかもしれないこと。ヴェルガがいるらしい教室はまだ遠かったが、リートは早々に諦めて教師の目から逃げられる場所に避難することにした。

 道中で見かけたベンチに座り、たまたま通りがかったカイルに声をかけ、ヴェルガが自分にそっくりだと知ったリートは足早に寮へ帰ることにした。周囲を引っ掻き回すことは嫌いではないが、意図しないところで誤解を振り撒くのは好きではない。

 だからリートは人目を気にしながらまっすぐ寮へ戻る。開けっ放しにしていたはずの扉が何故か施錠されていたので鍵を破り、暇潰しに室内にある読める本をかたっぱしから読んでいった。これがヴェルガが帰宅する前に起きた出来事であり――――


出会いの神(エンティカ)がもたらしたこの縁に感謝を。僕の名前はリート。闇の神に仕える者、とでも言っておこうか」


 ヴェルガとリートが出会う、数時間前のことだった。


* * *

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