リート
委員会活動を終えたヴェルガは、どこか落ち着かない気分のままシエルと一緒に学生寮区画に行った。ローリネスト寮に住むシエルと別れ、ライドワイズ寮の門をくぐる。玄関の前では寮監のエストラが軽い掃き掃除をしていた。
「ああ、アルフェンアイゼ。だめじゃないか、部屋には鍵をかけないと」
「……はい?」
ヴェルガに気づいてエストラは手を止めた。ヴェルガの戸惑いに気づいていないのか、エストラは厳しい目つきでヴェルガを見る。
「朝、部屋の鍵をかけ忘れていたぞ。王の庇護下にある学院、それもこの私が管理しているライドワイズ寮で間違いがあるわけがないが、用心は大事だ。今後はこのようなことがないように気をつけろ。私のほうでも部屋の様子を見て、異常がないことは確認したが、もし何かあればすぐに言うように」
「ちゃんと施錠したつもりだったんですが……」
「人間、誰しも間違いはあるということだ。部屋の外に出るときには、施錠の確認を怠るなよ。今回はすぐに私が気づいて施錠できたからいいものの、何があるかわからないからな」
「はい。気をつけます」
小言はそれで終わりらしい。見に覚えのない注意に内心で首をかしげながらも、ヴェルガは素直に従って寮の中に入った。
階段を上がり、自室の前に辿り着く。鍵穴に鍵を差し込み、そこでヴェルガは小さな違和感を覚えた――――鍵穴の周囲に、浅く細い傷跡がある。そう、まるで無理に鍵をこじあけようとしたような。
「……」
手を止めたヴェルガは目を閉じて深く息を吸う。武人なら人の気配を感じ取れることができるのかもしれないが、あいにくヴェルガはそれほど敏感ではない。人の視線だと過剰に反応するきらいはあるが、気配についてはよくわからなかった。
だが、ヴェルガが作ったほんのわずかな間はそれを探るためのものではない。扉の向こうにいるかもしれない何者かに、自分の来訪を悟られないよう機敏に動くための準備であり、同時に自分を奮い立たせるためのものだ。カッと目を見開いたヴェルガは素早く鍵を回して扉を勢いよく押し開けた。
「うわっ!?」
「誰だ!」
室内から聞こえる驚きの声に負けじと誰何の声を張り上げる。声の主は椅子に座ってノートを読んでいたようだ。ノートを開いたまま、ヴェルガのほうを見て固まっている。
彼が目に入った瞬間、ヴェルガは目を見開いた。身震いが止まらず総毛立つ。思わず叫び出してひれ伏しそうになり――――声の主から伸びてきた黒い影に捕らわれた。それと同時に扉がばたんと閉まる。ヴェルガを通り過ぎた影が閉めたのだろう。
「んっ、んぅっ! んんんんっ!」
口を塞がれ、部屋の奥に引きずり込まれる。じたばたともがくが、影の拘束が緩むことはない。だが、そのおかげか冷静さを取り戻して現実に帰ってくることができた。
徐々に廊下が少し騒がしくなってくる。ヴェルガが最初に大声を上げたとき、扉はまだ開いていた。そのときの声を聞きつけて、異変に気づいた生徒がいたのだろう。ヴェルガを影で押さえつけて物陰に隠した声の主は、何事もなかったように立ち上がった。ヴェルガは彼を目で追う。彼は扉を開け、廊下にいるらしい生徒達の対応を始める。どんな言い訳を使ったのかは知らないが、すぐに廊下は静かになって声の主も戻ってきた。
「手荒い出迎えになったのは悪いと思ってるよ。君に騒がれると少し面倒だったとはいえ、他にやりようはあったかもしれない。でも、とっさのことで僕も驚いてしまってね。こうするしかなかったんだ」
悪びれない様子で彼は言う。困ったように笑うその顔はヴェルガそのもので、けれどヴェルガではありえない。
「本当は、もっと早く君に会うつもりだったんだけどね。地上に顕現するのは久しぶりだったから、時間の感覚が掴めなかったんだ。僕が降りたときには君はもう眠りの神のもとに招かれていたし、次に来たときはもう君はこの部屋の外に出ていたみたいでさ。いやー、いくら受肉したからってまさかこの僕が眠りの神に誘惑されるとは思いもしなかったよ」
そう言って少年は軽く肩をすくめる。へらへらと笑う彼に悪意は感じられず、かといって誠意が感じられるわけでもなかった。
「あそこは学び舎だろう? 君の気配を辿って校内に入ったはいいものの、もう講義が始まっていて君のところまで辿り着けなくてさ。僕はあそこの生徒じゃないけど、制服姿だから教師にきっと見咎められる。それは面白くない。結局すぐに外に出て、しばらく時間を潰していたよ」
この少年がどこから来たのかはよくわからないが、彼はヴェルガが眠っている間に部屋に侵入したようだ。そしてヴェルガが登校したあとにこの部屋を出た。ということは、エストラに注意された施錠の件は彼のせいなのだろう。そしておそらくは、目撃されたもう一人のヴェルガの正体も。
「出会いの神がもたらしたこの縁に感謝を。僕の名前はリート。闇の神に仕える者、とでも言っておこうか。君の名前は知ってるよ、ヴェルガ=アルフェンアイゼ=エスティメス。こうして会うのは初めてだけど」
影の拘束を解き、その少年はそう言った。差し伸べられた手が、いたずらが成功した子供のように輝くその目が、ヴェルガの中でぐるぐる回る。
「……俺を騙したいなら大成功だ、どんな仕掛けを使って俺そっくりの姿になったのか、そのタネを早く教えてくれ。法術でも魔物でもなく、どうしたらここまで人を似せることができるのか……神のような迫力をまとえるのか」
その問いが無意味なものであることは、ヴェルガが一番わかっていた。リートもヴェルガのそれが無駄なものだとわかっているのだろう、答えようとはしなかった。諦めにも似た眼差しで自分を見上げるヴェルガを起こし、リートは得意げに笑う。もうあの畏ろしさは消えていた。
「神はさすがに褒めすぎだよ。僕はそこまで高尚なものじゃない。どれほど丁寧に言ったところで、『神の御使い』ぐらいが関の山だ。ところで、君のことはなんと呼べばいい?」
「……ヴェルガでいい。人外を相手に礼節を説くほど、思い上がっているつもりはないからな」
「その物分かりのよさは嫌いじゃないよ。それに、どうせ僕らは表裏一体みたいなものなんだから、楽にしてくれて構わない。そもそも僕は、人に敬われるほどのモノじゃないし」
実際に目にしてわかった。呪詛の法術で幻覚を見せられているわけでも、魔物が擬態しているわけでもない。あの不可視の輝きは、魂がびりびりと震えるような威圧感は、ただの人間や魔物風情で出せるものではない。己の言葉をヴェルガに信じさせるために、眼前の少年は自身の力を解放したのだろう。その身が神に近しいものだと示すために。
「表裏一体……?」
「ああ、気にしないでくれ。……君と僕が似ているのは、そうだな……偶然、ではないと思うよ。でも、これは僕の意図しないところだった。そもそも僕は、君と僕がこれほど似ていたなんて思いもしなかったからね。……いいや、"似てる"なんてものじゃない。同一と言ってもいいぐらいの造形だ。だからきっと、君と僕には何かしらの縁がある。どうだい、つまらなくないだろう?」
受肉、すなわち実体をもって人の前に姿を表さない限り、神は見た目で人の判別をつけることができない。何かの文献でそんな記述があったことを思い出した。神は魂で人を見分けているから、外見などという人間側の判断基準を必要としないのだと。
もちろん、人間側はそういうわけにもいかない。彫像で、あるいは絵画で、人間は神々の姿を人の目に見える形で残している。しかしケルハイオスのそれは、フードを目深に被った黒いローブの人型として扱われ、ローブの中には闇しかないとされていた。
フードを覗き込んでも、そこには暗く深い闇が広がっているだけなのだ。主神ケルハイオスだけでなく、闇の神の眷属神にはそういった姿をしたものが多い。少なくともヴェルガそっくりの姿で伝わる神などいないはずだ。リートが神そのものではなく、神に仕えるものだと言うなら、そもそもその姿が記録されていないだけなのかもしれないが。
「僕は生前の姿でもって受肉した。だから僕はこの容貌を見たときにさほど疑問に思わなかったし、制服は拝借したとはいえヴェルガ=アルフェンアイゼ=エスティメスとして振る舞うこともしなかった。……まあ、それが混沌を招いてしまったみたいだけどね。その混沌が醜くないものであることを願うばかりだよ」
「図書室でメイフェル先生が見たのは、お前だったんだな?」
「そうだね。確かに僕は図書室らしいところに立ち寄って、ある女性と目が合った。彼女がそのメイフェル先生とやらで、君に覚えがないにもかかわらず君と会ったと主張するのなら、それはきっと僕のことだ」
やはりリートはその姿で校内をうろついていたようだ。何のために、と問うと、「君を探すためさ」と明朗な答えが返ってきた。
「ケルハイオスの祭壇に祈りを捧げて、闇の導きの書を手にした者がいた。だから僕は顕現することができたんだ。君のことは……うん、外見以外はよく知っていたからね。それに、君は闇の導きの書の所有者だから、君の気配を辿ることができたんだ。……僕と君がそっくりだと気づいてからは、おとなしく寮に戻ったけどね。僕がふらついていたせいで君に妙な評判が立つのは面白くないからさ」
「どうやって俺と似ていることに気づいた? 俺達は校内では会っていないはずだが……」
「カイル=ディンヴァードに教えてもらったんだよ。思わず話しかけてしまったんだけど、彼はすっかり僕を君だと勘違いしているようだった」
「あ、あいつに会ったのか!?」
それなら今日カイルが話しかけてきたのは、リートとなんらかのやり取りをしたからなのだろうか。カイルからすればヴェルガは、こちらからかかわるなと言っておいたくせにその数日後には自分から話しかけてきたことになっている。情緒不安定の類だと思われても不思議ではないだろう。
「君、彼と喧嘩でもしたのかい? 謝られて、関係の改善を願われたけど」
「……喧嘩はしていない。それにディンヴァードとの仲は、今のものが最も適切だと思っている」
苦々しげに言い放つと、リートはけらけらと笑う。そうだね、それがいいかもしれない。そう言いながら、リートは椅子に腰かけた。
「君とカイル=ディンヴァードが親しくしなければならない必要はないし、むしろ君達の役割からして互いに一歩引いていたほうが都合がいいだろう」
「役割、だと?」
「その説明をする前に、改めて自己紹介をしておこうか。僕はリート。君が手にした闇の導きの書そのものであり、人の地におけるケルハイオスの代理人だ」
「その、導きの書……というのは、ダンジョンで見つけた、あの黒い本のこと……か?」
「その通り。それは全部で十二冊存在していて、そのどれもに僕のようなものがついている。僕らは……そうだな、この本の使い方を教えるための存在、とでも言おうか」
そう言いながら、リートは机上に置かれた黒い本を手に取る。
「これはただの神話を集めた物語だ。でも、それはこの本が持つ一面に過ぎない。……この本はね、使い方次第で神の領域に達するための道標に変わるんだよ」
「神の領域……」
「神格を得るってことさ。この本を正しく理解し、真の意を読み解いた者は、新たな神になることができるんだ」
どうだい、つまらなくないだろう――――にやりと笑うリートに対して、
「くだらないな」
その一言で切り捨てた。ヴェルガの返事が予想外だったのか、リートは呆けたようにヴェルガを見上げる。
「人の身で神の座を得てなんの意味がある? 俺はそんなものに興味はない。他を当たってくれ」
「あははっ! そうか、そうか!」
何が琴線に触れたのか、リートは高らかに笑い出した。まなじりに浮かんだ涙をぬぐったリートはなんとか呼吸を整えようとしていたが、しばらく肩は小刻みに震えていた。
「ここで僕の言葉を鵜呑みにするならそれもまたつまらなくなかったんだけど、こんな甘い話には乗らないか。いいね、僕は君のそういうところが気に入らなくないよ」
「その言い方……今の話は、大嘘なのか?」
「そういうわけでもないんだけどね。まあ、君がそれに興味を持てないなら詳しく語ることでもないさ」
リートは目を細め、黒い本――――闇の導きの書をヴェルガに渡す。ヴェルガはいぶかしみながらもそれを受け取り、しげしげと眺めた。よく見ると、見覚えのない栞が挟まっている。リートが挟んだのだろうか。
今朝はただの神話集だったはずのものが、とたんにうさんくさいものに見えてくる。もっとも、その出現の仕方を思えば妥当なのかもしれないが。
「君にとって重要なのは、この本は所有者をある場所……神の領域へと導いてくれるってことぐらいかな。その過程で、神に等しい力を振るうこともできるかもしれない。特に君の場合はね。君が望めば、の話だけど」
「言……言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれ」
まだ夕飯も食べていないんだぞ、とリートを睨む。リートのせいで食べ損ねたらどうするつもりだ。
今の時刻は午後六時半。大食堂は開いたばかりだが、ヴェルガは基本的に午後七時に夕食を摂るようにしている。部活がない日はいつもその時間に食堂にいた。派閥の友人達もそれに合わせてくれているのか、彼らが食堂に来るのも大体その時間だ。彼らを待たせるのは悪い。
「この状況で夕食の心配かぁ。うん、ますますつまらなくないよ」
「これでも忙しい。お前の素性はひとまず信じるが、与太話に付き合っている暇はない」
確かに相手は神に近しいものかもしれない。リートは人智を越えた存在であり、ケルハイオスに直接仕えるモノなのだろう。だが、いかんせん自分と同じ顔なのでどうも敬う気になれないのだ。
ケルハイオスは熱心に信仰しているが、かといって狂信的な聖職者というわけでもないヴェルガにとって、ケルハイオスそのものならまだしもその使者に過ぎないリートの言葉は、いまいち本気にできないものだった。
さすがに無下にはできないが、鵜呑みにするほどのものでもない。それが自分と同じ顔をした、しかも自分よりふざけた態度の少年のものなのだからなおさらだ。
リートが神格レベルの力を見せつけてこなければ、彼の話を信じようとはしなかっただろう。最悪、不審者として寮監に突き出すぐらいはありえていた。
「ごめんごめん。じゃあ、前置きはこのぐらいにして本題に入ろうか」
リートの手がヴェルガに伸びる。ヴェルガが反応するより早く、リートはヴェルガの左胸に手を押し当てた。
「ヴェルガ=アルフェンアイゼ=エスティメス。君は世界に対する安全装置という名の"一の邪神"だ」