邪神の器 1
「……ッ!」
リートに触れられた左胸、その制服の下にある黒狼の紋章が熱を帯びる。リートに反応しているのだろう。彼の手を払いのけ、ヴェルガは呼吸を整えた。まだ少し苦しいが、耐えられないほどではない。
「闇と混沌の神ケルハイオスがいかにして邪神と呼ばれるようになったか、君も知っているだろう?」
「と、当然だ。闇の導きの書、とやらにも書いてあったことだしな」
「それなら話は早いね。……だけど、一つ訂正しなければならないことがある。君の知っているその話は、少し正しくないんだ」
「……?」
「君は不思議に思わなかったかい? 神と敵対している魔王が、何故神の一方的な押しつけにすぎない誓いに縛られるのか」
「封印された魔王には……それに抵抗するだけの力がなかった、から?」
「半分正解だ。では、次の質問をしよう。闇と混沌の神ケルハイオスは、本当にたった一柱で他の十一の神々に匹敵する力を持っていたと思うかい?」
「それは……」
思わず言葉に詰まる。断言はできないことだった。誓いが成立した以上、ケルハイオスの有する実力が他の神に匹敵することは間違いないはずだが、リートの言い回しがひっかかる。
「結論から言えば、否だ。レイエルの誓い……君の知っている、ケルハイオスが"一の邪神"と呼ばれる由来となった誓いにおいて、ケルハイオスは十一の善神と対になる邪悪とはみなされていない。あれはケルハイオスという存在を善と悪の天秤から取り除いて、独立性と中立性を与えるための誓いだからね。悪の皿に乗るのはケルハイオスじゃなくて、魔王そのものなんだ」
「……なんだって?」
「世界の理。それが神でさえも従える絶対のルールだ。世界を統治するのが神なら、世界を支配するのが理とでも言おうかな。理に意思はないんだ。あるのは純然たる掟だけ。神の側でも理の掟に干渉することはできるけど、理の掟として受理されたものは神であろうと従わなければならない。この世界に生まれた生物は、理の掟の前では神だろうが魔王だろうが平等なんだ。不公平じゃないだろう?」
国の統治体制になぞらえて言うなら、権力分立ってところかな。リートはそう呟いた。司法を司るのが理、行政と立法を司るのが神々だということだろうか。
「神の力に制限をかける理の掟の存在は、人に知られると色々と不都合があるからね。理の掟については伏せたまま、逸話だけが後世に残った。それが君の知っているあの神話だよ」
「な、なら、ケルハイオスはどうして……邪神として、扱われるんだ? あの誓いは、すべてが捏造だったわけじゃないんだろう?」
「"十一の善神と一の魔王、そしてその間に一の邪神。善神と魔王は、常に均衡は保っていなければならない。もしも善と悪の均衡が崩れれば、邪神が抑止力となるだろう。"これが、あのとき成された正しい誓いだ。ケルハイオスが認めさせた、新しい理の掟だ」
善の陣営と悪の陣営の間を取り持つ第三勢力、それこそが邪神だとリートは言う。善悪の天秤がどちらかに傾けば、沈んだほうを浮かせるために邪神は善にも悪にもなるのだと。
誓いの内容はヴェルガの知るものとさほど変わらない。魔王の存在を伏せ、その空白に邪神を当てはめただけだ。魔王という名が残っていれば人の恐怖をいたずらに煽る。それを防ぐために魔王を隠し、ケルハイオスという防波堤が機能しているようにした。そう思えば、人々が知るあの逸話は決して無意味なものではない。己の信じるものが、誇りさえ感じていたものが揺らいでいないと知り、ヴェルガはほっと息をついた。
「この掟は、人の身にも当てはまる。というか、神々は別の掟で地上への過度の干渉を禁じられているから、実質的な活動をするためには人間を器にする必要があってね。……ヴェルガ、君が人間におけるケルハイオスだ。過剰な善と過剰な悪の乱立を防ぐ抑止力、それが君の役割なんだよ」
「……」
闇と混沌の神とそのすべての眷属神達から与えられた祝福。神の御使いとよく似た姿。左胸に刻まれた神の紋章。手にした導きの書。これだけ揃えられて何を言われるかと思えば、神と同じことをしろとは。
それほどたいそうな人間ではない。高潔な魂も、崇高な精神も、持ち合わせてはいないのだから。この手の届くものは守りたいとは思うが、それだけだ。
法術の道を極める過程で神のようなものになれるなら素晴らしいことだが、それ以外で神の頂に達したいとは思わない。神として世界を背負うような覚悟などあるはずがなかった。国を背負う覚悟もない自分に、そんなものが決められるわけがないだろう――――だが。
「……断ることはできない、だろう?」
祝福も容貌も、生まれついてのものだ。導きの書を手にして紋章が胸に刻まれたのは、役割を自覚させる契機に過ぎないのだろう。きっとすべてはヴェルガが生まれたときから、あるいは生まれる前から決まっていた。
案の定リートは頷いた。これが運命だよ、と内容に合わない気安い声で言ってくる。頭が痛くなってきた。
「だけど、安心してほしい。なにもこの世のすべての善悪を均衡に保てなんて無茶は言わないからね。君の役割は、あくまでも地上における"十一の善神"と"一の魔王"の均衡を保つこと……万が一地上に魔王が復活したときの、保険みたいなものなんだ。世界のすべての善悪は神々のほうで調整できるし、魔王が果ての谷に封印されている今は、十一柱の善神だけでも抑えていられるよ。だからそれほど危なくない」
君は本当の本当に最後の切り札なんだ、とリートは笑った。神域における均衡は本物の神が守っているから、地上に生きる君はただ生きているだけでその役割を果たせているのだと。
だが、ヴェルガの表情は苦くなるばかりだ。本当にただ生きているだけでいいのなら、こうしてリートがこんな説明をする必要もないのだから。
「魔王が……魔王がもしも復活したら、どうすればいい? 魔王が封印されている果ての谷は、神の領域……に、あるんだろう。だから神々は、干渉できるはずだ」
ゆっくりと言葉を選ぶように喋る。他人相手に長く話すのは久しぶりかもしれない。鏡の前で独り言を言っているようで、普段とはまた別の意味で落ち着かなかった。
「だが……魔王が、そこから解き放たれた場合は? 魔王が人の世界に降臨したら、神はもう干渉できない……んじゃない、のか?」
「そのときは本当の意味での君の出番、かな。果ての谷は神の領域だけど、人の領域からあそこに喚びかけることはできなくはない。それを神が止めることは少しばかり簡単じゃないから、人間が悪意をもって魔王を喚び起こした……なんてことがあれば、君に対処を頼むこともあるだろう」
「か、簡単に言うんだな。生身で魔王を止めろ、と?」
「君は邪神の器だからね。できるできる、大丈夫。それに、ケルハイオスに課せられた干渉の制約は他の神々のそれよりもきつくない。いざとなったら君に力を貸してくれるだろうさ」
「はぁ……。邪神の器がいるなら、魔王の器や……善神の器もいる、のか?」
諦めたヴェルガはため息をつき、冗談混じりにそう尋ねる。リートはあっさり答えた。
「魔王の器は存在しない。魔王は今封印されているし、神のように人への過干渉に対する縛りもないから必要ないんだ。だから魔王は、神の領域だろうと人の領域だろうと等しく悪の皿に乗せられる。一方で、善神の器は存在するんだ」
ヴェルガは闇の導きの書を机上に置き、無言で続きを促す。リートはこともなげに続けた。
「カイル=ディンヴァードだよ。君も彼のことは知っているだろう?」