オルリッドの嘆き
「話はそれで終わり、か?」
「あとは少し導きの書について話しておきたいんだけど、君にも用事があるだろう? 先に食事を済ませておいで」
「そうか。なら、そうさせてもらう。……お前は何か食べるのか?」
「食事はあくまでも嗜好品って感じかな。あー、でも受肉はしたから……そうだな、いらないことはないけど、自分で用意できるから大丈夫だよ」
「それは何より、だ。それから……そうだな、同じ顔をした人間が二人いるのは、何かと都合が悪い。そもそも、ここは一人部屋だ。いつまでもお前をここに置いてはおけないぞ」
「ははっ。僕はペットか何かかい?」
必要ならリートのぶんの食事も調達してこようと思ったが、そこまで気を回さなくてもいいらしい。あとは、どう周囲にリートの存在をごまかすかだ。リートは苦笑しながら闇の導きの書を指差す。
「僕はそれの精霊だ。受肉したとはいえ、この魂は人間のものではないからね。僕はいつでも元の場所……人の領域ではない場所に還れるから、心配はいらない。君が僕の名を呼べば、いつでも現れてあげるしさ」
「わかった。……お前を呼ぶのに、闇の導きの書は必要か?」
「あったほうが正確だけど、別になくても構わないよ。僕は基本的に闇の導きの書の近くに現れるんだ。でも、邪神の器である君の居場所なら、すぐに辿れなくもないだろうし」
「それなら大丈夫、だな。食堂に行ってくる。そう長くはかからないから、楽にしていてくれ」
そう言い残してヴェルガは部屋を出た。一人になったリートは小さく笑う。
「その順応性と適応力はさすがだね。……君になら、僕になしえなかったこともできるのかもしれない。失望していないよ、ヴェルガ。どうか僕に醜くない混沌を――人の輝きを見せてくれ。君のそれは、きっとつまらなくないに違いない」
どこか陶酔した面持ちでそう呟き、リートは消えていった。
*
「ヴェルガ。ちょうどよかった、今呼びにいこうと思っていたんですよ」
廊下に出たヴェルガがまっさきに会ったのはロランだ。ロランはにこりと微笑み、ヴェルガの隣に並んで歩き出す。
「おや、着替えていないんですね」
「あ、ああ」
いつも寮に帰ってきたら室内着に着替えるのだが、今日は部屋にずっとリートがいたので服を着替えることができなかった。さすがに人前であられもない姿を晒すのはためらわれる。ゆったりしたシャツ姿のロランを見ていると着慣れた制服が窮屈に感じてしまうが、仕方ないだろう。ヴェルガがお茶を濁すように頷くと、ロランも納得したのかそれ以上その話を続けようとはしなかった。
「……で、何があったんですか? 先ほどは気のせいだったの一言で私達を追い返してくれましたが、まさかたったあれだけでこの私までごまかせるとは思っていませんよね?」
どうやらロランの微笑みは威圧の意味が強かったようだ。彼が言っているのはリートの対応についてに違いない。あの時、廊下にはロランもいたらしい。
こちらが本命なのだろう、笑顔の追及からは逃げられそうになかった。うっと言葉につまりつつ、ヴェルガはロランから顔を背ける。
「……あれは、俺じゃないんだ」
「なんですって?」
果たしてロランにどこまで言っていいのか、などという葛藤はヴェルガにはなかった。相手は他の誰でもないロランだ。彼なら信用できるし、きっと笑わずに信じてくれる。なにより、彼に隠し事はしたくない。
そもそも、ヴェルガに後ろめたいことなど何もなかった。友人に言えないことは、本人にとってよくないことに違いない。だが、邪神の器として生を受け、安全装置として生きることは隠すような悪いことではないはずだ。
もちろん、身の危険があるかもしれない、という意味ではおおっぴらに言うものではない。だが、それは親友に対して隠匿する理由にはならないだろう。もちろんこれはロランだけではなく、アディンとティリカ、そしてもちろんリディーラにも言えることだ。
「どういうことですか?」
「あいつはリート。俺によく似た、俺とは違う存在だ。あいつは精霊の類らしい」
人型の精霊など実在しないはずだ。少なくとも、人の魔力ではそんな存在を喚び出せない。人の姿をした精霊は、神話や物語の中だけの存在だった。
神の時代には実在したのか、太古の昔には人の姿をした精霊と接触を図る方法があったのか、あるいは想像力の産物か。その程度の認識でしかなかった人型の精霊は、リートという実像をもって現れた。彼は神に仕えるものだ。たとえどれだけふざけた態度だったとしても、高尚な存在であることに疑いようはないし、人型であっても不思議ではないのだろう。
「驚かないで聞いてくれ。俺は人の領域における邪神、ケルハイオスなんだ」
「……」
リートのことを考えながらそう言ったヴェルガを、ロランは奇異なものを見るような目で見つめる。生暖かいその眼差しにヴェルガは気づかない。
「邪神の器と言うそうだ。魔王が復活しないように、うまく善悪の均衡を保たせるのが役目らしい」
「そうだったんですか。私の正体も光と秩序の神ルドルリヒトですからね。貴方の正体が闇と混沌の神ケルハイオスでも不思議ではありません」
「ルドルリヒト? お前も器だったのか?」
「そんなわけがないでしょう。昔から大げさな通り名で呼ばれる人だとは思っていましたが、まさか自称するようになるとは。何に影響を受けたんですか?」
そう言って、ロランは深くため息をついた。信じてもらえなかったと傷つくヴェルガに、ロランは苦笑しながら肩をすくめる。ヴェルガに向けた眼差しに、もう哀れむようなものはなかった。
「ですが、貴方は遊びでそんなことを言う人ではないはずです。他の者が言えばたわごとだと切り捨てるような言葉でも、貴方の口から言われてしまえば信じざるを得ない。……ふ、だいぶ私も貴方に影響されたようですね」
「ロラン……」
「ここは人の目が多い。貴方に何があったのかはわかりませんが、続きは落ち着けるところでしましょうか。夕食のあと、貴方の部屋にお邪魔しても?」
「ああ。リートに説明してもらったほうがわかりやすいだろうしな」
このことは、リディーラとアディンとティリカにも伝えるつもりだ。他の者にも言うかはまだわからないが。
ヴェルガの派閥の一員である同学年の男子生徒、オルリッドが自分達に近づいてきたことに気づき、ヴェルガとロランは示し合わせたように口をつぐんだ。ロランの判断通り、誰がいるかわからない場所で話すことでもない。このライドワイズ寮で暮らすのは、ヴェルガの味方だけではないのだから。
「どうした、オルリッド。元気がないように見えるが」
おっとりした気性のオルリッドは、いつも優しげな微笑を絶やさない。だが、こちらに歩み寄ってくるオルリッドの笑みはどこか陰っているような気がした。
ヴェルガが尋ねると、オルリッドは気まずげにうつむく。言いづらそうにしながらも、オルリッドは口を開いた。
「実は、幼馴染みと喧嘩をしてしまって。……女性の気持ちなんて、私にはわからないよ」
オルリッドの幼馴染みといえば、イーデル子爵家令嬢のシェルファ=イーデルだろう。今年入学したばかりのフィランピュアの生徒だ。ヴェルガとは面識がないが、彼女の入学前からオルリッドはよく彼女のことを話題にしていた。そのせいで、なんだか妙な親近感を覚えている。実際に会ったらそんなものも吹き飛んでしまうのかもしれないが。
「喧嘩? イーデル嬢と? 意外なこともあるものですね」
ロランも目を丸くしている。オルリッドとシェルファは婚約こそしていないはずだが、オルリッドの話ではかなり親しくしているようだった。
ヴェルガの知る限り、オルリッドの生家であるレルンハイム伯爵家とイーデル子爵家の仲は良好だったはずだ。オルリッドが一方的に好意を寄せている、というわけでもないだろう。だが、仲がいいからこそ些細ないさかいが起きることもあるのかもしれない。ヴェルガだってリディーラと――――
(……そういえば、最後にリディーラと喧嘩したのはいつだ?)
記憶を掘り返してみても、リディーラと喧嘩したことはあまりない気がする。まさか俺達は、本当はあまり仲よくなかったのか……!? 勝手に先走ってわななくヴェルガを置き去りに、ロランとオルリッドはシェルファとの喧嘩について話を進めていく。
「早く仲を修復したほうがいいでしょうね。きっかけはなんだったんです?」
「派閥だよ。シェルファはまだ所属する派閥を決めていなかったから、ヴェルガのところに来るよう勧めていたんだ。アルフェンアイゼ派には私がいるし、イーデル子爵もシェルファの派閥はシェルファが自分で決めればいいとおっしゃっていたからさ」
「そうですね。オルリッドがいれば、イーデル嬢も安心でしょう。ねえ、ヴェルガ」
「……ん? あ、ああ、そうだな。だが、入部届けは来ていないぞ」
新入生が派閥に入る、わかりやすい形は入部届けだ。ヴェルガの派閥に加わりたいなら、第二ダンジョン探索部の入部届けを提出すればいい。
しかしヴェルガは自派閥への勧誘など積極的に行っていないから、今年度に受理した入部届けはまだゼロだ。入学式が行われたのは今月とはいえ、今月ももう終わろうとしている。今年度の入部希望者はいないと見るのが妥当だろう。
そもそも、ヴェルガの派閥は友人の延長にすぎない。ヴェルガが卒業しても関係は続くだろうが、ヴェルガが卒業してしまえば学院における派閥自体が消えてなくなることは目に見えている。新入部員が来なくても困りはしなかった。
「それに、俺の派閥に入る利点はイーデルにはあまりないんじゃないのか? イーデルの選択を、」
「何を言うんだ。私は、君とともにいることで多くを学んだ。君は私の自慢の友人だ。だからこそ私は家の利益のためではなく、一人の友人として君をシェルファに紹介した」
「……」
ヴェルガは足を止めてうつむき、片手で顔を覆う。手のひらに隠された顔は真っ赤だ。
だが、ここまで言われて、自分だって照れてしまうというのに、それでもヴェルガはまだ心の奥底でおびえている。裏切られる恐怖、嫌われる恐怖、失望される恐怖。向けられる好意が大きいほどその落差も大きくなる。それがヴェルガを一瞬にして現実に引き戻した。
ふう、と短く息を吐いて再び顔を上げたとき、もうその赤さは頬から消えていた。……耳の先はまだわずかに赤く染まっていたが。
「とはいえシェルファは、他に入りたい派閥を見つけたらしい。それ自体は、まあ別に構わないんだけど……」
オルリッドは言い淀む。本心でないのは明らかだった。シェルファには目の届くところにいてほしかったのだろう。
「どこに入ることにしたんです? 確かイーデル嬢はフィランピュアの生徒でしたよね。フィランピュアで派閥と言えば――」
フィランピュアの生徒を主に据えた派閥の中でも有名なものを、ロランは指折り数えて挙げていく。だが、オルリッドの反応からしてロランの挙げたものの中にシェルファが所属を決めたものはないようだ。
「なら、一年が作った新しい派閥か? 確かフィランピュアにはエレナがいたはずだ。あいつなら、同学年のフィランピュアの半数を抱き込んででも派閥を作ろうとするだろう」
異母妹の名前を、少し苦みをもって口にする。一つ年下の異母妹、第二王女エレナ=アルフェンリューク=エスティメスにいい思い出はまったくなかった。
年下の異性ということもあって兄達ほど交流があるわけではなかったが、エレナはどんなときでも突っかかってくる。リディーラに喧嘩を売ったことさえあった。さすがにその時はヴェルガも本気で怒ったが、それ以降エレナとは冷戦状態だ。
幸い、エレナがまたリディーラに喧嘩を売ったという話は聞いていないが、リディーラのいるフィランピュアにエレナが入ったことは不安の種でしかない。リディーラは決して弱い少女ではないが、心配なものは心配だった。
「ああ、そっちにも入ることになったらしいけど、本命の派閥は違うんだ。その派閥にはアルフェンリュークもいるらしい」
「エレナが他人の派閥に? そんなことがあるわけないだろう」
学内の派閥は、大きな派閥の中に小さな派閥の主が属していることも多い。その場合、小さな派閥はそのまま大きな派閥の傘下に下る。当然部活ごとだ。ヴェルガの派閥に自分の派閥を持っている者はいないので、ヴェルガ率いる第二ダンジョン探索部に下部組織はなかったが。
派閥の主が別の派閥の主に下るなら、もちろん臣従を誓うことになる。臣従とまで言うのは少し大げさかもしれないが、派閥に加わるとはそういうことだ。
すでに人々を従える立場でありながら新たな主を仰ぐのは、従えてきた人々まで新たな主に委ねることにもなりかねない。そういった選択をするのは、大抵実家同士に明確な上下関係が存在している主同士だ。しかしエレナは王女であり、王族が主と仰ぐほどの相手はいないはずだった。
そもそも、ヴェルガの知っているエレナは誰かの下につくような少女ではない。常に自分が一番でないと気が済まない、気の強くてわがままな娘だ。したたかな性格で、自分の価値を正しく理解してそれを武器にしてくるから余計にたちが悪い。
その可憐な外見に惑わされ、喜んで自らエレナのしもべになった者だって多かった。エレナは彼らを当然のように踏み台にしている。そんなエレナが素直に誰かの下につくはずがないだろう。あるとすれば、相手を立てていると見せかけて利用しているか、寝首をかくためかのどちらかに違いない。
「でも、シェルファはそう言うんだ。アルフェンリュークと一緒にディンヴァードの派閥に入ることにしたって」
「ディンヴァード……」
まさかこれほど早く、しかもまったく関係ないところでその名前を聞くことになるとは。ヴェルガが嫌そうに顔をしかめたのをどう受け取ったのか、オルリッドはやれやれと首を横に振った。
「吹けば飛ぶような家の派閥に入るなんて馬鹿げてる。本人がどれだけ優れた人物でも、それに見合う家格がないのならその優秀さもすぐに埋もれてしまうだろう。出会ってたかだか一、二週間で、利益を無視してでもこの身を委ねたいと思うほどの絆が生まれるものか。アルフェンリュークがいるのも何かの間違いかもしれない。そう言って説得はしてみたんだけどね」
「ですが、聞き入れてもらえなかった。そうでしょう?」
「ああ。シェルファの奴、私が止めても聞かないんだ。あの子は頑固だから、一度決めると中々曲げようとしないのはわかってはいたんだけどね。……貴方にカイル先輩の何がわかるの、と言われてしまった。それで私もつい感情的になって、喧嘩になってしまったんだ」
ディンヴァードの何がシェルファをああも惹きつけたのだろう、とオルリッドは悲痛な面持ちで呟いた。
ずっと一緒にいたはずのシェルファの気持ちがよくわからないと嘆くオルリッドにかける言葉は見つからず、ロランとヴェルガは気まずげに顔を見合わせた。